6-07『わたしの舞台』2

「ん、……なんか様子が変か?」

「そうだね、どうしたんだろう。体調が悪いのかな」


 此香と泰孝くんが、葵を見て口々に言った。

 ただ、少なくともわたしの見る限り、体調の問題ではないように思える。悲しげに俯くその姿は、祭りのあとの喧騒にまるで似合っていない。

 帰路へ流れる人波に、そのまま連れ去られてしまいそうなほどの弱々しさ。


「……ちょっと、様子を見てくるね」


 言葉は、気づけば口から零れていた。

 ふたりは特に驚きもせず、軽く頷いて答えてくれる。


「わかった。片づけは僕らでやっておくよ。みんなもすぐ来るだろうし」

「オッケ。んじゃ泰孝、悪いけどそっち運んでくれ。先に屋台の荷物だけ出して――」


 早々に作業に移ったふたりに「ありがとっ!」とお礼を言って、わたしは歩き始める。


 ――嫌な予感はしていた。

 葵は、本当はこの文化祭を心から楽しめるはずだったのに。

 きっと素敵な思い出になるはずの三日間だったのに。

 それが揺らいでいることが、たぶんわたしにも悲しかった。


「葵っ」


 だから駆け寄って、わたしは名前を呼びかける。

 葵はほとんど呆然としていたみたいで、名前を呼ばれるとびくっと肩を震わせ、すごく慌てたみたいに視線を巡らせた。

 その瞳がわたしを見つけると、葵は少し表情を歪めて。


「あ――、さなか、か……あはは。ごめんね? ちょっと、ぼうっとしてた」

「…………」


 葵とは思えないほど下手くそな誤魔化しだった。

 言われたわたしの表情は、どんなふうだっただろう。自覚はできなかったけど、それを見たはずの葵は少なくとも眦を下げて、気まずそうに頬を掻いた。


「あっはは……ごめん。えと、片づけしなきゃ、だよね……」

「……いいよ」


 よくはない、のかもしれない。でもそれはあとで謝ることにしよう。

 葵の様子は明らかに普通ではなかったし、何よりそれをまったく隠せていないことが、たぶんいちばん葵らしくない。

 こんなに弱っている葵を、わたしは初めて目にした。


 どちらからともなく人の流れを外れて、校舎のほうへ移動した。


「……どうしたの?」


 人の来ない物陰で、わたしはそう訊ねる。

 正直、嫌な予感はしていた。察せないほど馬鹿ではないつもりだ。


 ――だけどそれでも、その上で言わせてもらえれば、少し意外にも感じてはいたのだ。


「勝司……と、何かあった?」


 重ねて、わたしは親友に問う。

 葵も、わたしが訊いたときにはもう、それを訊かれるとわかっていたのだろう。

 どこか茶化すみたいに、明るそうに笑ってみせながら、葵は。


「いやー。それが見事にフラれてしまいましてな! あっははー」

「……葵」

「ちょっとちょっと。そんな同情するみたいな目線向けられたって困るよ。あたしだって絶対に上手くいくとか自惚れてたわけじゃないんだから。実はそんな気もしてたしさー」

「…………」

「や、ほら勝司って軽いしさ。目があるなら向こうから告ったりとかしてきそうじゃん? それがなかったって辺り、そもそも最初から可能性なかったのかもとか、ね」


 それは、わたしの思う吉永葵らしい態度――だった。


 考えてみる。

 もしわたしが未那に告白して、それで振られていたら、どうなっていたのかと。

 今はともかく、当時のわたしなら「やっぱり」と思いつつ、それで、それでも――きっと涙を流していただろう。葵を巻き込んで、自棄に付き合ってもらった気がする。


 なら葵はどうか。

 わたしは、葵はもしかしたら泣かないのかもしれないと、そう思っていた。

 きっと悲しむだろう。泣き出したくなる気持ちなら、わたしも割とリアルに想像できる自信があったし、もしかしたらわたしの見ていないところでは涙を流すのかもしれない。

 けれど、葵はきっとわたしには、それを見せないのだと思っていた。

 つらくても強がって、もっといい相手を見つけると奮起して、わたしにいろいろ愚痴を零しながらも歩き出すのだと――そんなふうに思っていた。


 今の葵は違う。態度だけはそうでも、ぜんぜん取り繕えていない。

 もちろん、それはわたしの想像だ。

 現実にそうなっているのだからそれが正しく、逆にわたしの考えのほうが間違っていたのだと、そう捉えるべきだ。

 だけど。


「……何があったの?」


 やっぱり、それでも、わたしは再び訊ねていた。

 深い理由なんて、そこにはなかった。ただわたしは、ここで引くべきではないと思っただけ。少なくともわたしは、葵に対しては絶対にそれをする。それを選ぶ。

 葵は、頬を掻く手を力なく下ろして苦く笑う。


「……さなかは誤魔化せないかー」

「親友だからね」

「まったく……そういうの言うの、恥ずかしがるほうの子だったのに。変わっちゃって」

「そうかな。わたしは、別に変わってはないと思うけど」

「そっか。……そうかも。さなかが言うなら、たぶんそうなんだろうね」


 軽く笑う葵に、わたしは告げる。


「ね、葵。ちょっと付き合ってよ」

「え――」

「後片づけ、いっしょにサボっちゃおう」


 そんなことを言ってのけたわたしに、葵は吹き出しながら口元を押さえて。


「ほんとにもうっ。わかった、わかった。振らないでおいてあげる」

「ありがと」


 と、わたしも笑った。



     ※



 校舎の中にある小さなラウンジへ移動する。

 ここまで来れば、人の気配はもう完全に空間の向こう。

 大きな窓と白い壁が囲う空間は目に明るく、それでいて、普段は賑わう場所で喧騒を遠くに感じるのが、少し物悲しい。

 備えつけられた丸テーブルと椅子に、わたしたちは落ち着いていた。


「うーわー。あとでどやされるなー」


 テーブルに肘をついた葵が、口角を少し引き攣らせて言った。


「片づけ、完全に押しつけちゃってるもんね。……うぅ、わたしも今になって罪悪感」

「真面目な湯森さんから、まさかサボりの提案を貰うなんて予想外だったよ」

「からかわないでよー」

「うっ。大事なひとり娘が付き合った男の悪影響を受けて染まっていくわ、よよよ……」

「もーっ!」


 腕を振り上げてみせたわたしに、葵はごめんごめんと笑いながら答えてくれた。

 表面上は、いつもみたいな調子に戻ったと言えるのだろう。

 けれどお互い、言葉はそこで凍ってしまう。どちらから、何から切り出したものなのかわからない。

 こういうの、叶ちゃんや秋良なら上手くやるのだろうけど……うう敗北感。


 わたしのスマホが震えたのはそのときで、見れば画面に未那からの連絡が来ていた。

 さきほど『わたしと葵は後片付けを手伝えない』と連絡をしておいたのだ。その返事。


 画面の文字は――『任せた』と、それだけ。


 詳しいことは何も伝えていないのに。それでも何かは察してくれて、何も訊かずに信頼してくれている言葉だ。

 たったそれだけのことが嬉しくて、思わず顔がにやけてくる。


 こういうところが、未那はズルい。


 こういうところが、好き。


 どうしても溢れ出てしまうそんな思いを、なんとか秘めようとスマホで顔を隠すわたしだったけど、どうやら葵には全部が筒抜けだったみたいで。


「誰からなのか一発でわかるなあ……」

「……あうぅ……」


 恥ずかしいやら、それ以上に申し訳ないやらで言葉が出てこない。

 葵のほうは、そんなわたしの内心もわかっているみたいで。


「いや、別にいいよ。他人の幸せにケチつけるほどやさぐれてないから」

「ごめ……あっと、いや、それも違うよね……」

「謝られるほうが釈然としないからね。――それに、さなかもさなかで大変そうだし」

「……だね」


 言うほどわたしも余裕なわけではなかった。いろいろ、いっぱいいっぱいだ。

 けれど、それはいい。今は、とりあえず葵のことだけ考えよう。


「何があったの、葵?」


 改めて訊ねたわたしに、葵はふぅと小さく息をついて、それから言った。


「まあ、さっきフラれたって言ったけどさ、あたし」

「……うん」

「実は、あれ嘘。ホントはフラれてないんだー」

「え……?」

「ていうか、フラれるところまで行けなかったっていうか。……何も、言えなかったっていうか」

「…………」

「言わせて、もらえなかったんだ。……好きだ、って」


 言葉が途切れたところで、廊下の奥を足音が駆けていくのが聞こえた。

 わたしは面食らう。その言葉の意味するところを、すぐには理解できなかった。


「それは、……ええと」


 単純な困惑に言葉が出てこない。

 吐き出せない言葉の、味の苦さを思う。


「まあ、なんと言いますか。予防線を張られてしまったんですなー」


 葵は言う。どこか憑き物が落ちたみたいな口調だった。


「文化祭、ふたりで巡ってたんだけどさ。まあ、あたしも覚悟は決めてたし? どっかで言わなきゃって機会、探してたんだよ。んでまあ、どうにかタイミング見つけてさ。よし告白しよう――ってトコまでは一応、行ったんだけどね。ダメだった」

「それって……」

「バレてたんだと思う。あたしの気持ちとか、告白しようとしてることとか、タイミングだったりとか、全部。だけど勝司、――あたしに何も、言わせようとしてくれなかった」


 どうなのだろう。

 それは、どういう気持ちになるものなのだろう。


「まあ、なんかずっと、関係ない、どうでもいい話されたりとかさ。真面目な空気には、ならないように立ち回られたっていうかね? そういう感じ。言い出せなくってさ。てか何も言えるわけないっていうか。……言う前からもう、答えわかってんじゃん。それ」


 勝司は何を思って、その行動を選んだのだろう。

 自分が告白されることを予期して、けれどそれをさせないでおこうという選択。


「フラれることもできなかったってのは、そういうこと。でもさ、わかるじゃん? こんなの、もう答えじゃん。言わせてもくれなかったってのは、そういうことじゃん。だからあたしも、なんでもないように、あとはずっと、――してて――……っ」

「葵……っ」

「ひっでえ、よね……最悪だよね……っ。でもさ、それもさ、一応ほら、気遣いではあるわけじゃん? したらあたし、なんも言えないじゃん。あたし、フラれないで済んだって一応、言えるわけじゃん。いや言えねーけど。まあ、仕方ないかなって、思って――」


 わたしは、葵の隣にいた。

 だから葵の肩を、そっと自分のほうへと抱き寄せた。


「思った、けど……全部、わかってたんだって、思ったら――あたし、……っ」

「うん。……がんばったんだね、葵は」

「違う――違うよ。わたしは、違う。がんばれなかった……」

「違う。それこそ違うよ。葵は、がんばったんだよ。――だから、お疲れ様だよ」


 ――何も感じない、ということにした。


 胸の中に感じる葵の息遣いも、湿度を帯びていく胸元も、皺が寄っていく袖口も、肌に感じる温度も、今この場で全て流れていくものであるべきなのだと思う。

 だから。

 だからこそ、その代わりに。今だけは。


 湯森さなかは、吉永葵の親友としてできる、全てのことをするべきだと、そう思った。

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