S-19『あした晴れますように』

 たったひとつの冴えたやり方があればよかった。


 それは、一手で全てを解決できる妙手。わたしの哲学の行き着く場所。

 何も間違ったことはしていないはずだから。

 こんなものは結局のところわたしの感情の問題で、そこに整理さえつけてしまえば思い悩む必要もなくなる。そんなこと初めからわかっていて、だけれど、どうしようもない心の行く先に制御ができないからこうなっている。

 嫌われるのが怖いから好かれたくなくて。

 離れるのが恐ろしいから傍にいてほしくないと思う。

 本当に、わたしという人間は度し難い。矛盾ばかりで望むものもわからず、変わってしまった優先順位に折り合いをつけられず翻弄されてしまう。

 そんな在り方を、望んだわけではなかったはずなのに。


「……もう、寝てるかな?」


 おおむねわたしは同居人より夜更かしで、それは彼の横で眠ることが怖くなくなったあとも変わりない。

 いつも明日を望んでいる未那と、今日の名残を惜しんでいるわたしとの、ともすればそれが違いなのかもしれない。

 ああ、そうだ。


 ――今日が楽しかったから。


 きっと明日も楽しいと、今日よりずっと素敵になると、未那は信じて疑わない。

 だって、彼にとってそれは降って湧くような幸運ではないから。自らの手で掴み取るべき明日だから。疑わないのは自信があるのではなく、そのために当たり前の努力をするのだと、当たり前に決意できているからなのだと思う。


 わたしは違った。

 わたしは明日を信じていない。何より自分を信じていない。

 だから、今日が楽しかったという奇跡にいつまでもしがみついてしまう。それが自分の手で勝ち取った成果だなどとは誇れずに、ただ与えられた環境を享受しているだけだという自覚があるから。

 それに、何より。


 わたしにとっては、今日が楽しかったという事実さえ――。


「……うわ。わたしダメだな、また……」


 小さくかぶりを振って、わたしは机の上に置いた写真へ視線を向けた。

 今日、学校で未那と撮った記念写真。

 未那は気づいていなかったけど、どうにか貰えないかとこれでも必死に言い含めたのだ。それはわたしの甘えで、最後にそれくらいの贅沢は望んでもいいだろうってだけの誤魔化しだ。


「……変な写真」


 自分で笑えてくる。

 仮にも高校生の男女が、肩を組んで映るなんて、――そういうところが。


 胸が軋んだ。痛くて痛くて、頭を掻きむしりたくなってしまう。

 嬉しくて、尊くて、そんな風に思っている自分が心の底から許せないからだ。それは訣別のための装置で、決して特別な意味のあるものではないはずなのに。

 そんなものを、後生大事に取っておこうとしている、自分の女々しさが嫌になった。

 でも、いいんだ。

 これでいい。

 それさえわたしには、過分すぎるしあわせの結晶かたちなのだから。


 最後にデートできただけ恵まれている。


「まったく。……そろそろ日付が変わっちゃうよ」


 ああ。これも、わたしの弱さの発露なのだろう。

 それでもわたしは言い訳を作る。

 まだ今日だ。まだ今日は終わっていない。だから構わない、って。


 隣の部屋を覗きに行く。


 薄い布団を敷いて未那が眠っていた。

 何も考えていないような、その馬鹿面が憎らしい。憎らしいから見つめてしまう。

 わたしは、眠る未那の横にしゃがみ込んで、小さく呟く。


「アホ面して寝やがって……ばーか」


 まあ、馬鹿なのはきっとわたしなのだけれど。

 今日という日の価値が、未那とわたしでは違うとわかっているのに。


「……知らないだろ。もうすぐ、わたし、誕生日なんだぞ?」


 これも矛盾。知られたくないのに知っていてほしい。

 そんな気持ちを呑み込めないから、未那のせいにして頬をつついた。


「……んん……」

「ふふ。……なんの夢見てんだかなー……」


 未那はわずかに吐息を漏らしたけれど、起きる気配はまったくなかった。

 一度眠った未那は、滅多なことじゃな起きないことを知っている。それくらいは学んでしまう。

 この鈍感め、と責めることで救われるわたしは、どうしようもなく愚かな女だ。


 頬から手を離して、わたしは言った。


「ありがとね、これまで。……直接は言ってあげられないけど」


 だってわたしにもわからないのだ。

 どうしてこんな男を、こんなにも好きになってしまったのかなんてこと。

 ほんの指先、眠っている隙に触れることでさえ、しあわせになってしまえる自分は酷く安い女だった。

 名残だ、これが。きっと最後の。


「今日だけ……だからさ。もう、わがままはやめにするからさ……」


 酷い女だ。あなたから貰った全ての感情を、なかったことにしようというのだ。

 未那が知ったらどう思うだろう。怒るのだろうか。それともただ悲しむのだろうか。

 なんて、意味のない過程だ。

 告げる気はないし知られる気もない。わたしにその権利はないし、そうすることが義務だから。

 だから――せめて。

 それがどこにも届かないとしても、祈るだけはしておこう。


「どうか、あした晴れますように――」


 あなたの歩く明日が、素敵なものであればいい。

 わたしにとって、それが訣別の明日でも。あなたにはただ晴れただけの、楽しい一日であってほしい。

 そう祈ることくらいは、許してほしかった。



     ※



 その祈りが届かないことを。

 たったひとつの祈りさえ、自分自身の手で汚してしまうことを。


 ――この期に及んで、まだわたしは想像さえしていなかったのだから。

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