S-18『その三日月は綺麗でしたか?』

 今ならば、手を伸ばせばまだ届くだろうか?


 楽しい話をしよう、と少女は思うのだ。

 それは別段、決意とか覚悟なんて言葉に相当するほど大それた想いではない。

 むしろ当たり前の思考で、そうではないほうがきっとおかしくて。

 だからだろう。今、少しだけ胸が苦しいのだ。

 たぶん、それは、必要な感情なのだとも思いながら。


「……楽しかったね?」

「え……ああ。そうだね。うん」


 少女――湯森ゆもりさなかが上げた声に、我喜屋わきや未那みなが反応する。

 ふたりは、静かに、道を歩いているところだった。


 九月二十三日、土曜日。

 雲雀ひばり高校、文化祭二日目。


 この日は文化祭が終わったあと、一度《ほのか屋》に集まっていた。

 中日上げ、というのもおかしいかもしれないが。顔を出してくれた大人――たとえばほのか屋の宇川うかわ夫妻やバイト店員の瀬上せがみ真矢まや、かんな荘の管理人である神名かんな瑠璃るり、住人の雪丸ゆきまる礼子れいこ松沼まつぬま七三郎しちさぶろう、そしてここにいる未那とさなかの母親――たちが、一堂に会していたのである。大人同士の交流は、半ば宴会の様相を呈していた。

 未那もさなかも、そこに呼び出された――もといご招待与ったという形である。


「ったく……大人ってのは元気だよなあ」


 軽く笑って未那は言う。さなかは、それに笑みを返した。


「あはは。だねー」

「母さんなんか昼間っから完全に出来上がってやがったし……」

「お酒、強そうだったけどねー。そんなに酔ってたわけないんじゃない?」

「……かもしれないけど。それならよりタチが悪ぃよ。まったく」

「あはは……」


 ――まったく、はこちらの台詞だ。

 と、さなかは思った。

 これで隠せているつもりなのだから未那も案外、詰めが甘い。いや、違うか。

 未那もまた、隠せているだなんてきっと思っていない。

 それでもこう振る舞うしかないだけで。

 少女がわかっているように、あの場にいた大人たちだっておそらく未那の不調を察していたのだろう。

 その上で、完全に気づいていないかのように、普段通りに振る舞った。

 あの場ではきっと、それが大人らしい、子どもへの気遣いというものだったのだと思う。


 なら翻って。

 そこに立ち入るのはたぶん、子どもである自分の役割なのだ――。


「……あー、そういや」


 と。そのとき未那はこう言った。


「秋良がいなかったな……」

「……そう、だね」

「まあ、あいつは自分の学校の友達と来たって話だし、先に帰ったのかね」

「…………」

「そうならそうで、ひと言くらい欲しかったもんだけどさ」


 歩むスピードは遅々として上がらない。

 本来、ほのか屋から未那の住居であるかんな荘まで大した距離はないのだけれど。

 さなかは思う。それが、この時間を惜しいと思ってくれているからなら、よかったのに。

 自分だって同じように思うから。

 彼といられる時間は、たとえほんのわずかでも楽しく、それなら長ければ長いほど嬉しい道理だ。こうして日の沈んでいく道を、ただふたりで歩いているだけでしあわせになれるのだから。安い女だ、と自分で思う。


 だけど。


「まあ現れるときも急なら、消えるときも急なほうがあいつらしいっちゃ――」

「――秋良なら、たぶんまだこっちにいるんじゃないかな」


 未那の言葉はそこで止まった。

 怯えるみたいに。少女の言葉に縫い留められる。


「それより、ほら! ちょっと寄り道していかない?」


 そしてあっさり話題をずらすように、さなかはそんなことを言う。

 ――ずるい奴だ。そう、きちんと自覚している。

 だけど今、そうやって《ずるさ》を自分が獲得していることもまた、ひとつの成長なのだとも思う。


 それを、未那が断らないと知っていて。

 理由としての感情ではなく、ただ結果だけに身を委ねるようなことを言うのだ。


「いいけど……どこに?」

「まあ。――この辺だったら決まってるでしょ」



     ※



 そうしてふたりが訪れたのは、毎度お馴染みの青春公園。

 実際にはそんな名前ではないだろうけれど。本当のところをふたりは知らなかった。

 それで、別によかったのだ。


「へへ。これもデートってことなのですよ」

「……楽しそうだね?」

「楽しいよ? 当たり前じゃん。てか、そういうこと訊くかなフツー」

「これは失礼を……」

「うむ。許して遣わそう」


 冗談めかしたやり取りに、にへらと頬が緩む。

 やっぱり楽しい。この感情も、笑顔だって、全部が嘘じゃない本物だ。


「あ、未那! あれ見てよ、ほら。三日月!」


 たまたま見つけたわけではなく、本当はさきほどから気づいていた。

 湯森さなかはいつだって、遠い輝きに手を伸ばしている。


「ああ……本当だ。ちょっと薄いけど」

「や、ホントの三日月ってあのくらいだよ? 未那が想像してるのが厚いんだと思う」

「へえ……? それは知らなかった。でもそっか、三日の月、だもんな意味的に。ならこのくらいなのか……」

「まあ正確かどうかまでは知らないけど。あんなもんなんじゃない?」

「さなかって、天文とか詳しいの?」

「そういうんじゃないよ。でもほら、――ロマンチックなものは、好きだし」

「なるほど」


 そう言った未那が、少し笑った。

 よかった。それなら誘った甲斐もあるというもの。


 この月はきっともうすぐ沈んでしまう。

 だけど、だから今、この場所で、ふたりで見られたことが素敵だ。

 湯森さなかは知っている。

 今が、ここにしかないのだと。


「ほらほら、未那。こっち来て座ってよ!」

「そんな椅子みたいにブランコに誘うことあります?」

「へへへ」


 ふたつ揃いのブランコに並んで座った。

 さなかが横を見ると、未那がまっすぐ空へ手を伸ばしていた。

 きこ、とわずかに鉄が軋む。


「届きそうかな?」


 さなかが問うと、


「どうだろう。わかんねえよなあ……」


 未那は答える。

 だけど彼はきっと伸ばすことは諦めないのだ。それを少女は知っている。

 だって、自分も同じだから。

 だったらそれでいいとさなかは思う。


「……三日月が綺麗ですなあ」


 少女は呟いた。


 結局、そんなものだ。この時間に別段、名前をつけなくてもいい。

 理由も動機も不確かで構わない。果たしてそれが正しいのかさえ気にならなかった。

 ただきっと、今、彼をひとりにすることは違うと思ったから。

 そして自分もまた今、彼といっしょにありたいと願うのだから。

 それを、ただ思った通りに行っただけの話。ほかの要素でわざわざこの時間を汚すことはないだろう。

 ちょっとした特権である。


「……死んでもいいわと答えるべきかな、俺?」


 未那が言った。さなかは笑う。


「あはは! 死なれちゃったら困るなあ」

「そりゃそうだ」

「わたしの初キスを奪ったその日に逃げるとかサイテーだよ」

「うっ……いや奪ってったのはさなかのほうでは?」

「じゃ、次は未那から奪ってね?」

「……恥ずかしいこと言うなあ」

「彼女だもん。――それくらいは言ってかなきゃ」

「……参りました」

「あははっ!」


 照れを隠しきれずに俯く未那。その姿を見られる時間が、どこまでも楽しかった。

 そうだ。きっと、未那も、あるいは彼女も、そのことをわかっていないんだ――そう、さなかは思う。

 あの輝きに手を伸ばすのは当然だ。

 だけど、だからって、を見落としてしまうのはあまりに惜しい。

 特別を追うばかりではなく、

 特別ではない、どこにだってありふれた全てを、特別なのだと思うから。

 だから全部を諦めない。そんなわがままを、大手を振って主張できるのが、湯森さなかという女の子なのである。


 ほんの小さな、それは心を濡らす熱。

 せめて彼が帰るまで。再び向き合うことになるまで。

 ここで、こうして――隣にいられること。

 それを許してもらえることが、自分の持っている特別なのだろう。




 月は、綺麗だった。

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