5-23『エピローグA/戦うことなどできなくて』

 とにかく、走った。

 階段をどんどんと駆け下りていく。


 目指す先なんて決まっているわけじゃなかった。

 これは逃走で、だけどわたしに逃げるところなんてひとつもない。

 真っ暗闇を、わけもわからず堂々巡りしているだけ。


 だから、階をふたつも降りた頃には、もうスピードが落ちてしまった。

 もともと校舎内を走るなんて校則違反だし。なんて、こんなときでも何かに言い訳する自分が嫌になる。

 だけど、こんなに崩れた顔は、誰にも見せたくなかった。


「……っ、ぅ――」


 わたしはいったい何をしているんだろう。

 わからない。何も、何ひとつわたしにはわからなかった。


 ――目的は達成できたはずだ。

 自分から気持ちは捨てられなかった。だけど嫌われるのも嫌だった。そんな醜い自分の怯懦を、よりにもよって莉子に教えられたのだから笑い者だろう。

 わたしにできることなんて、

 ――それでも嫌ってもらうこと以外に残されていなくて。

 だから自分の裏切りを、死ぬまで胸の裡に秘めておこうとした想いを露悪して、けれど耐え切れずに逃げ出すことしかできなかった軟弱者。

 本当、中途半端にも程がある。


「なんで……こう、なっちゃうかな……」


 身に余る欲望に手を伸ばした報いだろうか。

 太陽に近づきすぎたから。

 ニセモノの翼が溶け出して、地面に墜落するしかなかった。


 ――ああ、そうだ。

 それがきっと、わたしと未那との決定的な違い。


 脇役であることに徹しきれなかった。いや、初めから想定を違えていた。

 自らを根拠もなく過信し、面倒になった全てを排するためだけに、己の安い哲学もどきに色をつけた。


 つまり、それはだ。


 願う理想へのきざはしとして理論を掲げた未那とは、まさに正反対。

 わたしは、自分の理想が決して叶わないと初めから諦めて、基準を下げることで哲学を嘯いた。


 それに、徹しきることができていればよかったのに。

 身の丈に合わない願望など棄てて、手の届く範囲だけで満足することを覚えていれば、わたしは今も名前のない脇役として生きていられたはずだ。はずだった。


 ――だけど、未那と出会ってしまった。

 教えられてしまった。突きつけられてしまった。

 思い出せ。本当に欲しいものはなんだった。忘れたはずの理想があっただろう。

 そんな言葉で頭を殴られてしまっては、わたしだって思い出してしまう。妥協と諦念で彩られた今よりも、届かずとも足掻き続けるだけの価値がある未来を見ていたはずだ、って。


 だから。わたしの中の強欲が、抑え込んでいた独善が顔を覗かせてしまった。

 それは醜い独占欲。

 きっと莉子のときと変わりなく、いつかわたしはそれを捨て去ってしまうのに、という想像に、目が眩んでしまった。


 だけどそれは、そんな醜い気持ちで穢していいものでは絶対にない。

 自分がそういう人間だからこそ。そんな自分の汚らわしい我欲に染められるなど決して許容できなかったのだ。

 最も願った理想の価値さえ、わたしは地へと貶めてしまう。

 あのとき、同じ輝きを見て、それをわたしに示してくれた彼の価値を。


 許せなかった。それは、わたしなんかが汚していいものじゃない。わたしという人間の在り方に、未那の理想を巻き込むわけには絶対にいかなかった――だから。

 なのに。


「あっ、叶ちゃん!」

「――っ!」


 唐突に声をかけられて、肩が跳ね上がった。


 なんで。どうしてこういうときに限って現れてしまうのか。未那の弱運を、少しくらい分けてほしいものだとさえ思った。


 ――湯森さなかが。

 階段を降りるわたしの正面に現れ、こちらへと上ってきてしまう。


「よかったあ、ようやく見つけたよー。あのね、さっきから未那が――……叶ちゃん?」


 顔を、見られてしまった。

 ダメだ。この位置関係では顔を隠せない。咄嗟に顔を背けたけれど、遅い。それ以前に顔を隠した時点で、何かがあったと言っているようなものだ。

 わたしは、彼女をすら裏切っているというのに。


「…………ねえ」


 まっすぐに。どこか固い口調で、さなかはこちらに近づいてくる。

 わたしは逃げることもできずに身を竦めているだけ。今、さなかを正面から見る勇気はない。何を言われても仕方のない存在だと、知っていても――それでも。

 さなかは怒って当然だ。何を言われるかと怯えるわたしの手を、彼女は掴んで。


「何があったの。どうしたの? ――何されたの?」

「……え」

「あの子に会ったの? 実はさっき、こないだの子が走ってくのが見えて、それでこっち来たんだ。いやでも……ううん。とにかくいっしょに行こ? まず顔、綺麗に戻そ?」


 ああ、そうか。そういえば彼女はずっとそうだ。

 感情をまっすぐに、衒いなく表現できる少女だった。それが彼女の魅力なのだ。こんなわたしのことさえ友達と呼んで、どれだけ嫌な顔をしてもめげずに近づいてきてくれる。

 彼女はわたしが、莉子に傷つけられたと勘違いしたのだろう。

 ある意味では都合がいい。そう思われているほうが遥かにマシだった。


 だからこそ。


「……ち、違うから。なんでもない……大丈夫」


 わたしの中に少しだけ残った理性を掻き集めて、なんとかそれだけを言った。

 これまで脇役をやって来た経験値だ。

 けれど、今さらそれがさなかに通用するはずもなかった。


「何言ってるの! なんでもなくないし、何も大丈夫じゃないから!」

「……本当に。本当に平気だから。いいから放っ、」

「わかった、あとで聞くね。あ、わたしハンカチ持ってるから、ちょっと待ってて」


 まったく聞く耳を持ってくれない。

 仕方がない、とにかく強引にでも逃げてしまおうと、わたしは強めに言葉を作って。


「だ、だから……っ!」


 けれど――言葉が見つからなかった。

 まるでダメだ。さなかに言えることなんて何ひとつ持っていない。


「……叶、ちゃん?」


 そんな態度だから、ついにさなかも不審さに気づいたらしい。

 名前を呼ばれ、わたしはびくりと肩を震わせてしまう。それがもうダメだった。

 まっすぐに注がれるさなかの視線に、目を合わせることができない。


「あ。えっと……叶ちゃん」


 気づかれる。

 気づかれてしまう。

 わたしがのではなく、のだということが悟られてしまう。


 さなかは――言った。



「もしかして、、かな?」

「ッ――!!」



 そこまでがわたしの限界だった。

 さなかの手を振り切って、再び走り出す。逃げ出した。


「あ、ちょ、叶ちゃ、――待っ!?」


 聞いていられなかった。

 さなかが本当に気がついていたのかはわからない。何か別のことを訊こうとしていたのかもしれない。いずれにせよ、わたしにそれを確認する勇気があるはずもない。

 ここではない場所へ行きたかった。

 とにかくここを逃げ出したかった。

 走ったところで目的地なんてないのに、今ここにいることが耐えられない。あまりにも子どもじみた逃避行動。だけど、それがわたしにできる全てだった。


 逃げ出したい。

 逃げてしまいたい。

 けれど、逃げる場所なんて存在しない。

 何もわからないわたしは、だから。

 そんな権利は持っていないのだと知りながら。

 誰かに。




 ――助けて、ほしかった。

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