5-22『エピローグB/甘くて、苦い』
どれほどの時間、その場に立ち尽くしていただろう。
長い時間がった気もするけれど、実際にはせいぜい数分か。全てを忘れて呆然自失していられるはずもない。
そんな権利が、俺にあるとは思えなかった。
むしろ俺の頭はずっと動いていた。
ぐるぐると、同じ場所を巡り続けるみたいに。
出るはずのない答えを追い求めて、縛りつけられたように動けないでいる。
「……未那」
そんな俺の意識を浮上させたものは、静かに、そして優しげにかけられた声だった。
引きずり上げるのではなく、柔らかに包み込むような。自然に誘わるみたいにして顔を上げると、屋上の入口側にひとりの少女が立っているのが見えた。
「……さなか」
「おうっ。湯森さなかちゃんだぞっ」
姿勢を低くした、いつもの敬礼ポーズでさなかが微笑む。
その姿に思わず笑ってしまった。なんだか一気に安心できたような気がする。
「どしたの、こんなとこで」
そう訊ねた俺に、さなかがむっと唇を尖らせる。
「どしたのじゃないでしょ、もー。いきなり走り出しちゃうし、驚いたのはこっち!」
「……そりゃそうだ。ごめん、さなか」
「いいよ。それより未那は、用事、済んだのかな?」
いつもと変わらない様子に安堵させられる。
俺が叶を探していたことはさなかも知っている。連絡を絶たれたため、何人かに協力を頼んでいたからだ。……気を、遣わせてしまっているかもしれない。
「まあ、一応。つか、ごめんね? いっしょに回ろうって約束してたのに」
さなかは目を細めると、少し低い声で。
「……いや本当にそうだよねー」
「うっ……」
「わたし結構、楽しみにしてたんだけどなー」
「いや、その……」
「てか未那っていっつもそうだよね。なんか気づいたらどっかに走ってっちゃうし、付き合ってるのに、夏以降、あんまりふたりっきりにもなれてないもんなー」
とてとてとこちらに歩いてくるさなか。
その口から語られる不満に、返せる言葉がない。
「や、そう……だよね。ごめん……」
「やだよ」
だがさなかは唇を尖らせたまま。
「謝ったくらいじゃ、許してあげないから」
「そう、だよね……」
言い訳できず、俺は返答に詰まってしまう。
目の前まで来たさなかは、そこでようやく相好を崩した。
「もう。なんで未那がそんな困った顔するかなあ」
「……えっと」
「それじゃ、わたしがいじわるしてるみたいじゃん。……まあ未那だもんなあ」
やれやれとばかりに首を振って、さなかは大きく溜息をつく。
やっぱり頭が回っていない。それでも、こちらをまっすぐに見つめるさなかを見れば、言うべきことはある程度わかった。
「……埋め合わせがしたいんですけど。どうすれば、許してくれるかな?」
「んふふ」
さなかは楽しそうに笑いながら。
「それはわたしが言ったこと、なんでもするってことなのかな?」
「ああ。なんでもするよ」
「――へえ? 本当になんでも? わたしが何言うかもわかんないのに?」
ニヤリと笑っていたずらっぽく訊き返してくるさなかに、俺はまっすぐ頷いた。
「本当になんでも、だよ」
「むぅ……。そこまでまっすぐ言われちゃうとなあ」
「いろいろ迷惑かけたしね。さなかに許してもらえるならいいよ」
「……やっぱり、そういうとこ、未那はずるい。ほんとに、……ずるいよ」
一瞬だけ視線を下げたさなかは、その直後にぽん、と手を打った。
それから再び顔を上げ、こんなことを言う。
「よし、こうしよう! 未那にはふたつ、わたしのわがまま、聞いてもらおっかな?」
「ふたつでいいの?」
「内容を言う前から余裕ですなあ、未那さんや。あとで慌てても遅いんだぜー?」
「はは、大丈夫。どんと言ってくれよ」
なんだって構わない。
今はとにかく、さなかのことだけを考えるべきだと思った。
「――それじゃあ、まずひとつ」
「うん」
頷く俺に、さなかは言った。
「明日は一日ずっと、わたしに未那の時間をください」
「時間を……?」
「そう。文化祭の時間、ずっと。明日は最終日だし。いっしょにいて、ほしいな」
「……それは、もちろん」
すぐに俺は頷く。というか言われなくてもそのつもりだ。
だがこれではなんの埋め合わせにもならない。そう思って俺はさなかに言う。
「それだけだと、なんか、何もしてないのと同じじゃない?」
「そうでもないけど。――だって未那、こうでも言っとかないとすぐどっか行くじゃん」
「……ぇあ」
「今日のデートも流れちゃったしー、そもそも未那とあれ以来、まだ一回しか出かけたりできてないしー? なーんか、告白する前と何も変わってない感じー」
「……誠に申し訳ございませんでした」
「だから明日は、そういうの、なしにしてもらうからね? 未那を一日中、ひとりじめにしちゃうって、わたし決めたんだから」
「わかった、オーケー。喜んで」
「じゃ、指切りね」
さなかが差し出した右手の小指に、自分のそれを俺は絡める。
約束――。
それを守れない自分には、なりたくないと思った。
大事したいものがあるはずだから。
見えていなかったものに気づいたとしても。それを理由に、見えていたものを蔑ろにはできない。
自分の中に確固たる優先順位を、俺は築かなければならないのだ。
「……それで、ふたつ目は何?」
指を絡めたままで、さなかに訊ねた。
彼女はわずかにはにかんで、俺にこんなことを言う。
「ふたつ目はもっと簡単なことだよ。いや、ある意味では難しいような気もするけど」
「え、何? なんかの謎かけ?」
「そういうんじゃないけど。でもまあ未那がなんでもするって言ったし。だから貰っとくことにしたの」
「貰っとく……」
「いいの! まったく、その口うるさいぞ。――とりゃ」
不意打ちだった。
にわかに寄せられたさなかの身体。
預けられていく体重を受け止めようと、咄嗟に足へ力を込めた。避けられなかったのはそのせいだが、避ける理由などないはずだった。
柔らかな感触を体で支える。
その瞬間に思い出してしまったものを振り払おうとして、だが直後に全身が硬直した。
女の子らしい、柔らかな肌の感触。
それよりも、もっと柔らかな温かさを、――唇に感じていた。
「ん……」
ほんのわずかに抜けていく吐息。
他人のそれを、ここまでの至近距離で感じたのはきっと初めてだと思う。言葉には到底できない感覚が脳髄を貫いていく気がした。
時間が、停止する。
様々な思考が脳の裏側で、泡沫のように浮かび上がっては溶けて、消える。
けれどすぐあとに、そんな些末の全てを洗い流してしまうような愛しさを感じた。
目の前にいるこの女の子のことが、心から好きなんだと、疑いなく思えていた。
――あるいは、それでも。
残る想いがあったのだとしても――。
永遠にすら錯覚しかけた刹那が終わり、さなかがそっと身体を離した。
自分の唇に指を添え、頬を赤らめた、どこか色っぽい表情で少女は小さく呟いた。
「……へへ。しちゃった、キス」
「お、……う、わ」
言葉にならなかった。
嬉しいとか心地いいとか、そういうプラスの想いがない交ぜになって言語化できないでいる。ただ、なんか、すごいなあ――なんて思っていた。
その裏側にほんのわずかだけ、
どうしてか――心臓を抉り抜くような痛みがあったのだとしても。
「これが、ふたつ目。……なんでもするって言ったもんね?」
甘くて苦い、初めてのキス。
まさか、さなかから奪われるとは思っていなかった。
「……ていうか、なんでもする、で本当に手を出されるとは思わなかった」
「ちょお、そういうこと言う!? わたし、ものすっごい勇気出したんだけどっ!!」
「……そうだね。さなかは、すげえや」
「ん、んん……なんだろ。わたし初めてだったのに、この感想はどうなんだろ……?」
「本心だよ」
心の底から、本当に。
湯森さなかは尊敬に値する、強い女の子だ。
「本当、格好いいよ、さなかは。――かわいいのに格好いいとか、反則でしょ」
「別にそんなことないよ」
さなかは言葉に首を振って。
「ていうかそもそも、未那に教えてもらったことだし」
「俺が?」
「うん。わたしも未那といっしょ。――欲しいものを、諦めないって決めてるだけ」
「……そっか。そうだったね」
では、だとするのなら。
いったい俺が本当に欲しいものとはなんだったのだろう――。
そんなことを、頭の隅で考えていた。
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