5-18『最後まで、気づくことができなかった。1』

     ※



 あんまり難しいことを考えていたつもりはないのだ。

 本当のが何か、なんて。そこまでのことは考慮していない。そんなものは初めから疑問しようとすら思っていなかった。別に、でも、よかったのだ。


 ――わたしは、今の自分をしあわせだと思っている。

 とても恵まれていると思う。願った通りのものを過不足なく手に入れて、それでもなお上を求めるなんて、いかにも強欲が過ぎている。

 人間の欲には際限がないというけれど、なんでもかんでも欲しがっているようじゃ一生かかっても満足できないはず。

 最低限、初めに欲しかったものは、今この手の中に握っている。

 ちょっと高い位置に来たくらいのことで、次の何かを目指してはならないはずだった。


「案外、姉さんも相変わらずだよね」


 だからそんなことを言われても、わたしは肩を竦めるよりほかにない。

 いったい今さら、何を言っているのかという話である。


「そう? わたしはむしろ、結構変わったと思ってるんだけど」


 とぼけるように呟いたわたしに、顔だけは綺麗な弟は目を細めた。


「そりゃ中学の頃と比べればね。だけど、僕が言ってるのはもっと直近の話」

「ならそれこそでしょ。人間、そうそう変わったりなんてしないっての。まだ高校入って半年くらいなのに、そんなころころ考え方ブレたらマズいでしょ」


 今、わたしと望は三年生がやっている喫茶店をふたりで訪れていた。こちらに来ていると連絡があったから、顔を合わせることにしたのだ。

 教室の机を並べ、テーブルクロスを張っただけの簡素な作り。けれどまあ、これも文化祭の醍醐味だと思えば悪くない。


 わたしはコーヒーをひと口啜って、わずかに表情を顰めた。

 ダメだ、美味しくない。昔は気にも留めていなかったのに、いつの間にかインスタントでは満足できないほど舌が肥えてしまっている。いや、だからって文化祭の喫茶店に味を求めるのも酷な話だろうけど。

 ほのか屋でのバイトや、それこそ自宅でも気を遣って作るせいで……やめよ。生産性がない。

 気を抜くとすぐに思い浮かべてしまう顔を、振り払うためにかぶりを振った。


 あーもう、ちくしょう。


「まあ、姉さんが姉さんで安心したよ」


 弟――望はそんなことを言う。

 失敬な話だ。弟に心配されるほど柔な姉ではないつもりなのに。


「生意気ばっか言いおってからに」

「別に、そういう話でもないと思うけどね、僕は」


 あっさり答えて、望は自分のコーヒーに砂糖とミルクを注いでいく。苦味が苦手なのは変わっていないようだった。

 わたしも真似しようか少しだけ考えて、結局すぐ面倒臭くなってやめてしまう。

 代わりに望に視線を向けて。


「いいの? こんなとこでわたしとデートしてて。ひとりってわけじゃないんでしょ?」


 問いに望は、一瞬だけスマートフォンに視線を落として。


「いいよ、別に。はぐれたし、向こうもぜんぜん連絡寄越してこないしね」

「あんたからは連絡しないわけ?」

「向こうがしてこないなら僕からする気はないよ。今のところ」


 なんとなく、望が苛立っているようにわたしには見えた。

 女の子と来たはずだ、となんとなく直感していた。その割には妙に子どもっぽい反応を見せているのは少しだけ意外なような、そうでもないような。

 まあ、深く突っ込むのは勘弁してあげよう。


「どの道、姉さんにも会う予定だったし。そのくらいの時間は取ってある」

「……ならいいけど」

「忘れないうちに渡しておくね。――はい、これ。父さんと母さんから」


 そう言って望が鞄から取り出したものは封筒だった。


「何これ? 手紙、ってわけじゃないよね?」


 だったらメールやLINEで構わないはずだ。

 目を細めたわたしに、どこか呆れた表情になって望はこう告げる。


「いや。今日、何日だと思ってんのさ」

「は……?」

「今日っていうか、正確には明日だけどさ。――誕生日プレゼントだよ、姉さんに」


 言われて初めて納得した。

 というか思い出した。そういえば、明日はわたしの誕生日だ。


「なんで前日に?」


 訊ねたわたしに、望は軽く肩を竦めるジェスチャーで。


「当日はいろいろ忙しいかな、と思って」

「いらない気遣いを……でもまあ、プレゼントは受け取っておくよ。何これ?」

「現金」

「えー? 愛がないなあ」

「それは逆に、父さんなりの気遣いだと思うけど」


 それは……そうかもしれない。

 特に父親は、自分で言うのもなんだがわたしに相当甘い。考え抜いた末に、この結論を出してくれたのだろう。確かに、ある意味じゃいちばん嬉しい気がした。


「父さんたち、言ってたよ」


 と望。無言で先を促すと、こう続ける。


「『叶も学校で友達ができただろうし、当日はきっと忙しいだろう。だからこれだ』って」

「……お気遣いどうも」

「で、どうなの? 明日は何か予定とかあるんじゃないの?」


 軽く訊ねてくる望に、わたしは答える。


「もちろん。なにせ文化祭の最終日だからね。フィナーレを楽しまないと」

「そういう意味じゃないんだけど」

「別に誰かに祝ってもらったりとかはないんだけど。そもそも誰にも教えてないから」

「あれ。そうなの?」


 首を傾げる望だったが、そんなものだろう。わたしは続ける。


「この歳になって、今さら誰かが誕生日だからって特別なことしないって。そりゃ日付を知ってればプレゼントくらいは考えるけど、だからってわざわざアピールしないって」

「ふぅん……ちょっと意外」

「そう? ま、言っても望はまだ中学生だし――」

「そうじゃなくて」


 わたしの言葉を望は遮った。今日はなんだか否定されてばかりな気がする。

 そんなことを思っていたわたしに、望はあっさりこう言った。


「――少なくとも、未那先輩くらいには教えてるかと思ってた」

「…………」

「どうしたの? まさか喧嘩でもしてる?」

「……まさか。してないっつの」


 わたしは平静を装って答えることができていただろうか。

 自分でもわからない。わからなかったから、言葉を重ねるしかなかった。


「いや、今さらあいつとの間に変な気を遣うの馬鹿らしいでしょ?」

「…………」

「あいつのことだし、ほら。もし知ったら妙なこと考えるかもわかんないし? そういうことされても逆に困っちゃうじゃん。それに――そうだ、未那はさなかと付き合ってるんだし、邪魔するのはさすがに悪いしね? うん、文化祭に被ってるんだし。その最終日となれば未那だっていろいろ予定くらいあるはずじゃん? わざわざ言うことじゃないよ」


 望は言った。


「僕、そこまで訊いてないけど」

「――――――――」

「……はあ。というか、そうなんだ。未那先輩、湯森先輩と付き合ったのか」


 望は一瞬だけ、こちらから視線を外した。

 だがすぐに戻すと、いつも通りの無表情になって、わたしに言う。


「――姉さんは、それでいいの?」


 そんなこと望に訊かれたくなかった。

 わたしは鋭く問いを返す。


「……何が言いたいの」

「姉さんは――未那先輩のこと好きなんじゃないの?」

「望」

 今度はわたしが、望の言葉を止めた。

「それ以上言ったら、怒るよ」

「……どうして?」

「わたし、そんなこと言った覚えない。そもそも未那は今、さなかと付き合ってんだよ? 言っとくけど、間違ってもあの馬鹿にそういうこと言わないで。迷惑がかかる」


 思いのほか語気が強くなってしまっただろうか。

 いや。これでいい、これで普通なはずだ。わたしは何もおかしなことは言っていない。

 望はしばらくわたしをまっすぐに見つめていたが、やがて静かに頷いた。


「わかった。姉さんがそう言うなら」


 納得していない様子だったが、それでわたしは構わなかった。

 これでいい。これ以外は全てがよくない。

 それがわたしの選ぶべき、たったひとつの正解なのは疑いようがないのだから。


「バカなこと言ってんなっての。下らない」

「…………」

「あんたに心配されるようなことは何もないから。わたしは普通に、楽しくやってるよ」


 そのときだった。

 テーブルの上に投げてあったわたしのスマートフォンが、震動で着信を知らせた。


「……メール?」


 思わず呟いてしまうくらいには意外だ。

 LINEならともかく、Eメール機能が仕事をすることは滅多にない。キャリア会社のどうでもいいメールを除けば、あとは両親くらいだろう。

 だが、表示された送信者はアドレスそのもの。つまり電話帳に登録されていない。両親ではないということだ。


 わたしはそれを手に取った。

 そして――思わず目を見開いてしまう。


「……姉さん?」


 それを疑問に思ったのだろう、怪訝そうに望が訊ねてくる。

 わたしは即座に答えた。


「ん、何?」


 なんでもない、と装って。


「いや……誰から? 急用でも入った?」

「別に。なんかの迷惑メールの類いじゃないの。放っておけばいいよ」


 そう言ってスマホの画面を消し、再び置いた。

 今度の演技は幸い、上手くいったらしい。望は特に疑問を見せなかった。


 だが。

 見ればわかった。たとえ電話帳から削除していても、わたしはそのアドレスに見覚えがある。

 正確に記憶しておらずとも、末尾の四桁の数字――誕生日でそれがわかる。


 いっしょにアドレスを決めたからだ。

 お互いに、自分の誕生日をアドレスに入れていたからだ。

 わたしがアドレスを変えていなかったように、彼女も変えていなかったのだろう。そのことが、わたしには理解できていた。


 ――もしかして、ここに来ているとでもいうのだろうか?


 なんのために。

 いや、決まっている。もちろんわたしに文句を言うためだ。

 わたしへと恨みをぶつけるために――その程度のことために、今も彼女は時間を使っている。


 だけど、もうあのときみたいに潰されるつもりはなかった。

 それでいい。会いたいと言うなら、会ってやったって構わない。わたしは、もうそんなものには負けないのだから。


 ――そのことを、未那と約束したのだから。


「そろそろ出よっか。あんまり長居するのも悪いし」

「……そんなに時間経ってないけど。ていうか、まだ飲み終わってないじゃん、姉さん」

「なら飲んじゃおう。あんたも連れとさっさと合流しなさいよ?」

「……そうだね」

「てか、望からは何かプレゼントないわけ? さっきは父さんと母さんからって言ってたけど」


 話題を変えるように訊ねたわたしに、望は答える。


「まだ用意してないよ。どうせなら直接、何が欲しいか訊こうかと思って」

「ふぅん。別に、なんでもいいけどね」

「……何か欲しいものでもある?」


 問われてわたしは、少しだけ考え込んでから。

 冗談でも言っておこうか、と、望に向かってこう告げた。


「――素敵な彼氏とか欲しいかなー」


 望は黙り込んだ。

 ああ、上手くなかったかもしれない。ていうか完全に外した。

 わたしはそこまで温くなってもいないコーヒーを、ひと息に喉へ流し込んだ。さっさとこの教室から出てしまいたかった。


 ――それにしても。

 なんて、苦い味だろう。

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