5-17『そのせいで、失ってしまったものの大切さに、5』
駆け出して――けれど。俺の足は、すぐに勢いを失ってしまう。
今ここで、俺が彼女に声をかけたとして。
そのことにいったいなんの意味があるというのだろう。
わからなかった。
「…………」
俺は主役理論の信奉者だ。
ならばここで、俺が行動することの意味は考えなければならない。
彼女に声をかけて、俺はいったいなんと言えばいいのだろう。
いや、そもそも何を目的にしている?
それさえ理解できずに、やれることなんて何もない。
あったとしてもすべきではない。
そんなことはわかりきっているはずだ。
そこまで考えて、俺は軽く首を振る。
別になんだっていいじゃないか。そう思う。
叶が叶のやりたいことをするように、俺は俺のしたいようにする。
それだけでいい。
いや、そうでなければならないと言ってもよかった。
あの誓いはそういうもの。
あの約束を裏切ることは叶を裏切るよりなお悪いことだ。
「……っと」
見失わないように、再び足を動かす。
今度はもう走らなかった。落ち着いて動けばいい。
あとのことなど――まず全てやってから考えればいいだろう。
「す、すみません!」
俺はその少女に声をかけた。
「え――はい?」
彼女がこちらに振り返る。当たり前だが、少し戸惑ったような表情だ。
少なくとも、見た目には普通に見える。つまり取り立てて異常は見受けられない。
短い黒髪で、落ち着いた印象の少女だった。地味、と言い換えてもいいが、それはいい意味で大人びているということ。
主張が激しくないだけで、小奇麗な装いをしている。
名前は……いや、そういえば聞いたことがない。
「……ええと?」
困惑したように彼女は首を傾げた。
ああそうだ、何か言わなければなるまい。だが何を言うべきなのか。
ええい、ままよ。
「……一度、お会いしたことがあるのを覚えていますか?」
俺はそう訊ねた。
少女は一瞬だけはっとした表情を見せ、だがすぐに視線を鋭くすると、
「すみません、ナンパならほかを当たってください」
「いや、違いますよ!?」
確かに今の完全にナンパの台詞だった気がするけれど!
なんなら逆にもう今どき使わない台詞だとすら思うけれども!
「あの。以前、道を案内したことがあると思うんですが」
そう言った俺に、少女は目を細めて。
「……道、ですか?」
「確か駅前だったと思うんですけど。ほら、かんな荘までの道のりを。夏休みに」
「……ああ! あのときの……女の子といっしょにいた」
ようやく得心がいったのか、彼女は大きく頷いた。
どうやら、なんとか思い出してもらうことには成功したらしい。
「そのときのです。まさか、かんな荘を目指す人がいるとは思ってなかったんで、印象に残ってて」
「……えと、その節はありがとうございました。こちらも、まさか古いアパートの場所を教えてくれる方がいるとは思っていませんでしたので」
ぺこり、と頭を下げる少女。
それで警戒は少し解けたらしい。俺はさらに踏み込んで訊ねる。
「……叶の知り合い、だったんですよね?」
それを口にした瞬間だった。
少女の視線が、一瞬だけ鋭くなる。俺はそれに気づかなかった振りをして続けた。
「俺もあそこに住んでるんです。叶の隣の部屋に。ああ、名前は我喜屋未那と言います」
「わきや……みな」
「今日も、――叶に会いにきたんですか?」
「……ふぅん、そっか」
そのとき彼女の声質が、決定的に変化した。
見知らぬ人間に対するものから、言うなれば敵に対するものへ。
そして彼女は言う。
「あの子、まだそんなことしてるんだ?」
「……何を」
「まだ男を誑かして、自分は何もせずに守ってもらおうとしてるんだ、ってコト。高校に入っても、何も変わってないんじゃん。そうなんだ?」
「…………」
俺は押し黙る。あまりの言葉に反論すら忘れさせられた。
その言葉には――悪意があった。
害意の滲んだ言葉だ。明確に傷つけようとする意志がある。毒を塗った刃物のように。
思えばここまであからさまな悪意に晒されるのは、かなり久し振りな気がする。あるいは初めてかもしれない。
敵意や隔意とはそれは違う。
無邪気からくる残酷さではない。
癇癪でも忖度でもなく、まして自己防衛では絶対にない。
いっそ捨て身とさえ言っていいだろう、攻撃。
確かな、それは邪気だ。
悪意でもって叶を傷つけることを明確な目的にしている。
「あなたも大変だね」
少女は言った。同情に見せかけた悪意で。
「頼まれて来たのかな。それとも自分から? どっちにしろご苦労様だよね。そうやって誰かが動いてくれるんだもんね、あの子は。本当、羨ましいよ」
「……そんなんじゃねえよ」
「あっそ。でも、見た目に釣られただけならやめたほうがいいと思うよ? 知らないかもしれないけど、あの子の評判、中学じゃすごく悪かったんだから。冷たい女だよ、アレ。ああ、そういえば部屋が隣なんだっけ? あはは、体でも売ってもらっちゃった? その辺りは結構、貧相だと思うけど」
「おい」
俺は言う。
「――ちょっと黙れよ、お前」
そんな高圧的な態度は、本当なら取りたくなかった。これは、よくない。
だが、それがわかっていても我慢できない言葉を、こいつは平気で、何度も重ねて口にする。
自分の外見が威圧的なことに、生まれて初めて感謝しそうになってしまった。
「黙れって。先に声かけてきたのそっちでしょ、何言ってんの」
何も通じていない。俺はこいつを怖いと思っているのに、こいつは俺を微塵も恐れてはいなかった。狼狽えるどころか、気圧された様子さえ一切見せない。
「いきなり人の友達に悪口言うなつってんだよ。聞いてりゃ不快にもなるだろ、そりゃ」
「友達? は――友達?」
俺の言葉を、目の前の少女は鼻で笑う。
「何がおかしいっつーんだよ」
「あいつに友達なんているわけないでしょ」
「なんだそりゃ。それこそお前にゃわかんねえだろ」
「――いるわけない!」
小さな声で、けれど鋭く言われる。
俺のほうが気圧されている。
「いるわけない……そんなことが許されていいはずがない。あいつは許されたらいけない人間なんだよ。しあわせになんてなっちゃいけない、あり得ないんだ……っ」
「……なん、なんだよ……お前」
どう見ても異常だ。
いくらなんでもここまでだとは思っていなかった。
いや、こうして別の学校に別れてまで会いにきている時点で予想はすべきだった。
予想していた。
だが実際に目の当たりにすると、その根の深さに戦慄させられる。
何も言えない俺に対して、彼女はそのまま言葉を作り続けた。
「……そうなんだ。またそうなんだ。へえ……なんだっけ、我喜屋、だっけ? わざわざ教えてくれてありがとね。そうなんだ……あの女、また自分だけしあわせになろうなんてしてるんだ……あり得ないよね。もう忘れちゃったのかな? せっかく自分のやったこと思い出させてあげたのにもう忘れてる……あり得ないよね舐めてるよねおかしいよね?」
「何、言って――」
「じゃあ私もう行くから。ばいばい」
言うだけ言って踵を返してしまう。
いや、だからってこのまま行かせていいわけがない。
「おい待て、行くってどこに」
「決まってるでしょ」
彼女はこちらを振り向いた。
そして、笑顔を見せて、俺に言った。
「――親友に会いに行くんだよ」
「なんの……ためにだ」
「そんなことあなたに言わないとダメかな? 関係ないでしょ。私は自分の友達に会いに行くだけ。放っといてくれない? つきまとうようなら警備の人とか呼ぶけど」
「――――っ」
そう言われてしまっては、これ以上は何もできない。
こちらはこいつの名前も知らないのだ。変な男に絡まれた、とでも言われれば打つ手がなくなるし、みんなにも迷惑をかけてしまう。
そのままどこかへ去っていく姿を、見届けることしかできなかった。
「……くそっ!」
いや。いずれにせよ言葉でどうにかなる問題じゃない。
――裏切られた親友。
彼女は自分をそう認識している。いわば叶を監視するために来ているということ。
なら強硬手段は取らないだろうが、文化祭を楽しんでいる叶の邪魔になることは明白だった。
「……未那」
そのとき背後から声をかけられる。
「あ……さなか」
振り向いた俺に、さなかは不安そうな表情で。
「今の……」
「ん、……ああ。夏休みんときに会った、叶の友達……だった奴だ」
「なんか……よくない、感じ……なんだよね?」
「みたいだな」
言ってから俺は首を振って。
「いやまあ、叶のことだからな。仮に会っても上手くやり過ごせるとは思う……思いたいんだが」
一度、叶は彼女と出会っただけで、取り乱して実家にまで戻った。
今はもう、そうはならないと俺は信じている。あいつには、それができるだけの強さがあると俺は思っていた。
けれど、だからといってわざわざ不快な思いをさせることもないはずだ。
俺だって完全に詳しい話を知っているわけではない。叶の視点から一方的に聞いただけだし、それはフェアではないのかもしれない。
だがそれで構わないとも思っていた。
どちらの味方をするか選ぶなら、迷うことなく叶を取る。当然だ。
「どうにか穏便にお引き取り願いたいと思うんだけど……どうしたらいいと思う?」
俺はさなかに訊ねた。
さなかは頷き、ポケットからスマートフォンを取り出すと言った。
「よくわかんないけど、今の子、叶ちゃんを探してるってことでいいんだよね?」
「だと思う」
「なら、先にこっちで見つけちゃおうよ! それで、おしまい。みんなでいっしょに文化祭を回ってれば、入る隙なんてなくなるでしょ?」
「――……ああ確かに。そうかも。思いつかなかった」
「簡単なことだよ」
目を丸くして俺に、さなかは微笑む。
その通りだ。どうしてそんな簡単なことに思い至らなかったのやら。
「あはは。まあ叶ちゃんはひとりで回りたい、って言ってるとは思うけどねー」
「……だよね? だから、あんまりあいつの邪魔するのもどうかなー、と思って……」
ただでさえ一度、時間を使わせてしまっている。
叶の哲学を考えるなら、少なくとも文化祭の間は放っておくべきかとも思うのだが。
「それで思いつかなかったの?」
さなかは少し呆れた表情をして。
「未那、叶ちゃんのことわかってるようでわかってないとこあるよねー」
「えっと……」
「ていうか、いいんだよ、そんなこと。どーだって!」
はにかむさなか。
彼女は、それが至極当たり前のことだとばかりに、こう言った。
「だってわたしは叶ちゃんと友達だもん。いっしょに回りたいって誘うくらい、悪いことなんて何もない。違う?」
「……いや。何も、違わない」
顔を伏せて俺は答えた。恥ずかしくなってしまったからだ。
どこかで叶に遠慮してしまっていたと気づいたから。
それをしないと、俺たちは誓ったはずなのに。
俺がそれを忘れて、さなかに教えられていては立つ瀬がない。
まったく、どこまで行っても俺は馬鹿だ。
「んじゃ、叶とちょっと連絡取ってみるか」
「おう。そうしようぜいっ!」
にへっと笑うさなか。
――敵わないな、と思い知らされる。
この子が俺の友達で、本当によかった。
俺もスマホを取り出して、叶に連絡を取ってみる。あとはこのまま、全て笑い話にしてしまえばそれでいい。
何も起こらなければ、それで充分なのだから。
――けれど。
叶が、俺たちからの連絡に応えることはなかった。
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