5-16『そのせいで、失ってしまったものの大切さに、4』
最近まったく聞いていない、けれど確かに聞き慣れた声だ。
たとえこの先、どれほどの時間を積み重ねても、俺は死ぬまでこの声を主を聞き違えたりはしないだろう。
なぜならば。
震える声音で俺は言った。
「……な、なんで、ここに……!?」
「来るに決まってるだろー? まったく、そう驚くなよ。嬉しくなってきちゃうだろ?」
ニヤリと笑うその女性。
そしてその横には、これまた見知ったお人がいる。
「あらあら。お久し振りですね、我喜屋くん。その後はどうです? お元気ですか?」
気づけば隣にいるさなかも固まっている。
だが俺には、目を見開く彼女を気遣う余裕がなかった。ダメな彼氏だった。
「おーい。何か言ったらどうだ? そんなに驚かれるとますます嬉しくなっちゃうよ?」
斬新な脅しだった。そうだ、ええと、とにかく何か言わなければ。
けれど頭が回らない。
震える声音が、勝手に、言葉となって舌に乗る。
「……か、母さん……」
「おう」
と、その女性は歯を見せて笑った。
「お母さんだぞ。まったく、連絡のひとつも寄越さなくなった親不孝のバカ息子め。仕方なく、こっちから顔を見にきてやったぞ? だからもう少し喜べ。なあ、――未那?」
「あらあら。さなかが料理だなんて。でもちょうどいいわ。三人分、お願いね」
完全に時間が止まる俺とさなか。
目の前には我が母親と、そしてなぜかいっしょにいる、さなかのお母様こと遼子さん。
なんて組み合わせで現れてくれるものだろうか。
いや、別にいいんだけれど。
なんだろう。さなかのお母様といっしょなのが妙になんか、いや、何これ?
「ど、どうしてお母さんが、み……未那のお母さん? と……?」
先に再起動したのはさなかだった。
遼子さんがその問いに答える。
「さっき、そこで偶然にお会いしたの。それに、行き先は同じでしょう? せっかくですからとお誘いいただいて、ここまでご一緒させてもらったのよ」
「な、なんて、偶然……っ!?」
愕然とするさなか。
だが俺はそこではっとした。
違う。
これは決して偶然ではない。
弱運たる俺の人生に、こんな偶然は起こり得ない。
いや、たとえ偶然だとしても、その偶然を引き起こす機会を、可能性を上げるのが主役理論というものだ。
だが俺はこの件に関して何もしていない。
ならばそれは、何者かが意図的に引き起こした事件に違いない。絶対にそうだ。そして思い返せば今、遼子さんは確かに《三人分》のクレープを注文している。
確信して目を見開いた俺。
そして、向こうもそれに気づいたのだろう。
ひょっこりと、犯人は我が母親の背後から姿を現した。
ていうかやっぱり隠れていた。
久し振りというのも何か違うか。
だが考えてもみれば、こんな縁を結びつけられる人間は限られている。
果たして。
彼女は。
「やあ、未那、さなか。遊びに来たぜ――このぼくが、ね♪」
――宮代秋良は。
花の咲くような笑みを見せて、自分がやったのだと悪びれもせず伝えてくるのだった。
うん。
どうしてそういうことするかなあ、こいつはさあ!(解答:面白そうだから)
「お前かよ!」「秋良じゃんっ!!」
俺とさなかはほとんど同時にそう叫んだ。
普段より大人しめ――と言うのは要するに《普通にお洒落》というレベル――の装いに身を包んで笑っている、我が愛すべき旧友・秋良は、俺たちの叫びにこう答える。
「そうだよ、わたしだよっ☆」
悪びれる様子はゼロだ。なぜなら別段、悪いことはしていないから。
理屈はわかるが、明らかに面白がっていやがる。秋良だけに明らかにだ。何がだ!
「なーんで猫被ってるんですかね今日は!」
「ててて、ていうか、なんてことしてくれるんだよおっ!!」
俺とさなかは口々に秋良を責めた。
そうしている間は、親同士が揃ってやって来た、という別にいいんだけどなんとなく気まずいし気恥ずかしい状況から目を背けていられるから。
ただでさえ自分の母親に学校での様子を見られているだけでアレなのに、ましてこう……ねえ? これはねえ?
こんな酷い目に遭わされるだなんて予想外だ。
しかし、俺はまだ甘かった。秋良を相手にこの程度で済むはずもなく、どう足掻いても手玉に取られ続けるだけだと理解してはいたのだが。
秋良は言った。
「あっ、なんだか息ぴったりだね、ふたりとも。ひゅーっ! さっすが恋人同士っ」
――ああ……すごく自然な流れで不自然に情報を横流ししやがった……。
頭がくらっとした。秋良はものすごい楽しそうだった。
こいつは俺をからかうためだけに遥々やって来たというのだろうか。
「いいか、秋良……お前のことだけは、一生で一度必ず負かしてやるからな……!」
負け惜しみを言う俺に、さなかが遠い目でツッコむ。
「一生かけて一回できるかどうかなんだね……もう心が負けてるんだね……」
そうだね。
俺が秋良を上回っているステータスは、まあ、ほぼないね。腕力くらいかな? それは秋良には通じませんね。じゃあダメだよね。結論だあ。
そして、そんなことを言っていること自体がもう現実逃避でしかなく。
「――へえぇ?」
キラン☆ とばかりに母さんが目を輝かせた。
ダメだ。やってしまった。この世で最も知られたくない相手に知られてしまった。
「なんだよなんだよ、そういうことか。あっはは! それで未那の奴、特に何をやるとも言わなかったわけだ、あたしに! 文化祭には来てほしくないから!!」
ずかずかとこちらに近寄ってきて母さんが笑う。
ああ、だから嫌だったのに。さなかには会わせたくなかったのに……。
「おいおい未那ちゃん。未那ちゃんよう」
母さんは言う。俺は顔を背けて。
「……普段呼ばないのに、ちゃんとかつけるのやめて……」
「なーんだよ、久し振りだろー? ったくお前、夏休みにも結局一度も帰って来やしないし、なーにしてんのかと思ったら、ちゃっかり恋人作ってやがったのか!」
そして母さんは、視線を横のさなかに向けてしまう。
すまねえ、さなか。俺に、この人を止める力はないんだ……!
「君が未那の恋人さん?」
「へあ」
さなかは完璧に狼狽えていた。
「あのぉ、……はい。そう、デス……」
「そっか……そうか、なるほど。あたしのことは覚えてないと思うけど、久し振りだね、さなかちゃん。いつもバカ息子がお世話になっています」
頭を下げる母さんだった。
俺は、ほかのお客さんが来れば母さんをここからどかせるのになあ、と思っていた。
どうしてこういうときに限って誰も来ないのか。
「え!? いやいや、そんなっ。わ、わたしのほうこそお世話になって……そのっ、えとっ、わたしのこと、覚えて……?」
さなかは恐縮したように、両手をぶんぶん振って答える。
母さんは笑顔だった。
「もちろん。将来はかわいくなると確信していたけど、まさかここまでとは」
「はぅあ」
「未那にはもったいない器量だね。まさかウチのがこんな美少女と……よかったのかい、こんな阿呆で?」
「うぇあぇお」
「ああ、あたしは
「あ、ぇと、その、湯森……さなか、です……」
なんとかそれだけを言うと、さなかは真っ赤になって俯いてしまった。
その様子を見て我が母君様は仰られる。
「……何言って騙したんだお前?」
「もう帰ってくんない!?」
「おら!」
その瞬間に頭を引っ叩かれた。
「あ、いったあ!?」
「湯森さんの前でそういう口の利き方は感心しないな。恥ずかしいんだかなんだか知らんが、こっちは客だよ。ほら、さっさと仕事しろ」
こんの、ヤロゥ……!
親に向かって、ではなく、湯森さんの前でというのが我が母らしい。ああもう。
すぐ横では、宇川さんたちや真矢さんもこちらを見ている。バイト先の人たちに、情けない接客を見せるわけにもいかないだろう。こんちくしょうめ……。
「――い、いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」
「さなかちゃんが作ってくれるの? それは楽しみだね」
無視だよ。
なんなのこの親。ほんと何?
「ああ湯森さん、ここはぜひ私に出させてください。秋良も好きなの選びな」
「うん、ありがとう、唯さん」
「まあまあ。それではお言葉に甘えますね?」
なんか仲よくなっている三人から、注文を取ってクレープを作った。さなかが。
練習の甲斐あってか、ほとんど無心に手だけ動かすさなか。俺はお金を受け取って会計する。完成した三つのクレープをさなかが渡したところで、俺は言った。
「……母さん」
「あん?」
「そっちに俺のバイト先の、店長さんたちが」
「おいそれ先言え」
言わなかったらマジで怒られるので、俺は嫌々、心底嫌々、母さんをマスターたちへと紹介する。
気づけばその場には、妙な集団が形成されてしまった。
「未那くんにはいつもがんばってもらっていますよ」
「それはよかった。ありがとうございます。ぜひお店にも伺わせてください」
「それはもう、ぜひいらしてください。妻と精いっぱいおもてなしさせていただきます」
「ほのか屋さんのコーヒーは、とても美味しいですよ、我喜屋さん」
「愚息からもそう窺っております。そうだ、湯森さんもご一緒にどうでしょう?」
そんな会話が聞こえてくるけれど俺は聞こえないことにして。
「――大変だね?」
なんて笑う犯人をジト目で睨んでやった。
秋良はからからと笑って。
「そう怒ることないじゃないか。せっかく来たっていうのに」
「なんなの。暇なの?」
「おっと失礼な。屋台の設計図、誰が調べたと思ってるのかな、未那?」
「すみませんでした。その節は本当にお世話になりました」
素直に頭を下げた俺に、からからと秋良は笑う。
「いいよ。許す」
「……で? わざわざ母さんを連れてきたのか?」
そう訊ねた俺に、けれど意外にも秋良は首を横へ振った。
「会ったのは本当に偶然だよ。まあ顔を知っているから声はかけたけどね。今日は、ぼくだって友達と来たんだよ?」
「あ、そうなのか?」
「そりゃあね。他校の文化祭に、ひとりで来るわけないだろう?」
秋良はそう言った。笑顔で。
ならそれは、いいことなのだろう、と思う。
「……そりゃよかったな。いいのかよ、別行動しちゃって」
「未那に心配されるほど落ちぶれてないよ。ちゃんとみんなには、知り合いの大人と会うと告げている。あとで合流するさ。――ほかのみんなは?」
そう訊ねた秋良に、これはさなかが答える。
「今は休憩中だね。わたしたちももう少しで終わるよ」
「そうか。ああ、もちろんふたりの邪魔はしないから安心してほしいな」
「そんな心配してないよっ!」
「じゃあ今のうちに叶たちの顔も見に行こうか。どこにいるか知ってるかい?」
「さあ……?」
俺は軽く肩を竦める。
「あいつのことだし、なんかしら見て回ってると思うぞ、ひとりで楽しく」
「そうか……それならスマホで連絡を取ってみよう」
軽く言うと、それから秋良は笑顔を作って。
「じゃあぼくは行くよ。さなかも、また」
「うん。今日は来てくれてありがとね、秋良!」
「――ああ」
ひらひらと手を振って、秋良も学校の喧騒に消えていく。
俺とさなかの休憩時間になるまでは、もうあと十分を切っていた。
――気がついたのはそのときだ。
人波を縫って、やけにつまらなそうな表情で歩いている少女。
その姿が、なぜか奇妙に俺の意識を強く奪った。
その子は、少し前にさなかが見かけた《見覚えがある気がする子》と、同じ服装をしていた。校舎側からこちらに歩いてくる、その表情が視界に入った。
――俺は、その顔を、知っていた。
そうだ、ちょうどさなかとふたりで出かけた、そのときに俺は彼女と会っている。
道を教えたことを覚えている。
確か秋良も、叶といっしょに彼女を見たはずだ。
それは夏休みの初め。
秋良がかんな荘を訪れて、さなかと隣の部屋に泊まり、
――そして叶が、自ら実家へと帰ってしまったとき。
あのとき叶を訪ねてきた少女。
叶が、その罪悪感から逃げ出さなくてはならなくなった発端。
――かつての、友利叶の、親友。
その彼女が再び今、こうしてこの学校にいる理由とは。
偶然か。たまたま来ただけか。あるいはほかの誰かを訪ねてきたのか。
――違う。
そうだ、さきほど秋良は言ったじゃないか。他校の文化祭にひとりでくるはずがない。いやないとは言わないが、なんの目的もなくたまたま姿を見せるはずがない。
叶がこの学校に通っていることを知っているのだから。
「――おーい!」
そのとき、遠くからこちらへ呼びかける声がした。
見れば勝司や此香たちが、休憩の交代にこちらへ向かってきている。その姿を確認すると同時に、ほとんど意識しないまま、俺はさなかにこう告げていた。
「……さなか、ごめん」
「え?」
「――俺ちょっと行くとこできた。あとで連絡するから、少し待ってて!」
「え、あ……ちょ、未那ぁ!?」
返事さえ待つことはできず。
気づけば俺は、無意識のうちに駆け出していた。
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