5-19『最後まで、気づくことができなかった。2』
店を出たあと、わたしは望と別れて教室に向かった。
自分がいつも過ごしている、一年一組の教室に。喫茶店を出たばかりで言うのもなんだけど、少し落ち着いて座れるところに行きたかったからだ。
ウチのクラスは特に教室での催しはしていないから、文化祭の喧騒からもちょっとだけ逃げられるはず。
幸運なことに一年一組の教室は無人だった。
誰かしらいるかもしれないとは思っていたから、これはラッキーだ。
きっと日頃の行いがいいためだろう、なんて。
「…………」
自分の席に腰を下ろしてスマートフォンを開く。
見てみると、新しく着信があったことを報せる通知が出ていた。
未那がわたしに電話を寄こしてきたらしい。学校にいる間は振動も切っているから気づかなかった。
……しかし。
「タイミングいいんだか悪いんだか……本当、どうしてこのバカは、こういうときばっか狙ったみたいに出てくるかな」
ただの偶然だ。どうせ大したことのない用事で掛けてきたに決まっている。
だけどあの弱運男は、こういうときばかり見計らったように現れるから始末が悪い。
今はまだ屋台で仕事中だろうから、まさかこの教室にまで戻ってくることはないと思うけれど。それも、未那ならばあり得る気がしてきて、笑えると同時にどこかが痛んだ。
今は正直、未那に会いたくない。未那の顔を見たくなかった。
いや、それは誤魔化しで、本当のところは違う。
会いたかった。
顔を見たかった。
なんでもいいから声を聞きたかった。
今抱えている不安や後悔が、きっとそれだけで、馬鹿みたいに軽くなるはずだって期待してしまう。
間の抜けた理屈で笑い飛ばしてもらえれば、わたしは救われてしまうのだ。
――それがわかっているから、今だけは、未那に会いたくない。
「あーあ。くっそぉ、ダメだなあ……好きだなあ」
だから頼れない。
彼を好きだと気づいてしまったからこそ近づけない。
友達のままでいられたらよかったのに――なんて最低の後悔を、未那に味わわせることだけはできなかった。
自分の気持ちを裏切っても、未那との約束は裏切れない。
――何ごともなかったかのように、未那を好きではなかった頃の自分へと戻ること。
わたしに課せられた、それは必須の条件だ。
未那を好きだと知られることは、わたしの裏切りに気づかせるということなのだ。そんなことは絶対にできなかった。
謝って自分だけ楽になったり、告白して流したりなんて不義理ができるはずもない。
――だから今、必要なものは時間と距離だった。
いつか時が経って、この気持ちが想い出に変わるまで。未那から決して離れずに、この恋心を昇華する。
そのためにこそ、今だけは距離を取りたかった。
でなければ。
「どうやって好きじゃなくなればいいのか、わかんないんだもんなあ……参っちゃうや」
わたしはとても弱いから。
秋良のような自信もなければ、さなかのように前へと踏み出す力もない。
せめて未那のように、弱さを知った上で歯を食い縛り、耐える強さがあればよかったのだけれど。
そのいずれもわたしは、持ってはいなかった。
隠しきろうという誓いさえ、ふとした拍子に崩れそうになってしまうのだ。ひとりでは抱えきれず、その重荷を未那にまで背負わせてしまいそうになる。そうならないためには時間が必要で、時間を稼ぐためには距離を取りたかった。
そのうちに想いが消えればいいのに。
それが無理でも、せめてこの軋むような胸の疼痛に慣れることさえできれば。
わたしは、元の偏屈な脇役哲学者に戻ることができるはず。《友利叶》をやれるはずだ。
そうでなければならなかった。
「……もう少し、上手くできると思ってたのに、な」
かぶりを振ることで気を取り直す。
あまり長くここにいるのは避けたかった。スマホに再び視線を落とし、さきほど届いたメールの文面を確認する。
やはり彼女は今、この学校に――文化祭に来ているらしい。
無視をするのは簡単だろう。だけどそれは逃げだ。脇役を気取るなら胸を張るべきで、無関係な雑事に気を取られないよう生きるなら、何を感じるべきでもない。
そうあるためにこそ、決着をつけなければならないはずだった。
あの子と、なんて話じゃない。
それを未だに抱えている過去の自分に、わたしは別れを告げるべきなのだ。
それくらいできずして、脇役も何もあった話ではなかった。
だからわたしは自分のため、まだ記憶している番号を、スマートフォンに入力する。
数度のコール音があった。それから、通話の繋がった音が聞こえる。
「――もしもし? 莉子?」
久々に、彼女の名前を口にした気がした。
――
かつてわたしが《親友》と呼んでいた少女の名前。
『そうだよ』
と、そう響いた声は硬く。
それがあの、内気で甘かった莉子の声だとは思えないほどに。
『ふぅん……そっちから掛けてきてくれるんだね? ちょっと意外だったなあ』
「……そりゃメールがあったし」
『わたしの電話番号なんて、もうとっくに消してるものだと思ってたけど』
「――――」
事実だ。別に彼女だけに限らず、多くの登録をわたしは電話帳から削除していた。
莉子だけは特別に、たまたま番号を記憶していたに過ぎないのだ。いや、たまたま、というのも違う話かもしれない。
「……何か用?」
『その言い方はないんじゃないの? 中学の親友が、わざわざ会いにきたのにさ』
「わたし、は……」
『あ、そっかそっか、ごめん。――親友だなんて思ってたのは、私のほうだけだったね? そりゃ叶は、私のことなんてどうでもいいんだもんね。うっかりしてたよ』
「そん、そんなことは……ないよ」
『だったら会いにきてよ』
莉子は言った。わたしは唾を飲み込む。
『どっかで会おうよ。話があるんだ――いいでしょ、それくらい?』
「……わかった」
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
わたしは何も悪くない。罪悪感なんて感じる必要はない。憶するな。
――そう教えてくれた男がいるはずだろう。
「じゃあ、……そう、だね。屋上とかでいいかな。あそこなら人がいないなら」
文化祭期間に限り解放される校舎の屋上。
だが、実は《解放されている》という事実を誰も知らないため穴場になっているのだ。行くのも面倒な場所だし、広い校舎だからそもそも行き方自体を知らない生徒も多い。
わたし自身、真矢さんから聞いていなければ知らなかっただろう。
しばらくしてから、莉子は答えた。
『わかった、じゃあそこで。今からでいい?』
「……それでいい。場所は――」
『それくらい調べればわかる。いいから、叶も……早く、来てよ』
通話が切断された。
最後の一瞬、どこか莉子の様子が妙だった気もするけれど。特に深く考えず、わたしはスマートフォンを制服のポケットへと仕舞った。
立ち上がると同時、そこで近づいてくる足音がした。
特に待ったわけでもなく、やがてがらりと開かれた扉から、クラスメイトの少女がひとり姿を見せた。
「あ、友利さん。休憩ですか?」
「小春」
名を呼んで、それから頷く。
「ん、そんなとこ。積極的にいろいろ巡ってるせいでちょっと疲れちゃってさー」
野中小春は小さく会釈を返して、教室の中に入ってくる。
「そうですか……私も合間に、少しずつ巡ってはいますけど。さすが友利さんですね」
「大変そうだね。でも繁盛してるらしいじゃん、屋台。小春のお陰だね?」
「いえいえ。企画したのは未那くんですよ」
「……、あはは! あいつ、引っ張るのはいいけど無計画でしょ、どうせ。そういうとこ小春が埋めてくれてるお陰だと思う」
「だと、嬉しいですね」
小春とは話すことが多い。彼女は温和で、けれどそいつは決して彼女が引っ込み思案だからではなく、あくまで線引きを誰より弁えているからに過ぎない。
そういう意味で真似のできない能力を持っているから、わたしは密かに尊敬していた。
そして。
そういう彼女だからこそ、今のわたしに違和感を持たれたくなかった。
「小春はどうしたの?」
「明日以降の予定表の調整とかですね。ちょっと机が欲しくなって、来てんです」
「なるほど。お疲れ様だねー」
「ありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げる小春。
本当に礼儀正しい子だ。同級生だというのに、こうも丁寧に話してくれる。
「友利さんは――」
「――あ、そうだそうだ」
顔を上げて何かを言いかけた小春を、わたしは予想していた通りに潰す。悪いとは思うけれど、彼女ならこれで誤魔化せる。
「わたし、さっきまで弟といっしょにいたんだけどさ」
何かを訊かれる前に先手を切ってしまえば。
「……弟さん、ですか?」
「うん。望っていうんだけど、あいつ、未那やさなかとも知り合いだからさ、来てるって教えてあげといてよ、ふたりに」
「あ、はい。またすぐ会うと思うので……それは構いませんが。友利さんから言わなくていいんですか?」
「わたしは忙しいからいいの。このあとも、まだまだ予定が詰まってるからね」
軽くひらひらと手を振って言った。
いくら小春でも、わたしの笑顔のその裏まで、何もないのにいちいち詮索できない。
いつもと変わりない《友利叶》ができているはずだった。
「そういえば、屋台のほうにほのか屋さんの皆さんがいらっしゃってると聞きましたよ」
「あ、そうなんだ? 時間あったら、あとで顔出しておこうかな。ありがと」
「……それと、未那くんのお母様もいらっしゃった、とかなんとか」
「えっ、ホントに? うわ、それはちょっと見たいな……」
迷う素振りだけを見せて。
いや、実際ちょっと本当に見てみたいと思うけれど。
「――ありがと、小春。それじゃ行くね、わたし」
「……はい」
頷いた小春に笑いかけて、わたしはそのまま教室を後にした。
上手くいったと思う。これでいい。いつも通りのわたしであれていると知れた。
階段を昇って、廊下を渡り、わたしは徐々にひと気のない方向へと向かう。
特別教室が並ぶ区画のいちばん端、普段は使う生徒すら少ない階段が、屋上までの唯一の経路。
少しだけ小春と話し込んだけれど、果たして莉子は来ているだろうか。
普段は使われない、軋むドアノブを回して扉を押し開いた。
少しだけ大きく音が響く。
果たして、すでに莉子は屋上で待ち構えていた。
ほかには人影がない。
本当に、なんというかもったいないことだと思う。学校の屋上というものには、特有の雰囲気があるように思えるからだ。
生憎、快晴とはいかない曇り空だけれど、ここから見ればそれなりの解放感だ。考え方次第だけど、晴れ渡って暑くなるより文化祭を回るには向いているかも。
「――遅かったね」
莉子はわたしにそう言った。
そちらを向いて、わたしは答える。
「そんなに時間はかかってないはずだけど」
「……あっそ」
つまらなそうに鼻を鳴らす莉子。
中学のとき、わたしは一度だってこんな事態を予想したことはなかった。
けれどこうなっては、もう――どうしようもないのだろう。
わたしは、莉子に向かってこう告げる。
「――それで、話って何かな?」
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