5-13『そのせいで、失ってしまったものの大切さに、1』

 思えば勘違いばかりの人生だった、と思う。

 自分は上手くやっていて、そりゃあ何もかも完璧だなんて言えないけれど、少なくとも目の届く範囲を見ている限りは、それなりに成功しているほうだろう――なんて。

 思い返せば烏滸がましくて、顔から火が出そうなほど傲慢な滑稽さにうずもれていた。


 わたしは何もわかっていなかった。

 今だってまだわかっていない。

 何もわかっていないことくらいはようやく理解できたけれど、それを指して無知の知だなんてテツガクを気取ることはできやしない。結局のところ勘違い続きなのは今をもってなお変わっていないのだから、それでどうして些細な進歩など誇れよう。

 ソクラテスやら孔子やらを引っ張り出す気はないのだ。わたしは無知で、それ以上に無恥だったから。


 本当に。恥知らずにも程がある。

 しかも恩知らずで、その上に身の程知らずとくれば笑えてくる。我知らずと訳知らずを空知らずに嘯きながらも、礼儀知らずに阿る世間知らずの公界くがい知らず。命知らずならいざ知らず、結局のところ思わず知らずに隣知らずと甘えるかわず

 溺れて死んで、初めて啼く。

 なんつって。


 まあ別にそんなものなのだろう、とは思う。行ったこともない大海の広さなど、知っていなくて当然だった。

 所詮、わたしは単なる高校生に過ぎない。一丁前のツラして苦悩を憂いてみようと、海を泳ぐ大きなサカナたちにはお笑い種。

 そんな時代もあったね、と、知った顔で語られるに過ぎないのだろう。だって、確かに彼らは知っているから。


 けれど。何も知らない井蛙には、その狭い世界が全てなのだ。

 いやはや本当に、だからこそ救いようがない。

 今が全てのわたしにとっちゃ、そいつはひき潰されそうなほど厄介な重荷なのだから。


 ――身の程知らずの恥知らずは、綺麗なものが欲しいと思った。


 わたしは恵まれている。それを目指せる、というだけで報われている。

 そいつは尊くて貴重で価値があり、どんなカタチをしているかもわからないけれど、素晴らしいものだということだけは決まっている――そんな幻想めいた理想。

 わたしはそれに手をかけた。

 それで充分なはずだった。

 過去の失敗も、現在いまの無知だって、未来への希望ってヤツが塗り替えてくれた。それが手に入るなら、まあ悪くはないさ、と気取っていられた。


 実際、わたしの哲学は上手くいっている。

 それは願いの範囲を限定し、いちばん欲しいモノを優先しようという感情論。

 最も強い願いは何か。

 それがわかっているのなら、それ以外をある程度、犠牲にしても構わない。


 そういう――つまりが優先順位の指定だった。

 それさえできていれば、あとはなんだっていいはずだった。

 だが、この期に及んでわたしは何ひとつできていなかったのだ。


 ――いや、できなくなったのだ。


 自らの最大幸福を求めるはずの脇役哲学が、今や何ひとつとして機能していない。

 失敗なんてしていないのに、わたしはその哲学を最大限に運用できているはずなのに、ああ、認めよう。


 わたしは今、、仕方がない。


 現状に満足できていない。

 それは違うのに。

 わたしは今の自分に胸を張るべきで、何も間違ったことはしていないはずで、その哲学に一切の綻びはないというのに――ふとした拍子に泣きそうになる。

 狂おしくなる。

 喚きたくなる。

 叫びたくなる。

 ここでないどこかへ逃げ出したくなる。

 痛みが胸を突き、胃の腑を抉り、焼き切らんばかりに頭を熱した。


 だけどそれを認めるわけにはいかないのだ。

 こんなもの幻痛に過ぎない。わたしは確かに望んでいたものを手に入れている。

 それをいちばんと定め、その通りに楽しく日々を生きている。

 ひとりでも平気だと気勢を上げ、脇役としての自分に胸を張って、他者を優先しない生き方を定めたはずだった。

 わたしは確かにそれができていて、ならば何も問題はないはずだ。

 はずだったのだ。


 ――それでこれだというのだから、わたしは結局、前提から勘違いしていたのだろう。


 自分の望みさえ理解できていなかった。意識を背けてしまっていた。

 愚かさもこうまで窮まればいっそ喜劇だ。


 だって、そうじゃないか。


 いちばん欲しいものを手に入れるために他者を切り捨てようとしたわたしが。

 けれど本当にいちばん欲しかったものは、それを共有できる誰かだというのだから。


 わたしは、それを――あの公園で未那に突きつけられてしまった。

 あいつは最初からわかっていた。自分が最も欲しいものを、未那は決して間違わない。

 なにせバカだから、足を踏み出すのを恐れたり、手を触れることを怖がるけれど。本当に目指すべき一番星の方向だけは――我喜屋未那は絶対に見失わない。


 それを教えてくれた。

 だからあいつにはわかったのだ。わたしがいちばん欲しがっていた言葉ものが。

 あいつにはそれがわたしよりわかっていて、だから、――わたしにそれをくれた。


 救われたと思った。

 救われないと思っていたのに。


 その時点で、ほかの全てを擲ってもいいというほどにわたしは報われてしまった。もう手に入らなくてもいいとさえ思ってしまった。

 たとえ手が届かずとも、それをいっしょに目指してくれる誰かがいるだけで、わたしは充分に恵まれきってしまったのだ。


 ――それだけならばよかったのに。

 そこで終わっていれば、わたしはきっとしあわせな女でいられた。

 けれど自分の願いの意味さえ理解できていなかった愚かなわたしは、無様にもその先を願ってしまった。


 未那のことが――好きになってしまった。


 それは違うのに。それでは届かないところを目指すと言ってくれた者に、わたしはこの世で最も醜い欲望を曝け出そうとした。わたしを救ってくれた恩人を、絶望の断崖へ背中から突き落とすのに等しい暴挙だ。

 強欲で業突く張りな、それは最低の裏切り行為。

 最も唾棄すべき愚者は結局、友利叶ただひとりだったということ。


 ならば、せめて隠し通さなければならない。

 きっと時間が解決してくれる。

 たとえそれまでに、あらゆる痛みで全身を斬り裂かれることになろうとも、裏切ってしまった想いを行動に変えないことで嘘にしてみせる。

 してみせなければ、ならない。

 一生涯だ。


 わたしは未那に一生、嘘をつき続けよう。


 体は傷つかない。

 どれほど心を痛めて出血しようと構いやしなかった。


 未那に貰った大切な全てを、きちんと返してあげなくちゃ。


 それだけは――せめてそれくらいは、たとえ死んでも成し遂げたいと本気で思う。

 それこそ心から本当に、笑い話のようだけど、命を対価にしたって構わないと考えている。


 未那の隣で笑い続けよう。

 友達として、いろんなところへ遊びにいこう。下らない言い合いを重ねよう。どうでもいい雑談で笑い合おう。いがみ合おう。喧嘩だってしよう。いっしょにバイトをしよう。珈琲の出来で競い合おう。会わない日でも覚えていよう。離れる日が来たとしても、また再会することを疑わずにいよう。

 いつか再び会った日には、

 それまでと何も変わりのないよう、

 お互いに、

 かつてのように、

 また笑おう。


 一生の友達でいよう。


 わたしは全力で未那への想いを殺すから。

 いつかこの痛みが風化して、想い出に昇華できるまで、罰として背負い続けるから。


 それが、わたしのしてあげられる、未那あなたへの全部だと思うから。


 少し時間はかかるかもしれない。

 なにせ、わたしという奴は心が弱い。顔を見るだけで楽しくなって、語りかけられる言葉に一喜一憂して、下らない掛け合いの時間が幸せで、隣に立っていられることほど嬉しいことは何もなく――その全てが、あまりに、痛い。


 だけど痛みならいつか慣れる。

 この痛みもきっと過去になる。


 そうすれば、また元の友利叶として振る舞えるはず。

 未那にも誰にも、一切の違和感を与えないようにいられるはずだから。それまで、ほんの少し、時間が欲しいだけ。


 最後にとっておきの想い出も貰っている。

 未那に誘われて、ああして文化祭を回ることができたのだから。嘘とはいえカップルのような扱いまでしてもらえた。絶対に、手に入らないはずの時間だった。

 さなかには少し申し訳ないけど、なにしろ断るわけにもいかなかったのだ。これだけは勘弁してほしい。


 一枚の写真を貰った。

 一貫部の先輩は最後までカップルだと勘違いしていたけれど、写真にはきっちり友達として映った。恋人同士で、まさか肩を組んでピースサインはないだろうから。

 その過去おもいでさえあれば大丈夫だ。

 報われている。これ以上ないほど恵まれている。

 そう、しっかり自覚している。

 あとは、わたしが未那に報いる番だと、きっちり認識できている。


 ――文化祭はいい機会だった。

 そもそもの脇役哲学の本分に立ち返ることができる。これをしっかり楽しんでいるうちに、意外にもさっさと忘れられるかもしれない。そうすればなんの問題もない。

 嘘をしっかり、嘘にできるのなら。

 それでよかったのだ。

 そう。



 ――わたしはこの期に及んでまだ何もわかっていなかった。



 甘えていた。世界の優しさを妄信していた。自分では何もせず、恵まれた環境に胡坐を掻いて過ごしていた。強欲な上、傲慢で、しかも怠惰だった。

 どうして気づかなかったのだろう。

 清算したと思い込んだ過去も、結局は今と地続きでしかないということに。

 まだわたしは、なんの罰を受けていなかったということに。


 過去が、追いかけてくるということに。


 わたしに過ちが突きつけられる。

 お前はあのときから何ひとつとして成長できていないのだと世界に示されてしまう。

 逃げ出したつもりで逃げ切ることさえできていなかったのだと思い知らされた。

 ほかでもない――それは、わたしが最も見たくない罪の形を取って。



「――――」



 こうして、断罪の時間は訪れた。

 けれど仕方のないことだ。


 無知が罪ならば――罪人が絞首台に送られるなど、当然でしかないのだから。

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