5-10『いつか望んだ奇跡だったから、1』

 ――人が自分を守ることを、ぼくは責められるべき悪徳だとは思わない。


 いつだっただろう。

 旧友――宮代みやしろ秋良あきらがそんなことを言ったのを俺は思い出していた。あいつの言葉は多くの場合、聞いたそのときより、あとになってから響くものだ。

 ときおり未来さえ見通しているのではないか、なんて。

 そんな錯覚さえ覚えるほどに。

 もちろんそれは単なる勘違いで、ただ秋良にとって俺がわかりやすすぎるというだけの話なのだろうが。


 ――教訓なんて大抵がパターンだからね。数さえ言っときゃ当たることもあるさ。


 本人はそんな風に嘯いていたことを覚えている。

 さておき、人間の自己防衛というものについて考えてみようと思う。


 俺たちは予防線を敷く生き物だ。

 なにせ世界というヤツは手に余るほど広く、だから見知った範囲内から逸脱することで傷つく可能性にはいつだって考慮が必要だ。ある程度の範囲内においてならば、ある程度まで担保された安心に浸かっていられる。

 もちろん確実とは言えないけれど、そんなものは身を守る理由にこそなれ、だから何も考えないなんて結論には結びつかないもの。

 人間が将来に予見できる一〇〇パーセントなんて、生物である以上はやがて必ず死ぬということ以外にないのだから。

 そして、そんな一〇〇パーセントは、けれど遥か未来だという仮定に基づいておおむねの場合、考慮されない。近い将来のほうが怖いからだ。


 俺は終わりを考えない。

 それが続くという前提の中で生きているから。


 だからこそ、俺たちは続けるためにこそ予防線を敷くのである。

 現状への認識が幸不幸どちらに寄っているかはともかく、現状は現状であるという時点でと安心できるからだ。

 これは判断ではなく、単なる感覚論でしかないけれど。


 ある程度、認識できている範囲の内部に留まり続ける。

 現状維持こそ自己防衛の根幹なのだ。

 ゆえに判断を下すならば、その範囲から逸脱することで、マイナスに傾くリスクを背負ってでも、よりプラスを目指すか否かという点。


 まあ要するに今、自分が立っている世界ばしょをゼロと置いたとき――そこにいる限り増減がないと仮定したとして――認識の範囲外にある何かを手に取ろうとするかどうか。

 そういう話だ。


 その何かがプラスなのかマイナスなのかは、手に取ってみるまでわからない。

 もちろん様々な方法で確度を上げることはできるだろうが、やはり絶対ということはあり得ない。


 各々、人によって様々な判断基準があることだろう。

 だが誰であれ、きっとこの《ゼロの範囲》というものは持っている。


 ――という風に俺は思っている、程度の話ではあるけれど。


 ならば主役理論とは。

 それはこの場合、どこまで範囲外に手を伸ばす試みができるかという挑戦の基準だ。

 ゼロエリア内の空間青春濃度を増やす、すなわちプラスの要素を範囲外から持ってくるという挑戦。ある程度の失敗に伴うマイナスを考慮に入れた上でなお、外側へ挑むこと。

 それが俺にとっての、主役理論なのだろう。


 もちろん完全はあり得ない。

 人間は未来に一〇〇パーセントを用意できない。少なくとも俺にはできない。


 現状維持は衰退だという言説がある。

 それはプラスとなった段階で、基準となる現在がゼロに均される、つまり水準が上がってしまい、それまでの現状には満足できなくなってしまう、という意味ではないだろうか。

 その是非はともかく、俺は主役理論に基づいて挑戦し続けることを選んだ。


 自ら張った予防線を破るために手を伸ばし続ける。

 未知の領域へ踏み出す一歩を迷わず足掻き続ける。


 それはいいだろう。

 絶対に幸せな未来を手に入れられるとか、それだけで人生の全てに成功できるなんて妄想は抱いていない。ただ、そういう方法を選んだというだけ。

 そこに迷いの余地はない。


 だから今回の場合、問題なのはその点ではなかった。


 手を伸ばすのもいい。足を踏み出すのもいい。

 では仮に、そうして触れんとした未知の領域が――他人の領域せかいだったらどうだろうか。

 自分ではない誰かの領分に、軽々しく手を触れていいものではない。土足で踏み入っていいはずがない。


 ――けれど決して、避け続けることだけが正解ではないのだとも俺は思う。

 避けては通れないこともあるのだとは思う。けれど――。


 では、どこまでが許される行いなのだろうか?

 本当に望むものが誰かの領域と重なってしまったとき、俺はいったいどうすればいい?

 その答えは、今もわからないままだった。



     ※



 文化祭が始まった。


 まず初日は金曜日から。この日は通例として一般参加や父兄参加は行われない。

 あくまで生徒たちだけの文化祭となる。

 俺たちクレープ屋台Aチーム(ちなみに赤垣此香のAが由来で、当の此香はそれを知らない)としては、一般参加の行われる土日を本番として焦点を当てている。よって金曜日中に完成形まで形を持ってくることを目標としているため――、


「実質、今日が本番って感じじゃない?」

「確かにそんな感じだっ!」


 調理室で忙しなく働くあおいとさなかの言葉は、おおむね正鵠を射ていただろう。


「どんなもん?」


 屋台と調理室との連絡役を仰せつかっている俺は、調理室のふたりにそう声をかけた。いくつかある調理台を十数のグループで分け合っているのだが、交渉により俺たちはいちばん窓際のエリアを貰っている。

 調理室は一階にあるため、これなら校庭から窓越しに声をかけられるからだ。現に今もそうしている。

 基本、外を回る屋台を使う以上、いちいち上靴に履き替えるのは骨だ。


「あー……言うてまあ今んとこ余裕かな。ストックが結構、間に合ってる感じ」


 と葵。さなかも、制服の上からエプロンを来た姿でそれに頷いた。


「明日はもうちょっと忙しくなりそうだけど、この分ならぜんぜん回りそうだよー」

「……なるほど」


 頷いたところでちょうど、調理室の廊下側入り口からちょこんと小春こはるが顔を見せた。


「一位を目指すことを考えれば、屋台にしたのは正解だったみたいですね」


 動き回れることが最大の利点だった。

 文化祭の各プログラムを把握しておくことで、そのときどきで最も人の集まるところにアタックをかけられる。回転数が追いつくなら客もどんどん増やせるわけだ。


「最悪、客から逃げ回ることもできるとか考えてたんだけど、苦労した甲斐はあったね」


 回転が間に合わなかった場合、売り数を減らすためにあえて人の少ないところへ逃げるという作戦。使わずに済んだのならよかった。


「そんなこと考えてたの、未那みな……」


 その言葉に、葵が呆れた顔で肩を竦めた。さなかは苦笑している。

 俺は軽く肩を竦めて。


「あらゆる事態を考慮していたと言ってほしいんだけど」

「未那って、初対面の印象と違って、実は根っこがかなりネガティヴだよね」

「……その言葉は刺さる」

「あっははっ!」

 軽く葵は笑って、それから。

「ま、結局は明日明後日の客足次第だけど、この分なら朝以外は調理場もひとりでよさそう。此香のほうがたぶん大変だと思うな」


 その言葉にさなかも頷いて。


「実際、こっちは仕込みだけだからねー。屋台はどうだった?」

「此香は……まあ、さすがとしか言えないなあ」


 手早く作業をこなす上、客受けも文句なし。

 多少、見た目に取っつきづらいところはあるものの、屋台を引いている力作業担当こと勝司が呼び込みに長けすぎている。もはや天職といった風情すらあった。

 その甲斐もあって、今や生徒たちの中でも、《外部から来たプロの職人が屋台でクレープ焼いている(しかも美少女)》と評判になっていた。

 つまり出し物については、およそ完璧に策が嵌まった形だ。


 ただ、もちろん誤算がなかったわけでもなく。


「役割分担だけはミスったよな……」

「ですね」

 俺の言葉に、小春が小さく頷いて。

「回りはするんですけど……みんな回せるのが自分のところだけですから。休憩がちゃんと取れないかもしれませんね」


 完璧すぎる今の形を崩すのが難しい、ということ。

 というか、単純に人数が少なすぎたかもだ。

 今いる七人で全てを回そうとすると、七人全員の手が空かなくなる。いや、ひとりふたりは空けられるのだが、役割をローテで回すことができない(女子が屋台を引くのは少し厳しいし、男子三人は屋台に立てない)。

 男子も仕込みくらいならギリ可能だが、屋台側に立つのはたぶん無理だ。

 製作に時間を取られすぎて、そちらまで手が回らなかった。


 というわけで結構、致命的っちゃ致命的な見逃しがあった、のだが。


「……応援要請はどんなもん?」

「みんな乗り気ですよ。一時間二時間なら手伝ってくれるって子、結構いました。調理場こっちでの仕込みならそんなに難しくありませんし、屋台むこうの売り子なら誰でもできるかと」


 小春と話し合い、朝から手伝いを探していたのだ。

 幸い、屋台製作の頃から顔を出していた奴が何人かいた。

 ちょっとの手間で噛めるならと、乗り気になるクラスメイトは探せばいる。


「男子にも手伝いやってもいいよって奴、何人か確保できたよ」

「さすが。やりますね、未那くん」

「……まあエサで釣ったからね。男子なんてそんなもんよ」

「エサ、ですか?」

 少し迷ってから、小春さん。

「ああ、クレープを無料で、とか言ったんですね……こっちでもそれは言っておきましょう」

「手伝ってくれる人には、うん、そうだね。それくらいはしよう」


 と俺は言ったが、実際にはエサの中身が違う。

 ちらともうふたりを窺うと、これは、おそらく葵は気がついている。

 これだから男子ってサイテーという目で、しらーっと俺を見つめてきたからだ。


「未那」

「……はい」

「あとで説教」

「……すんません」


 やり取りの意味がわからず、さなかと小春はきょとんと首を傾げている。

 武士の情けか、単に聞かせたくなかったのか、葵は特に説明をすることがなかった。


 ……まあ要するに俺は男子の手伝いを女子で釣ったのである。

 こう、まあ……ね? さなかにしろ葵にしろ小春にしろ、このクラスでも特に男子から人気の高いメンバーではある。

 おそらく葵は、女子でいちばんモテるだろう。加えて此香という外部から現れた、これもかわいい女子。接点を作れるとなれば傾く奴もいる。

 具体的に俺がかけた言葉はこうだ。


『いや結構、繁盛しそうな見込みでさ? 休憩時間があんま取れなさそうなんだ。その間だけでいいから変わってくんね? いやもちろん無理にとは言わねえけど(ここでガシッと肩を組み)、ところで話は変わるんだが、文化祭のあと打ち上げあるんだけど……お前も来るだろ?(笑顔)え、女子陣? もちろん全員呼んでるさ。……ここだけの話、たぶん此香はフリーだぜ(小声)。――な?(ニヤリ笑いながら背中をポン)』


 みんな喜んで協力を約束してくれました。

 いやあノリのいい連中ですね?


 俺とさなかが付き合っているという事実は大声では言っていないが、知っている奴なら知っている程度でもある。

 今回、声をかけた奴らは知っている側で、だからこそ協力すると言ってくれた模様。俺が手伝うと言えば、つまりは敵にならないからだ。

 まあ友達に友達を紹介するという程度の話だし、そもそも此香以外は全員知り合いなのだから、悪いことをしているわけではないけれど……ダシに使ったのも事実ではある。


「貸し一だからね」


 悟った上で条件をつけて隠してくれる辺り、葵も怒ってはいないらしい。

 俺は頷いた。


「もちろん」

「文化祭終わる前に取り立てるから」

「……お手柔らかに」


 そんなことまで話したところで、疑問をなかったことにした小春が小さく言った。


「ともあれ湯森ゆもりさん、交代の時間です。休憩いいですよ」


 小春の言葉に笑顔で頷き、さなかが言う。


「そっか、ありがと小春ちゃん! それじゃ葵、先に休んでくるね」

「行ってらー。なんか面白いもんあったらあとで教えて」

「あはは、りょうかーい。未那はどうするの?」


 その問いには俺ではなく小春が答えた。


「未那くんは、あと五分で宍戸くんと交代ですね。そろそろ向かったほうがいいですよ」

「あいよ、了解ー」


 次は力仕事。とはいえ移動していない間は暇っちゃ暇な役職でもある。


「昼にはローテーションで式くんが入りますので。それまでよろしくお願いします」

「おう、任された」


 言いながらLINEのグループを確認。屋台の現在地はこれで確認できる。


「と……今は校庭のほうか」

「あ、未那。それじゃそこまでいっしょに行こ?」


 エプロンを外しながら、窓越しにさなかが言う。

 一も二もなく、俺も頷いて言った。


「そんじゃ昇降口のとこで待ってるよ」

「ん、すぐ行くね!」


 とたとた調理室から駆け出していくさなかを見送ったところで、俺も向かうべく窓から離れる。

 と、その寸前に葵が言った。


「あ、未那!」

「ん? どした?」


 俺を呼び止めた葵は、けれど少しだけ迷ってから首を振って。


「ごめん、今じゃなくていいや。あとでLINEする」

「……おお? まあ、了解。ほんじゃな」

「ういうい。さなかをちゃんと楽しませるんだぞ?」

「わーってるよ」


 といっても、実際にふたりで巡れるのは明日以降になるだろうが。


 さて。

 確かに今のうちに、デートコースに当たりくらいはつけておくべきだろう。

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