5-05『少しずつ変化していく日常は、1』

 ――その記憶は、叶と話したコトの断片。


 いつだったかなんて覚えていない。出会ってたった半年だというのに、まるで十年来の友人みたいに気安い関係を築くことができたから。

 思い出として蓄積されていく、日常のわずかなひとかけらなんて、ことさら意識したりはしない。


 それでも、記憶おもいは確かに重ねられる。

 それは俺という人間の中に、ひとつの要素として溶け込んでいくものだ。吸い込まれては混ざり合い、やがては当たり前へと変わる。

 あのとき叶は、俺にこんなことを言った。


「未那はさ、変わることを怖いと思ったことってないの?」


 どんなきっかけだっただろうか。それさえとうに忘れてしまった。

 なんでもない雑談のひと欠片。こうして記憶として浮かび上がるまで、忘れたことさえ意識できないような、益体もない日常会話。

 言うなれば、呼吸や鼓動と同じモノ。


「なんだそりゃ。禅問答の類いか?」

「どうせなら哲学って言ってほしいとこだね。いや別に、正解なんて探してないけど」


 俺の下らない切り返しに、叶は下らない言葉を返してくれた。

 少し考えてみたのは、それが理由だろうか。要するに大した意味なんざない。


「……それは、変化が必ずしもいいものだとは限らない、みたいなニュアンスの話か?」

「ん……それでも、まあいいかな。解釈はとりあえず任せるよ」

「そうか。それなら、そうだな。ないとは、まあ……言えないんだろうな」


 俺も叶も、形は違えど、変わることを選んだ人間だ。

 現状に変革を望んだ。それは改善を――今より少し《いい》と思える目標地点に歩いていくことを選んだようなもの。

 現状に満足せず、さらに高い輝きへ手を伸ばすような。


 だけど。その旅が、必ずしも望んだ場所へ辿り着くものだなんて保証はない。

 一寸先は、どうしたって闇だ。

 光の強さに目が眩んで、思いもよらない奈落へと落ちてしまうかもわからない。

 歩き出せば穴にも落ちるが、その場に留まれば悪化はない。


 実際、少なくとも俺は失敗をした人間だ。

 次が必ず成功するなんて、そんな保証はどこにもなかった。


「だけど、それでも決めたからな。なんでも同じような話だろ、別に。やらずに後悔するよりは、やって後悔することを選んだとか――まあ、そういうような話だよ」

「……それでもし、本当に失敗したら……未那はそれに耐えられるの?」

「知らねえよ、そんなこと。わざわざ転ぶこと考えて歩く奴がどこにいるんだ。俺は基本的に楽天家でな、そもそも都合のいいことしか考えてないんだ」


 なんて、偉そうに言えた義理ではないけれど。

 これは結局のところ、そう答えたときの俺に失うものがなかったからに過ぎないのだ。

 いちばん大切だった友人を、かつての俺は守ることができなかった。


 ああ、だからなのか。

 それがどうして尾を引いていないのかと、おそらく叶は問うているのだろう。

 もちろん俺は、それを恐れているべきなのだ。

 失敗を、別離を、嫌悪を、恐れて然るべきだった。


「まあ、結局は自分のためだしな。今のところ、俺は失敗しても失くすものがない。こんだけ気楽だから、思う通りにやっていようって開き直れてるのかもしれない」

「……なるほどね。それは、道理なのかもしれないな」


 軽く答えた叶はもう、それ以上に問答を重ねようとしなかった。

 欲しかった答えを得ることができたからなのか、それとも言っていたように、初めから答えなんて期待していなかったからなのか。それは判然としないけれど。

 たまに、こうして、叶は何かを俺に問うのだ。

 そういうことのひとつとして、こういうことがあったという――これは、それだけの話だった。



     ※



 休日になって出かけた先は、いつも通りの駅前だ。

 ふたり揃って出発し、ふたりで電車に揺られ、ふたりで向かう。いつもいっしょにいるような気がする一方、示し合わせて行動することは実のところ滅多にない。

 だから、これはこれで新鮮な気分。


「どうしよっか? とりあえず、適当に歩こうかと思うんだけど」


 叶はそんな風に言った。

 らしいんだか、らしくないんだか……正直わからない。


 俺の知る《友利叶》とは高校に進学して以降の《友利叶》だ。それまでの、たとえば中学生だった頃の《友利叶》を俺は知らない。

 話には聞いているし、結局のところ根本の性格がそう変わったわけでもないだろう。

 ただ、同じ性格の同じ人間でも、同じ答えをいつも出すとは限らない。

 これはそういう話。俺が主役理論に則って行動するようになったからといって、以前の性格そのものが変わったわけではまったくないのだ。

 ならば――らしさとはいったい何を指す?


「いいんじゃないか? せっかく出てきたんだし、昼くらいは食べて帰りたいしな。何か見たいもんがあるんなら、付き合うけど」

「これといって特にはないよ。ま、でもせっかくだし付き合ってもらおっか」

「ふうん? てっきり、体よく荷物持ちにでもさせられるもんかと思ってたんだが」

「まさか。――デートだって言ったでしょ? なら、楽しく過ごして帰ろうよ」

「……付き合って早々、浮気を持ちかけられるとは思ってなかったぜ」


 こんな冗談が言える時点で、お互いデートだとは思っていないわけなのだが。

 結局、問題はその点に終始する。いや、問題など何もなく、ただ単に俺が引っかかっているだけなのだろう。

 恋愛感情などさらさらない友達であることを、あり続けることを俺たちは選んだ。

 そうあれることこそが、何物にも代えがたい奇跡であると知っていて、そして、望んだから。


「そんな危惧が必要なほどモテないもんねー」

「うるせえな。放っとけ!」

「――あっはは!」


 楽しそうに笑う叶。普段通り、というか、少なくとも落ち込んだり、何かに迷っている様子はそこに見られない。俺のほうが気にしすぎなのだろうか。

 ……かもしれない。

 結局、俺は叶との不思議な半同棲が、終わってしまうことが悲しいのだろう。どこかでまだ、どうにかして続けられないかと思っている。

 半端というか、要するに名残だ。


 ずっと友達であり続けよう、と。あの公園で誓った。


 だから別れたって問題はない。だけど一方、別れなくたってやはり問題ないと、少なくとも俺は思っている。

 だけどそれが、どうしたってできないことだとも、また理解していた。

 選んだのは俺だ。さなかと付き合うことを選んだというのは、叶との同棲を終わらせることを選んだのと同義だ。それがわかっていなかったなどと、言えるはずもないだろう。

 まあ結局は、時間の中に溶けて消えていく程度の――儚い未練でしかなかった。




 特に目的地を定めず、叶の気が赴くままに繁華街を闊歩する。

 冷房の効いた涼しい建物の中をゆっくりと歩き、ときどき目に留まった店に寄った。

 様々な商品がところ狭しと並ぶディスカウントストアで、おそらく買いはしないだろうアイディアグッズや、商品化理由のわからないジョークアイテムを冷やかして回る。

 それだけで、永久に時間を潰せそうだった。


「見てこれ。このクッション、ちょっとよくない?」


 叶がそんな風に言えば、


「んん……そうか? 別に悪いとは言わんけど、お前の趣味じゃないような」


 俺がそんな風に答える。


「わたし、クッションの趣味まで未那に割れてんのか……?」

「いや本当は知らんけど」

「なんじゃそりゃ」

「でもお前、大きめのに体ごと埋まるのが好きとか、どうせそんなだろ?」

「……意識したことなかったけど。でも、かもしれない。なんで?」

「いや、叶といえば怠惰の代名詞だし。そういう奴は人をダメにする系が好きと見た」

「うわウゼー。クッションにダメにされる前からダメな奴に言われたくねーんだけど」

「喧しいわ。……まあ俺が好きだから言ったところはあるけどさ」

「未那の好みじゃんか!」

「だったらどうせ大してズレねえだろ……その割に、これは小さいなって」

「そういうのに惹かれるときもある」

「ちなみに訊くが、どういうときだよ?」

「小さいほうが投げやすいだろ」

「なんなの。お前の中でクッションって武器にカテゴライズされてんの、バカなの?」

「ほら、こういうときだ。世の中には、飛び道具を使ってでも口を封じなくちゃならない奴がいるもんでね。大きいヤツより手頃に飛ばせる。しかも音が鳴るらしい」

「それ攻撃対象俺一択ですよね。確実に俺の話でしたよね。てか音の機能いらんでしょ」

「そだね」


 と、叶は呟き。

 手に持っていた薄水色の小さなクッションを、そのまま棚に戻した。


「……うん。こいつは確かにいらないね」

「……、……」

「さーて! ここも飽きたし、別んとこ移動しようぜー」

「あ、ああ……わかった」


 叶のあとを、少し遅れてついて行く。

 駅前の通りは賑やかだ。

 何かのフェアか祭りなのか、歩行者天国には出店が立ち並んでいた。太鼓でパフォーマンスをする集団もいて、ちょっとしたレジャー気分になる。

 そんな喧騒に負けないよう、少しだけ大きな声で叶は言った。


「西口のさ、あの電気屋の裏のところに、珈琲の店があるの知ってる?」

「あー……知ってる。だいぶ前にちらっとだけ見たんだけど。そういえばまだ入ったことなかったな。あっちのほうはあんま行かんし」

「あそこの豆はよかったぞー。買うなら結構オススメ。なんなら覗きに行ってみる?」

「ま、気が向いたらな」

「そっか。そしたらちょっと混んでるし、早めにお昼にしよっか?」

「腹が大丈夫なら俺はいいけど」

「朝早かったし、わたしは平気。それじゃ行こっか。お気に入りの喫茶店があるんだー」

「へえ……この近くか?」

「そ。すぐ着くよ。もしかしたら未那も知ってるかもだけど、知らないようなら、教えておいてあげよっかなー、って。感謝しろよ?」


 こちらを振り返った叶が、両手を腰の後ろに回し、悪戯っぽく微笑んだ。

 その表情に。

 俺は、思わず息を呑む。


「…………」

「ん、……どした未那? ヘンな顔してっけど」

「いや。……別になんでもない」


 叶に指摘され、俺は慌てて――その様子が伝わらないようにして――首を振る。

 しばし怪訝そうに叶はこちらを見ていたが、どうでもいいと思ったのだろう、すぐ前を向き再び歩き出した。


「こっちだよ。ちょっと手狭だけど、この時間ならまだ席も空いてるはず」

「そっか。……楽しみだな」

「うん。なんかね、聞いた話、宇川マスターの知り合いのお店らしいんだけど――」


 そんな風に話し始める叶の様子は――その背中は、普段のそれと変わりなく見える。

 けれど、さきほどはどこか違っていた。

 何が――どこが、だろう? 自分がいったい何を感じたのかわからない。

 こんなものは単なるイメージ、思い込み、どうでもいい錯覚の類いでしかないのかもしれない。

 言葉にできる違いなど何もなかったように思う。

 それでも俺は感じてしまったのだ。


 ――その笑顔が儚く、どこか遠く手の届かない場所に、消えてしまうのではないかと。

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