5-01『二学期がはじまり、ふたりは終わる1』

 ――問いとして。

 さて、朝とは爽快なるものか、否か。


 これを考えたとき、まあ俺としては正直、爽やかだとは言えない、という答えになってしまう。

 朝起きるということ、早起きするということは、つまりその時間に出かける予定があるということ。必要に駆られての行動など、往々にして快感とは無縁だろう。

 別段、人並み外れて朝に弱いとは言わないけれど。

 それでも、その日の予定を楽しみに思う心と、朝起きることそのものを厭う気持ちは矛盾するものではなかった。


「……ふう」


 しかし今日ばかりは話が違っていて。

 この日、九月一日。木曜日。

 長く短かった夏休みがとうとう終わりを迎え、名残惜しくも新学期が始まるこの日。


 普段より少しだけ早起きをした俺だったが、意外……と言っていいだろう、この時間にしては珍しくも、機嫌がいいという自覚があった。登校するのが楽しみで仕方ない。

 あんなにも楽しかった夏休みが、終わってしまったというにもかかわらずだ。

 身支度を整えながら、さてなぜだろう、と考えてみる。


「まあ、そりゃ……楽しかったからか」


 声に出して、思わず苦笑する。

 どうやら朝の気分というものは、《これから》よりも《これまで》に左右されるらしい。この夏休みに後悔がなかったからこそ、この先も楽しいと確信できているんだろう。


 最高の夏にしような!

 ってな感じの誓いは果たされたと言えるだろう。


 いやあ、主役理論、万歳。


 ……なんせね。

 なんせ、彼女がね……ふふ、できましたからね俺ね?

 この夏ね、いやあ決めちゃったよね俺ってばねー、フゥーってねフゥー! ね。


 これは浮かれるのも仕方がないと言えるのではないだろうか。

 あれ、我喜屋わきやくん、夏の間にちょっと印象変わった? なんつってね。なんか大人の余裕があるよねー、みたいなことを――言われないことはもうわかっている俺なのだが。

 妄想くらいは、それでも許してもらいたかった。


勝司まさしあおいも、祝福してくれるどころか『遅い』の総ツッコミだったもんなあ……」


 冷蔵庫から取り出した麦茶を、グラスに注ぎながら夏を回想する。

 新しいとは言えない、このかんな荘である。残暑なんてレベルを超越した外気温は室内まで余裕の貫通だ。夜の間に乾いた喉を、冷たいお茶で潤すだけで気持ちがいい。


 ――さなかと付き合い始めたからと言って、これといった大きな変化は訪れなかった。

 旅行から帰ってきたあと、そう何度も会えたわけですらないのだ。

 いや、もちろんデートくらいはしたけれど、逆を言えばそれくらい。いっそ勝司なんかには逆に呆れられたレベルだっだが、さなかにも家の都合がある。

 さすがに、遊び回りすぎだと怒られてしまったらしい。

 夏休み前まで含めて、俺が突き合わせすぎたという自覚はある。かなり申し訳ない気分になった俺だ。

 湯森家お母様こと遼子さんが《怒っている》という絵面も、なかなか想像しづらいが。


 ともあれ今日からは新学期。

 さなかや、懐かしいクラスメイトたちとも思い出話ができることだろう。


「……そろそろ起こすか」


 おおむね準備を終えたところで、手持ち無沙汰になって呟く。

 夏の間はご無沙汰だったが、学校のある期間中、奴を起こすのは基本的に俺の仕事だ。長期休暇を終え、再び職務に戻るとでも言ったところか。

 とうに見慣れた《おでん》の暖簾。

 そういえば、付き合い始めてからはまだ此香このかと顔を合わせていない。報告がてらというわけじゃないけれど、久々に話がしたかった。

 あの味も、また食べたくなった頃合いだ。


 暖簾を潜って、一〇三へ。

 布団の上で、友利ともりかなえが眠っている。

 あらかたの準備はしてあったのだろう、枕元に通学鞄が置かれ、壁際には制服も掛けてあった。自身の朝の弱さを見越した、叶らしい光景と言える。


 寝起きの姿の見るのも久々だ。

 撮影してやろう、という秘めた思惑は、そういえばまだ達成していなかったか。


「おーい、そろそろ起きろ。朝だぞ、叶さーん?」

「ん、……んん」


 もぞりと蠢く気配。意外にも寝相がいい。

 夏用の薄い毛布を引き上げるように、ごろりと寝返りを打った。


「ほら、さっさと起きんと遅刻しちまうぞ? メシの当番はお前だっただろー」

「うぁ……あ? 未那みな……なしてぇ……?」

「今日から学校だっての。ほら、さっさと起きろって」


 ぺしぺしと肩を叩いて呼ぶ。相変わらずの寝起きの悪さが、今や少しだけ懐かしい。

 お互い、このところ生活ペースがすれ違い気味で、メシどき以外は顔を合わせる機会も少なくなっている。

 もちろん、だからって別に何があるわけでも……いや。

 そいつは、さすがにおためごかしってヤツか。


 ――この生活の終わりというものを、どうしても意識してしまうのだと思う。


「にゃん……」


 やっぱりなんでか猫っぽい呻きを漏らしながら、ようやく叶が覚醒した。

 瞼を重そうに開く。

 と、ちょうど覗き込む形で見下ろす俺と、ばっちり視線が合った。


「……え。み、未那ぁ……!?」


 妙に驚いた様子の叶に、軽く片手を上げて。


「おう、未那だよ。おはよう」

「おはよ……なんで、その……こっちに?」

「起こしにきたに決まってんだろ、何言ってんだ。今日から学校だぞ」

「あ、う。そ、そっか。そだよね……」

「早く顔洗ってこい。遅刻すんぞ」

「……あ、あのさ、未那」

「なんだ?」

「えと……悪いんだけど、向こうの部屋に行っててくんない?」

「おま」


 せっかく起こしにきてやったってのに、そういうことを言いますかね?

 なんて思う一方、怒る気にはまったくならないんだから不思議だ。むしろそれでこそ、という気分にすらなってくる俺。

 だがどうも叶の言葉は、そういった意味合いでもないらしく。


「あ、や、違くて。その……あのね?」

「なんだよ」


 すっと、叶は顔の半分までを隠すように毛布を引き上げた。


「……わたし、その……顔とか、洗ってないし。寝起きだし……顔とか」

「は? ……え、は?」

「だから。見られんの……やだから。向こう、行ってて……欲しい」


 ――何を言っているんだろうか?


 率直にそう思った。こいつは俺の知っている友利叶だっただろうか、と。

 いや。もちろん言いたいことはわかる。

 だが、そういった俺の気遣いやデリカシーを、これまで無碍に払い続けていたのは、ほかでもない叶の側だったはずで。

 けれど確かに、よく見れば叶の耳元が、仄かに赤く染まっているのもまた事実。


「それに、わたし……あの、今、下着だし……暑くて、服、着てない、から」

「え。ぁえ、お、おう」

「……わかったら、向こう、行けし」

「あ、ああ。すまん……」

「……いいけど」


 なんだかものすごく微妙な空気になりながらも、俺は部屋を退散して自室に戻る。

 しばらく無言だった。

 やがて背中側から物音が聞こえ出してから、やっぱりそれを聞かないように努めるべく行動を再開する。

 いや、あんまりやることもないのだが。


 ……なんだってんだよ、ったく。


「くそ。あんなツラ、見せられるとは思わなかった……」


 もちろん寝起きの表情という意味ではない。

 こっちだって。

 たぶん、顔が赤くなっているんじゃないだろうか。

 なんだ、あの反応。これまで、俺にどんな格好を見られようと一度だって恥じらったことのない叶が。むしろ見せつけんばかりに堂々としていた、あの脇役哲学者が。

 あんな……あんな、乙女じみたリアクションをするなんて想像もしていなかった。


「っ――ああもう、調子狂うな、ったく……!」


 小声で文句を言いながら、自分の頬を数回叩いた。

 あれは……恥ずかしがっていた、ということなのだろうか。なんで急に。

 そのせいで、俺まで忘れていた恥じらいを思い出したような気分だ。罪悪感と反発心、それに少しの背徳的な喜びを足したみたいな心境になってくる。

 急にかわいげを見せてくるのはやめてもらいたい。


 ――ああもう。

 今日は、なんか、昨日までよりずっと暑い日なんじゃないのか?




 とはいえ。

 その後はこれといったことは特になく、普段通りに戻った。

 身支度を整えた叶は、今までとなんら変わりない《いつもの叶》で、俺もまたいつもの自分を取り戻すことができたように思う。

 朝食を食べて、いつものように先に出る。


 出しなに、ふと叶が背後から声をかけてきた。

 しいて言うなら、これだけがいつもと違うこと――だっただろうか。


「未那。……今週どっか暇あるかな? 週末とかさ」

「あ、なんだ急に? 別に時間は空けられると思うが、どしたよ」

「前から話してたじゃん。壁のコト。――そろそろどうにかしようと思ってさ」

「……わかった」


 靴を履いて、俺はかんな荘を後にする。

 外に出たところで、お馴染みの竹箒を装備した瑠璃さんに出会った。

 こういうときはいるお方だ。だから正直、会うんじゃないかと思っていたが、案の定と言えよう。

 いや、どう見たって箒で掃くべきゴミは見当たらないのだが。


「おはようございます、瑠璃さん」

「うん! おはようだね、未那くん。今日から新学期だ!」

「そうですね。久々の登校なんで楽しみです」


 太陽のような笑顔に照らされる。その温かさは、夏の日差しと違って心地のいいもの。

 当たり障りのない話でも、瑠璃さんと話すときはまるで宝石のように感じられた。人徳というかなんというか。尊敬できるお方だ。


「行ってらっしゃい。待ってるから、早く行ってあげなね?」


 そんなことを仰る瑠璃さん。

 俺は笑みで、


「行ってきます。……待ってるってなんですか?」


 訊ねた台詞の答えは、どこまでも明るく、同時に適当極まりなく。


「それはもう、それだよ! そこまで行けばわかるわかる~」

「何もわかりませんよ」


 とはいえ、それでもいっかー、と思わせるパワーがあるから瑠璃さんはズルい。

 苦笑しながら、手を振る瑠璃さんと別れた。

 いるようでいないけれど実はいる、みたいな瑠璃さん。

 出会えた日はいい日になる、というジンクスを俺の中で勝手に持っていた。会えること自体が、いいことだしね。


 学校に向けての道をゆっくりと歩く。

 さきほどの瑠璃さんの言葉。

 実のところその意味には想像がついていた。

 というよりは、期待していたと言うべきだろうか。


「やっぱり。……今日はいい日だ」


 それが正解であることを、確信して俺は小声で呟いた。

 道の先。曲がり角の手前のところで、制服を着た少女がこちらに手を振っている。

 瑠璃さんにも負けず劣らずの、花が咲くように可憐な満面の笑みで。


「おはようっ、未那!」

「おはよ、さなか」


 小走りでこちらに駆け寄ってきた湯森さなかと、軽く手を打ち合わせて笑った。

 さすがに、うん。

 今日は、どうやらパンはくわえていないご様子。


「待っててくれたんだ? 言ってくれてもよかったのに」


 そういった俺に、さなかは笑みでもって答える。


「ええ、ダメだよー。それだと、こう、偶然って感じがしなくなっちゃうじゃん」

「偶然って感じは今もうすでにゼロなんだけど大丈夫?」

「じゃあ大丈夫じゃないかな……うーん。ヒロインっぽさに欠けるね」

「そっか。俺はさなかがいつも通りで安心したよ」

「え、そう? ならよかっ……ちょっと待ってよかったの? 今のよくないのではっ」

「まあまあ、いっしょに行こうぜ」

「あ、うん……えっへへ」

「ちょろい」

「今なんとっ!?」

「ちょろいと」

「あ、はい。……そこちゃんと言っちゃうんだ……」

「訊くからじゃないの」


 笑ってしまう。ああ、楽しいなあ、と。

 俺の彼女はかわいいだろうと、全世界に向けて自慢したい気分だ。まあやらないけど。


 今さらのように報われた気がしているのは、きっとそれが理由なのだと自認する。

 自分で言うのもなんだけれど、俺は結構がんばってきたと思うのだ。

 それを口には出さないにしても、心の中で誇るくらいなら許してもらえると思っている。


 主役理論を構築して。

 それを、がんばって続けてきて。


 だからこれは、その努力で掴み取った成果なのだと、誰に憚ることなく胸を張れる。きっと秋良あきらだってそれは否定できないだろう。

 ならきっと、これから先、楽しいことだけが続くはず――。


「そいえば、叶ちゃんはまだお家?」


 と、そこでさなかにそう問われる。俺は頷いて、


「うん。出る時間ずらしてるってよりは、単に叶が寝起き弱いだけだけどさ」

「そっか……もしかしたら、いっしょに行けるかなって思ったんだけど」

「ふーん。さなかは、なんだかんだ叶と仲よくなったよね」

「ヤキモチ?」

「どこに対してなのさ、それ」

「あはは」


 そんな会話を繰り広げながら、ゆっくりと通学路を歩いた。




 ――二学期が始まる。

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