4-14『Q/これはラブコメですか6』
入浴後。風呂上がりの女子陣と合流し、部屋に集まって六人で遊んだ。
楽しいひとときだった。
きっと十年後、二十年後になっても、今日の日のことを思い出せるはずだ、と。
そんな根拠のない確信を抱けるほど、なんの衒いもない、ごく普通で、つまりが最高の青春。
もしかするとそれは、これまでの人生で最も楽しい瞬間だったのかもしれない。
これまで見過ごしてきたものに手を伸ばす。
自分がいちばん尊いと思う場所を目指して足を進める。
それをしてこなかった過去になかったものが、今、ここにはあった。
ならば俺は、自らを主役として認められる。
自分の人生という物語を、最大限に楽しんで生きている者――それが主役だ。
俺が、俺という主役の物語の観測者として、俺自身を認められている。
この場所には確かに、俺が望んでいて、けれど手に入れられなかったものが存在する。
最初に脱落したのは叶だった。
寝不足もあるし、いちばん温泉に長居したことで、ついに睡魔に敗北したらしい。
先日の買い出しで手に入れたカードゲームをやっている最中に、手札を取り落とすほどうつらうつらとしていた叶を、秋良が背負って部屋に戻した。
この時点で零時過ぎ。
とはいえ、ほかの面子はまだ元気に余力がある。
戻ってきた秋良も含めて宴会は続き、俺たちは二時過ぎまで下らない話を続けていた。ほかの部屋の迷惑にならない程度に静かに、けれども不足なく楽しく。
「さすがに寝ようか」
欠伸交じりに秋良が言った段階で、ようやく解散になる。
部屋を片づけ、それから俺は飲み物を買いに行くことにした。どこか気分のいい倦怠の余韻に、もう少し浸っていたかったのだ。
だからひとりになるために、一階のロビーまで降りて椅子に座った。
「……ふぅ」
と、百二十円の缶コーヒーのプルタブを開けて、ひと息をつく。
さすがにフロントも閉まっていて、辺りは小さな照明があるだけの仄暗さ。
静かで落ち着いた雰囲気に包まれながら、さきほどまでの騒がしさを思い出す。
「あー……楽しいなあ」
虚空に向けて独り言つ。
言いようのない達成感が、俺を包み込んでいた。
たぶん、これはひとつの集大成なのだ。
主役理論などという、自分でもわけのわからない理屈を振り翳して過ごしてきた五か月間、そのある種の成果がこの旅行だと言っていい。
これまで望めなかった、けれど欲しいと願っていた――そんな理想に手をかけた。
そして、本当に手に入れることができた。
誰に誇れるような成果も、目に見えるような財産も俺にはない。
だけど確かに価値あるものを、俺は、俺に対して誇れるのだ。
「……結構がんばったよな、俺」
今だけは、ほんの少しだけ、自分を褒めてやりたい気分だった。
その報酬が一本の缶コーヒーだけと思うと実に安いが、この程度で充分だろう。
欲しいものなら、もうちゃんと手に入れているのだから。自分へのご褒美、なんて必要ない。
ちびちびコーヒーを啜っていると、ふと階段のほうから物音が届いた。
それは足音で、どうやらこちらに降りてきている。
なんとなしにその方向を眺めていると、やがて仄かな明かりの下に、見覚えのある姿が現れた。
「……さなか?」
「あ、未那。やっぱり、ここにいると思ったよー」
わずかな苦笑を見せて近づいてくるさなか。なんだか呆れている風だ。
すたすた近づいてきた彼女に「で、何してるの?」と問われる。
「何ってこともないけど……まあ、休憩。さなかもなんか飲む?」
「そだね。じゃあ、未那と同じコーヒーにしよっかな」
「寝る前に飲んじゃって大丈夫か? 眠れなくなるかもよ」
「大丈夫でしょ。今日はさすがに結構疲れたし。だいたい未那も飲んでるじゃん」
「んー、俺はカフェインで眠れなくなったことないんだよな……っと」
ひょいと立ち上がって、すぐ傍にある自販機で同じコーヒーを購入。それをさなかに手渡した。
「奢りってことで」
「あ……うん。ありがと、未那。……隣、いい?」
「もちろん」
ふたりで並んで、休憩用の椅子に再び座る。
さっき似たようなことがあったなあ、なんて思いながら。
「で、どしたん?」
首を傾げて訊ねた俺に、さなかはプルタブを起こしながらこう答える。
「や、別に用があったわけじゃないんだけど。ただ未那、いきなりいなくなるからさ」
「ああ……もしかして探させちゃった?」
「ううん、そんなに」
さなかは首を振って、それからおかしそうに言う。
「『未那はアレで結構、単独行動好きだから。大方、人がいないほうに行ったんだろうさ』――って」
「……もしかして、今の秋良の真似?」
「どう、似てた?」
「そうだね。特徴掴んでたよ。……それで探してたんだ?」
「あははっ! 確かに未那って、意外とそういうとこあるよねって。結構、ひとりも好きじゃん? だからこうやって、ひとりでコーヒーでも飲んでるんじゃないかと思って」
「やってることまでバレてたのか……」
「未那って結構、無駄に格好つけるとこあるし」
「無駄……」
「誰かに見せるためじゃなくて、自分で楽しむために格好つけるでしょ、ひとりで」
「もう返す言葉がないよ」
そんなことを言い合って、それからふたりで思わず噴き出す。
まったく。どいつもこいつも、俺の生態を把握しすぎじゃないだろうか。
とはいえ別に、俺は単独行動がしたくて部屋を抜け出してきたわけではない。単純に、まだ眠ってしまうのがもったいないと思っただけだ。
今日という日を、少しでも長続きさせようという悪足掻き。その程度のことだった。
だから、こんな風に《今日》がまだ延びるなら、俺はもちろん大歓迎。
「…………」
と、さなかはそこで、恥ずかしそうに急に視線を切った。きゅっと肩を縮めたところを見るに、どうやら見つめ合っていることが耐え難くなったらしい。
俺の顔を見るのが嫌になったのではなく、照れただけだと信じたいところだが、さて。
「……なんか、話あった?」
「あはは……未那なら気づいちゃうか」
さなかは軽く頬を掻く。
浴衣姿。薄手の布がわずかに着崩れていて、肌の見える領域が少しだけ増している。
延びる素足が、なぜだろう、さなかが薄着であると強調している気がした。決して大胆ではないのに、どうしても胸元へ視線が吸い寄せられそうになる。
それをなんとか堪えてみても、今度は俯くさなかの首筋が、覗けるうなじが、気になって仕方がなかった。
風呂上がりの上気した肌や、ほんのわずかに濡れた髪を耐え切ったというのに。時間が経ったら経ったで、今度は別の部分にどきどきする。
……いや、浴衣って、すげえわ。
心臓が早鐘を打っていた。
意識を奪う全てを、なんとか頭の外に叩き出しながら、さなかの言葉を待つ。
「……んーとさ。さっき、葵たちとお風呂行ってたときなんだけど」
なのにここでお風呂の話かあ……などと言っていいタイミングではない。
脳裏をよぎる邪念よ、去れ。俺はやればできる男だ。そう、何もやるなよって意味。
「葵と、ちょっとだけ話、したんだ」
「……勝司のこと?」
「……まあ、そう。ていうか、未那は気づいてたの?」
葵が、おそらく勝司のことを好きなのだろう、という意味でならなんとなく。
俺は頷いて答えた。
「まあ、ね。それくらいは見てればわかるよ。意外と葵はわかりやすいし」
「…………………………………………」
「……さなか?」
「ん。……ごめん、なんでもない。ちょっとだいぶ釈然としなかったけど、関係ないし」
なんだか無言のまま睨まれてしまった気がするのだが。
さなかが関係ないと言うのだから、まあ関係ないのだろう。俺は続きを促す。
「それで? 訊いたってのは、さっきのこと?」
「……まあ、そうだね。別に告白しようと決めてたわけじゃないって言ってたけど、こういう機会だしね。それらしい話は、どこかでしようと思ってたんだって」
「旅行の機会なんてそうそうないだろうしね。アプローチくらいはするか、そりゃ……」
ほぼできていないに等しい自分を棚上げにして、訳知り顔で言う俺はダサかった。
ていうか正直、確信があったというほどでもないのだ。ただなんとなく、そうなんじゃないかと思っていただけ。
――だから、さきほどの状況に違和感があったわけで。
「どうだったの? ……勝司は、何も言わなかったけど」
ならば、それは俺が聞いてはならないことなのだろうか。
そうならさなかが言わないだろう。そう信じて、あえて訊ねた。
「あのときは、葵、何も話さなかったって言ってた。ただ雑談してただけって」
「そう、なんだ……?」
「うん……というか、正確には、勝司が何も言わせてくれなかった、かな」
「…………」
俺は。
高校でいちばん最初に仲よくなった、同性の友人のことを思い浮かべる。
勝司はいつだって笑っている。目立つ外見のくせして、そういう人物にありがちな柄の悪さや、周囲を威圧するような雰囲気が、勝司にはまったくなかった。立っているだけで比べるなら、勝司よりも俺のほうが、怖がられることは多いかもしれない。
奴は誰より、三枚目という言葉が似合う。
顔は二枚目なのに、振る舞いは道化。
思えば俺の知る限り、そういう人間はあまり多くない。いつだって人間は、その場での立場を考慮している。
自分をなるべく高く、上の立場だと思われるよう気を払っている。その傾向は、勝司のような人間のほうが強いはずだ。
それでも奴はいつだって場の空気を読んでいるし、いつだって笑顔を見せている。
「……勝司は、気づいてんのかな」
葵からの気持ちに。果たしてどうなのだろう。
気づいていてもおかしくない。いや、俺でも気がつくことに、勝司が気づかないほうがおかしいはずだ。
だとしても、本心を明かさないあいつの考えなど俺にはわからない。
「どう、だろうね。わかんないや」
さなかは言った。
「だからって別に責められないしね。わたしがとやかく言うことでもないだろうし」
「……そっか」
「ただ、葵はやっぱり、気づかれてて躱されてると思ったみたい」
吉永葵は、湯森さなかにとって親友だ。いちばん仲のいい友達だと聞いている。
だから、さなかなら葵に肩入れするだろうと俺は思っていた。
「さなかは、怒ったりしないんだ?」
「わたしが怒れるようなことじゃないじゃん」
「……それもそうだ」
さなかはそこで小さく笑った。
隣の俺に視線を向けて、彼女はまっすぐ言葉にする。
「わたしね、思うんだ。言葉にしてないことは、本当でも違うんだ、って」
「本当でも……違う?」
「うん。それが本当の気持ちでも、言葉にしていないことは、少なくとも本人以外のモノじゃないと思う。伝えられてない気持ちは、それが当人にとって本当のものでも、ほかの誰かが気にかけることじゃないんだよ。……それは、やっちゃいけないことだと思う」
誰かの内心を推し量ることは、酷く難易度の高いことだ。
間違う可能性のほうが高い。仮に当たっていても答え合わせなどできない。そもそも正解なんて、果たして存在するのかどうか。
「気持ちは、言葉にして伝えて初めて、自分じゃない誰かと分かち合えるものだよ」
その言葉に俺は目を見開いた。
それが確かに、ひとつの正解であるように思えたからだ。
「……言葉にして初めて、か。なるほどね……」
「あはは……そこまで偉そうに言えるほど、ちゃんと考えてるわけじゃないんだけど」
「いや。なんか納得したよ、いろいろ」
気持ちは、どこまでいっても自分だけのものだから。
それを誰かと共有したいなら、言葉にしなくちゃ始まらない。
理解してもらうのを待つとか、仲がいいから察せるだろうとか。そんな甘えは、きっと傲慢で、しかも怠惰だ。
さきほど、露天風呂で勝司が言っていたことを思い出していた。
これが勝司の言う、さなかのすごさなのだろう。
さなかは自分の気持ちを言葉にすることに、一切躊躇うことがない。伝えないまま嘘にしてしまうような下手を、彼女はきっと打たないのだ。
伝えて、初めて、分け合える。
誰かと気持ちを共有したいなら、それを自分から示すべきだと彼女は言っていた。
「……いや、勉強させていただきました」
仰々しく俺は頭を下げた。さなかは苦笑して、
「なーに、それ?」
「尊敬できるなって思ってさ。なんか、格好いいわ、さなか」
本心だった。
そうだ。俺はずっと彼女に憧れていた。
あの日――入学した最初の日。
主役理論を携えて、けれど果して自分にそれが全うできるのか。そんな不安を拭えずに怯えていた俺に、最初に明るい声をかけてくれた少女に。
きっと俺は――理想を重ねていたのだと思う。
「ふふん」
と、さなかは笑った。
「ようやく気づいたの? 遅いんじゃない?」
「本当は知ってたけどね。改めて、だよ」
「……へへへ」
俺の下らない褒め言葉でも、彼女は心から嬉しそうに破顔する。
その屈託ない笑顔が。衒いのない素直さが。
俺の憧れた、湯森さなかというヒロイン志望の女の子の、とても素敵なところだった。
それでも理想は理想だ。さなかにだって当然、弱いところはあった。
だけど、それを知ったからこそ俺は、より彼女に目を向けるようになったのだと思う。
自分と変わらない少女が、けれど自分の憧れるような輝きを確かに宿していたから。
気づけば、憧れは――それだけでは収まらなくなっていた。
コーヒーをひと口、喉を潤して。
「さて。しっかしどうしようね、明日は」
俺はことさら明るく言う。
あのふたりは、おそらく旅行中に険悪になるような真似をしないだろう。
どちらも過ぎるくらいに気を遣えるふたりだから。その心遣いに応えるには、こちらも何も気づかなかった振りをして、同じように旅行を楽しむこと。
「明日かあ。どうしようね?」
「ところで、何も予定がないならさ――さなか」
「うん?」
と首を傾げた少女に、俺は。
「明日、ちょっと旅館を抜け出して、ふたりでどっか遊びに行かない?」
さなかは、まっすぐにこっちを見ている。
透き通るようなその瞳に、吸い込まれてしまいそうな気がした。
「……それは、どうして?」
「うん。……ちょっと、さなかに言いたいことがあって」
「そっか。それならちょうどいいね」
――えへへ、といつもの緩い笑みを見せて。
さなかは言った。
「実はわたしも、未那に言いたいことがあったんだ」
はてさて、今日は眠れたものだろうか。そんなどうでもいい心配をしながら笑う。
「じゃ、そういうことで」
「うん。そういうことで」
交わした約束を、嘘にはしないようにと誓う。
――言葉にして伝えなければ、分かち合えないものがあるのだから。
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