4-12『Q/これはラブコメですか4』
旅館の中や周囲の散策が終わったあとは、ひとまず自由行動となった。
各自、好きなことをして夕食までの時間を潰す。俺と叶はさっそくのように、
「――行くぜ!」
「風呂の時間だあ――!」
叶さんもなかなかにハイでいい感じです。
温泉に突貫。あとから聞いた話、残る四人はしれっと部屋に集まってトランプで遊んでいたという。
こればかりは、しかし仕方がない。
俺は、温泉を、愛している。
七時の夕食まで、時間はたっぷりある。最初からフルスロットルで楽しみたいところ。
俺はひとり風呂へと飛び込んだ。
もちろん比喩であり、実際は静かにしていたことは言っておこう。
向かった先は、この旅館の大浴場。
身体を洗い、さっそく俺は湯船に身を沈める。
「……あああああああああああああああああああああああああああああ生き返るぅ……」
温泉とはすなわち、人類文化の極みである(断言)。
かあっと熱くなっていく身体。じわじわ染みるような感触。鼻腔を癒やす湯の香り――嗚呼、何もかもが素晴らしい。
この国に生まれてよかった。
生きていてよかった。
周囲の客層を見てみれば、さすがに俺たちほど若い人間はほとんどいない。家族連れで来た子どもくらいはいてもいいかもしれないが、まあ夏だしな。そんなものだろうか。
「……そういやこの旅館、結構いいとこっぽいしな」
秋良のお陰で宿泊費は無料だったが、そうでもなければなかなか泊まれないグレードのお宿と見受けられる。あいつには、どこかで改めてお礼をしないといけない。
……っていうか、よくこんな旅館に伝手があったものだ。
秋良は親の仕事で云々、と言っていた。だがさきほどの散策の最中、旅館の女将さんが秋良に声をかけているのを俺たちは目撃している。
「今回はありがとうございます。すみません、何度もお呼びいただいていたのに」
「いえいえ、気にしないで大丈夫ですよ。宮代さんにはお世話になっていますから。ぜひ楽しんでご滞在くださいね」
「ありがとうございます。ご厚意に甘えさせていただきます」
「……しかし、まあ秋良ちゃんも大きくなって。最後に会ったのはいつだったっけねえ」
「去年、会ったばかりじゃないですか。そんなに育っていませんよ」
大人相手にきちんと対応する秋良は見慣れたものだが、会話の内容が解せなすぎる。
どういう繋がりなんだろう。秋良の家はごく平凡な一般家庭のはずなんだが。
まあ、誰もにそれぞれの物語があるってことでいいのかもしれない。
秋良がはぐらかすことを、いちいち詮索するのは違う。それは、主役理論で肯定する部分じゃない。
「……ずぁー……あー。あー、気持ちいい……」
今はとにかく、この温泉を最大限に楽しむことを優先しよう。
大浴場から出たところで、ちょうど女湯から上がったところらしい叶と会った。俺より少し早く出てきたらしい。
自販機が、がこんと音を立てて商品を吐き出すところだった。
「お、未那。飲む?」
顔の横で牛乳の瓶を揺らし、浴衣姿の叶が笑った。
旅館に備えつけの見栄えしない浴衣。それでもことのほか似合っている。
「当然」
「言うと思った。やっぱ温泉ったら牛乳だよね」
小銭入れを取り出した叶が、百円を投入して牛乳を買った。
出てきた二本目を、「今日はおごり」と手渡してくれた。ありがたく受け取る。
手に取った瓶の蓋を取り、叶に向かって差し出す。
「乾杯」
「ん、乾杯」
かちん、と軽く瓶を当てて、それから腰に手を当てて一気に呷る。
やはり牛乳を温泉で飲むときの作法は、腰に手を当てることだと思うのだ。この作法を守らずして、温泉を最大限に楽しんだと言えるだろうか。いや言えない反語!
「……っはー!」
と叶。
こちらもまた女の子らしからぬ豪快さだが、こいつのそういうところは好きだ。
「しかしいい湯だったな。そう思うだろ?」
そのタイミングで俺は声をかけた。
瓶を返さないといけないから、飲み終わるまではこうして雑談でもしていよう。
「うん、最高だったよ」
火照った顔で答える叶。本当に楽しそうだった。
「だよなあ。温泉だけで余裕で一日潰せる気がする。てか潰せるわ実際」
「本当、いいよねえ。最高の贅沢だよ。秋良には感謝しないとなあ」
「あ、それなんだけどさ。あいつ旅行終わったら地元帰るっつってたし、なんか考えとかないとまずい。……なんかあるか?」
「んー、つってもねえ。こっちに引き留めるのもあれだし。順当になんか贈っとく?」
「その辺が妥当かね。あいつもまた……そうだな、次は文化祭とかでまたこっち来るとは思うし。急がなくてもそのときまでに考えておくってのでもアリか」
「まだ先だけどね。でも、そっか。夏が終わったら二学期かー。まさかこんな風に、温泉に来ることになるとは思ってなかったよ。しかもこの面子で」
「みんな、それ言うな。さっき勝司も同じこと言ってた」
「だってそうでしょ。――特に、わたし」
近くにある休憩用の長椅子に座り、その横を叶がぺしぺしと叩いた。
座れ、ということらしい。
仕方がない、奢ってもらったのだから、話くらい付き合って当然だろう。
叶の横に並ぶように腰を下ろした。
叶は髪を下ろしている。上気して、わずかに赤い頬が横顔に見えた。
風呂上がりなんだから当たり前だし、とっくに見慣れた姿のはず。
だけど、なんだか妙に落ち着かない。
「……本当、こんな風になるなんてなー。入学前は、まったく想像してなかった」
叶がわずかに身じろぎして、その左肘が俺の右腕に当たる。
少しだけの無言。それから頷いて、俺も同じような思いを吐露した。
「それは確かに、そうだな。入学式の当日から、予想外のことばっかりだよ、本当」
「あははっ。お互い様ってヤツだったね。先のことなんて、わからなくて普通なのかもしれないけど」
「だからってここまで想定外に運ぶとは思わねえよ」
「それもそうだ」
――何より予想外なのは。
俺は。叶は。
お互いに理想とするものがあって、そのために行動すると決めていた。
だというのに今、俺たちは想像すらしていなかった場所に位置している。それは、入学前の理想からは離れてしまったということだ。
それは本来、笑って話していいことじゃない。
にもかかわらず、なぜだろう。これでいいと思ってしまっている自分がいて。
そいつは、きっと叶だって同じだと思うから。
だから、こいつがいちばんの予想外。俺たちには見えているもの以上に、見えていないものが多かった。だから当時の俺たちでは、こんな状況は想像できなかったのだ。
――けれど、そいつは決して理想から遠ざかったという意味じゃない。
捨てたわけじゃない。諦めてもいない。
それでも今を肯定できるということは、それを正しいと認めたからだった。
要するに俺たちは、方針を変えずに方法だけを補正した。
「結果論、では……あるんだけどさ」
小さく呟く叶。俺はただ、黙ってその言葉を聞く。
「今は、それでも割と、これでよかったんじゃないかって思ってるんだ」
「……ならまあ、よかったんじゃねえの? 知らんけど」
「何それ。返事になってないじゃん」
くつくつと噛み殺すように叶は笑った。ずいぶん機嫌はよく見えた。
……なんだかやっぱり落ち着かない。
最近の叶は、妙に素直で対応に困ってしまうのだ。肩が触れ合うほどの距離の近さに、なぜだかどぎまぎしてしまう。湯上がりの姿なんて見慣れているはずなのに。
別に、何が変わったというわけではないはずだった。
今だって顔を見れば毒を吐き合うし、無理に合わせようとなんてしていない。そいつはあの約束があっても――いや、約束を交わしたからこそ変わらない部分のはずだから。
なのに、こいつと来たら。
「午前中も一回だけ言ったけどさ。改めて言っておくね」
「……なんだよ?」
「ありがと。いろいろと。そんでまあ、これからもよろしくね。……一応。そんだけ」
なんて、そんなことを言いやがるのだから始末に負えない。
俺は何も言えなくなってしまう。
そんな風に素直な叶を見ると、身体がむずむずする。
だから俺は何も答えず、叶もまた返事を待たない。
「――ほい。んじゃ、あとはよろしく。先戻ってるから」
「あ、おい!」
叶は開いた瓶を強引に俺に渡し、そのまま立ち上がってそそくさと去ってしまった。
しばしそれを見送ってから、俺も残りの牛乳に口をつけて、一気に飲み干す。
涼むために飲んだはずなのに、なぜだろう、むしろなんだか火照ってしまった気がしていた。
「ったく。言うだけ言って逃げやがって、あんにゃろ」
誰もいなくなった長椅子の上で、吐いた言葉はどこか負け惜しみじみていて。
とはいえ、いい機会なのかもしれない。
これもひとつの、たぶん、けじめなのだろう。
――だって俺たちは、手を伸ばすと、足を運ぶと決めたのだ。
かつての自分たちが本当に求めていた理想に。
それがなんなのかわからず、言葉にすることさえできず、ただがむしゃらに手を振り乱して駆けずり回っているだけでも。
ずっと、いつまでも、何があっても友達でいようと。
そう、ふたりで誓ったのだから――。
※
豪勢な夕食を終えたあと、俺はさなかとしばらく話をしていた。
旅館のお土産コーナーに付き合ってほしいと頼まれたのだ。断る理由などなかったし、宿泊費が浮いた分はお土産に回していいだろう。二つ返事で付き合った。
フロントの正面にあるお土産コーナー。
「うーん。何を買っていくか意外と迷っちゃうね」
「だね。渡す相手は決めてるんだけど……」
かんな荘の住人分と、それからほのか屋へのお土産。プラスで実家分を買って、余った予算で自分のお土産を買えばいいだろう。そう考えるとそこそこの量だ。
「旅行って、家族で行く以外だと、あとは修学旅行くらいしか経験ないからさ。こういうとき、どういうもの選べばいいのか迷っちゃうよ」
むむむ、と口許に手を当てて唸るさなか。
だが確かに。こういったことはあまり経験がなかった。
「修学旅行なんて家になんか買って帰るくらいしかやらんかったからな……ほら、お土産なんて渡す相手いなかったし。これまで」
「あははっ。未那らしいや」
自虐ネタがついにツッコミもなく流されるようになってしまった件はさておき。
考えてみれば俺は、自分の選んだものを誰かに渡す、という経験がほとんどなかった。
「思えば俺が誰かに何かをプレゼントするなんて、前にさなかにあげたペンが初めてかもしれない」
「それって、あの《初デート記念》のやつ? そうなんだ?」
ちょっと意外そうに、さなかは首を傾げていた。
望くんとさなかを引き連れて歩く、という今思えばなんだったの感が半端ないイベントのとき、付き合わせたお礼と謝罪を込めて、さなかにシャープペンシルを贈っていた。
名目は《初デート記念》ではあるが、実際はアレはデートではないだろう。
「秋良の誕生日とかで、何か贈ったりもしなかったの?」
「んー、どうかな。何か自腹で買って、ってことはなかったと思う」
そういう、なんというか物質的なものを欲しがるようなかわいげが秋良にはない。小学生の頃から性格的にはほとんど変わっていないと言っていいだろう、奴は。
付き合いは家族単位だったから、そういうイベントは基本的に纏められていた。
「そっか。てことは、わたしが未那の初めてなんだ。それは……ちょっと嬉しいな」
少しはにかむように呟くさなか。
だからどうしてこの子はそういうクリティカルなことを無自覚に言うんですかと。
「……使ってくれてる?」
ちょっと誤魔化すように俺は訊ねてみる。さなかは笑って。
「もちろん。仕舞っておくなんてもったいないじゃん」
「そっか。それならよかった」
「でも、学校に持っていくのももったいないからね。だから家で使ってるんだ」
「そんな高価なものでもないけどねー」
「贈り物は値段じゃないでしょ? あのときはありがとね、未那。それに、あのあとも。いろいろ」
なんだか今日は、やけにお礼を言われてしまう。俺はちょっと視線を逸らした。
妙に意識してしまうのは、やはりあの公園でのことがあったせい。思い返してみれば、確かにこのところは、いろいろなことがあった。目まぐるしい日常だった。
何もなかったこれまでの生活と比べれば、天地ほどの差があろう。
「そういえば未那には、何も返したことなかったっけ。貰ってばっかりじゃ悪いよね」
さなかが言う。
「返してもらうようなことがないからね。誕生日とかならともかく」
「未那って誕生日いつ?」
「俺? 俺は三月七日だよ。だから名前が《みな》なんだ」
そう告げると、なぜかさなかはきょとんとした顔で目を見開いた。
それからすぐに破顔一笑、心から愉快そうにさなかは笑う。
「あ、あははは……そうだったんだ! なんか、もう、笑っちゃうなあ……」
「……なんか面白かったかな、今の?」
「わたしもいっしょ」
と、さなかは言った。
「三月七日。だから《さなか》なんだよ」
「え? あ、じゃあ俺とさなか、誕生日いっしょだったんだ……?」
なるほど確かに、それは笑ってしまう事実だ。
「誕生日がいっしょだったり、幼馴染みだったってわかったり……本当、いろいろなこと見逃してたなあ、わたし。笑っちゃうよ、こんなの」
運命的というか、それとも劇的というべきか。
そんな事情がありながら、何ひとつ活きていないのだ。
俺という奴は本当に、もう。
「そしたらさ、未那。今年の誕生日はふたりでお祝いしようよ!」
「いいね。同じ日に生まれた同士、お互いにお祝いができれば楽しそうだ」
そうなればいい。心から俺はそう願った。
そのときに、たとえ今とは変わってしまうものがあるとしても。
「…………」いや。
そんな腑抜けたことを言っていられる時期は、いい加減もう終わりだろう。
このところ、俺はずっと考えていた。
自分が本当に欲しいものとは、いったいなんなのだろう、と。
その光景を目に浮かべる。
いつまでも怖がって、足踏みしているのは、やめにしよう。
「……あ。あそこ、葵たちがいるよ」
と、そこでさなかが言った。
指差す方向を見れば、確かに葵と勝司がお土産屋の隣の待合所に立っている。
「あれ、何してんだろ? なんか用があるとか葵が言ってたような……」
食事のあと、叶は再び温泉に向かった。秋良は女将さんと話をしてくると言っていたので、たぶん挨拶をしているのだろう。
勝司は葵に呼ばれて、どこかへ行っていたのだが。
「……ねえ」
と、さなかが言う。どこか声音を落とすように。
「なんか、様子がおかしくない、かな」
「……やっぱ、そう思う?」
俺もそれに頷いた。
ほとんど空いている椅子に座ることもなく、ただ立ったまま話すふたりの様子。
それは確かに、普段とは違う空気を纏っているように見えた。
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