4-06『見えないところで着々と2』

 ……戦略的撤退さえ叶わぬ中で、救いをもたらしてくれた天使はマスターだった。

 いや、単に食事を運んできてくれただけで、別にそんなつもりなかっただろうけれど。


 朝兼昼として注文したのはサンドイッチのセット。

 そういえば昨日の朝もサンドイッチだったっけ、などと今さらになって思い出したが、まあ味は段違いだ。


「ごゆっくりどうぞ」


 と微笑むマスター彰吾さん。年齢以上に渋い見た目なのだが、この人は常に笑顔だから威圧感がない。

 客商売だし当然かもしれなかったが、それでもさなかは、さきほど叫んでしまったことを思い出したのだろう、少し恐縮した様子だった。


「す、すみません。ありがとうございます……」

「まあ、美味しそう。頂きますね」


 悄然とするさなかと、その言葉の後ろに挟み込むように言った遼子お母様。

 もしかして、これは静かにするよう釘を差したのだろうか。

 割とお母様のせいと言っていいような展開だった気もするが、かといって騒いでいいわけでもない。

 マスターは気にした様子もなく、「それでは」と笑顔で下がっていった。常に格好いいなあ……。


 食事に移ったところで、ひとまず会話が終了された。

 さなかにとっても俺にとっても、ひとときの安息がもたらされたと言っていいだろう。

 いいのか?

 わかんないけど、まあいいとしておこう。


 じゃないと身が保たない。

 いや、身というよりはむしろ心が。


 友利さんといい、湯森さん(母)といい、身体の調子が治ったばかりなのに、どうして今度は精神のほうの調子を崩そうとしてくるのだろう。俺の対応限界を超えている。


 黙々と食事を進めた。

 ときおり「美味しいですね」「そうですね」といった、中身のない会話は繰り広げられたものの、もともとの話題に戻るようなことはない。

 というか正直、俺もさなかも気がそぞろだったのだと思う。


 一度だけ、さなかに「どうなってるのこれ?」と視線を向けてみた。

 さなかはそれに気づくと、「いや、どう考えても未那のせいでしょこれ」というような、じとっとした瞳で反論してきた。俺はそっと目を逸らした。

 するとさなかから、「あ……えへへへ」という、何か嬉しそうな声が聞こえてくる。

 今のくだりに、彼女が喜ぶような要素は何もなかったと思うのだが、どういうことだろう。

 まさか全責任を俺に預けられると知って、それで勝ったと思われたのか。いや、きっとそうに違いない。なんてことだ。

 さなかがどんどん叶や秋良に染められていると知って、後悔と責任を感じる俺だった。


 なんだか現実を認識することが嫌になってきて、食事を早々に終えた俺は、窓の外へと視線を向けた。失礼かもしれないが、もし遼子お母様と目が合ってさきほどの会話が再開されたらと思うと、ちょっと目線を向けられない。

 俺は、いかにも「うーむ、通りの様子が実に閑静で見応えある」感を装った。

 それ何も装えていないということでは。


 と、そんなときだ。駅の方面に続く側の道から、ひと組の男女が歩いてくる。

 それは、それだけなら別に気にするようなことではなかった。

 では何が引っかかったかといえば――そのふたり組は、揃ってサングラスを装着していたのである。

 片方は黒。顔の半分を覆うほど大きなサングラスだ。けれど服装は、深窓の令嬢を思わせるような白のワンピース。かなり不揃いだった。また頭には麦わら帽子を被っていて、その隙間から流れるような茶色の髪がまっすぐ下ろされている。

 なんというか避暑にやって来たお金持ちのお嬢様みたいな風情がある。それが事実なら確かに、表情を隠すような似合わないサングラスも、頷けなくはないかもしれない。


 もう一方は、たぶん男性。こちらは対照的に真っ黒なタキシードっぽい格好をしている。ずいぶん暑そうに思える傍ら、細身でスタイルがいいせいか、妙に似合っていた。

 短めに切り揃えられた金髪が、そう高くない身長に反した存在感を醸し出している。たぶん顔もイケメンなのだろうと思うと腹立たしいが……ただまあ、これ、なんて言うのかな。

 こちらもサングラスで顔を隠している。いるのだが、そのサングラスがまた恐ろしく似合っていない。

 というのも、それは《2002》という数字を象った、酷くけばけばしい一品だったのだ。たぶん十年以上前のなんかの記念品なのだろうが、えっこれ本当に使う人間とか実在したんですか、みたいな。そんな、妙な感心さえ抱かせるパワーがあった。


 まあ揃って、財閥のお嬢様とボディガード、ないし執事といった風情だろうか。

 仮装している感はなく、やけに似合っているのが驚きどころだろう。サングラスが違和感といえば違和感だが、それでも着こなしてみせている辺り、元がいいらしい。

 顔はほとんど見えなかったが、それでも美男美女の組み合わせであると思わせていた。


「……なんか、変な人がいるね……?」


 外の様子に気づいたらしい、さなかがそう言って首を傾げていた。

 さきほどの俺たちも、傍から見れば相当に変な人たちだったとは思う。が、まあ自分のことなど棚上げにしてしまえば済む話で、俺は「そうだね」と軽く頷いて笑った。


 ――そいつらは店に入ってきた。


 ちょっと驚く。まさかこのまま入店するとは思っていなかったから。


「いらっしゃいませ。二名様ですか?」


 マスターはさすがというべきか、目立つ風体の客に対してもそつがない。


「はい、ふたりです」


 答えたのは金髪のほうだ。


「席は、どこに座っても平気ですかね?」

「どうぞ。ご自由にお選びください」

「……では、そちらのテーブル席にします。どうも」


 金髪の対応もこなれた感じがする。

 ともすれば本当に、何か面白い背景を持ったふたり組なのかもしれない。どうしよう、俺の中にある主役の心が、声をかけてみたいという欲求を強く主張し始めていた。

 そんなことを考えていると、まさにその金髪が声をかけてきた。


「後ろ、失礼します」

「あ、はい。どうぞどうぞ」

「どうも」


 軽い会釈ののち、金髪の男が俺の後ろのテーブル席に座る。

 やけに決まった感じだったが、サングラスがクソダサいので若干ギャグじみている。


 しかし、男にしては声が高い気がした。

 もしかすると男装した女の子なのかもしれないと、ここに来て俺の勘がピーンと強く働いた。

 その辺り俺は敏感な男である。秋良といい叶といい、男っぽい格好をする女子ならこれでも見慣れているのだ。

 彼(彼女?)の声に聞き覚えがあるような気もしたが、こちらは勘違いだろう。


 ぜひ話しかけてみたい。

 みたいが、さすがに注文もしていないうちから声をかけては、相手の迷惑になってしまう。そうでなくとも、今はひとりでいるわけでもないのだ。

 俺は遼子お母様に視線を戻した。

 とりあえず、今は後ろのふたりは忘れることにしよう。


「――それで未那くん」


 まさに図ったようなタイミングで、お母様が再び俺の名を呼んだ。


「あ、はい。なんでしょう?」

「話は変わりますが、お母様はご健勝ですか?」

「母……ですか? ええまあ、ウチの母はいつだってだいたい元気ですけど」

「そうですか。それなら、ええ、とてもよいことですね」

「はあ……」


 なんだか質問の意図がよくわからない。

 同じ母としての問いなのか、それとも俺が覚えていないだけで当時は付き合いがあったということなのか。まあ、そんなところだろうとは思うが。

 結局、その意図を考えるよりも早く、遼子お母様に切り出されてしまう。


「それでは本題なのですが――」

「あ、はい。やっぱりお話があったんですよね、僕に」

「――未那くんは今、お付き合いしている女の子がいるのかしら?」


 手が震えて、サンドイッチとセットのコーヒーを危うくテーブルに零しかけた。

 体が揺れるのに任せて横を見ると、これが意外にも、さなかは狼狽えた様子もなく平然と今の問いを聞き流している。

 よもや話の対象が俺に移って安堵しているのかと思――ああいや、これ違うわ。


 よくよく見ると、さなかはもはや意識を失っていた。


 いや別に気絶しているとかではなくて。

 話を聞かないよう、全て聞き流せるよう、無の境地に至っていた。目の焦点をどこにも合わせず、虚空を眺めて心の平静を保っている。

 いずれにせよ結論として、もはや俺は見捨てられたということらしかった。


「あの。どうしてそんな質問を……」

「いえね。うちのさなかはどうかと思って」

「んんんんんんん」


 この人まで望くんみたいなこと言い出したんですけど、どういうことなんですか。

 あのときと同じ席取りだからって、言う内容まで同じじゃなくて大丈夫ですからね?

 なんなの。身内を推すの流行ってるの今? どういうことなの?

「心配なのよね、母として」


 お母様はあくまでマイペースでいらっしゃった。


「うちの子ってば、この歳になっても浮いた話のひとつもなくて。どうしてこう奥手なのかしら……」


 俺はさなかを見た。

 さなかはさきほどとまったく変わらぬ姿勢で、テーブルのカップを見つめている。

 ただ、その瞳は涙目で、顔は耳まで真っ赤になっていた。

 よかった、やっぱりさなかはさなかだったよ。ぜんぜん何も聞き流せてないよ、この子ってば。

 その一方、遼子お母様はもはや絶好調であらせられた。


「未那くんはやっぱり、女の子にも人気があるのでしょう?」

「ははは」


 俺は最高に爽やかなスマイルで。


「そんなことはありませんよ」


 めっちゃ謙遜で言いました風なテンションで、単に純然たる事実を述べさせられる男がそこにはいた。

 こんにちは、どうも、我喜屋未那と申します。

 つれえ。


「やっぱり、この歳にもなって恋人が一回もいないというのはどうかと思うの」

「――ぐふっ」


 なぜ俺にダメージが飛んでくるのですか?

 背後から、「ぶふっ!?」という失笑の音が飛んでくる。

 なんだ後ろの連中、なんでこのタイミングで笑ってんだオイ。まさか聞いてるんじゃねえだろうな?


「いえ、もちろん個人の自由だし、恋愛はひとりではできないことよ?」

「……あははそうですね」

「だけどやっぱり、好きな異性くらいはできるものでしょう?」

「かもしれないですねー……」

「でもさなかったら、今までそんな話、それこそ小学生のときの未那くんくらいで」

「……なんかすみませんでした……」


 つれえ。つれえよ、なんだよこれ恥ずかしすぎるよ……。

 何がいちばん恥ずかしいって、ちょっと喜んじゃってる自分がいちばん恥ずかしいよ、この状況……。

 あと後ろのふたりまた笑ったよね? これ完全に聞いてるよね?


「未那くんはさなかと、仲がいいって聞いたの」

「あ、ええと、はい。親しくさせていただいております」

「もちろんほかにお友達もいるけれど、付き合いが短くても長すぎても、やっぱり正確なお話って親は聞けないものなのね」

「……ええと?」

「だから、未那くんからなら、普段のさなかの様子が聞けると思って。この子、学校ではどうかしら? 人間関係とかいろいろあるでしょう?」

「……あー……」


 ようやく腑に落ちる俺だった。

 つまりお母様は、別に俺とさなかの関係を推そうとしたわけではないということ。

 さきほどの言葉はつまり、さなかには恋人とかできそうなのか? という単純な質問であり、それを俺が勝手に勘違いしただけらしい。


 誰ですか? お母様に認められたのかとちょっと舞い上がった馬鹿は?

 俺だね。


「そういうことですかー……」


 ようやく得心して呟いた俺に、背後から届くバンバンという音。

 おい金髪テメエ。何テーブル叩いてんだオイ。何笑ってんだってか何聞いてんだ。


 いい加減ちょっとイラっときて、俺は背後をそれとなく振り返ってみる。

 すると、まず奥側にいる茶髪の少女と目が合った。

 彼女は俺と目を合わせるなり、すっとすぐに視線を逸らした。

 照れたのか気まずかったのか知らないが、肩を縮めて焦る様子が、お嬢様らしくて結構かわいい。美少女っぽい。

 でもやっぱり聞いてたね?


 直後、もう一方の金髪がこちらに気づく。

 そいつは開き直った。にやり、と俺のことを見て口角を歪めたのだ。はあ何こいつ?

 さすがに睨み返してやろうかと思う俺。と、その直前、金髪はすっと2002メガネを片手で外した。

 そして、こちらに向けて横ピースを決めてきやがったのである。


 ……………………。


 あの。この顔めちゃくちゃ見覚えがあるんですけど。

 ていうか、待って。ちょっと待って、待って待って待って待って待って。


 ――いや何してんの秋良!?


「は――え?」


 呆然とする俺。

 え、こいつ秋良じゃん。見知らぬ男どころか見知った女じゃん。

 は、いや待って、わかんない。なんでいんの?

 なんで、何して……えっ、何その格好?

 変装? あ、じゃあ変装して覗きに来たっ、て、こと、です、か……これ?


 ということは目の前で目線を逸らした奴、これ、……叶じゃね?


「…………なっ!?」


 ようやく俺は全容に気づいた。

 まさかここまで込み入った変装してくるとは、さすがの俺も考えていなかったし、さすがの秋良も、いやそこまでするぅ!?


 恥ずかしい。いくらなんでもあまりに恥ずかしい。

 マスターならともかく、今の光景をこの世で最も見られたくない人間同着ツートップに見られたようなものだった。

 くそ、やりやがった。俺は咄嗟に前に向き直る。

 それはさなかに劣らぬほど真っ赤になった顔を見られたくない、という誤魔化しだ。


「どうかされました……?」


 不思議そうな様子のお母様に、そんなことを問われる。


「いえ……」


 そう答えるしかなかった。そしてもう、話を切り上げてしまいたかった。

 だがお母様はそれを許してくれない。どころかさらに続けて。


「それで、この子はどうかしら? 未那くんから見て」

「……えーと、ですね?」

「やっぱり男の子の目から見た評価もあるでしょう? うちの子はどうかしら」

「あ、いや、あの……すごく、魅力的な女の子だと思います」


 もういっそ殺してくれ。


「まあ」


 けれどお母様は顔を綻ばせる。


「聞いた、さなか? よかったわねえ」

「そんな恥ずかしい話、これ以上しないでよぅ……」

「でも、あなたが勝手について来たのよ?」


 この親、鬼か。


「……もういっそ殺して……」


 俺とおんなじことを考えているさなかだった。

 わかるよ。これ俺もつらい。


「初恋の男の子に褒めてもらえれば、それは嬉しいと思うの! 未那くんはお上手ね」


 ぜんぜんそんなんじゃないし、初恋の話を連呼しないでください。お願いします。

 俺は助けを求めるべくして、さなかの方向に視線を移す。助けてもらいたいし、さなかにも後ろで爆笑しているふたりの存在を教えてやらなければならない。

 ちょうどさなかも、同じくして俺のほうに視線を移した。無心作戦は諦めたらしい。


「……えっと」

「あ、えと……違うんだからね? あの、いや違わないんだけど……」

「ああ、うん……はい」

「あのあのっ、その、未那が初恋だったってだけで、それは、なんというか……うぅ」

「いやえと、うん。わかってる。わかってるよ。初恋だからね。今とは違うっていうことは、もちろん。重々、その、承知して、おりますので……」


 ……これどさくさ紛れに振られてない、俺?


 なんか、なんだろ……割とキツい。

 さなかは真っ赤になりながら、消え入りそうな声で言った。


「……そ、そうですよ? 未那は、初恋であって、二番目以降は、違うの、です」

「はい……」


 断言されてしまったんですが。

 なんかなー……なんかもう帰りたくなってきちゃったなあ……。

 笑われるわ振られるわ恥ずかしいわ、今日の運勢どうなっとん。


「――それで。さなかは、学校ではどうかしら?」


 完全に無敵状態のお母様。

 俺は、ここで考えることを放棄した。さなかに倣って、無我の境地を発動させる。


 ――あー、今日は天気がいいし、なんだか素敵な一日になりそうだなあ。あはは!

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