4-04『俺が知ってるのと違う4』

 翌朝。台所の窓から差し込む明かりと、漏れ聞こえる小鳥の囀りに目を覚ます。

 いつもと変わらない、それは慣れ親しんだ朝の光景のはずだった。

 けれどことさら意識される気分なのは、やはり風邪のせいで感覚が弱くなっていたからなのだろう。

 身体の調子はすっかり回復したようだ。

 我喜屋未那、復活。


「――――…………さて」


 寝起きいちばんで視界に入ってきたものは、とりあえず見なかったことにして、だ。


 代わりに時刻を見ると、すでに朝の十一時すぎ。朝というより、昼が近いか。

 念のため体温を測ってみると、表示は三十六度四分。熱も完全に治まったらしい。

 冷蔵庫からペットボトルを取り出し、水分を補給。買っておいてもらったものだ。

 秋良やさなかにも、すっかりとお世話になってしまった。

 もちろん、そして、叶にも。


「…………」


 俺は改めて、最初に無視したものへと視線を落とす。

 つまりが俺の布団の隣で、横になってすぅすぅ寝息を立てている少女に。


 叶は薄手の寝間着姿。季節も季節だし、ジャージは諦めた様子だ。

 寝落ちしたのか見張る気だったのか、自分の部屋ではなくこちらで眠っている。何やらずいぶん、大きな借りを作ってしまった気がした。

 ありがとう、と心でも告げておく。

 横向きになり、ちょっと丸まった感じの叶。本当に、こいつはいろいろ猫っぽい。

 このたとえでいくなら、さなかは間違いなく犬だろう。

 そして秋良は、まあ狐ってところか。


 昨夜の記憶を思い出しながら、眠る叶の横顔を眺めた。

 俺は人差し指を出し、叶の頬でも突いてやろうかと手を伸ばしてみる。

 けれど、いくらなんでも女の子の寝込みを襲うのも悪い。思い直して寸前でやめた。


 しかし――この点はさすが叶と褒めるべきだろうか。

 俺の悪戯心には、なにせ誰より敏感な奴だ。

 何かの気配を察知でもしたのか、音は立てなかったはずなのに、薄っすら目を開けてこちらを見た。


「……うにゃ?」


 何ごとか呟くが、意味は取れなかった。元来の寝起きの悪さもあって、呂律がまったく回っていない。

 そんな様子がおかしくて、思わず笑みが零れてしまう。


「……ん~……」


 さて、いったい何を考えているのだろうか。

 目の前まで出された俺の指を見た叶。

 彼女はそのまま、なぜか自分の指を突き出し。


「むあ」

「…………」


 よくわからないことを呟いて、俺の人差し指に自分の人差し指を当てた。

 なんか、古い映画にこんなシーンがあったなあ、なんて。

 第三種接近遭遇ですか。


「えへへへ……」


 それがご満悦だったらしく、叶はふにゃけた笑い声をあげた。


 ……くっそ。やめろよ、なんだこいつ。

 不覚にも、かわいいと思わされてしまったじゃないか。


 どうすることもできずに止まる俺。

 この場合、どちらが宇宙人なのだろう、なんて意味不明なこと考えてしまう辺り、早くも現実逃避が始まっている。と、


「――ひぇあ!?」


 直後、俺は情けない悲鳴を上げてしまった。

 寝惚けた叶が、俺の人差し指を片手できゅっと握り締めたのだ。


「か、叶? どうした?」


 訊いてはみるが答えはない。というか、なんか裏声になってしまった。

 あまり眠れていないのだろう、声をかけて起こしでもしない限り、この状態の叶はなかなか覚醒しない。けれど起こそうという踏ん切りもつかない。

 よって何もできない俺。

 そんなこちらのことなど当然、今の叶が斟酌するはずもなく。


 そのまま俺の手が引き寄せられていく。

 叶は俺の人差し指を握ったまま、それを自分の胸元まで持っていったのだ。

 まるで大切な人形を、抱き締めようとするみたいに。


「く、あぁ……っ」


 なんとか、胸に触れてしまうことだけは避けようと。

 肩も肘も手首も、指の付け根さえ強引に逸らして空間を作る俺。曲げすぎて指が痛い。

 努力の甲斐あって辛うじて接触だけは免れる。


 叶が貧乳で助かった。

 これがさなかならたぶん触ってしまっていただろう。

 さなかと叶じゃね、胸囲の、ね?

 格差が、うん。


「って痛い痛い痛い、握りが強い強い強い捻ってる捻ってる何ちょっともう痛い……!」


 またしても邪念が伝わったのか、握られている指を痛めつけられてしまった。

 しばらく呻いていると、満足したのか叶がまた笑う。


「……えへー……」


 ああ、もう、なんだよこれ。本当に。調子が狂うったらないぞ。

 握りが緩んだところで、俺は叶の手から逃れた。……まったくこいつは本当に。


「お前のほうこそ、もうちょっと俺のこと警戒しろってんだ……バカ」


 子どものように無防備な叶。それが俺に対する信頼というなら、もちろん素直に嬉しく思う。

 わたしはいつだってここにいるよ――叶はそう、態度で示してくれているのだ。

 だからこそ、その想いだけは裏切れない。

 彼女は今だって理想ゆめを見ている。


 俺は叶の部屋に向かい、彼女の毛布を持ち出して掛けてやる。

 今日くらい、ゆっくり寝かしておいてあげたかった。これでも感謝はしているのだ。


 顔を洗って着替えを済ませる。昨日は休んでしまったし、朝食がてら、ほのか屋に顔を出しておくのもいいだろう。そんな予定を立てて、俺は外出を決め込んだ。

 スマホと財布と鍵、ついでに処方された風邪薬を確認する。

 玄関で靴を履いて、部屋を出る直前に一度だけ後ろを振り返って。


「……行ってきます」


 そういえば、この言葉はあんまり使ったことがない気がした。




 外に出たところで人影を見つける。

 といっても複数人分の話し声は聞こえていたから、別に驚いたりはしない。

 部屋を出るのを急いだ理由のひとつが、表で聞こえる会話に交ざろうとしたからでもあった。


「あ、未那くん! おっはよう! 風邪は治ったのー?」


 こちらを見るなり笑顔で手を振ってくれたのは、管理人たる神名かんな瑠璃るりさん。


「おはようございます! お陰様で、ええ、すっかり完治しました」


 俺も笑顔で答えた。相変わらずの春のような朗らかさは、夏を迎えて最盛を迎えた模様である。

 瑠璃さんは太陽みたいな笑顔で、心からの笑顔を見せてくれた。


「それならよかった!」

「いえ、こちらこそお世話になって。本当にありがとうございました。……ところで」


 俺は瑠璃さんの隣に立つ、見知らぬ女性に視線を向けた。


 背の高い女性だ。一七〇はなさそうだったが、それでも俺と大差ない。

 ただ高い身長の割に、だいぶおっとりとした表情が伺える。頬に片手を当ててこちらを見ていた。

 年の頃は……うーん、いったいおいくつだろう。ものすごく若く見えるが、大人であることは間違いないと思う。外見というより、これは雰囲気の問題だった。


 まあどうあれ声をかけるという決定に揺らぎはない。

 年上の知り合いも欲しいよね。


「そちらの方は? 瑠璃さんのお友達ですか?」


 そうなら紹介してほしい、という意味合いで俺は訊ねる。

 ただ、これは当てが外れてしまって。


「あ、そうじゃないんだー」

「そうなんですか」


 となると、ほかの住人の知り合いだろうか。

 といってもかんな荘の二階に暮らすのは、怪しい無精髭の職業不詳こと松沼まつぬまのおっさんに、正体不明の陽気なゾンビこと雪丸ゆきまるさん。

 あのふたりは、なんか住んでる世界観が違う感じなので微妙に結びつかなかった。


 首を傾げて考える俺。

 していると、その女性から声をかけてくれた。


「……ええと。あなたは……」


 訊かれたからには答えるのが俺。訊かれてなくともなんなら答える俺だ。


「ああ、すみません。僕は我喜屋未那。雲雀高校の一年で、今年からそこの一〇二号室に住んでいます。初めまして」

「あら……あなたが我喜屋くん。なるほどなるほど」

「……えっと?」


 俺のことを知っているのだろうか。

 改めて、失礼にならない程度にその女性を観察してみる。

 そうすると、なんだか見覚えがあるような気になってくるが、これはなんというか、思考が釣られているだけか。


「ああ、ごめんなさい。名乗りもせず」


 と、そこで女性は言った。


「初めまして。湯森ゆもり遼子りょうこと申します。いつもうちのさなかがお世話になって……」


 ぺこり、と頭を下げる女性――湯森遼子さん。

 ということは、つまり、この方は。


「あっ、ああ――っ!! ちょ、ちょっと、なんで……お母さんっ!?」


 割って入るような叫び声。それは俺の後方、つまりかんな荘の建物側から響いた。

 一〇一号室の扉が開き、そこから出てきたさなかが叫んだのだ。帰ってきていたのか。


「あら、さなか」


 当たり前みたいに遼子さんは言う。


「ダメじゃないの、そんな大きな声で叫んだりしたら。住んでいる皆さんに迷惑だわ」

「え、あ、ごめんなさ……じゃなくて! な、なんでいるの!?」


 きっ! と睨むような視線。

 を――さなかは俺に向けた。


「……って俺!?」

「そ、そうだよっ! なんで未那がお母さんといるの!?」

「なんでって……家を出たらいらっしゃったからとしか答えようが……」

「そんなこと訊いてないよっ!」

「ごめんなさい……」


 何も悪いことをしていないはずなのに、勢いで謝らされてしまう俺だった。弱い。

 というか、さなかがついに叶並みの理不尽さを身に着けつつある。やめてほしかった。


 そして。そんな様子を全て見ていたはずの遼子さん――つまりさなかのお母様。

 道理で面影があったわけだ。髪と目が特に似ているし、気づいてもよかっただろう。

 お母様は変わらずにおっとりとした様子で、今し方の騒ぎなど気にしなかったみたいにこちらへ近づいてきた。

 なぜか俺の前に立ち、まじまじと顔を覗いてくる。


 ……ふむ。さなかの胸部装甲、アレは大したものだと知っていましたが、なるほど遺伝というわけですか……いや、そうじゃなくて。


「え、えっと……なんでしょうか?」

「懐かしいですね。ずいぶんと大きくなりました」


 こくこくと頷きながら遼子さんは言う。間が独特すぎた。


「あ、あれ……僕をご存知ですか?」

「ええ。さなかの小学生の頃のお友達ですもの。覚えていたんですよ」

「ありがとう、ございます……」


 押されるように答える俺。

 そうしている間に、こちらに近づいてきたさなかが後ろから俺の袖を引っ張った。


「うおっ」


 引っ張られて体勢を崩す俺。だがそんなこちらに構わず、さなかはほとんど俺の右腕を抱き締める形で、今は自分の母親を睨んでいる。

 ……あの当たってるんですが?

 今日は朝から強運ならぬ胸運だなあ、などと頭の奥底で馬鹿なことを考える俺だった。


 ……だってお母様の前で当たってるとか言えないじゃないですか……。


「で、なんでお母さんがいるの? 未那と何話したのっ!」


 自己を正当化して感触を味わう俺。その前で親子のやり取りが始まっていた。


「ずっと泊めていただいていると聞いたから、挨拶に来たのよ。当然でしょう?」

「それは……そうだけど。それなら未那と話さなくても……」

「心配しなくても取ったりしないわよ」

「わーわーわーっ! ななななな何を言っているんだだだい!?」

「だってあなた、いつもよく――」

「ぎゃ――っ!? や、もうやめっ、お黙りたまえっ! 余計なこと言わないでくれっ!!」

「でも、そんな風に引っ張ってくっついたりして。仲のいいお友達なのでしょう?」

「わぁんっ!!」


 犬みたいに鳴いて、さなかが俺を解放した。


「ご、ごごご、ごめん未那! え、えっと……違うんだよ!? この人の言うことは、気にしなくていいんだぜっ!?」


 耳を真っ赤にして言い繕うさなか。やっぱり親には弱いらしい。

 喋り方に若干の秋良っぽさが混じっているのは、なんだろう、この数日で悪影響に汚染されてしまったということだろうか。だとしたら割と、心の底から嫌なのだが。

 いずれにせよ、相変わらずさなかはリアクションが素直でかわいらしい。

 お母様には、ぜひともお礼を申し上げたいくらいだ。さなかをいい子に育て上げていただいている。


「……そうだ」


 そこで、ぽん、と手を叩いて遼子お母様が何か仰ろうとする。


「やめて! お願いだから変なこと言わないでっ!」


 止めに入るさなか。まあ、親と友達に関わってほしくないという気持ちはわかる。

 だが生憎と、さなかのお母様はそれで止まるような方ではないらしく。




「――ねえ、我喜屋くん。わたしと、デートに付き合ってくださいませんか?」




「本当に何言ってんの――っ!?」


 惑乱のさなかは、もはや涙目になって俺をぺしぺし叩いている。

 なんで俺?


「ダメだよ!? ダメだからねっ! 行かないでよ! 行かないよねっ!?」


 さなかの中から秋良が消えた。それほどの衝撃だったらしい。


「必死すぎでしょ……」

「だってダメだもん! これはダメだもん! 未那にお母さんは渡さないからっ!!」

「いったい何を、どこまで疑われてるんだろう、俺は……」


 まさか本気でお母様を狙うと思われているんじゃあるまいな。

 くいくいくいくい袖の裾を引っ張って、半泣きのさなかが俺を止める。もしこれで行くと言おうものなら、さなかが本気で怒ることは自明の理だった。

 とはいえ、だ。もちろん答えは決まっている。

 ほとんど即答で、俺は答えた。


「――喜んでお相手させていただきます!」

「あああああもう、もうっ、未那のばかぁ――っ!!」


 ぺしぺしがべしべしに進化して。さきほどより強く俺を叩くさなかだが。

 いや、こんな面白イベント、俺が断るわけないじゃないですか。

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