4-03『俺が知ってるのと違う3』

 夕食は秋良が拵えたものを、三人で食べた。

 秋良も叶に並んで料理は得意――厳密には叶のほうが上なのだろうが、正直そこまでわからない――だから、さなか的にはいろいろ思うところがあるらしい。

 いずれにせよ全員、俺よりはましだと思うのだが。


 その後、さなかと秋良は七時頃になって退散した。

 風邪なんてほとんど治ったも同然くらいには回復していたのだが、やはりその辺り信用されていないらしく、「ぶり返しても悪いから」と気遣ってくれたようだ。ありがたい。

 咳は二日目くらいからほとんど出なくなっていたし、部屋の掃除や換気もしたから、たぶん移すということはないはずだ。


 今日はふたりとも一〇一となりに泊まるのではなく、なんとさなかの家に秋良がお泊まりするという。

 なんかずるい。いや、風邪でなくとも泊まらせてくれとは言えないが。

 さなかも、さすがにそう何日も外に連泊できないと言っていたし、その辺りの事情説明要因として秋良が抜擢された、という事情もあるのだろう。

「任せてくれよっ☆」と笑顔で言う秋良が逆に不安だが、奴のあの外面ならなんとでもできるのだろう。こわい。


 暇になった俺は、しばらく布団の上で文庫本を読んでいたが、そのうちに眠っていた。

 ずっと寝ていた気分なのに、時間が空けばこんなもの。睡眠とは貯蓄ができるものではないらしく、そして俺も、体力まではまだ回復していなかったのだと思う。

 八時を回る頃には意識の電源が落ちていた。

 微睡みの中で、何か夢を見ているような感覚がある。

 ここではない遠くから、ここではない遠くを見るような、そんなあやふやな夢を。

 明晰夢、というわけではない。でもそれは確かに《夢》だった。

 現実とは違う、望んだ未来の理想ゆめを見ている。

 あるいは単に、俺が想像を働かせていただけなのかもしれない。


 多くの人間が笑っているところを俺は見ている。

 知っている人間も、知らない人間もいた。

 集団という概念を景色で見る感覚だった。

 俺は、それを外側から見ている。楽しそうなひとたちを、楽しそうに。


 ――未那は本当にこれでいいの?


 とかなんとか、そんなことをふと誰かに問われた。

 知っている声、だったと思う。

 だけど誰なのかわからない。大人にも子どもにも、男にも女にも思えた。すごく近しい誰かだという感覚だけが先行していて、個人を特定することができない。

 ただその誰かが、自分にとって親しい人間であることだけはわかっていたから。


「俺はこれでいいんだよ」


 と、そんなようなことを答えたらしい。

 その《俺》は本心を答えたが、それが俺の本心なのかはわからない。

 たとえるなら俺は自分自身の背後霊で、少し高い後ろから我喜屋未那を俯瞰するように見守っていた。


 ――これで、いいの? 本当に?


 その誰かが問う。再びの問いはきっと、俺を心配してくれているからだ。

 そう素直に信じたから、やっぱり俺も素直に答える。


「いいんだよ」


 ――仲間に入れなくても?


「入れていないわけじゃないだろ? ここにいたってみんなは見えてる」


 ――それならいいの?


「それならいいさ」


 ――どうして?


「だって、みんな楽しそうにしてるじゃないか。だから今、俺だって幸せなんだ」


 本心からの言葉なのだろう。《俺》は、誰もが本当に他人の不幸を祈る人間だとは思っていない。少なくとも、身の回りの人間の幸せくらい、誰もが当たり前に願っている。

 でなければ自分も楽しくないからだ。

 そこで俺は主役だった。だって俺はこんなにも楽しい気分でいる。

 だったら、そんな俺が主役でないはずがないじゃないか。

 そうだろう?


 ――そうかな?


「そうだよ。それとも、君は違うと思うのか?」


 ――それでいいならそれでいいよ。


「それでいいなら?」


 ――それでいいなら。それでよくないなら、よくないって思うだけ。


 だったら何も問題はないはずだ。今の自分を俺はこの上なく幸せだと思っている。

 物語の英雄みたいに、泣いている誰かを笑顔にしてあげられる存在にはなれなくても、笑っている友達をいつまでも笑わせていられるような、そんな人間にならなれる。


 そんな人間になりたいと、俺は、泣くこともできない誰かを見て誓ったのだから――。


 ――本当に?


 と。再び誰かが、俺に訊ねた。最初と同じ、その問いを。


 ――未那は本当にこれでいいの? これが未那の、望んだものだったの……?


 繰り返しのその問いに、答えなどもういらないだろう。

 だから俺は、そんな俺を気遣ってくれる誰かのことがむしろ気がかりで、こう言った。


「――ふご」


 ん……あれ? ふご? ふごってなんだ?

 俺は今、そんなことを言おうとしたのだろうか? いや違うはずなんだが……。


「…………?」


 目を開くと同時に意識が浮上した。あるいは意識が浮上したから目が開いたのか。

 いずれにせよ俺は目覚めた。それと同時に視界に入ったのは、人差し指。

 細く小さな指が、俺の顔の前まで伸びていた。そして、鼻をぎゅっと押していたのだ。


「あ、やっぱり起きた。おはよ」


 指の向こうには、こちらを覗き込む顔。薄く優しく微笑んだ、少女の表情。

 もう帰ってきていたのだろう。友利叶が座り込み、俺の鼻を指で突いていたのだ。

 その指がすっと離れたタイミングで、俺は叶に訊ねた。


「何してぶ、」

「んふっ。何それ、変な顔」

「……お前がさせてるんだろうが」


 今度は声を出した瞬間に頬をむにっと突かれていた。何がしたいんだ。

 俺の間抜け面が気に入りでもしたのか、そのままむにむに頬を突き続ける叶。


「意外と柔らかいほっぺしてるよね、未那って」

「……何が?」

「男のくせに肌きれい。むかつく。えい」

「おい。おいやめろ押すな、おい……なんなんだ、お前……」


 強烈な違和感があった。

 それは信号機の色の順番が違うような、通い慣れたコンビニの店名が一文字だけ微妙に変わっているような、そういう気づきにくくも確かな違和感。

 いったいなんだ。なんなんだこの叶の様子は。わけがわからない。


「あははは! 間抜けな顔だー」


 やけに上機嫌な叶は、俺で強制福笑いを楽しんでいる。

 おかしい。これでは俺が知ってる叶と違う。


「せっかく未那が弱ってるとこ見られる機会できたんだし。今のうちに復讐しないと」


 ……いやなんか違わないような気もしてきたが。

 わからん……なんなんだ、この、よくわからない謎の焦燥感は。


「それで?」

「うおっ?」


 怪訝に思っていると、ふと視界に影が落ちる。叶が横から乗り出してきたのだ。

 こちらをまっすぐ見下ろしながら、叶はわずかに髪をかき上げた。

 白く細い、女の子の首筋が視界に飛び込んでくる。こう近くで見ると、叶は結構ちっちゃい。


「具合はどう? 顔色はだいぶいいよね。一回剥がそっか」


 答える間も待たず、叶の腕が額に伸びてくる。

 そのまま彼女は、俺の額に貼られていた冷却シートをぺりっと剥がした。

 貼って眠った覚えがないから、もしかして帰ってきた叶が俺に貼ってくれた、のだろうか……?


 俺は違和感の理由に気づく。


 ――


 傍点を欠かせないレベルの衝撃だ。なんか嫌に優しい。逆に怪しいと言っていいレベルだろう。

 いったいこいつは何を企んでいるのかと疑う俺――だっ、


「ひょいっ!?」


 ぴたっと冷たいものが額に触れて、俺は思わず変な声を上げてしまう。

 いや。それだけなら別に驚くことじゃない。問題はその《冷たいものの》の正体だ。


「……どしたの、変な声出して」


 きょとんと首を傾げる叶。

 でもどうしたのって訊きたいのはこっち。


 ……あの、いきなり額に手を乗せるのやめてくれないかな……。


「んー……下がってるっぽいかな。よくわかんないけど」


 ひんやりとした掌。それが、なんだ。こう、妙に気持ちよくてむずむずする。

 何も言えないでいる俺。そこに叶は追撃を仕掛けてきた。

 前置きもない。突然、叶は自分の額を俺に額に当ててきたのだ。何これ頭突き!?


「……うん、やっぱり熱はないかな」


 顔が近い顔が近い顔が近い!

 息! 当たる! ひい、なんだこれ、やめてくれ! おかしくない!?


「これなら明日には治ってそうだね。よかった、大丈夫そう……」


 心から安堵した風に息をつき、叶の顔が離れていった。

 俺は逆に体調が悪化した気分になる。いくら風邪だからって、こんな……いや、思えばそれ以上っぽいこともしたような気がするけど!

 でも、なんか――いやなんだこれぇ!?


 完全に混乱の坩堝へと迷い込んだ俺。

 そんなこちらを見て、叶がふと不思議そうに訊ねてきた。


「あれ、未那? なんかさっきより顔赤くない?」


 誰のせいだと思ってんだ。


 答えないでいると、そこで叶が何かに思い至ったように「ははん?」と笑った。

 厭らしい、っていうか叶らしい笑みだった。


「あ、もしかして照れたの、未那?」

「うぐ……」


 ばれたか、と身を固くする俺に、叶は続けて言う。


「わたしに看病されるなんて、未那としては屈辱ってわけだ?」


 ばれてなかった。

 違えよ。ぜんぜん違えよ、そうじゃねえよ。


 でもまあ、話をそれで通したほうが都合がいい。俺は流れに乗ることにする。

 けれど続けて叶が発した言葉は、俺にとってさらなる驚きだった。


「大丈夫、気にしなくていいよ。こんなの貸し借りとかじゃないでしょ? 看病くらいはわたしにさせてよ。わたしのせいもあるし、それに……友達でしょ」

「――――…………はぇ?」

「何、そのリアクション。ちょっと傷つくんだけど」


 むっ、と唇を尖らせる叶が、俺にはもはや別人に見えて仕方がない。

 けれど叶は言うのだ。こんなことは、当たり前のことでしかないとばかりに。


「言ったじゃん、ほら……あのとき公園で。だったらこれくらい当然だよ。わたしはこれでも、友達には結構優しいんだぜ?」

「……それで、これ……?」

「んー、まあ今までが今までだったし疑うのもわかるけど。……未那にはもう、ああいう風に肩肘張ったりしないって、決めたから」


 ちょこんと俺の隣に座る叶は、そう言って少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。

 女の子座り、というのだろうか。両手を前にして体重を預け、こちらを覗き込んでいる叶の表情が見えている。

 気負いなく自然で、思わず――見惚れてしまいかねないような。


「だから、いいの。気にしないでよ。これはわたしが、やりたくてやってることだから」

「…………おう」

「ならよし! それより未那、なんかわたしにやってもらいたいことない?」


 熱がぶり返しているんじゃないかと思った。

 顔から火が出そうだ。

 やりにくい。叶の笑みを、なぜか直視できない。


「なんでもするよ?」


 当たり前みたいに叶は言う。邪気の欠片もない。

 せめてもの反抗として、俺はこんな風に忠告してみる。


「……そういうこと安易に言わんほうがいいぞ」

「え、なんで?」


 だが通じなかった。


「別にいいよ、だって未那だし」


 もういいわかった俺の負けだ。

 だから助けてくれ。

 こんな素直な叶は俺にとって毒でしかない。


「……いいよ、大丈夫。ありがとな」


 そう答えるしかなかった。これ以上、叶の顔を直視していられない。

 だが言われた側は、何もしなくていいと言われたことがどうにも不満らしく。


「そう? ないなら、まあ、いいんだけど……」


 なんだか、しゅんと肩を下げていた。濡れた仔猫か何かのように。

 あああああもうなんで!? なんで悲しそうなんだよ!? ふざけんなよ!!


「……あ、えと……じゃあ、なんだ。夜食とか――あ、そういや今は何時だ?」

「今もう二時半だね」

「…………」


 そんな時間まで。

 起きて、俺を診ていてくれたっていうんですか、このひとは。


 ……やばい。どうしよう……嬉しい。


 くそ、なんだか頭がくらくらしてきた。

 風邪か? 風邪だな、風邪だ畜生。タチの悪い病気としか思えない。

 なんだよ、もう。


「んふふふ」

「……何笑ってんの?」

「なーんでも?」


 あかん。

 これ以上そんな風に嬉しそうに笑わないで。


「それじゃ、ご飯作ってきたげるよ。ちょっと待っててね」


 そう言って叶はとたとた隣へと出て行った。

 姿が見えなくなったことに、俺は心から安堵の吐息をつく。心臓がすごく痛かった。


 ――たぶん、思い出してしまったのだと思う。

 いや、忘れていたわけじゃない。ただ認識しようとしていなかっただけの事実を。


 初めて叶の姿を見たとき。入学式の朝、あの教室で、窓際に腰を下ろして風を背にしていた少女を見たとき――いったい俺が何を考えていたのかということを。

 そうだ。俺はあのとき何も考えていなかった。思考する機能を吹き飛ばされたのだ。


 それほどに――俺は、友利叶にのだから。


 叶が、本当はすごくかわいらしい女の子だということを、これまでずっと俺は考えないようにしてきた。

 いや、それでも叶は叶だと、俺は認めているはずだから。


「……」


 オーケー、落ち着いてきた。今さら気にすることじゃない。

 叶がめちゃくちゃかわいいことくらい知っている。その上で俺は叶とふたりで、理想を目指すと決めているのだ。かわいかろうがかわいくなかろうが、そんなこと関係ない。

 それは考えてはいけないことだ。叶が男でも女でも、同じ関係を築きたいと願うなら。

 叶だって、それがわかっているからこうなったのだと思う。

 別に風邪を引いたことは関係ない。単に叶が、理想へ足を運び始めたというだけだ。

 それなら俺はこれを受け入れ、これまで通りに過ごしていればいい。


 ただ、まあ、なんだ。

 それでも一応、この驚きは言葉にしておきたいと思う。今世紀で最大級の驚きだ。傍点つきで、きっちり理解しておかなければなるまい。

 すなわち、




 ――

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