4-01『俺が知ってるのと違う1』

 風邪を引いた。

 それはもう見事に拗らせた。


 朝一でかかった医者から「長引くならまた来てね」なんて不穏なフラグを頂戴し、大事な八月の冒頭を、布団で過ごす羽目に陥る。もしかして頭を拗らせているから、風邪まで拗れるんじゃないか――なんて。

 白く霞がかった脳みそは、あまりにも間抜けな思考へと流れていた。体といっしょに心まで弱っている。


 何が悪かったかといえば、雨の中を何時間も自転車で飛ばしていたことだろう。

 だろうっていうか、もう断定していいですよね。それ以外ないよね。バカなのかな。


 叶の実家へ寄った帰りだった。予報通り降り出した夏の雨を全身で浴びながら、我が家ことかんな荘までノンストップで走ってきたのである。

 俺もちょっとテンション上がっていたというか、せめて雨宿りするくらいの知能があればダウンは免れたはずなのに。

 つまりバカなのだな(断定)。

 前日からの疲労や睡眠不足も祟ったらしい。自分の健康を過信しすぎた。


 帰ってきた日の夜にぶっ倒れ、朝になって病院へ行った。

 かかるのが初めてだったから診察券もなく手間取ったが、なんとか生還して丸一日休息を取る。その翌日が今だ。


「……何してんのかなあ、俺」


 薄い毛布に包まりながら小さく呟いた。寝すぎて眠い、を通り越してもう寝られない。

 まあ、最初よりはだいぶ良くなった気がするけれど。熱も下がり始めたし、頭痛や関節痛も治まりつつある。

 あとは咳だが、これもだいぶ落ち着いたと言っていいだろう。


「本当に。何やってるかな、まったく」

「んあ……?」


 声。それがさきほどの呟きに対する返事だと気づくまで、少しばかりの時間を要した。

 布団から顔を上げると、そこには見慣れた同居人――友利ともりかなえの姿。


「あれ、叶……? なんで扉から?」


 部屋への出入りなら、叶は自室である一〇三を経由する。それがなぜ珍しくも一〇二の扉から入ってきたのかと問うと、彼女は軽く肩を竦めて背中の側に視線を流した。


「お見舞い連れてきたよ。といっても隣からだけど」

「お見舞い……?」

「いいから寝てなって。……ああ、うん、未那は起きてた。入って」


 後半は後ろに向かって告げる叶。

 そちらから、ひとりの少女が顔を覗かせた。


「おはよー、未那。まだつらそうだね」

「ああ……うん。いや、一日寝てたしそこまででもない」

「そんなこと言って油断しちゃダメだよ? まあでも昨日よりはしっかりしてるね」


 そう言って笑顔を見せたのは、クラスメイトの湯森ゆもりさなか。

 今、彼女は叶と逆側の隣室――一〇一号室に宿泊している。叶の言葉はそういう意味だったか。

 頭が回っていないことを自覚しつつ、ということはと考える。


「うん。もちろんぼくもいるよ。見舞いの品を持ってきたぜ、未那」


 旧友――宮代みやしろ秋良あきらの声は、いつもと変わらぬこの調子。いっそ安心感がある。


「ありがと……悪いな」

「おいおい、もっと喜びなよ。こんな美少女三人に看病されるなんてなかなかないぜ」

「……すまん。風邪、移すと悪いし、隣いたほうがいいんじゃないか……?」


 俺の言葉に秋良は肩を竦め、残るふたりを見て言った。


「思ったより重症らしい。こうまで弱ってる未那は案外、貴重だぜ?」

「あはは……だね。未那らしくないや。まあ、とにかく未那は寝てなって」


 さなかも秋良も俺をなんだと思っているのだろう。

 確かに女の子が看病してくれるというのは実に青春らしいイベントで――ああ、確かにこれ普段なら喜んでたわ。

 自分で思っているよりも、俺は弱っているのかもしれない。


 お言葉に甘えて、再び横にならせてもらう。

 だけど眠気はさっぱりないから、耳だけで会話を聞いていた。


「ありがとね。買い物、付き合ってもらっちゃって。こっち運んでもらっていい?」

「あ、うん。叶ちゃんの部屋に持ってけばいいんだよね?」

「それで大丈夫。あ、秋良、買ってきたスポーツドリンクだけ分けといて。それは未那の部屋に置いとくから」

「了解。こっちの冷却シートもそれでいいかな」

「オッケー。んじゃそれも出しといて。さなかはこっちー」

「はーい」


 ……なんだろう。なんか今、ものすごい勢いで恵まれている気がする。

 風邪を引いてよかったとまでは言えないが、ここまで至れり尽くせりだとは。なんだか申し訳ない気分になる。

 この借りは、どうやって返せばいいんだろう……。


 結局、横になったはいいが眠ることもできず、俺は再び、今度は上体ごと起き上がる。

 ちょうど叶の部屋からおでんを潜って現れた秋良が、両手に抱えた二リットルのペットボトルをこちらに示して笑う。


「飲むかい? ずっと寝ていたんだろう?」

「……んじゃ頼むわ。ありがとな。えーっと、今は――」

「十二時半だ。それより具合はどうだい?」


 棚からグラスを取り出し、それにスポーツドリンクを注ぎながら秋良が問う。

 それを受け取って、半分ほど飲んでから答えた。


「一昨日よりはかなり楽になった。熱も引いた感じだし、あと二三日で治るだろ」

「……ふむ。一応、熱を測っておこうか。枕元の体温計を貸してくれ」

「……自分で測るよ。渡してどうすんだ」

「おっと残念」


 軽く笑う秋良だったが、こいつのことだ。今のは体温計がどこに置いてあるのかを、遠回しに教えてくれたということだろう。

 相変わらず、優しさのわかりにくい奴だ。

 体温計を脇に差し込むと、そこで隣室から叶の声が飛んでくる。


「未那ー、お昼いるー?」

「あー……昼か。どーすっかなあ……」


 思い返せば昨日の夜から何も食べていなかった。食欲もないというほどじゃない。

 数秒ほど迷っていると、今度は暖簾からさなかが顔を出して俺の顔を見る。


「……にへへ」


 なぜかさなかは、俺の顔を見るなり笑顔になった。

 別に面白い顔はしていなかっただろうに。首を傾げていると、さなかは首を暖簾の奥に引っ込めてこんなことを言った。


「いるってー」

「うい。んじゃ、ちゃちゃっと作っちゃおっかねー」


 あっさりした叶の返事。

 やっぱり頭が回っていないのだろうか。目をぱちくりさせていると、再びさなかが暖簾から顔を突き出してきた。

 俺のほうをまっすぐ見て、やっぱり笑顔で彼女は言う。


「あってたでしょ?」

「……えっと」

「未那ってこういうとき妙に遠慮するからさ。目を見て確かめようと思って」


 そんなに俺はわかりやすいのだろうか。

 ばつの悪さに頭を掻くと、そんな様子を見てさなかが言う。


「あ、未那が照れてる」

「…………」

「わたしも最近、未那の顔見れば何考えてるかわかるようになってきたんだー。えへへ」


 そんなことを嬉しそうに言われて、照れるなというほうが無理だろう。

 上機嫌のさなかは、そのまま叶を手伝いに引っ込んだ。

 だからこの子は、何かを狙っているときより何も狙っていないときのほうが遥かに破壊力が高いということを、そろそろ自覚してくれないだろうか。いや、もし自覚されたら、そのほうが困る気もするが。

 小さく息をつくと、そこでこちらをニヤニヤ見ている奴に気づいた。


「……なんだよ」


 ジト目を向けたところで、秋良にはなんの効果もないことは知っているんだが。


「いいや? べっつに? なーんでも?」

「言い方がもうなんでもあるわ……わかってるよ、贅沢だって言いたいんだろ」

「まさか」


 秋良は小さく笑うと、なんでもないように布団の横へ座る。

 彼女は特にこちらを見ていないし、だから俺も、ことさらそちらは見なかった。


「それは、君がここでの生活で獲得した努力の成果なんだろう? それとも、その自信がないのかな? そうは言わないと思うんだが」

「……るっせ」


 というか、なんだ。もう、今の顔は見せられん。



     ※



 昼食は、叶お手製のリンゴのリゾットだった。こういうオシャレ偏差高い料理を、普通ですけどみたいに作れるのだからすごい。この領域に、俺はいつ至れるのか。

 風邪気味の俺でも食べやすく、またいっしょに昼食にした三人も普通に食べられるチョイス。


 食事が終わったところで、俺は三人に向けて言った。


「ありがとな。買い出しとか、いろいろ。助かった」

「あ、ううん! それはぜんぜん」


 さなかは笑顔で言う。


「というか、これくらいはさせてもらわないとこっちが困るよ。ほら、わたしが唆したところもあるしね? その責任」


 というのは、俺が自転車で叶の実家まで向かったことを言っているのだろうが。

 いや、さすがにそれで風邪引いて倒れたのは、どう考えても俺が悪い。


「というか、それ言ったらわたしのせいでもあると思うんだけど」


 だが何かを言う前に、叶が先にそんなことを言った。

 彼女はふたりに向き直ると、改まるようにして深々と頭を下げた。


「本当に。その節はご迷惑をおかけしました」


 言葉を受けて、秋良は軽く肩を竦めるとさなかを見た。任せるということだろう。

 さなかは叶に視線を向けて、それから小さく微笑んで答える。


「ん、いいよ。でも次から、いなくなるときは先に言ってからにしてほしいな?」


 その言葉に叶は、少しだけ噴き出すように答える。


「いや、もういなくなったりしないけど」

「ホントかなー? 叶ちゃん、意外とひとつに集中するとほかが見えなくなるからなー」

「えー? それは、さなかには言われたくないんだけど」

「なんでっ!?」


 一瞬で立場が逆転していた。

 諦めろ、さなか。さなかが叶に口で勝てる日は、たぶん来ない……。


「…………」しかし、まあ。

 このふたりもずいぶん仲よくなったものだ。


 叶は、勝司や葵とはすぐ打ち解けたし、秋良とも早かったけれど、さなかとは最初少し上手くいっていないようだった。

 それが気づけば、むしろいちばん仲がいい。

 昨日も、風邪を移すと悪いからと叶を一〇一に泊まらせたし。

 変わってるのと変わってるのと変わってるのしかいないとはいえ、女子も三人で一夜を過ごせば打ち解けられるのかもしれなかった。

 まあ単に、叶の側の壁が外れた――ああいや、壊れたということかもしれないけど。


「さて」


 ひと息ついて、俺は切り出す。


「後始末はこっちでしとくから、そろそろ向こうに戻んなよ。大丈夫だと思うけど、あんま長居して風邪移しても悪いからな」


 それに叶とさなかが答える。


「いや何言ってんの?」

「未那ひとりで放っとけるわけないじゃん」

「……あれ?」

「そりゃそうでしょ」


 叶はじとっとした目を俺に向けてくる。


「あんた、自分のことは普段から超適当なんだから。ひとりにしといたら何するかわかったもんじゃないし」


 俺の信用なんてそんなもんらしかった。泣けるね。


「そもそもわたしの部屋はそこだし。自分の部屋にいて何が悪いのって話でしょ。それに未那が風邪引いたのにも、まあわたしに責任があるし。看病くらいするよ」

「……え。いや、でも……」

「だいたい未那さ、明日ほのか屋のシフトでしょ? どうする気でいんの?」

「そりゃ……まあ、明日までにがんばって治すというか……」

「ほーらこれだもん。ひとりになんてしておけるか、こんなバカ」

「そうだよ」


 と、ここでさなかも入ってきた。


「もうすぐ旅行だってあるし、未那には早く病気治してもらわないと。だから、こういうときくらい頼ってほしいな、わたし」


 それには叶が答えた。


「いや、さすがにさなかに迷惑かけるわけいかんでしょ。大丈夫だよ、わたしいるから」


 もう俺が入る隙がない。


「叶ちゃんだってひとりじゃ大変でしょ? それに未那を行かせたのわたしだから、その責任はちゃんと取らないといけないし。せっかく隣に来てるんだからさ」

「それは別にさなかが悪いわけじゃないでしょ……大丈夫だよ、看病はのぞみで慣れてる」

「わたしだって大丈夫。というか、うん。――わたしが、やりたいから」

「ん、んん……あーっと。えー……」


 そこには珍しく、さなかに押される叶という図式が完成していた。


 んー? なんだろうな、この空気。なんかおかしい。

 どうやらふたりして、俺が風邪を引いたことに妙な責任を感じているらしい。

 気持ちは嬉しいが、そこまで負い目に感じられるとこちらとしても申し訳なさが募ってしまう。


 俺はアイコンタクトを秋良に送った。

 どうせそろそろ治る程度だ。看病なんていらないと、上手いこと伝えてくれ。そういう風に念じたところ、秋良は心得たとばかりに笑顔を見せてくれた。

 そして言う。


「――こうしよう! 明日の未那のバイトは、叶、君が代わってあげてほしい」

「あ、うん。それはもちろんそのつもりだけど」


 答えた叶に頷いて、秋良は続けた。


「その間、つまり昼間は、さなかが未那を監視――間違った、看病していればいい」

「……なるほど」


 頷くさなかだった。


「その代わりに夜の間の監禁――おっと違う、看病は叶の担当。これでいいだろう?」

「ねえなんか異様にわざとらしい不穏な言い間違えがあったんだけど?」


 というかアイコンタクトの意味が何ひとつ伝わっていない。

 その上、俺の突っ込みは全員から例外なく無視された。どんだけ信用ないの俺。


「まあ未那は見張っていないと、ちょっと治ったと思えばすぐ動き出すからね。ひとりでうろちょろしないよう、誰かが見張っていないといけない。適任だろう?」

「なるほど」

「それは確かに」

「俺は子どもか何かですかね……」


 とは言ったものの、自分でも否定できない気がして強気には出られなかった。

 だって、せっかくの夏休みに……ねえ? じっとしてるなんて、もったいなくて。

 ともあれ監視と監禁が決まった以上、俺にできることはないようだった。


「はあ……まあいいや」


 溜息をひとつ零してから、皿を片づけようと立ち上がる。

 と、その瞬間、両手を両側から叶とさなかにそれぞれ掴まれてしまった。


「お……え? 何?」

「いや何じゃないでしょ、このバカ。なんで立つ」

「なんでって……だから皿を片そうと」

「そういうのはわたしたちがやるって言ってるでしょ。いいから未那は寝てるの!」

「まったくもう、油断するとすーぐこれだ……なんでじっとしてられないかな」

「未那さー、風邪引いてるのわかってるよね。子どもじゃないんだからちゃんと治そ?」

「いや、だって……なあ、ちょっと子ども扱いしすぎじゃない?」

「いいから!」「寝てるの!」


 ついには叱られてしまう俺だった。

 なぜか怒りながら片づけを始めるふたり。その様子を傍らに、俺は秋良にそっと問う。


「……なんか、なんだろ。俺の知ってる看病イベントと違うんだけど……」


 秋良は笑って、それから言った。


「いいから、寝ろ」

「もういいよ、わかったよ……」


 風邪を拗らせ、俺は拗ねた。


「さっき熱を測ったとき、自分で見てないだろう。まだ三十八度あったんだ、ふたりとも心配してるんだよ」

「あ。あー……そうだったのか」

「看病してくれる人がいるだけ幸せだろ。たまには素直に甘えるんだね」


 ……まったく。それならそうと、そう言ってくれりゃいいんだ。

 恥じらいを隠すように、俺は毛布を被って目を閉じた。

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