3-19『エピローグ/夏はこれから』

 目は、自然と覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む、ほんのわずかだけの明かり。その感覚を背中のほうから感じている。徐々に晴れていく視界の先には、一面の壁があった。

 悪くない覚醒だ。疲れが取れたという実感がある。

 それが、昨夜のあの公園での顛末によるものなのか、それとも単に寝るのが早かったというだけの理由なのか。

 どちらかはわからないが、そんなことはどちらでもいい。


 別段、あの一件で俺や叶の何が変わったというわけではないのだ。

 俺たちが選んだのは、このままでいようという選択だから。

 そのことを明確に意識するようになったこと自体は変化かもしれないが、かといって心境も信教も揺らがない。俺はこれからも主役理論の道を邁進するし、叶もまた脇役哲学を味わっていくことだろう。


 ――だとしても、何もかもがこれまで通りかといえば、たぶんそれも違うとは思った。


 ゆっくりと、なるべく体の軸がずれないよう、静かに俺は寝返りを打つ。

 視線が壁から天井を経由し、それから部屋の内側の方向へと向く。

 すると目と鼻の先に見えるのが――。


「おはよ。ずいぶんよく眠れたみたいじゃん?」

「……そういうお前も、珍しく早く起きたみたいだな?」


 友利叶の、見慣れた顔。どこか機嫌がよさそうに見えるのは、何も俺の勘違いではあるまい。

 ……しかしまあ、こんなに至近距離でまじまじ見ることもそうそうなかった。


 結論を述べれば、俺と叶は同棲を通り越してついに同衾を果たしたということになる。


 いや。

 いやいやもちろん、それは単に同じベッドで眠ったというだけのことで、当たり前にお察しだろうと存じ上げるが、気紛れに間違いを起こしてしまったわけではない。

 昨夜がお楽しみだったわけではないのである。

 それ大事だから。マジで。

 今のが《だいじ》なのか《おおごと》なのかは、とりあえず措くとするけれど。


「別に、そんなに早くないからね。言っとくけどもう昼前だよ」


 叶は言った。なるほど、癒えている理由は単に睡眠時間が長かったというだけか。

 昨夜、公園から戻った俺は、叶の言葉に甘えてひと晩泊まらせていただくことにした。さすがにあのまま自転車を漕いでかんな荘まで帰るには、気も体も余力に欠ける。

 さなかと秋良にふたりで連絡を取ってから、さて寝ようかという段階になっての話。

 もちろん、俺は床を貸してくれればいいと言ったのだが、いいからベッドを使えと叶が譲らなかったのだ。俺も俺で、持ち主を蔑ろにして俺だけベッドは使いたくないと言ったため、間を取って叶のベッドでふたりで寝ることになった。

 ……まあ、おかしいよなあ。


「……マジで同衾しちゃったなあ」


 小さく言った俺に、前の前で寝そべる叶が少し噴き出した。


「そういう言い方する? いや間違っちゃないかもしれないけど」

「間違っちゃったらダメだろ」

「そういう意味じゃねー。てか、よく言うよ。どうせそんな勇気ないくせに」

「これで手を出すことを勇気って言うなら、そんなもんいらねえっつの」

「プラトニックな関係になったもんだ」

「その表現もおかしいでしょ。むしろ逆に爛れてるような気がしないでもない」

「……まあ、さすがに人には言えないね、確かに」


 そんな風に言う叶は、けれどそれを嫌がっている様子ではない。


 ――実際問題。

 俺だって一応、性別は男で、叶の性別も一応は女だ。そのことを、何も考えないと言ったら嘘だろう。

 本当を言えばこれまでだって、揺らぎかけたこともゼロというわけじゃなかった。どう控えめに言っても、叶の外見がかわいいことは事実だし。


 もっともそれ以上に――俺は拒絶されてしまうことのほうが怖かったわけで。


 一度でき上がった関係を失うような行動を取ることが、これまで俺にはできなかった。

 では、それを恐れないでいようと誓った今なら、何かが変わるのかといえば――。


「……安心したわ。やっぱ俺、お前相手なら大丈夫な感じだ」


 むしろこれまで以上にあっさり眠ることができてしまったのだから笑わせる話だろう。

 異性として認識していないってわけじゃないんだけど。家族でも兄妹でもないが、感覚的にはそれに近いという感じだろうか。母親と寝るほうがもはや逆になんか嫌だしな。

 この感覚、どう説明したら理解してもらえるものなんだろう。

 してもらえないだろうから、たぶん誰にも言わないような気はしていた。


「どういう意味で取ればいいのかね、それ。あんまり釈然としない気もするんだけど」


 叶は少し頬を膨らませて言った。まあ、それでも不機嫌って感じではないようだ。


「……叶も見た目は悪くないんだけどな」

「おい。じゃあ何が悪いってんだ、言ってみろ」

「いや別に悪いって言いたいわけじゃねえんだけど……」

「……まあいっか。未那もねえ、見た目は悪くないんだけどねえ。よくもないけど」

「釈然としねえのはこっちだよ畜生。で、じゃあ何が悪いって言うんですかね」

「チキンなとこじゃない?」

「あ、言うんだ。お前は言うんだ。へえ……」

「あっはは」


 噴き出す叶を見て、俺もまた小さく笑う。今までと変わらないやり取りが心地いい。

 行き着く以前に通り過ぎてしまったとでもいうのか。あるいは本当に、ただただお互い異性としてはまるで好みではないだけなのか。それともそれ以外の理由なのか。

 でも、悪くはない。そういう相手が、この世にひとりくらいいたっていいだろう。

 むしろ普通ならあり得ない、どうやったって絶対に叶わないはずだった関係だからいいのだと――そういう風に思うこともできる。というか思っていた。


「……起きるか。これからまたチャリで向こうまで戻んなきゃいけないし」

「だね。まあがんばってよ。わたしは電車で帰るけど」

「あっはは、ムカつくー」


 ともあれまあ。

 こうして俺と叶の奇妙な関係は、今後も継続の形で手を打たれることとなった。




 そう。これも結局、単なる青春のひと幕に過ぎない。

 特別に取り沙汰するようなことではないのだ。むしろこれからの夏を思えば、この先に待っている旅行イベントのほうが主役理論者的には重要だと言えよう。

 もちろん今回の一件を、意味がないとは思わないけれど。

 安易に言ってしまえば喧嘩した友達と仲直りしただけ。そんなことは、これまでだって何度もあったし、きっとこの先にもあるだろう。今の俺が願うのは、いつか思い出になるこの記憶を、思い出したときに笑える未来が訪れればいい、というだけのこと。

 あるいは思い出すことさえない、なんでもない日常だったとしてもいい。これから先に積み重ねていくものを思えばなおさらだ。

 たまには、こんな色の青春もいいだろう。




 ――夏は、まだまだ始まったばかりなのだから。

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