3-17『それは何より美しく4』

 望くんと別れたあとは、秋良に到着と、まだ時間がかかりそうだという連絡を入れた。

 それから、すぐ傍にあった二十四時間営業のカラオケにひとりで入って、そして寝た。それはもうがっつりフリータイムで寝た。

 まさか人生初のヒトカラで一曲たりとも歌わず眠り続けることになろうとは、さすがの俺も予想していなかった。弱運がどうこうとか、もうそういうレベルじゃないような気がする。

 ま、これもいい経験だ。


 主役理論を構築してからというもの、《経験になるから》とか《それもまた青春だから》といった理由で、大抵のことを受け入れられる心のゆとりができた気がする。それもまたいいだろう、と大らかになったというか。

 望くんにはさきほど、逆にそれで全て済ませるようになってしまっていると突っ込まれてしまったが。

 それもそれで悪くない(万能)。


 とまあ、そんなこんなで起きたら夜の六時になっていた。

 というか追い出された。

 前日のデートから、ほぼ休みなく自転車を飛ばしての徹夜だ。そりゃ疲れも溜まる。


 幸いにも、望くんからの連絡をすっぽかすようなことはなかったが、もし昼過ぎとかに連絡が来ていたら、おそらく寝過ごしていただろう。危ないところだったと思う。

 望くんからは六時頃にメールが来ており、そこにはこんな文章があった。



『今日の十九時、この場所で待ち合わせということにしました』



 メールには抜かりなく地図が添付されていて、それが友利家近くの小さな公園を示している。時間設定を見るに、俺が夕方まで爆睡し続けることは予測されていたらしい。

 本当にもう、どっちが年上かすらわからなくなってくるね……。

 ともあれ時間的にはちょうどいい。

 カラオケボックスを出た俺は、自転車を漕いで待ち合わせ場所の公園まで向かう。ここんとこ《住宅街の小さな公園》運がすごい。何それ。


 約束は十九時。その三十分ほど前には公園に着いていた。

 狭い、小さな公園だ。といっても、かんな荘近くの例の青春公園よりは割合広め。設置されている遊具の数も多かったが、いくらなんでも遊んで待つ気分にはなれなかった。

 季節柄、辺りはまだ明るい。とはいえ遊んでいる子どもも、散歩に来ている誰かの影も特に見られなかった。

 夕暮れ色に染まりつつある敷地を、ベンチに座って眺めて待った。


 ――正直、大した考えはなかった。

 どうしようって感じだ。どうすればいいのか答えが出ないということ。

 目的ははっきりしているけれど、だからってほぼ初対面の女子を人伝にいきなり呼び出すって……ねえ?

 その時点で、友達になるまでのハードルがやたら上がってしまっている感がある。

 つーか何を言ったらいいのかと。

 主役理論第三条的笑顔でもって解決できる問題か?




『急に呼び出してしまってすみません(爽やかな笑み)。先日、道案内をした我喜屋未那という者です(満面の笑顔)。今日はあなたと、ぜひ友達になりたいと思って、望くん経由で呼んでもらいました(快活な微笑)。ところでお名前は?(渾身のゼロ円スマイル)』




 こんな感じかな? こうして作戦を立てておけば、うん。


 ――これ不審者以外の何者でもないですね?


 バカなのか俺は。これでどうやって友達になるつもりなんだ。

 仲よく手を繋ぐ前にまずお縄に繋がれるっつーの。通報されるっつーの。なんでこう勢いで動いちゃうかな、俺。


 しかし、ほかに採れる選択肢もない。

 結局のところは行き当たりばったり話してみるしかないのだろう。

 そもそも俺は叶と、その親友だったという少女との確執を知っているわけじゃない。彼女がいったい、どんな思いで、かんな荘を調べ、訪ねてきたのかを知らない。なぜ叶が逃げたかもわからない。


 秋良は言っていた。少なくとも表面上、険悪そうな雰囲気ではなかった、と。

 だからといって安心要素にはならないが、それでもこうして一度しか会ったことのない俺の呼び出しに応じてくれたのだ。何かしら話してくれる意思はあるはずだ。

 そもそも望くんが、いったいなんて言って約束を取りつけてくれたのか謎だけど。


 ……本当に何言ったんだろ。不安になってきたぞ、なんか。

 望くんなら上手くやってくれるだろうと思う一方で、望くんだからこそ妙な地雷を設置しているのではないかって危惧もある。

 だって普通なら来なくない? 今さらだけど。

 まあ最悪、なんか悪い方向に流れたらあとは謝り倒してどうにかしよう。同居人のことなら俺の責任の範疇でもある、みたいな感じで。

 叶は納得しないどころか怒るだろうが、こいつはあくまで俺のため。俺自身の青春のために必要な行動だ。


 友利叶は、もう、俺の青春に欠かせない存在なのだから。

 そいつといっしょにいられるよう、手を打ち足を運ぶなど、俺にとっちゃ当たり前の話である。

 叶のことなど知らん。


 どこか矛盾しているような気もするが。


「――――、と」


 来たか。背後から近づく足音が聞こえ、俺は思索の海から意識をサルベージする。

 時間にはまだ少し早いが、わざわざ俺に近づいて来たのだ。目的の人物だろう。

 まさか後ろから来るとは思わなかったが、そういえばこの公園は入口が複数あった。

 俺は振り返りながら口を開く。


「あー、どうも。えーと、初めましてではないと思うんですが……」

「――ま、そうだね。初めましてではないね」


 思っていたのと、違う少女がそこにいた。


「……なんでいるの?」

「あらゆる意味で、それ、こっちの台詞だと思うけどな。いや、これ本当にね」


 そこにいたのは――言うまでもないだろう。

 叶だった。


 見慣れた野暮ったいジャージ姿。本当に、それはらしい姿だと思う。

 なんだか振り向いたのがバカらしくなってくる俺だ。だいたいのことはもう、叶の顔を見た瞬間に察したのだから。……ああ、本当にやってくれるものだ。

 そういえば望くん、確かにメールに誰と待ち合わせだとは書いていなかったっけね。


 ――いやいやいやいやいや。


「やられた……お前が来るとは思ってなかったよ」

「だろうね。わたしも、未那がこっちまで追いかけてくるとは思ってなかったけど」

「あっそ。ま、来たってことは望くんから聞いたわけだ。俺が何をやろうとしてるのか」

「……望から聞いたわけじゃないけど」

「あ?」

「それはいいでしょ。そんなことより言いたいことがある」


 もちろんそれは察している。出て行け、と俺に向けて言い放った叶が、そのあとで俺を追いかけてくる理由なんて限られているだろう。

 単に、必要に駆られたからだ。


 俺は背後に視線を戻さず、座ったまま前を見続けていた。

 叶は、俺のやろうとしたことに納得なんてしないだろう。勝手なことをするなと、怒鳴られる覚悟なら固めていた。だとしても、反論しないわけじゃないけれど。

 だから。何を言われようと言い返そうと身構えていた俺は――。


「――その、ごめん。わざわざ来てくれたのに、怒鳴って追い返したりして」


 まったく予想していなかったその言葉に、何を言い返すこともできず硬直した。

 しばしの間。俺が再起動を果たすまで、叶は言葉を続けなかった。


「え……あ、いや。え? なんで、謝るんだよ……?」

「悪いと思えば謝るよ、そりゃ。……あ、いや……うーん。それだけじゃないけど」


 なんだか歯切れの悪い叶。その様子は奇妙だった。

 こいつは、こんなに自分の言葉に迷うような奴だっただろうか。


「だってお前、別にキレて怒鳴ったわけじゃないだろ。俺が余計なことしないように追い返したかっただけで、だから、つまりわざと叫んだわけじゃん?」

「……そういうことばっか気づくんだから。本当、始末に負えないよ、未那は」


 小さく呆れたように、叶は溜息を零す。だがすぐに続けて。


「でも別に計算だけで怒鳴ったってわけじゃないし。いっぱいいっぱいだったのは本当だから。正直、叫ばずにはいられなかったっていうか……でも当たったのは悪いし」

「……俺のせいなんだろ?」

「ある意味ね」


 小さな苦笑が耳に届いた。


「でも、それは未那が悪いわけじゃないから」

「……言ってることの意味がわからん」

「まあ……つまり、なんだ。ほら、あれだよ。あの……ああもう言いにくいな!」


 うがー、と叫ぶ叶。

 それも一瞬、彼女は一度だけ深呼吸をすると、それから意を決したように言った。


「……

「――、――、…………は?」

「だから、嬉しかったの。来てくれて。……本当、言わせんなよ、こんなこと……」


 語尾が消え入りそうになっている。叶はなんだか恥ずかしがっていた。

 ていうか俺のほうが恥ずかしくなってきた。

 だって、まさかそんなことを言われるとは予想もしていなかったのだから。そもそも予想できるはずがないだろう。


「いや、え……何が? てか、なんで嬉しかったら怒鳴るんだよ?」

「……逃げて来たのに。それなのに、追いかけてきてくれたことが嬉しくて。でもそんなことを、嬉しく思っちゃう自分のことが嫌だった。それじゃ、絶対にダメだから」

「言ってるのことの意味が、よく……」

「だってそうでしょ? わたしは脇役哲学を標榜してたんだよ? でも、このところぜんぜん徹底できてなかったんだ。いつの間にか、ひとりでいることが怖くなってた。誰かと――みんなといっしょにいる状況に慣れちゃってた。それじゃダメだと思ったから、少しひとりになって体勢を立て直そうと思ったのに……来るんだもん、未那。しかもわたしときたら、顔見た瞬間に、なんか……泣きそうになっちゃって。八つ当たりしちゃった」


 俺は――思った。

 俺と叶の、似ていながら正反対な俺たちの、その最大の違いはなんだろう、と。

 思えばそれは、主役を目指しているか脇役を目指しているかの違いではなかったのかもしれない。


 最大の差異は、それを理論に求めたか哲学に求めたかの違いではなかろうか。


「……ああ、なんかわたしぜんぜんダメだなあ、って思ってさ。脇役を目指すために独り暮らしを始めたのに、気づいたらなんか同居してるし。仮にそれを例外だとしても、ふと気づけば、ぜんぜん脇役じゃなくなってる。友達もできたしさ。いっしょに遊んだりすることも多いしさ。さなかなんか、なんかしょっちゅう絡んでくるようになったし。それがまた、嫌とかじゃなくてさ……それだけなら、それでも、よかったんだけど」


 そう。それは何も悪いことではない。

 叶の脇役哲学とは、別に他人を排除することで完成するものではないからだ。

 俺と同じ《楽しさ》という価値を追求するもので、その意味で言えば少なくとも結果は出ている。


「だけど違うんだ。だって……だって未那はちゃんとやってた。これまでと違う生活を、ちゃんと自分で考えて努力で勝ち取ってた。わたしはただ流されてただけなのに。今とりあえず楽しいから、それでいいやって何も考えてなかった。ましてあの子に会ってさ……こんな自分が、楽しんでしまっていること自体が、なんかもう間違ってる気がしてきて」


 俺は、主役を目指すための方策を理論に求めた。

 それは考えて、一定のやり方を確立して努力するというやり方だ。多くの友達を作るということはあくまで目的であり、手段ではない。そのために必要な手段として、今までの自分を変えてきた。そうするための方法が、秋良と作った主役理論だった。


 だが叶は、脇役を目指すための方策を哲学に求めた。

 それは、つまり感情という意味だ。何か具体的な手法があるわけじゃない。ただその場その場で自分がやりたいこと、求めたものを、思うがままに味わおうというだけ。感情の赴くままそれに従って生きるという、言うなれば生き様そのものを脇役哲学と呼んだ。


 ――それが、俺と叶の最大の違いだった。


「わたしはあの子を裏切った。だから脇役哲学に殉じることで、それを正しい生き方だと思うことで、これまでの自分と決別しようとしたんだ。そうじゃなきゃあの子に申し訳が立たない。わたしが切り捨てたことに正当性がなくなってしまう。そう思ってたのに……できてないって気づいて、もう、わかんなくなってさ。じゃあわたしがやってたことってなんなの? って。そもそも正当化しようとしたことが間違いで、仮にそうだとしても、わたしだけが楽しんでちゃいけないんじゃないかって……そんな風に思えてきて」

「……それは」

「わかってる! ……わかってるよ、こんなの悩むようなことじゃないって。あのとき、あの公園で言ったことは別に嘘じゃない。理屈で考えるなら、別に昔のことなんか忘れて自分のことだけ考えてればいいって思うよ。わたしだけが悪かったなんて思ってないよ。むしろ何も悪いことなんてしてなかったとすら思ってるよ! ……だけどダメなんだよ。どうしてもできないんだよ。あの子の顔を見た瞬間、罪悪感で死にそうになったんだよ! 本当はもっとやり方があったんじゃないかって、あの子のために何かできることがあったかもしれないって……そう思ったら、もう……どこにも行けなくなっちゃって」

「……そっか。だから、逃げたんだな」

「そう。理屈で感情をどうにかできるかなって。開き直るには時間がいるから、立て直すために逃げたんだよ。時間があれば、また全部忘れて、今の楽しい時間に浸ってられると思ったから。……だってのに、わざわざ突きつけに来やがるバカがいるもんだから」

「俺のせいみたいに言うんじゃねーよ」

「そうだね、未那は悪くない。ただわたしがバカなだけだ」

「……今のは言い返すとこじゃねーのかよ。やめろ、調子狂うだろ」

「わたしが悪いんだから仕方ないじゃん。秋良やさなかにも、迷惑かけたよね……」

「……ああもう」


 やりづらいったらなかった。こんなに殊勝な叶を、俺はこれまで見たことがない。


 叶の言わんとせんことが、わからないというわけではないのだ。

 むしろよくわかる。

 似ているから、では、ないと言いたい。それくらいには俺が、友利叶という人間を理解しているからだと言いたい。


 ――あの公園での顛末を思い出す。

 あのとき叶が言った言葉は、今だって欠片も余さず覚えているから。


 叶は多趣味な人間だ。だからいろいろなことに手を出しては、楽しそうに遊んでいる。

 それを、けれど必ずしも誰かと――友人たちと共有できたわけではないのだろう。当たり前の話でしかなかったはずなのに、けれど、ずれができてしまった。

 彼女の親友だった少女が、それでは納得しなかったから。


 趣味は合わなかったと言っていた。

 それでも、いちばん仲がよかったとも言っていた。


 そんな関係に、けれど亀裂が――摩擦が生まれたとき、あくまでも友人関係を優先した叶の《旧友》と、それでも自分の意思を優先した叶は、もう決裂するしかなかった。

 それ自体は、どちらが悪かったわけでもない。本来なら問題にもならなかっただろう。

 だが仲がよかったことが逆に、その差異を浮き彫りにしてしまった。

 お互いの理想が反発しあったとき、それでも求めるものを違えてしまったとき、あとに残ったものはなかった。全てが白紙に戻ってしまった。


 ――だとしても、一度関係した事実は消えない。

 それはゼロではなく、マイナスだ。


 だから、友利叶は脇役哲学者となった。

 自分を優先した過去を、なかったことにしてはならないから。

 それこそかつての親友に対する、最も酷い裏切りだと考えたから。

 だから間違いではないと証明しようとした。


 あくまで自分のためだと、叶が言ったことは嘘ではない。

 ただ単に、それだけではなかったというだけで。


 本当の友利叶は、どこまでも理想主義的で潔癖だ。

 理性的で、けれど刹那的で。

 あり得ないとわかっている綺麗な理想を願っていながら、それが存在しないと知っているから妥協を選んだ。

 どこまでも不器用で、優しかった。


 けれど、それに耐えられるほどの強さがなかった。


 失ってでも進むことを彼女は選べる。けれど、心は悲鳴を上げた。それでも前に進んでいける、湯森さなかほどの強さを――友利叶は持っていなかった。

 それでもなまじ頭がいいから、自分を誤魔化し、騙し、偽ることだけ上手くなる。



 ――いちばん欲しいものが叶にはあった。

 本当に気が合って、お互いの楽しみを共有できて、これ以上ない最高の親友と呼べる、そんな――あり得ない相手が欲しかった。

 それが実在しないことを、かつて、突きつけられているというのに。



「だから……ごめん。変なこといろいろ言って。もう大丈夫。ちゃんと元のわたしに戻るからさ。だから……悪いんだけど少しだけ待っててよ。ほら、あれだ。例の旅行の日までには、きちんと心の決着つけとくから。……迷惑かけて、ごめんね、未那」


 叶は言う。

 こいつのことだ、やると言えば本当にやるのだろう。いや、そもそも俺が追いかけたりしなければ、叶は必ず自分の中で折り合いをつけて戻ってきたはずだ。

 また元の通りの気だるげな脇役哲学者に。


 ――本当は、それでも諦められない理想を抱えているくせに。


 だから、俺は言う。

 これはほかでもない、俺が言わなければならないことだ。


 妥協したフリして振る舞って、そのくせぜんぜん諦められていなくて。悟ったこと言うくせに、心の中じゃ夢見る乙女ばりの理想論者で。自分だけを優先するとか言いながら、結局はいつだって、誰より友達には甘い。

 ――そんな、鏡の向こうの自分に向けて。




「――いや、お前って本っ当に面倒臭い性格してるよなあ!!」




 振り向いて言った俺を見つめて。

 叶は、きょとんした表情になった。

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