3-16『それは何より美しく3』

 ――だから。

 それはどこにでもある、灰色の青春の物語だ。


 と、そう言い切ってしまうのは、きっと酷く安易なことなのだと思う。

 結局のところ、どうあれ主観でない物語に本当の意味で共感することなどできないとするのなら、我喜屋未那が友利叶に言えること、できることなんてないのかもしれない。

 だからといって切り捨てていいとは、決して思わないけれど。

 踏み込むなら、踏まえておくべきことはある。


 望くんは、俺に言った。彼に連れられてきた、駅前にあるチェーンのハンバーガーショップ。

 百円のコーヒーを啜りながら、まだひと気の少ない店内で、スマホをテーブルに置いて言う。


「こんな時間に来るのは初めてです」

「まあ、そこは奢りだから気にしないでくれ。たまにはこういうのもいいでしょ」

「そういうとこ、先輩も結構適当ですよね。こういうのってどういうのですか」


 年下に笑われてしまう俺だった。軽く肩を竦めると、彼はさらに続けて。


「姉からも、たまにそういう話を聞きました」


 なんとも答えにくい。無言を保った俺に、そうして――望くんが口火を切った。


「姉は、そうですね。割と、目立つ人間だったと思います」


 かつては友達が多かったと、叶自身も言っていた。それが嘘ではないことくらい、見ていればすぐにわかる。

 同一の根源から、逆のベクトルへと走る線のようだった。


「基本、僕とはあんまり似てないんですよね。まあ姉も別に、先輩のように多くの友達を作ろうとか、そういうことを意識していたわけではないと思うんですが」

「普通にしていただけ……ってヤツか」

「そんな感じですかね。難しいこと考えて誰かと付き合ってたわけではないと思いますよ。誰だって、その辺りはそう変わらないんじゃないでしょうか。わかりませんけれど」


 どんな人間でも、社会で生きている以上は人間関係に打算と勘定とを働かせる。けれどそれは理性によるものではなく、どちらかと言うならむしろ無意識の感情によるものだ。

 クラスでひとり浮くのも嫌だし仲よくしておこうとか、なんとなく馬が合わない相手だから避けようとか、そんな程度のもの。計算しているようで、実質していない。

 そんなことは普通のことなのだ。


「なんだろな……やっぱ俺って、言うほど叶と似てないような気がしてくるわ」


 小さく、俺は苦笑した。

 やっていたことは大差ないはずなのに、と。《普通にしている》という結果が運んできたもので、俺はクラスで浮き、叶は多くの友人を作った。

 もはや自嘲する余地すらない。


「で? それでどうして脇役哲学なんてものを作ったんだ、あいつは」


 問うた俺に、望くんは変わらぬ様子で告げる。


「ひと言で要約するなら、考え方が変わったからでしょう」

「いや、要約しすぎじゃない? 問題は結局、なんで変わったのかのほうだろ?」

「――


 端的に。望くんは、その事実を告げる。

 俺もまた聞いていたことのはずで、だからこそその言い回しに、聞いていたこと以上のものがあると知る。

 ――いや、そんなことは初めから気がついていた。


「そう、少なくとも姉は考えているんだと思います」

「いちばん仲のよかった相手と、上手くいかなかったんだってな」

「ええ」


 望くんは頷く。


。客観的には」


 そうだろう。そんなこと、そうに違いないというだけの話だ。

 現実はよくも悪くも、どこまでだって劇的じゃない。

 俺たちにはひとつ解消するだけで済むような問題などなく、打倒するだけで全てを解決できる敵などなく、よしんばあったところで俺たちにそれを可能とするほどの力などない。

 取るに足らない下らない、益体もないしょうもない悩みに、ただひたすら振り回されていくしかないのだ。


「ともあれ姉は、その親友と決裂しました。理由……と言えるほどの理由はなかったのだと聞いています。単純に、求めているものが違ったということなんでしょう」

「求めているものが違った……か」

「姉は、それでも自分が求めるものを優先しました。当然です。だって姉は今まで、そうやって生きてきたのですから。ですが姉の親友のほうは、それを裏切りだと捉えた。その親友はきっと、友達のために何かを犠牲にすることを当然だと思っていたんでしょう」

「優先順位ってヤツか……言いたいことはわかる」


 友達のため、という言葉は酷く使い勝手がいい。そのためなら、どんなことだって正当化できてしまうような聞こえのよさがある。だがそれは、自分の行動の責任を、自分ではない誰かに求めるという意味にも繋がるのだろう。

 そこに、きっとずれが出た。

 当然だ。似ていようが、親友だろうがなんだろうが、違う人間であることに変わりはないのだから。

 主観と客観は捻じれの位置にあり交わらない。


「片方はその友達さえいればいいと考えていた。だから、相手のためなら自分の意思を、多少曲げるくらいのことは当然だと思い、自分がそうしていたように、同じだけのことを相手へ求めた。そういう言い方をすれば悪いことのようですが、でも当たり前なんです。ひとりで生きているわけじゃない以上、何もかも思い通りにさせようなんて、思うほうがきっと傲慢です。親しき仲にも礼儀あり――とか。まあ、そういう程度の話ですよ」


 その、ほんの些細な気遣いを、犠牲と考えるほうが愚かしい。


 たとえば、誰かと食事に行くとして、その行き先をどこにするか。

 多少、相手に融通を利かせる程度はすることもある。

 そんなことを、いちいち重く捉えていては、社会で生きていくことなんて無理だ。


 けれど叶は、それでも自分を優先した。

 別にわがまま放題に振る舞おうというわけじゃない。自分の意思を通しながら、それでも摩擦を起こさないために脇役の道を選んだ。


「――それで? それで、どうなったんだ」


 そう。それだけなら大した話じゃない。ただ決裂があったというだけのことだ。

 客観的事実はそれだけなのだろう。けれど主観的には違う。

 その差が知りたかった。


「端的に言うなら、そうですね――姉は、復讐を受けたということです」

「復讐……」

「ええ。自分を裏切られたと思った姉の親友は、その悪評を周囲へばら撒いた。そのせいで姉は孤立しました。言ってみれば、立場が逆転したということです。姉は友達を失い、それらを全て親友だった人間へと手渡した。とかなんとか、そんな感じでしょうかね」

「……、そんな簡単に行くことか、それ? 友達だったんだろ?」

「だから、友達だっただけのことでしょう。そもそも過去形じゃないですか」


 反論ができるような言葉ではなかった。

 そんなことは、そもそも俺がいちばんよく知っている。


「まあ姉が一切、反論しなかったこともありますが。それで真実味を帯びた……負い目があったんだと思います。先に裏切ったのは自分なのだから、それは仕方がない、って」

「――――」


 あの大バカめ。

 何が面倒だから切ってやった、だ。話がぜんぜん違えじゃねえかよ。


 そこに、たとえ嘘がないのだとしても。それでも客観的事実と主観的な印象は違う。

 あのバカは――ただ強がっていただけじゃないか。


「だから姉は、脇役哲学を作り出し、それに殉じると決めた。それでいいのだと。自分が脇役として生きる、そのために必要な儀式だった、ということにした。……決して嘘ではありません。それも姉の本心でしょう。だけど――」

「――だからって、傷つかないわけじゃないだろ……!」


 あいつが、本当は友達を大事に思う、優しい奴だということなら知っていたのに。

 脇役哲学という言い訳を用意しなければ、誰かを拒絶することなんてできない奴だとわかっていたのに。

 なんだかんだ言って付き合いがよく、周りをよく見ていて、自分でない誰かのために動ける奴だと理解していたのに――なぜ俺は、そんなことにも気づかなかった。


 あいつが、それを言い訳にはしない奴だからだ。

 自分のために行動するということは、あらゆる行動の責任を自分で負うということだ。叶は決して、誰かのためだと言い訳しない。自分のやりたいようにしたと断言する。


「……だけど、そいつが会いに来た」

「なぜ会いに来たのかは、僕にもわかりません。もしかしたら本当は、仲直りをしに来ただけかもしれない。そういう、綺麗な感じの話なのかもしれない。もちろん、ただ責めに来ただけかもしれませんけれどね。だけど結局、姉は負い目を刺激された。こうしてここまで逃げ出してこなければいけなかったほどに重く捉えてしまった。――それだけです」

「……あ、そ」


 それだけの話だと締め括る望くんに、そうだなと俺は頷いた。

 まあ、ともあれ事情は理解した。その上で、では俺がやるべき行動とは何だろう。

 少しだけ、それを考えてみる。だって俺はただ話を聞きにきたわけではない。目的なら初めから決まっていた。

 ならばそのために、自分にできることを見つけるのが仕事だ。


 果たして、それが叶の意思にそぐうかはわからない。

 でも、そんなことは当然だ。あいつがやりたいようにやっているのだから、俺だって、ただ同じようにするだけ。だから俺は顔を上げて、再び望くんへと向き直った。


「その人の連絡先、わかる?」

「……正気ですか?」


 訊ねた俺に、望くんはあり得ないものを見る視線を向けた。

 ……ていうか訊き方が酷くない?


「いや、知ってますけれど。なんですか、連絡をつけろってことですか?」

「それはこっちでやるよ。だから、連絡先だけ教えてくれればいい。俺も一回、向こうで会ってるしな。不自然ってことはないでしょ」

「いや不自然極まりないと思いますが」

「だよね」


 軽く笑った。


「でも結局ほら、俺にできることはそれくらいだから」

「それくらいって……どうする気ですか? 俺の女に手を出すなとか言いに行くんですか」

「いやそんなことは口が裂けても言わないけれども」

「似たようなものでしょう。姉に近づくな、とでも悪役を代わるつもりですか? そんなことに意味なんてありませんよ……ただ傷つく人間が増えるだけです」


 どうやら望くんは、俺が叶に代わって話をつけに行くとでも思っているらしい。そしてそのことに意味がないと知っているのだ。本当に中学生かよ、こいつ。

 だが違う。俺はそんなことをするつもりはない。いや、一面では間違ってもいないのだが、別にわざわざ悪役を気取って叶を庇おうだなんて気はさらさらなかった。


 ――その失敗は、すでに通った道だから。


「俺は主役理論者だよ。そんな悪役計画はできねえって。んで、主役理論者のやることはいつだってひとつだけだ。機会を、自分の手で掴み取るだけ」

「……何をするつもりですか?」

「決まってんだろ。――


 その言葉に、ついに望くんが絶句した。なんか勝った気分になる俺だった。安い。

 あらゆる意味で想定外だという表情の望くん。

 まあ俺自身、つい数秒前までは、そんなことを自分が言い出すとは考えていなかったのだから無理もない。むしろ無理しかない。


「そりゃそうだろ? 誰が悪かったわけでもないなら、誰も悪くなかったんだってことにするしかない。そうするために俺は行くんだ。仮にそいつが単なる叶の敵でも、ただ排除すりゃハッピーエンドでお終いなんてこと現実にはあり得ないんだ。劇的にはならない。だったら俺にできるのは――ただ普通にしてることだけだ」

「そんなこと、できるわけ……」

「別にナンパしに行くってわけじゃないんだし、まあそれくらいは大丈夫だろ。それでもダメなら、まあ仕方ない。謝って、なんとか叶を許してくれないか頼んでみるよ」

「――な、ば……」


 あまりにも理想主義的だ。そんなことは俺だって自覚している。望くんが、バカなのかと言いかけたのも無理のない話だろう。

 うん、今これ絶対バカって言いかけたよな。


 俺だって何も性善説を信じているわけじゃない。できやしないと、どこかに諦めがあることも事実だった。

 だが、だからって行動までやめてしまっては、それこそ裏切りだ。


 叶に対してではない。

 それは自分に対する――自分の信じる主役理論に対する裏切り。


 欲しいものがあるなら手を伸ばす。至りたい場所があるなら足を動かす。

 いつかみんなで笑い合える日がくればいいと思う。どうせ不可能だと知っていながら、分不相応な望みを抱いてしまった。理想には手が届かずに、ただ次善の次善だけを追っていくことになるだろうと、どこかでそう理解している。


 ――だからどうした?


 ほかの誰でもない、ただ自分の信じる理論のために、行動だけは絶対に諦めない。

 俺にできることなんてそれだけだ。

 だから、そのために、そうしよう。

 あのとき、さなかがそうして、進むことを選んだように。その強さを知っていながら、俺が先に諦めることなんてできなかった。


 俺だけが、臆病なままではいられない。


「……わかりました。ですが、いくらなんでもいきなり知らない人から電話が来たら警戒されます。話は僕がつけるので、待ち合わせ場所だけ教えればいいですかね?」


 果たして、望くんは溜息とともにそう言った。

 俺は小さく笑う。呆れられていることは理解していたが、振り回しているのは俺だ。


「わかった。そしたらそれまで、どっかで適当に時間潰してることにするわ。いい加減、そろそろ眠くなってきたし、適当にどっかマンガ喫茶とかでも入るわ」

「……では、これで」


 頷いた望くんに首肯し返して、俺は席を立つ。望くんは座ったままだった。

 去りしな、ふと俺は思いついたことを望くんに訊ねてみる。

 そちらには振り返らず、声だけで。答えがなかったら、それはそれでいいと思っていたのだろう。


「ところで望くん。君が、そこまでする理由、あるなら聞いてもいいか?」

「……別に、大した話じゃありません」


 しばらくあってから、望くんは小さくこう呟いた。

 俺は、それを背中で聞く。


「姉と僕は似ていないと言ったでしょう。僕は友達が少なくて、姉には友達が多いんです――いえ、姉に友達が多かったのは、僕に友達が少なかったから、と言うべきですかね」

「……いい姉弟じゃん。ちょっとだけ羨ましいぜ」


 とだけ俺は答え、年下の友人と別れた。



     ※



 未那が店を出た数秒後。友利望は、テーブルに置いていたスマホを手に取った。

 彼はそのまま、なんの操作もせずそれを耳に当てる。

 それから、そのまま口を開く。


「――聞こえてたよね? そういう設定にしてあったんだし、まだ繋がってるんだし」


 通話の向こう側から、果たしてどんな答えがあったのか。あるいはなかったのか。

 そのどちらでも望の言うことは変わらず、だから彼はその通りに言った。




「――それで、いったいどうするの、姉さんは」

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