3-14『それは何より美しく1』

「――なあ、秋良」


 電話の向こうの旧友に向け、小さく、けれどはっきりとした口調で口火を切る。


『何かな、未那』


 秋良はいつもの通りに応えた。

 聞き慣れた声。最近では直接聞くよりも、こうして電話越しに聞くほうが多くなっていた気がする。電話の回数は、少なくともかなり増えた。


「俺、お前に訊かなくちゃいけないことがあるんだよ。ずっと、思っていたことなんだ」


 突然かもしれない。けれど秋良は、その言葉を予期していたかのように笑う。


『なんだい? もちろん聞くよ。遠慮しないで言ってほしいな。君とぼくとの間に、隠しごとはあんまりなしさ』


 あんまり、と付け加えるところが秋良らしい。思わず俺も小さく笑った。

 息が上がっていることは自覚している。だとしても、電話口で荒い息を聞かせて相手に引かれる、なんて失敗を二度も繰り返すつもりはなかった。人間は学習できる生き物だ。

 それに秋良の言う通り、俺とこいつとの間に下手な遠慮は不要だろう。

 だから告げる。今はもう、堪えていたこの言葉を、秋良に対してぶつける以外に、荒れ狂う激情を抑えるすべを知らないから。




「――あの、やっぱ別に自転車漕いでまで行く必要はなかったのでは?」

『え、それを今さら未那が言う?』




 ですよねー。

 いや、わかっていましたとも。ええ。


 時刻はとっくに深夜――むしろ、そろそろ明け方が近い頃。

 かんな荘を出発した俺は、さなかから借りた自転車をひいこら漕ぎながら、一路、叶の実家を目指していた。

 はっきり言おう。


 ――めっちゃくちゃ疲れた。


「おかしいよ、これ絶対おかしいよ。別に夜の間に行く必要皆無じゃん。始発が始まってからゆっくり行くんでも充分だったじゃん! なんで俺こんな必死でチャリ漕いだの?」

『知るわけないだろう。今から行くと言い出したのは未那、君だぜ?』

「そうだけど。いや、そうだけど! だってこんなことになると思わなかったし! 正直かなりの部分を勢いだけで宣言しちゃったし!! なんなの、俺? バカなの?」

『バカだよ』

「バカだけれども! わかってたんなら止めてくれたってよかったじゃん!!」

『逆恨みにも限度ってものがあるよ』


 その通りすぎて返す言葉など世界のどこにもなかった。

 完全に自爆ですからね。別に誰も今から行けとは言ってないからね。ちくしょう。


 叶の実家は、想像していたよりだいぶ遠かった。いや住所を聞いて四、五時間はかかることも確認してあったのだから、これくらい予想していて然るべきなのだが。

 にしたってちょっと、こう……舐めすぎてたっていうか。チャリで四時間って相当じゃね? って。

 ときおり秋良に連絡を取り、目的地までのナビゲートをしてもらっていたのだが、この期に及んでついに俺は、溢れ出る泣き言を堪え切れなくなってしまった。


 はっきり言っていい?

 ――ぶっちゃけもう帰りたい。

 いや、逆に今から帰る体力とかないな。ただただ休みたい。

 それだけが俺の望みです。


「失敗した……なんの意味もなかった。テンションと場の雰囲気に流されすぎた……」

『未那の場合、それはもういつものことだろう。さっきも言ったが、今さらさ』

「ああ、ダメだ。もうそれに反論する気力すらない……」

『反論なんて受けつけないけどね。とはいえ、もう目と鼻の先だ。あとちょっとだよ』

「お前それさっきも同じこと言わなかったっけ……?」

『そこからたった二十分で電話を掛けてくるほうが悪い。ラストスパート、がんばることだね。いつまでも同じところで休んでいると、それこそ警察に補導されるよ?』


 ――それに。

 と、つけ加えるように秋良は言う。電話に耳を傾ける俺へ、苦笑しながら。


『意味がない、ということは必ずしもないと思うよ? なんせ王子様のお迎えだからね。ぼくだってこれでも女子だ。そういうのは女心に効くこともあるとは知っているさ』

「え、ほんとに? なんでこんな時間にこんな必死に来てんだよって引かれない?」

『……ところで明日は雨が降るそうだが。そちらはまだ平気かい?』

「何しれっと話変えてんだよ。適当なこと言いやがって、こんにゃろ……」

『はははは』

「うん、笑って誤魔化すのやめてね? おい。棒読みやめろ」


 まあ何をどう繕ったところで王子様なんてガラじゃなし、仕方ないところだろうけど。


『いても立ってもいられなかったんだろう? 少しくらい素直になったらどうだ』


 からかうように秋良は言う。

 ……くそ。これだから付き合いの長い奴は厄介なんだ。


「うっせえなあ、そんなんじゃねえよ。何も考えてなかっただけだ」

『それは知っているけれど』

「うっせえなあ!」

『ともあれ、実際あと少しだ。そのまま国道沿いに行けば駅が見えてくるはずだよ』

「……あいよ。ナビ、サンキュな。さなかはどうしてる?」

『まだ起きてるよ。代わるかい?』

「んじゃ、ちょっと」


 そう告げると、しばし間があってから電話口にさなかが出る。


『もしもし、未那? お疲れ』

「ん。悪いな、なんかいろいろ付き合わせて」

『あはは。まあ今回は仕方ないよ。それに、あの子に声かけたの、そもそもわたしだし』


 というのは、今日の午前、駅前で案内した見知らぬ少女のことだろう。

 まだ、それが原因で叶が半失踪したと確定したわけじゃない。

 ただ可能性は高い――というよりほかに考えられない。別の人間が訪ねてきた、と考えるのは都合がよすぎる。


「つっても、さなかは別に叶の事情を聞いてたわけじゃないだろ? 仕方ねえよ」

『確かによくは知らないけどさ』


 電話口のさなかは、小さく微笑んでいる気がした。


『それ言ったら未那だって、そんなこと想像しろってほうが無茶でしょ』


 さなかは当然、中学時代の叶のことなど知らない。勝手に話していいとも思わない。

 そもそも俺だって、言うほど詳しく把握しているわけじゃなかった。

 それでも、こんな遅い時間まで付き合ってくれているのだから、いくら感謝したって足りない。ただでさえ状況なんて理解できていないだろうに、さなかはただ、友達のためだけに動いてくれた。


 俺もそうだが、あとで叶にもきっちり謝らせるべきだろう。あんにゃろ。

 いったい何があったのか知らないが、簡単に逃げられるとは思わないことだ。


『とにかく!』


 さなかは言う。


『こっちのことはいいから、未那はちゃんと叶ちゃん連れて帰って来てよ? 任せたからね? そうじゃなきゃ、わたしだって困るんだから』

「困る? なんか叶に貸しでもあるのか?」

『そういうんじゃないけど、でもまあ似たようなもの、かな。秋良とも話したんだけど、やっぱりその辺り、きちんとしておきたいからさ。……友達だし!』

「……そっか」


 言っていることの意味はいまいちわからない。

 ただまあ、きっと秋良と何かを話したのだろう。そこに参加できなかったのは残念だったが、何、いずれ機会もあるはずだ。

 今日のところは女子会を楽しんでもらえばいい。


 気をつけてね、という最中の言葉を最後に、電話が秋良に戻される。

 旧友は言った。


『――というわけだ。くれぐれも、事故だけは起こさないように』

「わーってるよ。お前の道案内のお陰で、想定よりも早く着けそうだしな」

『では。……あとで、元気が出るものを送ってあげよう』

『あ、ちょっ、秋良っ! やっぱそれは――』


 などというさなかの声が届いてきたところで通話が切れる。

 なんだったのだろう。とにかく、仲よくやっているらしいことはわかったが。


 休憩所に選んだ公園の端に停めておいた自転車に、再び跨る。

 さて、もうひと踏ん張りと行こう――そう思っていた矢先に、ぴろん、とスマホが着信を報せた。

 取り出してみると、秋良から一通のメールが届いている。

 本文はなく、代わりに一枚の写真が添付ファイルに封じられていた。

 それを開いて、思わず笑う。


「……なるほど。元気出た」


 スマホを仕舞い込んで、再び自転車を漕ぎ出す。


 ――その写真は、パジャマ姿の秋良とさなかのツーショット自撮りだった。


 えーと。

 ロック機能って写真にかけられるんだっけ?



     ※



 いや別に写真でテンション上げたってわけじゃないんですけれども。


 自転車を飛ばす。

 法律に反するようなことはしていない(深夜に外出している時点で、なんかの条例には違反しているかもしれない)が、アキラナビゲーションシステムの的確極まりない案内に従った結果、四時過ぎにして叶の地元最寄り駅まで辿り着く。出たのが零時半くらいだったから、休憩や俺の体力を考慮すればほぼ最速と言っていいだろう。

 おそらく、二度とこんな距離の自転車移動をすることはないと思う。したくない。


 そこからはメモしてあった友利家の自宅住所をスマホに打ち込み、経路を表示させる。

 ――目的の住所に到着した段階で、四時四十分になっていた。


「なんか不吉……てか、もうそろそろ朝なんだけど」


 ともあれ、《友利》の表札は見えている。そう多い苗字でもなかろうし、ここだろう。

 ごく平凡な中流家庭っぽい一戸建て。新築とは言わないが、そう古くもなさそうな感じだし、友利父は結構いい企業に勤めていそうだ。

 じゃあなんで立場が弱いんだろう……。

 なんて、人様のお家のお値打ちを計っている場合ではない。


 スマホを取り出し、望くんへと連絡を図る。今度は四コールで通話が繋がった。


『お疲れ様です。着きましたか?』

「ああ。わたしワッキー、今あなたの家の前にいるの」

『本当に着いたんですか……まるでスト、あ、いえ。まるで都市伝説みたいですね』

「スト? ストって何? 望くん? 何を言いかけたのかな?」

『ストーカーと言いかけました。すみません』

「あ、言っちゃうんだ……普通に答えるんだ、そこ……いいけどね。どうも」


 謝られちゃったら反論しづらい。さすがに手強い望くんだった。

 もしかしてだけど、こんな時間まで起こされてたから怒ってるのかな。

 ていうか普通に考えて中学生をこんな時間まで起こしてるとかクズいよね。もしかしなくても怒るか。


『あ、ご心配には及びませんよ。電話が来るまで寝てましたから』

「……あ、そう……」

『寝起きはいいほうなので、電話がくればわかります。えーと、今は家の前ですか』

「そうだね」

『手引きします。に入ってもらうので、指示した通りに動いてください』

「オーケー、了解。ところで叶は? まだ寝てるのか?」

『起きてるっぽいので、今がチャンスですよ。さすがに寝すぎたようです』


 ふむ。起きているなら好都合だ。寝起きの叶に話は通じない。


『裏手に狭い庭があるので、そちらに回ってください』


 望くんの指示に従って、こっそりと友利家の庭へと侵入する。

 やっていることが本当にストーカーじみてきてしまって言葉がない。

 大丈夫かこれ? 大丈夫だよねこれ?

 まあ望くんがいいって言ってんだから大丈夫だろう。そういうことにした。


「回ったぞ。どうしたらいい?」

『そしたら庭に脚立が置いてあるので、それを使って二階までどうぞ』

「そっか。うん。――今なんて?」

『庭に脚立が置いてあるので、それを使って二階までどうぞ』

「そっか。うん。――ごめん、もう一回言ってくれる?」

『庭に脚立が置いてあるので――』

「なんで何回訊いても答えが変わらねえんだよ!? 人んちに二階から脚立で入れと!?」

『一階では両親が寝ているんです。バレてもいいなら案内しますが』


 端的な望くんであった。望みも何もあったものではないですね?


「……もうストーカーっていうか盗人じゃん、これ……」

「あ、鍵開けたんでどうぞ」


 という声は電話口からではなく、目の前で開けられた窓の先から聞こえた。


「――……あの。目の前に望くんが見えるんですが」

「こんばんは、先輩。いえ、もうおはようございますの時間ですかね」

「ねえ、さっきの一連のやり取りの意味は!?」

「冗談に決まってるじゃないですか」


 この弟……。かわいくなかったらそろそろブッ飛ばしているところだ。

 いや、ここまで付き合わせて文句なんて言えないんだけど。


「……お邪魔します」

「ようこそ。歓迎しますよ」


 あんまり歓迎している風でもない望くんに誘われながら、庭に面した窓から友利家へとお邪魔する。邪魔ってレベルじゃない気がしたが、もういいや。気にしない。

 ご迷惑をかけてしまうから、という以上に心の底から絶対に見つかりたくないから、という強い保身を理由に、足音を殺してゆっくり歩く。

 望くんの後ろに続いて二階へ上がると、階段からいちばん近い部屋を彼は示した。


「ここです。どうぞ」

「あー。じゃあ、お邪魔します」


 なぜ望くんが俺を先に入れたのか、という点は疑問に思わなかった。信じ切っていた。

 彼がまったくもって油断ならない人物であることを、俺は知っていたはずなのに。

 ただ指し示された通り、扉を開いて中に入る。


 と。

 その奥に。




 ――全裸の友利叶が立っていた。




「ふぁ?」


 という脳のしわがツルツルになった俺の鳴き声。

 一方、目の前の叶は生まれたその瞬間の姿のまま、バスタオルで頭を拭いている。そのためギリ最終ラインは死守されているがいやこれ下のほうダメだ見るな理性ファー!!

 脳内でミとソの間を叫んだが脳ミファソがまるで役に立っていない何言ってんだ俺?

 まあいい。いや何もよくないが、ともあれ今はこの状況の打破が先だ。

 刹那、俺は人生で最高速度の反射を駆使して背後へと振り返――あれ扉が閉まってるぅ!?


 そんな俺の背に、かけられる声があった。



「んー、何、望? わたし今、着替えてるんだ――――――――――――は?」



 あ、ダメだ

 これはダメだね

 おわったね

 なにがってそりゃ

 ぼくのじんせい


 辞世の短歌が走馬灯に代わって脳内をよぎった。俺って本当にバカ。

 ていうか。あの。言っていい?




 いったい何してくれてんだあの弟ぉ――――――――ッ!?

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