3-11『普通でいられることの価値1』
「――やあ。おはよう、未那。いい朝だよ」
と笑顔でこちらを見下ろしている旧友の顔が、寝起きいちばんに目に入った。
そのときの俺の表情と感情を、ことさら言葉に変える必要はあるまい。
そもそも自分の顔なんて鏡でも見なければわからないし、まして映す道具などない感情ならなおさらだ。
自分の想う全てのことを、余さず把握できている人間がどれほどいるだろう。
「……おはよう……」
それでも一応、そう答えてから上体を起こす。
八月一日。火曜日の朝。
目覚まし代わりのスマホの表示が、午前七時を示していた。
「……起こすの早くない……? っていうか、なんで起こしたの……」
「朝食ができたからね」
旧友は笑みでもって答えた。
「ほら、しばらく厄介になる身としては、それくらい気を回しておくのも礼儀の範疇だろう? もちろん叶の分もある」
ちら、と秋良は《おでん》暖簾のほうを見た。
その奥では叶が……まあ寝ているだろう。休日のこの時間に起きている奴じゃない。
視線を台所の方向へ移せば、湯気の立つ鍋が見えていた。つまりが、その料理の作業に俺は寝ている間まったく気づかなかったということだ。
秋良の言葉が続けて聞こえる。
「今日はデートなんだろう? 早起きするに越したことはないさ」
「……その話、お前にした記憶がないんだけど」
「なら合っていてよかったよ。まさか先延ばしのままだったらどうしようかと思った」
欠片たりとも悪びれる様子のない秋良さんであった。
いいんだけどね、別に。むしろこいつらしくて安心するくらいだ。
「さて、せっかくだ。叶も起こそうと思うんだが、向こうに入って平気かな? さすがにそれは悪いとも思うから、どうせなら未那に起こしてきてもらいたいんだけど」
「……あー、わかった。顔洗ったら起こすわ」
「では、ぼくは準備をしておこうか。事後承諾だけど、食器類と食材は勝手に借りたよ。並べるのはそこの卓袱台の上でいいかな?」
「任すよ」
俺は立ち上がり、ひらひらと手を振りながら洗面所のほうへ向かう。「任された」という秋良の声が背中側から聞こえてきたから、たぶん勝手にやってくれるだろう。
考えてみればありがたい話だ。秋良なりに、たぶん気を回してくれたのだと思う。
顔を洗って寝間着から着替える頃には、卓袱台の上へ三人分の朝食が並べられていた。
叶はまだ起きていない。俺は暖簾をくぐって、隣の部屋へと入っていった。
ぼっさぼさの長い髪を乱した、布団の上で猫のように丸まっている叶の姿が目に入る。へそを出して寝ているというのに、やはりまるで色気がない。逆にすごいレベル。
実に相変わらずだ。秋良とはまた違った意味で、この姿を見ていると安心感すら覚えてしまう。
スマートフォンのアラームを最大音量に設定して、叶の耳元で爆音を流した。
「……………………ぬぇー……?」
もぞもぞと蠢く叶は、さすがの寝起きの悪さである。この程度では起きやしない。
「叶ー、起きろー。朝だぞー。メシの時間だー」
「んぅー……なぁに、だれー……」
「お前はいつも同じことを訊くよね……。お隣の我喜屋さんですよ」
「……あぁー……みなかぁー……」
「そうだぞー」
「じゃあ、いいやー……」
「おかしいぞー?」
どういう意味ですかね。俺なら無視してもいいってこと? 喧嘩売ってるの?
やっぱり寝起きでもかわいくない奴だった。露わになっている額をぺしぺしと叩く。
「起きろって言ってんだよ。秋良の料理を食い損ねるのはお前にとっても損失だぞ」
あらゆるステータスを軒並み高水準で備えている奴だ。何度も食べたことがある、ってわけじゃないが、料理の腕前なら秋良と叶はいい勝負をするだろう。
「むぇあ」
言語でもなんもない呻きを上げ、ようやく叶が目を開く。
そして俺の顔を見て言った。
「……んぇ、みな……? あー……おはよー」
「ん、おはよう。どうする? まだ寝てるならそれでもいいけど。メシ食うか?」
「めし……くう……」
「はいよ」
「……おかわり……」
「うん。えっと、どうしたの? もう食べてるの? 早いね?」
「シェフを呼べぇ……」
「秋良さーん! 呼んでますよー!」
暖簾の向こうからの返事はなかった。叶がむっくりと上体を起こす。へそが隠れた。
よし。体が起きれば、もうあと数分もすれば覚醒するだろう。
「着替えたら来いよ。先に食べてるからな?」
「…………」
返事はない。ただまあ、このまま二度寝することはないから大丈夫だろう。
ふた昔前くらいのコンピューターにすら劣る起動速度の叶を放置し、役目は果たしたと暖簾をくぐって再び自室へと戻った。
秋良が腹を抱えて蹲っていた。
「……え、どした? 体調でも……」
「く、いや……そじゃな……っ、あ……お、お腹痛っ……なんだ今の……っ!!」
どうも笑っているだけのご様子で。
なんだ。何がそんなに面白かったっていうんだ。
「き、君らは朝、いつもそんななのか……?」
珍しくも、瞳に涙さえ浮かべて肩を震わせている秋良。
寝起きの叶は確かに見物だが、そこまで大笑いするほどだろうか。うーん。
「まあ、いつもだいたいこんな感じだけど……」
「そうか……いや、電話越しに伝わってはきていたけど。本当に面白いな、君らは」
「そんなにか? いやまあ、気持ちはわかるけどさ。あいつすげえ朝弱くて」
「……未那も未那で面白かったんだけどね」
いや、だから、どこが?
その後、覚醒を果たした叶と二度目の朝の挨拶をして、それから朝食に移った。
秋良が作ってくれたのは、スタンダードな和食メニューだ。ご飯と味噌汁、卵焼きに、それから野菜がメインの煮物。副菜におひたしも完備と、まあ隙がない。
「朝からありあわせでこれだけのものを……くっ。やるわね、秋良。美味しいよ」
「実は昨日、寝る前にこっそり仕込みはしておいたしね。そういう叶も料理は得意だって話じゃないか。できれば食べてみたいな?」
「ふうん? それはわたしに対する挑戦状? 受けて立ってもいいけど」
「……いや別に勝負を吹っかけたつもりはなかったんだが」
「あれ?」
「そういうところも未那と似ているよね、叶」
「なんでこれだけでこいつと同じ扱いされなきゃいけないのさ」
「なんで叶の話で俺が引き合いに出されなきゃいけないんだよ」
「語るに落ちてるからだよ……リアクションがほぼおんなじじゃないか」
あっさりと断言されてしまっては、俺も叶も返す言葉はなかった。
にしても、このふたりもずいぶん打ち解けたものだと思う。まだ会って二日目だというのに、想像より距離が縮んでいる気がした。
そりゃ相性は悪くないふたりだと思っていたけれど、一夜でここまでになるか。ともすれば昨日、何か話したのかもしれない。
しかし考えてみれば。もしこのふたりが手を組んだら、それは俺にとって相当に面白くない事態なのではないだろうか。
嫌な想像に、思わず背筋が震えてしまう。
朝食を終えたあとは、俺が皿を洗い、叶が淹れたお茶を並べると三人でひと息ついた。
朝のニュースをテレビで漫然と流しながら雑談をする。話題は今日のことについて。
「ふたりはどうするんだ?」
俺の問いに、秋良は軽く肩を竦める。
「実のところ特に予定はないかな。あまり考えていなかったから」
さなかがあえて今日を指定したのは、間違いなく秋良の差し金だろう。けれど秋良自身は、これで意外と俺のいない一日をどう過ごすのか、予定を立てていないようだった。
考えているようでいて、どこか刹那的なところのある奴だ。
まあ、叶と秋良を残すことで、ふたりが気まずくなるようなことはなさそうだし、そう深く考える必要もないかもしれないが。
「そうだね。叶がいいなら、ふたりでちょっと出かけてくるというのはどうだろう?」
と、秋良は言った。叶は少し目を見開いて、けれどすぐ答える。
「……ま、別にいいよ、秋良となら」
即答。ちょっと意外なような、むしろ逆に想像通りのような。秋良は微笑んだ。
「それは嬉しいね。けれど、デートコースに何かアテはあるのかな?」
「そこは大して考えてないけど……いいでしょ、別に適当で」
「確かに。叶といっしょなら、どこに行っても楽しくやれそうだ」
「……秋良、やっぱ未那の友達だわ。タチ悪いこと言うよね。何人騙してきたんだか」
「はは。しかし未那の友達だと言われてもね。事実だし、ぼくは嬉しいだけさ」
「前言撤回。――未那より数段タチが悪い」
「いや、そもそも俺がタチ悪いってことが前提になってる時点からおかしくない?」
というツッコミは、ふたり揃って綺麗に無視。――ホント仲よくなったねチクショウ。
少し不貞腐れながらお茶を啜る。時刻は午前九時少し前になっていた。
玄関のチャイムが鳴らされたのは、ちょうどこのときだった。呼び鈴の音が部屋に響く。
「はーい!」
と叫んで扉を開けに向かうと、その奥には見慣れた姿。敬礼するように手を額に当てた少女が、持ち前の明るさを存分に発揮して、夏のように笑っていた。
「おっす、未那! おはよー!」
「おはよう、さなか。――思ったより早いね?」
「夏休みだからね!」理屈になっていない、けれど気持ちはわかる言葉。「あとほら、先に荷物置いとこうと思ったし、秋良ちゃんや叶ちゃんにも会っておきたいじゃん?」
「なるほどね。まあ入ってよ。あ、荷物は預かっとく」
街へ遊びに行くにしては、少し大掛かりな荷物を持っているさなか。宿泊の用意だ。
さなかを中に引き入れると、四つ目の湯呑みを準備しながら、叶が苦笑して言う。
「おはよ、さなか。……なんて言ってきたの?」
「正直に言ってきたよ? 叶ちゃんのアパートに泊まりに行ってくる、って」
「……なるほど。さなかもしたたかになったもんだよね」
「あはは! おかげさまって言っておこうかな?」
結局。さなかは本当に、隣の一〇一号室に宿泊することを決めていた。
俺としても、当然これは歓迎すべき事態だ。空間青春濃度80%は固いと言っていい。
別に、俺の部屋に泊まるってわけでもないのだし。うん、楽しくなりそうだ。
……まあ仮にもデート直前に、この面子で俺の部屋に集まっていること自体は、かなり意味がわからない気もするが。
所詮は俺だし、こんなものなのかもしれない。
「秋良ちゃんも、おはよ。夜はどうだった?」
卓袱台の横にちょこんと腰を下ろして、さなかは言う。秋良も笑顔で応じた。
「ほほう? 夜のことを訊くとはね。えろいことを訊くじゃないか、さなか」
「――今わたし、えろいこと訊いたかな!?」
「だって、夜だぜ」
「してたの!? してたの、えろいこと!? してたの夜っ!?」
「もししてたら、えらいことだね」
「ここでダジャレ――!?」
弄ばれているさなかであった。
「まあ、昨日のことはふたりだけの秘密だからね。それでも聞きたいかい?」
「な、ななななな……!」
「うーん。どうしよう、話してもいいかな――叶?」
「まさかのそっち――!?」
「……さなかは本当にかわいいなあ」
顔を赤くして、口をパクパクさせているさなかを見て、噛み締めるように呟く秋良。
その言いようでようやく、さなかも冗談だと気づいたようだった。
もうっ! と頬を膨らませて睨むけれど、迫力なんてまったくない。むしろかわいい。
……よくやった秋良。
叶からお茶を貰って落ち着くさなか。
その様子を見ながら、秋良と叶が言う。
「なんだか、未那にさなかを持っていかれるのが癪になってきたね」
「わかる。ね、今日やっぱり三人で出かけない? さなかと、秋良と、わたしで」
「えっ、どうしよう行きたい」
「――俺は!?」
なんかいきなりハブられそうになっていた。いやまあ、冗談なのはわかるけど。
……冗談だよね?
ちょっと不安になってきたので、確認はしないでおくことにする。
別段、それならそれで、少なくとも悪いことではないと思うのだ。俺のような主役理論者ではないとしても。
友達と、友達が、友達になってくれるのなら。
それを、俺はきっと喜べるから。
俺が何をしたというわけではないけれど。それでも、この三人がこうして仲よくなってくれていることが、ただ純粋に嬉しかった。
――だってそれは楽しい夏を、きっと、もっと、ずっと楽しくしてくれることだから。
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