3-05『きっと、当人以外は知っていた1』
待ちに待った、主役理論の夏が来た。
期末テストを乗り越え、クラス会が終了すれば、終業式までは刹那ほどで。瞬きの間に訪れた夏休みを、俺は過去最高のテンションで歓迎する心づもりだ。
思えば夏休みになる前から、クラスメイトと夏休み中に遊びに行く約束がある、という状況が人生初だし。
遊ぶ相手なんざせいぜい旧友くらいで、わざわざ約束などすることのほうが稀だった。なんとなく思いついたときに、お互い適当に呼び出し、呼び出されていただけだから。
もちろん俺の目的は、楽しい青春を送ること――それだけに尽きる。
高校生である以上、さすがに遊んでばかりとはいかないが、そうじゃない。真の楽しさとは常に密度が最優先されるべきだと俺は思っていた。
なんて言うと少し伝わりづらいが、結局のところ自分がどれだけ楽しさを追い求めることができるか。焦点はそこに尽きている。
なんとなれば、俺は夏休みの宿題を、夏休みが始まる前に完璧に終わらせてしまったのだから。
宿題だって何も終業式の直前に纏めて課されるのではなく、早いものでは一か月くらい前からすでに、教科担当が示してくれる。俺は出されたその日から始めていた。
このところは貯金もそこそこできている。夏休み中ももちろんバイトはあるが、七月に入る前から、俺は少しずつシフトを増やして貯金を始めていたのだから。
目的は違えど、これは叶も同じことをしていた。
そんな様子を見た真矢さんが言うことにゃ、
「……普通、テスト前はシフトを減らして、休みに入ってから稼ぐもんだけどねえ」
と。かもしれないとは思うが、俺と叶はこう答える。
「いや、だからこそ今のうちならシフトが入れやすいじゃないですか。真矢さんも大学のテストやデザートの試作でシフト減らしてましたし。逆にチャンスだと思いまして」
「悔しいですけど未那の言う通りですよ。貴重な夏休みの前に稼いで、貯まったお金を夏休みで一気に開放する。これ以上の贅沢はないとさえ、ええ、わたしは思いますね」
「同感だけど、それはそれとしてなんでいちいち要らんことつけ加えんのお前?」
「やっかましいな。あんたこそいちいち反論しないと気が済まないわけ? 細かいな」
「それお前が言えた義理じゃないよね。先に言ったのそっちなんだけど」
「だから何? レディファーストって言葉知らないの? 前も訊かなかったっけ?」
「それ絶対そういう意味じゃねえし」
「あーうるさい細かいゆとりがない」
もうわかったからふたりとも黙れ、と真矢さんに言われるまで俺たちは口論を続けた。
「……いやまあ、言わんとせんことはわかるけどもね。はあ……どうしてあんたたちは、そういうとこだけそっくりなのかね。同族嫌悪ってヤツなのかね、これが」
「「いや別にこいつとなんて似てませんし」」
「だから被せて言うなっての。何? それ打ち合わせとかしてるの、実は?」
いっそしていたのなら、まだしも救いがあったと思う。
ともあれ。六月頃は常連にはなっていた友人――
となれば今度こそさなかといっしょに、あの屋台で食事をするのもいいかもしれない。あるいは此香をどこか遊びに誘ってみてもいいだろう。
例の一件以降、さなかの説得で、此香も少しずつ余裕を取り戻して、料理修行以外にも時間を使っていると聞く。
ああ。想像するだけで、なんて楽しい日々になるだろうことか。
この先の夏を考えるだけで、俺のテンションなんて自然と上がっていくのだった。
――そう。このときの俺は想像さえしていなかったのだ。
まさか、こんなにも楽しい(予定の)夏休みに、初日で陰が落ちるだなんてこと――。
「……いやまあ、単にみんなで宿題をやろうってだけなんだけどね」
俺だけでなく誰もが一応、《夏休みの最初で宿題を終わらせてしまおう》というくらいのことは考えるものらしい。そりゃ当たり前の話ではあるのだろうが。
けれど、さすがに夏休みが始まる前からコツコツ全てを消化しきっている、もはや逆にアホなんじゃないですか? みたいな人間は、少なくとも俺のクラスにはふたりだけしかいなかった。
片方は俺で――えーと、これもう片方が誰かとか言わなくていいですよね?
さっさと宿題やっちまわね? という勝司の提案に、「え、俺もう全部終わらせたけど」と俺が答えたときの場の空気と突き刺さる視線の温度たるやもう筆舌に尽くしがたい。
葵さんがあり得ないものを見る目で、俺に訊いたものだ。
「……終わらせた? 全部?」
「え……うん。だって出されたの割と前だし……え、なんかおかしい?」
「いや別におかしくはないけど……なんで?」
「そりゃ夏休みを全力で楽しみには、後顧の憂いは祓っておくのがベスト……だと……」
「……すげえわ未那」
偶然、近くで話を聞いていたどこぞの脇役哲学者が、「あ、これ余計なこと言わんどこ」みたいな顔してたことには、たぶん俺だけしか気づいていなかった。
あいつめ。
そのせいで、夏休み最初のイベントになるだろう《宿題やろうの会》に、危うく俺だけ参加できなくなるところだった。まさかこんな罠があるとは想定していなかったぜ……。
「まあ、教える役として参加することでことなきを得たわけなんだけど」
「……あの。さっきから、どうして独り言を呟いているんですか、我喜屋くん?」
それはもちろん、改めてこれからの覚悟を定めるためだが。
そんなこと言っても誰にも通じないし、ていうか図書室で喋ること自体が邪魔だろう。
「ごめん、なんでもない。独り言。邪魔しちゃって悪いね」
「いえ、それは別に。私も我喜屋くんと同じで、早めに始めてましたから。さすがに全部終わらせてはないですけど、余裕自体はあるんですよ」
同級生にも律儀な丁寧語でそう語るのは、同じクラスの女子生徒――
相変わらず、なんと言うか、妙に図書室の似合う女の子だ。
フォローを入れてもらったはいいが、それでも集中を削いだのは事実だろう。気遣いに感謝しつつ、俺は野中に訊ねる。
学校の図書室で、こうして彼女と話すのも何度目か。
夏休み中も、お盆の期間を除けば学校の一部施設はこうして開放されていた。
「今やってるのは……世界史のレポートか。面倒だよね」
「ですね」
苦笑する野中とふたり、隣同士で、静寂に包まれた図書室の中にいる。そんな空気が、なぜかやたらと心地よかった。もちろんここにはほかにも生徒や教師がいるが、なぜだかまるでふたりきりのような錯覚に陥ってしまうのだ。
そういう雰囲気が野中にはある、のだろう。
落ち着いていて大人しい――大人びた性格の少女だった。
常に丁寧語で話すが、それで隔たりを感じさせるようなことはない。物静かだが無口ではなく、柔らかな笑みを湛えている姿を見ているだけで、いい意味での安らぎをこちらにも分け与えてくれる。
いや、別に図書室で会うと眠くなる、という意味ではなくて。
「普段は暗記科目ですからね。こうして考えることを要求されると、どこから手をつけていいのか、ちょっとわからなくなってしまいます」
持参したらしいノートパソコンの打鍵を休んで、野中は囁くように言った。
彼女が先ほどから記しているのは、世界史の宿題として課されている二学期範囲の予習レポートだ。これから学ぶ予定の単元から好きな箇所を選び出し、興味のある点や疑問を持った点などを適当に纏める程度のものだが、言葉でやれと言われると確かに考える。
「野中はそういうの苦手?」
「そう、ですね……苦手と言うかなんと言うか。単純に数学の問題集を淡々と解いているほうが機械的にできて気楽、というのはあるかもしれません」
「なるほど。俺なんかは逆に、こういうなんとでもでっち上げられる課題のほうが楽なんだけどな。まあ言い方は悪いけど」
黙々と数学の問題集を解いているより、言葉で答えられる課題のほうが俺は得意だ。
野中は全般的に成績がいいが、そういえば、実は理系分野のほうが点数は高いと聞く。
「確かに我喜屋くんはそんな感じかもです。あ、別に性格が適当だって言ってるわけじゃないですよ?」
「実際、割と適当だから大丈夫。逆に野中は割と理系っぽい感じだよね。意外……なのかどうかは微妙なラインだけど」
「そうですか?」
「ほら、よく図書室にいるから。イメージ的には文学少女っぽいよね。深窓の令嬢的な」
そんな俺の評に、野中はくすくすと噛み殺すような笑みを零す。
一見して主張少なで目立たない少女だが、これでよく笑うしかわいらしい。
クラスの男連中から、陰でモテるタイプの女の子という感じだろうか。さなかとは別ベクトルだ。
「確かに読書はよくしますけど。これで結構、機械とかも強いんですよ?」
悪戯っぽく野中は微笑む。彼女が言うのだから、それは事実なのだろう。
逆に俺は、実は割と機械関係に弱かった。
説明書なんかを読むこと自体は好きなのだが、実際に使うときはまず触ってみるタイプだ。最近のハイテクは半分も使いこなせない。
ていうか、スマホとか最近もう高性能すぎるような気がする。もちろん野中のように、機能を十全に使いこなせる人間もいるのだろうが、俺は普段使わない機能なんてほとんど覚えていない。
少し前までは、通信機能つき目覚まし時計だと認識していたくらいだ。
連絡が入ること自体が稀だったからね。仕方ないよね。
「というか、我喜屋くん。文学少女というなら、それこそ私よりもイメージの近いひとがいると思いますけど? それも、我喜屋くんのすぐ近くに」
そんなことを野中は言った。
はて、いったい誰のことだろう、と俺は首を傾げる。そんな奴がいただろうか。
俺が疑問していることに気づいたのだろう。野中は続けてこう言った。
「友利さんのことですよ。結構よく本を読んでいますし、外見もお淑やかでしょう?」
「……あー。まあ、言われてみればそう、なんだろうね外面だけなら……」
叶のイメージがまったく違ったもので固定されているから、文学少女という字面と結びつけられなかった。答えを聞いた今でさえ、実感としてはあまり想像できていない。
ていうか叶がお淑やかとか。
本人が目の前にいたら鼻で笑ってしまう。
さすがに、あいつが学校で作っているイメージを、わざわざ崩すようなことは言わないけれど。それでも野中なら、叶が猫を被っていることくらい知っているだろうに。
「……なるほど。ちょっと気になりますね」
果たして野中はそんなことを言う。何がだろう、と首を傾げる俺に。
「我喜屋くんの目から見た友利さんが、いったいどんな風に映っているのかが」
「……どうなんだろうね。見たままだと思うけど」
そう答えるほか、なかった。野中に下手なことを言っても勝ち目がない。
しかも今日の野中は、夏休みだからだろうか、ここで言葉を止めずさらに続ける。普段の野中なら、きっとこの辺りで話すことをやめていただろうに。
「では、ちょっと訊いてもいいですか?」
「俺に答えられることならね」
俺は当然、そう返す。実際問題、微妙にやることがなくて暇だったのだ。
野中が雑談に付き合ってくれるというのなら、主役理論どうこうなくても歓迎だった。
ぱたり、と野中がノートパソコンの蓋を閉じる。それから言った。
「我喜屋くんは、このクラスの女子生徒の中で誰がかわいいと思いますか?」
「……完全に想定してなかった角度からの質問で今ちょっと驚いてる」
「我喜屋くんを驚かすことができたなら、よかったです」
「うん。そうだね。ありがとう」
そう答えるしかないっていうか野中が強い。本当に強い。
この子、実は渉外とか向いているんじゃなかろうか。意外に営業職とかで出世しそう。
「……しかし、そうまっすぐ訊かれると迷うね」
野中はいったい何を考え、どういう答えを求めて、それを訊いたのだろう。まるで男子同士の休み時間の雑談みたいな質問だったが、それと同じ軽さで答えていいものなのか。
野郎のバカ話なら冗談で済むが、女子が相手では答え方を迷ってしまう。下手な答えで機嫌を損ねるのは嫌だった。……どうしたものかな。
「――あれ。なんの話?」
と。そこで会話に入ってきたのは、クラスメイトの
今日の会には俺と野中以外に、さなかと葵、そして泰孝が参加している。
言い出しっぺだった勝司は、急用で呼び出されたと泣く泣く不参加だった。
「恋バナというアレですよ。我喜屋くんはこのクラスで誰がお気に入りかのお話です」
「へえ! ちょっと興味あるなあ」
「……そう喰いつかれると恥ずかしくなってくるんですけど」
とはいえ、このふたりならまあいいか、と思わせるような相手でもある。できるなら、俺は多くの友人と仲よく過ごしたい。主役理論の第二条にもそう記されている。
こういうのも人柄かな、と俺は少し考えた。主役理論の参考にもできそうなふたりだ。
「別に、ひとりに限る必要はありませんよ。そうですね、ぱっと三人ほどで」
「なんで増えたの」
野中のテンションが意外すぎて別の意味で言葉がない感じ。
それは泰孝も大差なく、
「見てる感じだと、やっぱり未那は湯森さんや吉永さんたちと仲いいよね」
そんなことを言われてしまった。まあ、外から見ている分にはそうだろうけれど。
あえて叶との以前の噂に触れてこなかったのは、泰孝の人格ゆえか、それとも単に学校ではほとんど話していないからか。その両方と言ったところだろう。
「……まあ野中はかわいいと思うけど、俺」
少し迷ってから、俺はまずそう答えた。何も嘘やお世辞ではないし、野中が相手なら気負うこともない。別に反撃してやろうとか考えたわけでは決してないのだ。
そして野中は、これは意外にも目をきょとんと丸く見開いて、驚いたように言う。
「……私ですか? それは……ありがとうございます」
淡々と答える野中だが、ちょっと俺から視線を逸らしたことには気がついていた。
照れている、ということらしい。その反応も実にかわいらしかったが、まあ言うまい。
俺は、視線をそっと図書室の中へ巡らせる。
さなかと葵は、野中と同じく世界史のレポートを作成するため、さきほどから資料用の参考図書を探しているところだった。戻りが遅いのを見るに、どうやら難航している。
そんな様子を、遠巻きに眺めながら俺は言った。
「あとは……そうだな。まあ、さなかや葵なんかは、普通にモテると思うけど」
「なんか普通の答えですね。そこにいるひとの名前を挙げただけでは」
「あはは。意外とガードは固いんだね、未那?」
そんなことを言うふたりだった。
外から見た自分の評価というものについて、ちょっと考えるべきかもしれない。
「……別に嘘言ったつもりはないよ?」
「無難で面白くないです」
「意外と辛辣な評価を返されてしまった……」
野中の落ち着いた口調で言われると、なんだか落ち込みが著しかった。
確かに無難かもしれないが。答える人間によって誤差はあるだろうけれど、クラス内でもし人気を調べたら、上位に来ることは間違いない名前を挙げた気がする。
「……でも、やっぱり。我喜屋くんは、友利さんの名前は挙げないんですね」
と、そこで野中はこんなことを俺に言った。それを確かめるための問いだったのか。
しかし、そんなことを言われても、という感じなのだが。俺にしてみれば。
「友利さんと未那って、家、隣同士なんでしょ? あ、バイト先も同じだったっけ」
泰孝のそんな言葉に俺は頷く。事実の否定はできなかった。
「ま、それはそうだね」
「その割には……もしかして仲悪い、とか?」
「……普通だと思うけどね」
「うーん。ま、未那ならそうか。友達多いもんね、未那は」
……どうなのだろう。そうなるよう努めてきたつもりはある。
けれど――じゃあ、どこからが友達なのか。友人と、ただの知人との差を決定づける境界とはなんなのだろう。
俺の中に定義があるとして、それは誰かに押しつけていいものだろうか。
「友利さんは結構、男子のみんなから人気、あると思いますよ?」
小さく、野中がそう言った。
「そうなの?」
「ええ。我喜屋くんとは違って」
「……あの。その補足は必要だったのでしょうか」
「友利さんの名前を挙げない我喜屋くんとは違ってほかの男子からは人気がありますよ、という意味です」
本当かな……なんかそんなニュアンスじゃなかった気がするんだけど……。
言葉が辛辣と言えば叶や葵もそうだが、野中はなんていうかもうレベルが違う。なんか本気で言っているように聞こえるのだ。
冗談と思っていいんだよね?
大丈夫だよね?
別に自分が女子から人気だとは思っていないけれど。
「ところで我喜屋くん」
と。そんな俺の考えを知ってか知らずか、野中はさらに話題を発展させていく。
「えーと。なんでしょう?」
訊ね返した俺に、野中は普段とまるで変わらない様子でこう答えた。
「湯森さんと付き合っているんですか?」
「――――――――」
「そうですか。まだ付き合ってはいないんですね」
「何も答えてないんですが」
「わかりやすすぎますよ、我喜屋くんは。顔に全部書いてあるじゃないですか」
いくらなんでも、これは野中の洞察力がすごすぎるだけだと思うのだが。
文学少女というより、これではもう安楽椅子探偵の領域だ。何この鋭い観察眼。
「すみません、興味本位でいろいろ訊いてしまって」
野中はそう言って、ぺこりと頭を下げた。
「いや、別に……それはいいんだけど」
「面白かったですよ」
「なんだろう。さっき面白くなかったって言われて傷ついたのに、面白いって言われてもそれはそれで傷つくよね。もうどうしようもないよね」
という俺の言葉をしれっとスルーして、野中はこう言った。
「あれですか。我喜屋くん的に、友利さんは絶対に恋愛対象に入らないんですか?」
「……ならないと思うけどね、俺は。向こうもそれは同じだろうし」
「そうですか……」
野中はそう呟き、それきり口を閉ざしてしまった。
なんとなく。それ以上、突っ込んで何かを訊くこともできず、俺も口を閉じる。
図書室の窓から差し込んでくる西日が、なんだかやけに眩しい気がした。
俺のところにまで、その光は届いていなかったのに。
「うーん。いいね、こういう話も。なんか、青春って感じで」
そんな風に零された泰孝の言葉には、俺もまったく同感だったけれど。
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