3-04『主役理論の夏(目前)4』

 特に探すまでもなく、角を折れた少し先でさなかを見つけた。

 彼女は道の端にしゃがみ込んで、何やら頭を抱えている。

 その先に立つ電柱を見るに、


「……もしかして、ぶつかった?」


 その声に、肩をピクリと反応させてさなかが振り向く。

 頭を抱えたさなかは、少し涙目になっていた。そんな勢いでぶつかったのなら、かなり心配だ。咄嗟に駆け寄ろうとしたところに、待ったをかけるようなさなかの声。


「……ちがう。ぶつかったんじゃない」

「じゃあ、さっきの声は……」


 答えにくそうに、さなかは目を左右へと動かし、けれど諦めたみたいに、相変わらずの赤い顔で、消え入りそうに呟いた。


「……ぶつけたの」

「いや、だからやっぱりぶつかったんじゃ……」

「そうじゃなくて。――自分で、頭を電柱にぶつけました」

「……………………」

「……なんか言ってよ」

「いや。さなかは、相変わらず俺の想像を簡単に超えていくなあ、って。さすがだね」

「嬉しくない……」

「いや。そういう奴はあんまりいないぞ?」

「ほか誰」

「……叶とか」

「やっぱり嬉しくない」

「まああいつも、さなかほどじゃないかな。うん。一位」

「うーれーしーくーなーい!」


 ついにさなかは吠えた。なんか怒っている感じがする。


「そもそも誰のせいだと思ってるんだよっ」

「俺のせいだった?」

「わたしのせいだよばかー!」

「……さなかのそういうとこスゲーよ、本当。これ本心でね」


 まあ、さなかとて本気で怪我をするほどの勢いで電柱に頭突きをかまさないだろう。


 ……たぶん。やらないよね? さすがにないよね、信じるよ?


 蹲るさなかに近づき、片手を差し伸べる。

 さなかは、少しだけ迷ってから、それでも俺の手を取ってくれた。引っ張り上げるようにして立たせてから、正面に立って俺は訊ねる。


「……で? なんで逃げたのか訊いていいヤツ、これ?」


 さなかもさすがに冷静さを取り戻したようだった。

 それでもまあ、こんなところは見られたくなかったからだろう。ちょっと拗ねたように唇を尖らせながら言う。


「いきなりの情報に、もういっぱいいっぱいだったから」

「それで逃げ出す辺りがさなかだよなあ」

「完全には逃げてません。だってここにいたし」

「頭を打ったからじゃないの……」

「冷静になるために、あえて頭を打ったんだから。冷静だもん」

「いや。冷静な人間は頭を打たない」

「……ふんっ」


 そっぽを向くさなかさんであった。やはりお怒りの模様。


「未那のせいだし……いつもいつも未那はわたしの冷静さを奪っていくよ。泥棒だよ」

「……俺も同じ言葉を返したいけどね」

「そんなことしてないし」

「俺だってしてるつもりないけど」

「うるさいばか。未那の、この……この冷静怪盗」

「冷静怪盗」

「そのまま繰り返すなよぉ!」

「冷静と解凍でね、うん。なんか冷たいんだか温いんだかみたいなね。そういうね?」

「いや、そういうこと言ってるんじゃないからっ!」

「チルドさなか」

「何が!? なんで魚みたいに言ったの!?」

「いや……でも冷静に考えて、そもそも盗むほどさなかは冷静さとか持ってないよね」

「それ未那が言うぅ!? わたしの家まで走ってきた人が言うことじゃないよ!」

「……あ、それ、それ言います? それ言ったら俺だって」

「言ったらブッ飛ばすから」

「さなかさん……言葉遣いがよろしくないですよ……悪影響受けてない? 大丈夫?」

「うるさいばか。影響なんて、受けるとしたら未那からだけだよ!」

「……ああ。じゃあダメだ……」

「ダメなんだ!? そこ認めちゃうんだ!?」

「手遅れです。諦めてください」

「わたしもう未那の自己評価の基準がわかんない……」

「ああ。ところでさなか、そんなことよりさ」

「そんなことって」

「――今度、ふたりでどっか遊びに行かない?」

「…………………………………………」


 それを告げても。

 さなかは、赤くなったり、慌てたり、取り乱したりするようなことはなかった。

 ただ黙り込んで、まっすぐ俺の顔を見つめている。


「無反応は、ちょっと傷つくんだけど」

「いきなりそんなこと言うから。驚いたんだよ」

「……ダメ?」

「それは訊き方がずるいよ。ダメって言うわけないじゃんか」


 俺は思わず頭を掻いた。

 ……参った。こうもまっすぐ言われては、俺のほうが恥ずかしさで逃げ出したくなる。確かに、さなかのことを言えた義理ではなかった。

 徐々に顔が赤くなっていくことを自覚していると、小さくさなかが零す。


「ただ、ひとつ言っていい?」

「……どうぞ」

「なら、もっと早く言ってほしかった、かな。……一応、待ってたつもりなんだけど」

「ヘタレですみません……」


 仰る通りとしか言いようがない。

 いっしょに歩こうとかなんとか言った気がするし。弁解の余地など微塵もない。

 そしてさなかさんときたら、どこか獲物を見つけた狩人のように嗜虐的な笑みで。


「ま、わたしも言えた義理じゃないけどさー。なんだかなー。やっぱり、そういうのって男の子のほうから言ってほしいじゃん?」


 急所に当たった。


「ぐぅ……」

「これでも結構、わたしはアピールしてたつもりなんだけどなー」

「……うぎ」

「ていうかこの期に及んで『ふたりで遊び行こう』って」

「……ぐあぁ……」

「ねえ、未那。これ、デートってことでいいんだよね? わたし、そう思うからね?」


 正直もう俺にどうにかできる次元を超えている。

 ダメだヤバい。もう何もわからない。

 主役理論の神様、俺はいったいどうしたらいい?


 ……そんなこと決まってるか。


「ん。そのつもり。そう思ってくれるなら、俺も……嬉しい」

「……そっか」

「だから、改めて誘わせてもらっていいかな。――俺と、デートしてくれませんか?」

「うん。喜んで」

「…………くぁ……っ」


 もう顔から火が出そうだった。

 あかん。逃げ出したい。今すぐここから逃げ出したい。おでん屋とかに駆け込んで、あつあつのおでんを一気に食べて火傷とかしたい。

 ……ああ。もしかしてこいつが、さなかが頭を自分で打った理屈なのか。どうしよう、理解できてしまった。

 俺とさなかって実は似てるのかもしれない。主に残念なところが。


「えへへ」


 と。さなかがはにかむ。少しだけ、その顔が朱色に染まって見えるのは、何も今が夕方からというわけではないはずで。

 それでも、普段の赤面とはまったく違う表情で、さなかは小さくこぶしを握る。


「……やたっ」


 花が咲いたように笑うさなか。いつもと変わらない、どこまで明るい、そいつはとても魅力的な表情で。思わず数秒、俺は呼吸を止められてしまう。


 ――あー。これは、もう、こんなの……ずるいだろ。


 俺は思わず言葉を作ってしまう。

 そんな言葉は、きっと主役理論の本意に沿っていないと気がつきながら。それでも、ただこの空気を打破するためだけに、逃げの一手を打つ。


「……まあ、言わせてもらえば、さなかのあのヒロインチャレンジも大概だったけどね」

「な――このタイミングでそういうこと言うぅ!?」


 むっとしたように、さなかが頬を膨らませて叫んだ。

 ああ、この感じはとてもいい。いつも通り、という気がしてくる。


「だってそうでしょ? 正直、言わなかったけどコントやってるのかと思ってたよ」

「コント!?」

「もしくは漫才? ヒロインじゃなくて芸人を目指しているのかと」

「そ、そこまで言いますか……むぅ」


 顔の赤いさなかだった。俺は笑いながらそれを見る。


「未那って、実は反撃しないと気が済まないとこあるよね。別に叶ちゃん相手に限らず」

「いや、そんなつもりはないけど。言われっ放しはどうかと思ってね」


 叶というよりは、むしろあの旧友に鍛えられた素養だろう。

 あいつに対してだけは、俺はいつだって負けっ放しだったのだから。


「やっぱそうじゃん……そういうとこ、わたし、ちょっと子どもっぽいと思う」

「まあ大人じゃないからね」

「ほーら、言い返してくるじゃん」

「……主役がどうのこうの言ってる大人がいるわけないでしょ」

「うわー……それ、わたしにも効くなあ」


 なんだかなあ、とさなかは呟く。

 呆れたようでいて、それでもどこか愉快そうに。


「わたし、もうちょっとこう、ロマンチックな感じを期待してたんだけどなあ」

「……ヒロイン的に?」

「じゃなくても、だよ。わかってないなあ。女の子なら普通ですー」


 さなかは後ろ手に手を組んで、くるり、とその場を回る。

 場の青春濃度は、少し前からもう測定不能だ。呼吸の仕方がわからなくなって、徐々に胸が詰まってくるような。とっくに飽和してしまっている。


「そんな恥ずかしいことわざわざ言わないけどさ。女の子なら、たぶん誰だって、きっとヒロインに憧れてるものなのですよ」

「……さっき女子の情報網から外されてる疑惑が浮上してなかったっけ?」

「あーもー! 葵の言うことなんか真に受けなくていいからっ!」


 まあでも、きっとそうなのだろう。

 男の子がいつだって、ヒーローに憧れるのと同じように。


 それを高校生になった今だって続けている辺り、確かに子どもとしか言いようがない。


「ま、いいや。なんか追いかけてきてもらっちゃったし。それはそれで、たぶんヒロインっぽいよね、きっと」

「……さなかの理想が低くて助かるぜ俺は」

「何言ってるの。赤点ギリギリだよ」

「そっか。ならこれからは、満点とは言わずとも、及第点が取れるようがんばるよ」


 それはたぶん、たとえ主役じゃなくても、男としては当然の矜持だから。

 なんて言えるほど大したものでは、おそらくないのだとしても。


「それじゃ、さしあたり今度の期末テストをがんばろうか。これで赤点取って、夏休みに補修が入ったら笑い話になっちまう」

「考えないようにしてたのに……なんか急に現実的になったなあ」

「さなかは勉強そんな苦手じゃないでしょ、別に」

「そんな得意ってわけでもないけど。まあ普通だよ、普通」

「……さなかって、自分で言うほど普通じゃないと思うけどね、俺は」

「それ言うならわたしだって、未那は絶対普通じゃないと思ってるからね?」

「隣の芝生は、青く見えるみたいだね」

「そういうことなのかな」

「いいんじゃない? だって、青ってのは青春の色だ」


 軽く肩を竦めながら、冗談めかして俺は言った。

 さて。言うべきことは果たした。そろそろ帰るとしよう。


「……ま、そんな感じだから。まだ何も決めてないけど、そのうち連絡するよ」

「ん。楽しみにしてる。……また走って家まで迎えに来てもらおうかな?」

「いっそ本当にやってやろうか、こんにゃろ」

「あはは!」


 と。さなかは、本当に楽しそうに笑った。

 感情を素直に表に出せる彼女を、俺はどこかで羨ましいと思っていたのかもしれない。そんなことを、ふと考えた。

 だから気づけば、さなかを目で追っていたのだろうか。


 きっと、さなかより優れている人間なんてどこにだっている。

 けれど、普通だと彼女は言うけれど――そうやって誰より自然にあれることは、さなかにしかない魅力なのだ。


「今日は楽しかったよ。うん、なんか初めて未那と喧嘩っぽいことできたし」

「……それ、そんなに喜ぶようなことかな? 別に喧嘩でもなかったと思うけど」

「じゃ、じゃれ合い? なんでもいいんだけどさ、こうやって普通に話ができるのって、やっぱりいいなって思うから。……羨ましくなかったって言ったら、嘘になるし」


 誰のことを言っているのかなんて、もちろん自明だったけれど。

 だからって、俺は特に何を言うつもりもなかった。きっとさなかも求めていない。

 だが事実として、確かに俺とさなかの間には、あの青春公園での恥ずかしすぎる事件のあとから、お互いにちょっとした気恥ずかしさを持ち込んでいたように思う。

 それが解消されたのなら――ああ、こんなに素晴らしいことはない。


「じゃ、またね。未那」


 手を振るさなかに、おう、と笑って答える。

 家では叶が、また眠そうな顔をして料理を始めている頃だろうか。



「――あ、そうだ。まだ言ってなかったんだけど」


 そのとき。唐突に、さなかがそんな風に切り出す。


「え、なんのこと?」


 そう訊ねた俺に、さなかは小さく笑って、それから数歩を後ろに下がった。

 それからはにかむように笑って、彼女は悪戯っぽく、こんなことを言ってのける。


「さっき、わたしが走り出したのはなんでかって話なんだけど」

「ああ……なんだったの?」

「昔、小さい頃、好きだった男の子がいてさ。なんか綺麗な顔した友達と、三人で遊んだこと覚えてたんだよ。いつも楽しそうで、いろんなとこ連れ出してくれた男の子」

「……それって」

「実は、その男の子がね――わたしの初恋だったな、ってこと、思い出しちゃって」


 その言葉の意味を完全に呑み込むまで、俺は数秒の時間を要した。

 理解は一瞬だ。意味を勘違いする余地などない。

 けれどその発言が、俺にはあまりにも意外すぎて、告げられた瞬間に脳機能が完全にフリーズしてしまったのだ。


「……ま、それだけ。えと……それじゃわたし、帰るね。ありがと。――またね」


 だから言及する暇なんてなかった。

 疑問もツッコミも、差し挟む隙をさなかが与えてくれなかったからだ。

 硬直する俺に手を振って、さなかはそのまま帰って行ってしまう。


 止めることなんて思いつきすらしなかった。

 間抜けにも、俺はさなかの姿が完全に道の先へと消えてしまうまで、動くことすらできずに呆然と棒立ちしていたのだから。

 ようやく再起動してから、俺は両手で頭を抱える。


 ――なんだ、今の俺のこのザマは。主役論者にあるまじき失態だ。


 だがこんな突然の告白に対応できるほど、俺には経験の積み重ねも巧みな会話の技量もない。能動的であることこそが主役の第一要件だとはいえ、これはさすがに想定外だ。

 俺は頭を抱えたまま、さきほどのさなかと同じように思わず蹲ってしまう。

 顔が真っ赤に染まっていることは、全身で暴れる、強い熱のような感情が伝えていて。


「……くそ。これは、いくらなんでもずるいだろ……っ!」


 馬鹿になった頭が幾許かまともに戻るまで、その場で時間を費やすしかなかった。

 ――馬鹿は仕様なので、つまりどうしようもないということなのだけれど。



     ※



 余談として。


 かんな荘に帰ったあと、我喜屋未那は就寝前に、宍戸勝司へと電話を掛けた。

 わざわざ友利叶に聞かれないよう部屋の外に出て、敷地の塀に背中を預け、星を眺めながら。

 ほぼ同時刻、湯森さなかもまた友人の吉永葵へと通話を掛けている。

 お互い、目的は同じだ。今日の顛末を、とにかく誰かに報告したかった。それだけ。


 あまりにも恥ずかしいところだけはぼかして、ふたりは友人へ進捗を報告する。

 そんなところはまったく同じで似ているふたりだったのに、残念ながらそこだけは気づかない。

 いや、残念というより、残念というべきかもしれないが。

 そしていずれにせよ、友人ふたりの反応はどちらも似たようなものでしかない。

 これはふたりが似ているからというよりは、誰か聞いても同じ風に思うというだけ。すなわち、


「いや、なんでそこまで言って付き合ってないのか意味がわかんない」

「もう告白したも同然だろ、なんでそこで終わんだよバカじゃねえの」


 その口さがなくも優しい指摘を受け。

 やはり奇しくも、残念なふたりの反応はまったく同じもので。


「――ええっ、今日めっちゃがんばったつもりなのに、なんでそんな反応!?」


 我喜屋未那はともかくとして。

 友利叶を羨ましく思う、湯森さなかの願望は、実はこのとき叶えられていたのだが。


 ――当然、本人たちがそれに気づくことなどない。

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