3-03『主役理論の夏(目前)3』
そんなこんなで、ほのか屋へと移動する。
扉の鈴を鳴らして入ると、カウンターの奥にはすでに臨戦態勢の真矢さんがいた。
もう顔が完全にマジ。この日に懸ける真矢さんの情熱は知っているため、集中の邪魔をしないよう声はかけないでおく。
代わりに、近づいてきたマスターへと挨拶した。
「どうも、マスター」
「やあ、いらっしゃいませ。お友達も。みんな、何度か来てくれているね」
口々にマスターへ感謝を告げる友人たちをひとまず放置し、叶と手近なテーブルに席を取った。
カウンターに近い辺りは、真矢さんと望海さんの戦場だ。離れすぎず近すぎず。
俺と叶のバイト先だから――そしてそれ以上に、この店が魅力的だから。
三人ともそこそこの常連で、特にさなかと葵は来店数が多い。すでにマスターとも顔見知りだ。
試作品、ゆえにお金は取れない、というマスターのご厚意で今日は全額無料。
しかし、それに甘えっ放しというのも申し訳ないため、飲み物は注文しようと話してある。
しばらくして全員が席についた。俺もマスターに再び声をかける。
「望海さんと……優花ちゃんは?」
「優花はお休み。まあ、ちょくちょく様子は見に行かないと、だけどね。望海もそろそろ来ると思うから……そうだね、先に飲み物だけ用意させてもらうよ」
優花ちゃん――フルネームでは
先日生まれたばかりの、マスターご夫妻のお子さんだ。女の子。望海さんはお体が少し弱いらしいとのことで、春から出産のために店を休んでいたのだが、母子ともに健康だという。実に何より。
マスターにそれぞれ注文をして、届くのを待ってからひと心地ついた。
まだ望海さんは姿を見せていなかったが、真矢さんのほうはもう作業に入っている。
「……しっかし、未那もよくやるよね」
完成を待つ間の雑談として、口火を切るように葵が言った。
六人掛けの席に、奥からさなかと俺が座って、対面は奥から葵、勝司、叶の順。
「わざわざ今日のために、店長さんに頼んでくれたんでしょ?」
「つい昨日ね。ていうか聞いたのが昨日のバイトのときだったからさ」
「あたしとしてはありがたいんですけどねー。いや本当に、超ありがとう」
と言う葵は食へのこだわりが、もっぱら食べる側として強い。
量より質を重視するとのことだが、単に食べ歩くことが好きだとも言っていた。割には痩せ型だが。
「結構、趣味人だよね、未那って。多趣味っていうか……なんだろ。別に学校とかでも目立つタイプってわけじゃないのに、なんかふと気づけばいつもいるっていうかさ」
というのが、葵から見た俺評らしい。さなかがそれに、首を傾げて問う。
「そうかな。や、確かにいろいろやってるけど、未那って普通に目立つほうじゃない?」
「そりゃ地味ではないけど。うちのクラスで目立つと言ったら、まずはあんたたちふたりでしょ。未那は授業とかだと真面目じゃん。少なくとも勝司みたいにバカはやってない」
葵は勝司とさなかに目を向けて言う。
言われた側の勝司はちょっと不服そうに、
「ねえそれ、遠回しに俺はバカやってるから目立つって言ってる?」
「やってるでしょうが、勝司は」
最近ちょっと気づいてきたのだが、葵は結構、発言に容赦がないタイプだ。
身長的には叶より高くさなかより低いといったところで、それは平均より低いということなのだが、これはこれで独特の存在感がある。
お姉さん気質な感じ、と言ったところか。
「……あれ?」
と葵の正面ではさなかが《もしかしてわたしもバカにされたのでは?》といった感じで首を捻っていたが、こちらは葵も無視だった。
さなかさんは今日も残念だなあ。
「まあ俺の場合は入学した当初だけ少し目立ったって感じだったからなー」
一時期は俺も、叶との諸々で噂の的になった時期があったが、最近ではゼロとはいかずとも落ち着きつつある。月も七月に入って、こうなるとクラス内での立ち位置、グループといったものはおおむね固まっていた。
今の俺は、そこまで目立つタイプではなかった。
というか、俺より圧倒的に目立つタイプの筆頭が、男女それぞれ近くにいたと言うべきだろう。
もともと主役理論は目立つためのメソッドはないし、クラス内での存在感を見るなら、俺以上に目立つ奴など割とざらではあるのだ。
「こないだもなんかやってたよね、未那。確かうちのクラスの男子と」
「……なんかっていうか。ちょっと話してただけなんだけど」
最近、叶からの影響もあり、ちょっとアウトドアに目覚めつつあるのだ。そしたらこのクラスに、小さい頃からボーイスカウトの経験があるという男子がいたため、思わず声をかけに行ってしまった件だろう。
いや、あの話は実に面白かった。
「……ていうか、それがどうかした?」
もしかしてそのせいで、逆に悪目立ちしてしまっているとかだろうか。中学以前の俺が周りの目を気にしていなさすぎた影響で、未だにその辺りの機微には少し疎いのだ。
しかし危惧に反して、葵は割となんでもなさそうにこう答えた。
「……いや。ほら、噂あったじゃん?」
ちら、と俺は叶のほうを見た。叶は特に反応を見せなかったが、俺が見ていることに気づくと同時に、嫌そうな顔を作り出す。
はいはい、悪うございました。
葵はそれに気づきつつも、特に何も言わずに今の話を続け、こんなことを言った。
「ま、アレが誤解だって伝わったから、ってわけでもないんだけど。未那、最近は結構、女子の間でも人気あるんだよ? 狙ってる子もいるんじゃないかなー?」
――なんと。
わずかな喜びと、大きな驚きに包まれながら目を見開く。
マジか知らなかった。
思わず訊き返そうとした俺だが、けれど俺より早く反応した声にそれを止められる。
「ええっ、それ本当に!?」
もう俺よりびっくりした様子で叫ぶさなか。
……あの。
まあ確かに俺も驚いたんですけど、さなかにそこまで驚かれるのは、その、少しばかり悲しい気持ちを呼び寄せるんですが……。
「何それどこ情報っ!?」
「女子情報」
「いや、わたし知らないんだけど!」
「マジマジ。驚いた?」
「驚くよ! びっくりだよ! 信じられないよ! あり得ないと言ってもいいよ!」
……何もそこまで言わなくてもいいじゃないですか……。
なぜだろう。喜ぶべき情報のはずなのに、俺のテンションはむしろ下落していた。
最近、さなかって実は俺のこと嫌いなんじゃないかとすら思いつつある俺だ。さすがにそれはないと信じたいのだが、まあ他人の気持ちなど正確にはわからない。
さなかでなくとも――叶であっても。
舞い上がることもできず、俺はなんとなくほかのふたりの様子を探ってみた。
勝司のほうは、なぜか少し呆れた様子で、俺ではなく葵を見ている。
叶のほうは、もう完全に一切の興味がありませんと言った様子で、今は真矢さんの手際を観察していた。
「……さすが!」
……アレだよね。たぶん、そもそも聞いてなかったよね、こいつ。
さすが! じゃねえよ。どこ視点だよ、お前。料理マンガの解説のおじさんかよ。
「で――どうなのさ、未那さん本人としては。今のを聞いて」
と、葵が俺のほうをニヤニヤ見ながらそう訊いた。からかわれている気がする。
話題の信憑性が、なんだか一気に落ちたような気がしたが、仮に嘘だとしたらいったい何を訊きたい――というか、何を言わせたいのか。
って、さすがにここまでお膳立てされれば俺でも気づく。
要するに、ぼさぼさしてないでさっさとさなかを誘えという葵なりの発破なのだろう。さなかが知らない時点で間違いなく嘘の噂。
勝司と葵は結託して――と言うにはいささか足並みが揃っていないが――それぞれふたりなりに後押しはしてくれている、らしい。
というか放っておいたら、なんにもならないと思われているようだ。
まったく、バカにしないでいただきたいものだ。
俺だって言うときは言うのだから。
よって答えはこうなる。
「えー。まあ、ありがたいとは思いますが」
「思いますが?」
「――あ、望海さんが来たね」
そっぽを向いて話題を変えた俺の背中に、ゴミを見るような視線が突き刺さっているのが見なくてもわかる。
いや、この状況で下手なこと言えるわけないじゃないですか……。
「……未那。話、誤魔化したよね? 今」
小さく糾弾するように言う葵。俺はこう返した。
「
「何よ」
「
ゴミを見る目で見られても仕方がないレベルのゴミみたいなダジャレを俺は言った。
だが葵は「――ぶふぉあっ!?」と、割と淑女にあるまじき感じで噴き出して、それを誤魔化すためにゴン! と盛大な音を立ててテーブルを頭で殴っていた。
頭突きとも言う。
これも最近知った事実。
吉永葵さんは、極端なまでにダジャレに弱い。
「…………え? わ、笑ってるの……今ので? 嘘でしょ……?」
信じられないものを見る目で、叶が葵を見ていた。こいつは知らなかったらしい。
一方の葵は、「い――や、わ……らって、な……くふっ」と肩を震わせながら呟く。
この様子には、さすがの叶さんも仏心を出したようだ。
あっ、と言いたげな表情をしつつも、それ以上は掘り下げて訊こうとしなかった。まあ、察してあげたのだろう。
……よし誤魔化しきった!
奥からやって来た望海さんに会釈をする。
そのまま望海さんは、カウンター席――真矢さんの正面へと腰を下ろした。そろそろケーキも完成する模様だった。
場の空気が、一気に緊張を孕んだものとなる。
「……始まるな」
そう呟いた俺に、無意識だろうか、叶が小さく答える。
「だね。――どうなるかな」
緊迫した面持ちで事態の推移を見守っていると、やがて望海さんが口を開いた。
「……なるほど」
なるほど。
なるほどと来たか。
「どう見る?」
「……見た目は合格みたいだね。望海さんは、どんなに味がよくても見た目が悪かったらデザートとしては認めないってマスターから聞いたことあるよ」
そこに葵が入ってきた。
「確かに。普通の食事ならともかく、デザートは目も楽しませないとだよね」
知らず額に滲み出てきた汗を、軽く拭って俺は言う。
「ああ……この空気、お互い本気のようだな。見逃せない戦いになるぜ……!」
叶もまた、場の威圧感に押され、口元を腕で隠すようにしながら語った。
「すごい圧力……いや、とはいえ味は重要だよ。食事の本質はやっぱりそこだ」
「……さすが叶ちゃん。未那から聞いたけど、叶ちゃんって料理できるんだよね?」
「そこそこね。自慢できるようなものじゃないけどさ」
「ああ、叶はかなり上手いぞ」
「そりゃ未那よりはね。――っと、静かに! 望海さんがフォークに手をつけたよ」
「おっと」
「わ、やばい。なんかあたしまで緊張してきた……!」
そんな風に語り合う俺たちを尻目に、小さく勝司がさなかに声をかけていた。
「ねえ。俺、このテンションついてけないんだけど。何これ俺がダメなの?」
「わかんないけど……でも勝司。もしかして、わたしに足りないのって、これ……?」
「違うと思う」
「違うかー」
「っていうか、頼むからお前まで向こうに行かないで。お願いだから」
「……き、緊張の一瞬ですね」
「いや今さら遅えよ。もう無理だって。ぜんぜん入れてないって。あの三人の謎の情熱がおかしいんだって」
おい。ちょっと後ろ? うるさいですよ?
俺だって正直、自分でも変なテンションだなって思ってるわ。
アホをやっている俺たちの正面で、こちらは本当に緊迫した面持ちの真矢さん。
彼女の正面で、ついにひと口、望海さんがケーキを口に運んだ。
そして――少しの間があってから、ひと言。
「……うん。合格! 腕を上げたね、真矢ちゃん」
「本当ですか!? やった……!」
見事、ほのか屋デザート担当のお墨付きを獲得していた。いや本当によかった。
ときどき遅くまで残っては厨房を借りて練習をしたり、自宅で作ったお手製のケーキを分けてもらったりしていた。
だから、真矢さんの努力のほどは俺も少し知っている。
それが報われたというのなら、俺たちの反応だって何も大袈裟じゃないだろう。
――なお。実際、そのあと給仕された真矢さんの新作は大変に美味だった。
これが店のメニューに載る日も、そう遠いものではないだろう。
「どうよ、美味いだろ?」
そう言って、どこか恥じらいを交えつつも自慢げに誇った真矢さんに、俺は主役理論の行く末を幻視したような気がした。この姿が、あるいは俺の目指す先なのかもしれない。
ひとつの理想。そう、俺は理想を抱いて高校生活に臨んでいる。
それは叶も、さなかも――あるいはきっと勝司や葵も、ほかの誰もが程度の差こそあれ同じなのだと思う。
たとえそれが理想だなんてご大層な言葉で表現され得るものではないとしても、具体的な行動に移すほどの衝動ではないのだとしても。
何か目標とする、こうなりたい、そうありたいという願望は誰もが持っているはずだ。
もちろん俺だって同じ。
これまで考えたことさえなかった生活を、普通という枠組みに嵌められた、手の届かない青春を欲しいと願った。手にしたいと足掻いている。
――そいつが主役理論であり。
あるいは、友利叶の脇役哲学なのである――。
その、はずだった。
※
楽しい茶番ごっこ……じゃなくて打ち上げ&快気祝い&新作発表会を終えて。
七時過ぎ。
解散になった俺たちは、その前にまず勝司と葵を送りに駅まで向かった。
ほのか屋から見ると、かんな荘やさなかの自宅は駅と反対方向だが、こういう遠回りは決して悪いものじゃない。
楽しかった一日を終わらせるのが、まだまだ名残惜しいのだ。
下らない雑談が妙に楽しい。
それは、言うなればこれまで埋めてこなかったものを、欠落している穴を、ひとつずつ回収していくことに似ていた。あるいはこういった些細な時間こそが、主役理論者の最も尊ぶべき一瞬なのかもしれない。
なんて、そんなことを少しだけ思っていた。
電車に乗って帰るふたりを見送ったあと、道を引き返して今度は家まで三人で歩く。
「へえ……今度、未那の友達が来るんだ?」
道すがら、俺の旧友の話になって、さなかが言う。
「夏休み入ってからだと思うけどねー」
「泊まりでしょ? わたしがとやかく言うのもアレだけど、ダメだからねー、叶ちゃんに甘えてばっかりじゃ。一応、ふたりとも同じ部屋で暮らしてるわけなんだから」
「いいこと言った。てかもっと言ってやって、このアホに」
俺を責める機会と見るやノリ始めるアホはともかく。
確かに。さなかの言う通り、叶にとっては他人でしかない旧友を部屋に泊めることは、叶にとっては負担だろう。
とやかく言うほどのことではないし、なぜか叶自身が乗り気になっているから甘えたけれど、親しき仲にも礼儀あり。甘えてばかりはいられない。
とはいえ恩を返す方法がないのも事実だった。
生活面じゃたいていのことは当たり前に協力してやっているし、そもそも叶は基本的に自分のことは自分でやりたがる。それも、誰かに任せるのが嫌というより、自分でやること自体に楽しみを見出しているからだ。
こうなると、なかなか思いつかなくなってくる。
何かプレゼントでも渡すか、とか少し考えはしたが……なんか違うよなあ。
そういうのじゃないし、そういう関係じゃない。
「その人、名前はなんて言うの?」
「ん? ああ。名前は
「あははっ。じゃあ今度わたしにも紹介してよ。仲、よかったんだよねー?」
さなかは、はにかむようにそう言った。
このタイミングで俺は、これまで彼女に伝え忘れていたことを告げることにする。
「それはもちろん。アイツが来たらいっしょに遊ぼうぜ――っていうか、そう。実はこれ言い忘れてたんだけどさ」
「え、どしたの?」
「――さなか、そいつと知り合いなんだぜ、実は」
「へ?」
きょとんと目を見開くさなか。これには叶のほうも驚いた表情をしていた。
戸惑うさなかに代わって、叶が俺に問う。
「……さなかの知り合いなの、その人?」
「ああ。っていうか、俺ら三人が実は知り合いだった、っていう話なんだけどさ」
「どういうこと? さなかと未那って、普通に高校入ってからの仲だと思ってたけど……」
電話で旧友から聞いた、衝撃のない衝撃の事実。
「――いや。さなかと俺とそいつ、実は同じ小学校だったんだよ」
「はあ?」
「え? え――えええええぇっ!?」
期待通りの面白いリアクションを見せてくれるさなかと、「この男はついに現実と妄想の区別がつかなくなったのかな?」という顔の叶。
あの、片方が失礼すぎますよね?
もう叶のことは無視して、さなかを見て告げる。
「ほんの一時期だけどさ。さなか、
「え、あ……うん。引っ越し多かったから、一年いたかどうかくらいだけど――え」
きょとん、と目を見開くさなか。
……いやもう、きょとん、なんてレベルじゃない。愕然としていると言ってよかった。
だから追い打ちとして、俺は最後の情報を彼女に渡す。
「そう。俺とそいつ、小坂の卒業生でさ。あの頃……つっても、さなかが引っ越す前の、ほんの何か月とかそこらなんだけどさ。俺ら、三人でいっしょに遊んでたんだって」
「う、ぁえ……じゃ、じゃあ……あああ、あのときの」
「覚えてる? ごめん、俺もう顔とか名前とかぜんぜん覚えてなくってさ」
「いぇいあぅあ、わわわたしも、いっしょに遊んでた人がいたくらいしかだけど……」
「じゃあ俺と同じくらいか。まあ昔だからね。とにかくまあ――俺ら実は一応、幼馴染みって言えるくらいの関係はあったんだよ。驚いたろ?」
正直、半分くらいは笑い話、もう半分は当然の報告として、言うなれば雑談の範疇だと思って俺は言った。ヒロイン志望のさなかが、それこそ物語めいたメインヒロイン並みの過去を持っているんだからわからないよね、みたいな。そんな感じで。
別に結婚を約束していたとかないし、そもそも相手が俺とあいつなのが割とアレだが。
そして実際、さなかは面白いくらいに驚いてくれた。いつもリアクションがオーバーな奴だから、そうなるだろうと思ってはいたけれど。
……それにしても。
「……………………!」
さなかは無言で、口をぱくぱくさせながら目を見開いている。
いくらなんでも驚きすぎてはなかろうか。
えーびっくり、そうだったんだー、くらいのテンションだと思っていたのに、どうにも違う感じだ。なにせ顔が真っ赤。
さなかは素直すぎるほどに感情が表情に反映されるタイプだから、怒っているわけではないとすれば、たぶん恥ずかしがっているのだとは思う。
例のヒロイン宣言があったあとにこれだから、ということかとも思ったが。
「……そっ、それ……誰かに言ったっ?」
「え? いや別に、あいつから聞いて誰かに話すのはこれが初めてだけど」
「そ……う、あ……ご、ごめん! ダメだもう受け止めきれないっ!」
「え?」
「――わたしいったん逃げるっ!!」
「いったん逃げるって何!?」
「戦略的撤退は次に勝つためだからセーフー!」
止める間もなかった。
言うなり駆け出し、そのまま角を折れていなくなってしまう。
俺は、同じように呆然とさなかを見ていた叶に、どういうことかと訊いてみることに。
「……なんだったと思う?」
「いや、さすがにわかんないけど……見たとこ恥ずかしかったんじゃない?」
「だろうとは思ったけど。でも、何が?」
「そりゃ話の流れ的に、未那と幼馴染みだったという過去が、でしょうよ」
「……まあ話の流れ的にはそうなんだろうけど。にしたって表現おかしいですよね?」
「気持ちはわかる」
「はっ倒すぞ」
「――んなことより、いいの? 追いかけなくて」
叶はそこで、道の先から視線を切ってこちらへと向けた。
透徹したまっすぐな双眸。相変わらずどこか眠たげに見えるその瞳から、叶の内心を、俺は読み取ることができない。
視線で会話が成立するのは、あくまでお互いに伝えようという気があるからだ。仲や相性ではなく、それは単にコミュニケーションの問題。
みんなが思っているほど、俺も叶の気持ちが読み取れるわけではなかった。
おそらくは、逆もまた然りであるように。
していると道の先から、突如として叫び声が響いてくる。
「――あ、いったあ――っ!?」
今のはたぶん、あれですね。
今し方、逃げ出した人の声ですね。
俺と叶は、しばらくお互い無言で見つめ合い、それから小さく噴き出すように笑った。
「……面白いな、あの子は。本当に」
吐息とともに零したような声音で、そんなことを呟く叶。
少なくとも、それは揶揄や悪感情から出た言葉ではないと思う。
「……あんな子、ほかにいないと思うよ」
「なんだよ、急に。お見合いを勧めてくるお母さんみたいなこと言うなや」
「別に。あんただって同じこと思ってると思ったけど?」
「……追いかけてくるわ。話もあるし、なんか、たぶん転んだかなんかしたっぽいし」
「ん。行ってら」
はよ行け、とばかりに億劫そうなジェスチャーで手を振る叶から視線を切り、さなかが走り去った方向へと駆け出す。
その背中に、ともすれば聞き逃しそうなほどの音量で、小さくこんな言葉が届く。
「――夕食は何がいい?」
振り返らずに俺は答えた。
「じゃあカレーで」
「わかった。肉じゃがにする」
「なんで訊いたんだバカ」
「ルーがねーんだよバカ」
本当。一から十までかわいくない奴だ。
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