S-08『プレプロローグ/脇役哲学者の休日』

 ――我喜屋わきや未那みなが自室である《かんな荘》一〇二号室を出た、およそ十分後。

 たっぷりそれだけの時間をかけてから、隣室という名の同室に住まう少女――友利ともりかなえは、ふらふらした覚束ない足取りで立ち上がると、まず一直線に洗面所を目指した。

 水道の蛇口を捻って、普段より強い勢いで水を流す。飛び散る水滴を気にも留めず手の中に溜めると、それをほとんど投げつけるみたいな勢いで顔に当てる。寝覚めを彩る微睡みを、衝撃と温度で冷ます必要があった。


 しばし、ばしゃばしゃ顔を洗ってから、上体を起こすと正面には鏡。

 そこに映り込む、見慣れた自分の顔と真正面から相対する。

 ぼさぼさとした長めの髪。黒より茶色に近いそれは、別に染めているわけでもなく地毛。普段はそれを、最低限の気遣いとして馬の尾に纏めているが、今は当然ながら下ろした状態。何ひとつ気を払わなかったため、割と濡れてしまっていた。

 地味な自分。まさに脇役というに相応しい外見だと自覚する。

 叶は、あまり自身の外見に頓着する性質ではない。もちろん周囲からどう思われるかについては、いっそ過敏なほど自覚的なタイプだ。お洒落とは見る側への配慮であって、自己を飾ることそのものに価値や興味を見出していないだけ。

 たとえばクラスメイト――湯森さなかのような明るい髪の色や、人目を惹く笑顔を叶が見せることはない。

 いつだって、彼女は自分の外見も表情も、全てをコントロール下に置いている。目立たず、けれど沈まないライン。


 ――だが今は、そんなことどうだっていい。


 叶が見る自分の顔。それが、こんなになんて初めてのことかもしれなかった。

 最悪だ。どうして自分は、こんなにもだらしのない表情をしているのか。

 いや、理由なんてわかりきっている。あいつが悪い。高校に進学してからというもの、たいていのことはあいつの責任だ。

 こんなことになるなんて、ちっとも想像していなかった。


「……さいあく」


 叶はそう、現在の心境をごく端的に言葉に変えた。それで気持ちが晴れるようなことはなかったとしても。

 だってそうだろう。未那が、さっさと出かけてくれて本当によかった。

 こんな表情、死んだってあいつには見られたくないのだから。

 いや逆だ、んな表情を見られたら死んでしまう。

 本当に……ああもう。


 ――なぜ、わたしがこんなに顔を赤くしなければならないんだ――。


 羞恥の色に耳たぶまで彩られた自分。

 恥ずかしい。恥ずかしいし、自分が恥ずかしがっているということがさらに恥ずかしい。

 いくら冷水で浸したって、熱がちっとも去りやしない。


 全ては朝の醜態を、同居人の男に見られてしまったことが原因である。

 友利叶は、朝という時間に非常に弱い。低血圧なのか、それともほかに原因があるのかはわからないが、その日の睡眠時間に関係なく、だいたい早朝付近の時間帯に目覚めると一度では行動を開始できない。

 目覚めてからおおよそ十分ほど、脳が再起動するまで時間がかかってしまう。

 当然、その間は脳が働いていないのだから、自分が何をやっているのかなど一切わからない。起動したあとも覚えていない。だから実のところ、自分が朝に弱いということにさえ、あまり自覚症状がないのだ。


 そうだと知っているのは単に、寝起きの自分を知る家族から教わったから。

 以前は母親から、よくからかわれたものだ。

 ――寝起きの叶はいつもより愛嬌があるのよね。まるで子どものときに戻ったみたいによく笑うから――。

 とかなんとか言われたのだったか。最近の自分が笑っていないみたいなコメント、釈然としない。

 なお父親から「冬場の猫かな」、弟からは「あんまり外では見せないほうがいいと思う」などというお言葉も、それぞれ頂いていた。どちらにしろバカにしている。

 いずれにせよ、明らかなのは朝の自分がどうやら醜態を晒してしまっているらしいということだけ。

 それがどんなものなのかはわからない。からかい交じりの家族は詳しく話さないし、どうもやばいということだけ知っているから、たとえば修学旅行なんかでも誰より早く起きるよう心がけていた。


 だから考えていなかったのだ。

 まさか自分が、あんなにもふにゃけた笑いを見せてしまうだなんてこと。


 ――それも、よりにもよって未那を相手に……っ!!


 油断していたと言わざるを得ない。未那がいる場で眠ることを、すでに叶は普通と認識してしまっている。

 最初は警戒していて、それが未那にも伝わって。それで嫌な思いをさせたかも、という罪悪感があったことも理由だ。

 わたしはお前のことなどもう何も気にしないで寝ている、ということを態度で示す必要があった。

 あと単純に、未那のためだけに警戒し続けるほうがアホらしいと思ったこともある。未那が自分に手を出してくるかも、だなんてもはや微塵も疑っていないし、仮に出してこようものなら逆にネタにしてやるくらいに思っているわけで。

 要はすっかり気を抜いてしまっていた。


 ――でも、だからってはないだろ、わたし……!


 休みの日だから、いつもより長く寝ていて、いつもより遅く起きたこと。それが要因だろうか。

 十分経って再起動してからも、今日この日に限って、叶は朝の顛末を一から十まで完璧に記憶してしまっていた。

 よかったのか悪かったのかわからない。

 なんだアレ。

 ていうか誰だアレ。

 わたしじゃない。あんなの絶対わたしじゃない。あまりにも最悪だ。こんなに悪いことはないという意味できっちり言葉通り最悪だ。


 まさかわたしは普段からあんなザマを未那に晒してしまっているんじゃないだろうな?

 叶はそう疑った。さすがにそんなことはないと思う――思いたい。けれど自信はあまりなかった。だって覚えていない。

 会話のあと、前のめりに倒れ込んだところまでは眠かったからだけれど。そのあと、数分経ってからはもうずっと顔が赤いままだったと思う。普段より寝起きがよかったから、醜態を徐々に冷静に把握できてしまったのだ。

 うーあー、と顔を赤くしながらしばらく手足をじたばたさせてしまった。もう屈辱極まりない。

 俯せで本当によかった。あんな顔、たとえ誰も見ていないのとしても、世界に対して晒したくなかった。

 ……正直言って、ちょっと泣きそう。


「うぅ……うにゃーチクショーっ!」


 いつまで待っても真っ赤なまま冷めない自分の顔。考え続けるだけドツボな感じ。

 ひと声、叶は叫びをあげて、それから強引に自らの顔をタオルで拭った。滴る水といっしょに、この塗りたくられた赤の色まで落ちればいい、と力を込めて。

 その行為が、頬の紅潮を抑えたかはともかくとして。少なくとも、少女が冷静さを取り戻す一助にはなったらしい。

 とりあえずの落ち着きを取り戻した叶は、「はあ」と小さく溜息をつきつつ、洗濯カゴにタオルを放って洗面所を出た。手洗い横の洗面所から、居間に戻り、台所から洗ってあったグラスを取り出すと、そこに冷蔵庫のお茶を注ぐ。

 それをひと息に飲み干してから、ようやくひと心地ついた。


「……ああくそ、もーっ! なしてわたしが朝からこんな気分にならにゃならんのさーっ!」


 今日も今日とて青春主役活動に出かけた、この場にいない同居人へと八つ当たりの言葉を発する。もちろん、別に彼が悪いわけではないことくらいわかっているけれど。

 だからって、感情の問題はどうしようもないのだから。いないときに当たるくらいは許してほしかった。


「…………」


 それとも、がダメなのだろうか?

 冷静に考えてみるのなら、叶にも、そう、思うところがないわけではないのである。


 だって、いったい何がいちばん恥ずかしかったって。

 それは朝の醜態をではない。あの男に何を見られようとも、そんなことを今さら恥ずかしく思うほうがどうかしていると叶は思う。少なくとも半裸なら何度も見られた。ていうか見せた。半分、勢いで。

 さすがに下着姿を未那以外に見せる勇気は、叶だって持っていない。

 未那あのバカはあまり自覚していないようだが、当然の話として、叶は未那以外の男にあんな痴態を見られるのは絶対に嫌だった。それこそ弟相手でも恥ずかしい。人並みの羞恥心というものを、友利叶とて当然に所有しているのだから。

 あの主役バカだけが例外――というか。

 ……いや別にあいつだからいいとかそういう話じゃなくて。単にあいつのほうがわたしに対して恥ずかしい様を見せているのだから、それと比べればなんでもないとか、うん、そういうこと。


 では、何が恥ずかしかったかと言えば。

 未那に見られたことではなく、のほうなのだ。

 あんな――あんなにも気の緩んでいるザマを、寝起きの自分が未那に対して見せているということは、つまりそれだけ未那に対して、自分が無意識に気を許しているということだから。まるで家族と同等か、それ以上と言えるくらいに。


「――……っ、」


 そう冷静に見直してみると、再び顔が赤くなってきて――ああもう、こんちくしょう。

 そもそも本当に冷静に考えられているのなら、相手が主役理論者とかいう例外存在であったところで、裸を見せたりいっしょに暮らしていること自体がそもそもおかしいという話なのだが。叶はそちらには気づかない。

 なんだかんだ言って、叶自身もこの生活を気に入ってしまっている。


 ……っていう、こと……なのかな?


 冷蔵庫にお茶を戻して、むすっと叶は表情を顰める。それはさすがに繕ったもので、叶自身が今の生活を言葉ほどには嫌がっていないことは、まあさすがに否定できまい。そんな癪なことを、言葉に変えてやるつもりは絶対にないけれど。

 言い換えるのなら、叶は未那に対して――と、言えるのかもしれない。

 お互いに、であるのだとしても。

 入学式の当日までは、本当に想像さえしていなかった生活だ。というか今になって振り返ってみても、どうしてこんなことになったのか理解できていない。それは自分が自分で、相手が相手でなければ絶対にあり得なかったことで。

 自分の脇役哲学に照らしてみれば、あり得ないし意味がわからない今の生活も、これはこれで悪くないということが――


「……あ、れ?」


 そのとき胸に去来した妙なを、叶は言葉に変えることができなかった。

 何か違うような、何かがずれているような、そんな感覚。けれど、ではそれが何かを考えると思考が進まない。ただ自分がという、根拠の不確かな印象だけに胸を突かれていた。

 しばし考えてみるものの、何がわかるというわけでもない。

 仕方がなかった。そこはひとつ、似た者同士である未那と叶にとっての、けれど明確な違いだったから。


 我喜屋未那は主役理論者だ。つまりで考える。

 言うほどあの男も確かな理屈を持っているわけではないのだろうが。だとしても、もともと中学時代には周囲から浮いてしまっていた彼が、新しく主役として歩むにあたって――そしてその手伝いを、彼の言う旧友に頼ったからこそ――自分が主役として生きるための方法を、理屈と計算によって言語化できる理論として成立させた。

 そのひとつひとつは、別に複雑なものではない。見た目に気を遣って明るい笑顔で振る舞おうとか、何か面白そうなことがあれば自分から積極的に介入しようとか、その程度のものだ。けれど明らかに、そこには理屈が存在している。そうすることによって自分は主役になれるはずだ、という思考に基づくもの。


 だが。


 友利叶は脇役哲学者だ。つまりで考える。

 これもまた厳密な、学問的な意味合いでの哲学とはニュアンスを異にしている。もともと友人が多く、クラスの中心人物的な立場にずっといた彼女は、それに嫌気が差したからこそ脇役哲学を構築したのだ。つまり彼女は、単に《自分が気持ちいい方向に》《自分が楽しく生きるために》脇役としての生き方を作っている。難しい理屈なんて考えちゃいない。

 要するに、それは感性に起因するものだということ。なんとなく、ただ自分のセンスが楽しそうだと思うもの、興味のあるものを、その場その場の流れで優先していくだけ。未那のように明確なメソッドなどなく、今日は遊びに行こうとか、今日は家で本でも読んでようという、その時々の目的をための生き様。


 ――主役か脇役か、なんて実のところ重要ではなく。

 彼と彼女の最大の違いは、それを自身の理論で考えるか、哲学で感じるかの部分にある。


 未那は、叶には明確な基準のラインがあって、それに合うか合わないかで行動を決めていると思い込んでいる。

 ――実際には違う。彼女には明確に言語化できる基準などなく、その場の雰囲気に割と流されている。

 叶は、未那は楽しいことを優先して、そのときどきの感性であっちこっちふらふらしているのだろうと決め込んでいる。

 ――実際には違う。彼は自分の中に確固たる基準を持っており、その判断に無意識のうちに従っている。


 その違いに、ふたりはまるで気がついていない。


「……ま、いいや。さて、今日はどうするかな……」


 答えの出ない違和感にかかずらって、貴重な休日を浪費してはもったいない。

 そう判断し、叶は自らが抱いた感覚を忘れてしまうことにした。

 暖簾をくぐって未那側の部屋を覗いてみると、卓袱台の上には未那が作ったらしき朝食が置かれている。


「ち。二度寝しようと思ったのに、朝食べたら寝らんねーじゃんかよ……」


 もはや若干、理不尽な怒りを未那に向けて。この辺りでようやく、叶も普段の調子を取り戻してきた。

 着替えもせず卓袱台に向かい、温めるものをレンジにかけ、炊飯器のご飯をよそい、朝食の準備を調えて。

 それから卓袱台につくと、未那の部屋に置きっ放しにしている自分用のクッションに座り込んで。


「……未那のばか」


 いただきますの言葉の代わりに、両手を合わせてそう言った。



     ※



 午前中をだらだら無駄に貪るという、休日を浪費する方法としてはある意味で最高に贅沢な時間を叶は過ごした。

 時間の浪費は、自分が「浪費する」と決めてする分には一切問題にしない少女である。

 未那の部屋の本棚から、まだ読んだことのなかった小説を勝手に拝借して読書に耽ったのだ。向こうも叶の本を断りなく持っていくし、この辺りは今さらお互いに遠慮などまるでしていない。ごく普通のことでしかなかった。

 しかし、どうも読書に集中できない気分だったのだ。

 未那の部屋で、未那の座布団を勝手に借りて、未那の本を読むという――普段通りの日常のひと幕。

 にもかかわらず、この、なんとも言えない違和感はなんだろう。


「……ああもうっ! なんか、うー、なんだこれっ」


 やっぱり朝のあの顛末が尾を引いているのだろうか。なんかそれとも違う気がするけれど。

 出どころ不明のもやもやに苛まれているのが馬鹿らしくなってきて、叶は急遽、外出することに決めた。文庫を持って、河岸を変えてしまえば、いい脇役的青春を楽しめると信じて。

 だらしないジャージ姿から、外向けの友利叶わきやくへと変貌を遂げる。着替えてから外に出た。


「やー、叶ちゃん。今日はお休み?」


 暗い部屋から明るい外へ。出た瞬間に声をかけてきたのは、このアパートの管理人である神名かんな瑠璃るり


「あ、瑠璃さん。おはようございます。ええ、今日は久々に暇な感じです」


 言ってから、あれ、久々だっけ? と胸中で首を傾げる。

 答えが出るより早く、瑠璃のほうが叶に問うた。


「お出かけかな?」

「あ、ええ。なんか暇なんで……どっか、時間潰せそうなとこでも探そうかなって」

「てことは特に用事とかじゃないんだ? 未那くんは?」

「……さあ。どっか出かけましたけど。何かご用事ですか?」

「未那くんいないんだー……それは残念。じゃ、叶ちゃんだけでもどう?」


 綺麗な笑顔で瑠璃は笑う。同性の叶ですら、思わず見惚れてしまいかねないほど柔らかで朗らかだ。

 普段の標準装備である竹箒を、今日の瑠璃は持っていない。桜もとうに散りきったが、まだまだ出番自体はある。あれがまた、妙にぴったり似合っているのだ。叶は、瑠璃ほど竹箒の似合う女性を知らない。

 と、そんな姿に目を奪われるのも束の間、叶は問い返す。


「……どう、っていうのは」

「ふふ。今ちょっと松沼さんに頼んでて……あ、来たみたいだねー」

「――おいすー、瑠璃さんお待たせー、っと。友利の嬢ちゃんもいっしょか。好都合だねえ」

「松沼さん?」


 ちょうどのタイミングで表の通りから、正直ちょっと怪しい風体の男が入ってくる。

 このかんな荘の二階住人でもある、言ってはなんだか若干の不審者ルックな無精ヒゲのおじさん。かんな荘の中でも特にレアキャラクターというか、あまり見かけない相手ではあるのだが、いつもどこからか差し入れを持ってきてくれる。

 今日の松沼も、また妙な荷物を抱えて――というか肩に負っていた。首を傾げて叶は呟く。


「……竹?」

「そ。仕事で貰ったんだぜー。いいだろー?」


 子どものように自慢げな表情で笑う松沼。一本の長い青竹を肩に乗せながら。

 相変わらずの謎さであった。

 かねてから疑問に思っていたことを、堪らず叶は訊いてしまう。


「……いったい松沼さんはなんの仕事をしているんですか?」

「ひ・み・つ☆」

「うわ、うっざーい♪」


 気持ち悪くしなを作って宣う松沼に、調子を合わせて叶も声音を高めた。

 いつ訊いても、この人はまるで自分の素性を明かさない。いつも通りではあるのだが、さすがに竹を持ってこられると、わかっていても訊いてしまう。なんの仕事をしたら竹を貰えるというのだろう。ていうか貰ってどうするのか。

 かんな荘の住人は、未那を筆頭に変人ばかりだ。叶の知る限りまともなのは自分を除けば瑠璃くらい。

 当たり前のように自分を常識人側に入れていることはともかく、そんな相手だからこそ、叶も割と猫を被らず素の自分で応対していた。松沼も、冗談だとわかっているからだろう、「うわ、ひっでー」と軽く笑うだけで気を害さない。

 ……いやまあ半分くらいまで、割と本心で叶も言っているのだが。


「今日はねー。かんな荘のみんなで流しそうめんをやろうと思ってるんだー」


 ぽん、と手を合わせて、瑠璃は明るく微笑む。

 それで竹か、と叶も納得して頷いた。実際には逆で、松沼が竹を手に入れてきたから流しそうめんなのだろうけれど。なにせ少しばかり季節外れだし、そんな予定は聞いていなかったし。


「なるほど……未那も悪いタイミングで外しましたね」


 帰ってきて知ったら、さぞや悔しがるだろうと叶はほくそ笑む。いい気味だ。

 そんな叶を、微笑ましそうに瑠璃が眺めていることには気づかないで。


「ん、そうだね。帰ってきたら、自慢しちゃうといいよ!」

「あはは、そうします」

「オッケーオッケー。そんじゃ叶ちゃんも、参加ってことでいいよな?」


 と、松沼。まあ確かに時刻は午後の一時過ぎ。休日とはいえ、そろそろ昼食を考えてもいい時間だ。

 出かけるのは別にいつでもいい。というか流しそうめんで時間を潰せるなら、そもそも出かけなくていいだろう。


「ええ。ご迷惑でなければ、ぜひ」

「おっし! んじゃさっそく竹を切ろうかねー」


 いそいそと準備を始める松沼。

 叶は手伝いを申し出ようかを少しだけ迷ってから、工作関係における自分の不器用さを思い出してやめる。手持ち無沙汰になったことを感じて、なんとなく、隣に立つ瑠璃へと声をかけた。


「あー……でもちょっと、もったいないかもしれないですね?」

「うん? もったいないって……?」

「もうすぐ七夕じゃないですか。まあ笹じゃなくて竹ですけどこれ……じゃあ関係ないか」

「ふふっ。まあ、どっちも似たようなものらしいけどね」


 肩を揺らして軽く微笑む瑠璃に、叶も微笑を返す。

 と、そこで瑠璃は、きょとんと首を傾げて叶に訊ねた。


「……今のは、未那くんのため?」

「え?」


 一瞬だけ首を傾げてから。


「えぇっ!? いや――はあっ!? な、何がですかっ!」

「あれを七夕用にするなら、今日は流しそうめんをやらないことになるからね。機会がずれれば、未那くんも参加できるでしょう?」

「い、いや違いますよ! そんな遠回しなこと考えてないですし! てか未那なんかむしろざまあってくらいの……!」

「うん、知ってる」

「……瑠璃さん、意外と性格悪い」


 からかわれたのだろう。そう判断して、叶はじとっとした視線を瑠璃に向ける。

 基本的に目上には丁寧な少女だが、それも場合によるというもの。特にこと未那が関わる案件ならば。

 だが叶の視線に対し、瑠璃はぶんぶんと手を振って言った。


「ごめんごめん、そうじゃなくってさ」

「え……?」

「いやほら。叶ちゃんも、来たときより丸くなったと思ったんだよ。そういうの、未那くんのお陰かなって」

「……………………」


 知らず、叶は押し黙っていた。

 未那のお陰、などと言われた不満感もある。だがそれ以上に、丸くなったと――変わったと言われたことに驚いて。

 ……そう、なのだろうか。

 疑問する叶の傍ら、瑠璃は言葉を続ける。


「もちろんいい意味で、だよ? ただ、ここに入った頃の叶ちゃんだったら、呼んでも来てくれなかったんじゃないかなって少し思って」

「……別に、そんなことありませんよ。もう、瑠璃さんはわたしのことなんだと思ってるんですか」

「ごめんごめん。そうだね、そうだよねー」

「まったく。心外ですよ、もう」


 軽く笑って――笑みを、作れているはずだ――叶は答える。

 嘘をついたつもりはなかった。事実として入学当初の叶でも、呼ばれれば行くかどうかは思案しただろう。

 ――脇役として。

 出ても問題なければ、いや、と思えば、叶はきっと素直に参加を選んだ。それが彼女の哲学だから。


 だが。叶は今、そんなことを一瞬も考慮には入れなかった。

 何も考えていない。ただ当たり前のように、参加を選び取っていたのだ。




 ――




 変わった、というわけではない。中学までの叶なら、今と同じよう、何も考えずに呼ばれたからという理由で行った。

 だからこれは、決して変わったわけではない。

 元に戻った――いや、変われなかった。変わることができなかったということではないだろうか。


「どっちにしろ笹も貰ってきたぜー。安心しろー」


 聞いていたのだろう、松沼のそんな言葉が叶の耳朶を揺さぶった。

 それによって再起動を果たす。頭の回転が、まるで寝起きのように酷く鈍い気がした。

 ……いけない。ぼうとっしていては、それこそ脇役哲学に反してしまう。

 今さら断れるはずもない。だから叶は、これまで信じていた――信じているはずの哲学通り、自分を作る。


「だから、何をどうしたら竹と笹を手に入れてくるんですかー!」

「それは秘密って言ってるだろー? 秘密が多いほうがモテるのは何も女に限らないんだぜ?」

「松沼さんは、まず気取る前に見た目をどうにかしたほうがいいと思いますけど」

「うっひゃ。厳しいねえ、女子高生は」

「誰に訊いても同じこと言いますってば。瑠璃さんだってそう思うでしょう?」

「だねー。松沼さん、ちゃんとしてれば格好いいんだけど」

「お、なんだなんだ? もしかしてお嬢さん方、俺を狙ってるのかい?」

「あははっ。バカ言ってないで手を動かしてくださいよ、松沼さん」

「厳しいなあマジで……」


 大丈夫。と、叶は自分に言い聞かせる。

 ――大丈夫だ。何も問題はない。いつも通りの自分ができている。

 けれど、だとするのなら、この胸に滞る違和感は、いったい。


 脳裏につき纏う嫌な考えを、かぶりを振ることで振り払う。

 今日は朝から嫌なことがあったから、そのせいで影響が出ているのだろう。まったく、未那の奴め。

 そう自分に言い聞かせ、叶は瑠璃に向き直った。


「じゃあ、わたしたちは食べ物のほうの準備しましょうか。手伝いますよ、瑠璃さん?」

「あ、ありがとう。うふふー。お姉さん、前から叶ちゃんといっしょに料理してみたかったんだよねー」

「あはは。でもわたしより瑠璃さんのほうがずっと上手じゃないですか。お勉強させてもらいます」

「うん! それじゃやろっかー。終わったら、二階のみんなを呼びにいこう」

「休みですからね。まだ寝てるかもしれないですよねー」

「いやー、現役JKの手料理が食べられるとはねえ。楽しみだ楽しみだ」

「松沼さんは手を動かすー」


 それだけ言って、ふたりで歩き出した。一階のわたしの部屋を使いましょう、と提案して。

 普段通りの、明るく丁寧で、距離感を一定に保ち、ごく普通の人間として特徴なくその場にいる。いるはずだ。

 脇役。

 そう信じた自分の在り方を徹底するように。




 けれど、胸に残ったしこりは、どうしても晴れることがなかった――。

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