S-07『望み流れる最中』

 湯森さなかは自らを平凡であると自認し、またその平凡さから脱却するべく努力チャレンジを続ける少女であるが、しかしながらその《平凡さ》が必ずしも悪いものであるということには繋がらない。

 というより、本人の意思はともあれ、それは要素だけ抜き出してみればむしろ褒められるべき美点でもある。

 平凡であるということは、言い換えるなら常識的であるということだ。

 彼女は気が回り、明るく屈託のない笑みは見る者を惹きつけ、おおむね誰に対しても分け隔てのない態度で接することのできる少女だった。その意味では、あるいはそれ自体が非凡な要素と言えるのかもわからない。少なくとも容姿や能力が、ある程度まで秀でたものであることは事実であろう。


 ――まあ、そんなことはさておき。


 だから彼女の存在は、日常の中においてこそ輝かしい。

 たとえば学校という枠の中において、彼女の存在がクラスというひとつの塊を維持するために大きく寄与していることは事実であろう。集団というひとつの単位を、過不足なく運営するための潤滑油として彼女は非常に優れている。

 それ自体は非凡な要素ではなく、言うなれば「どのクラスにもひとりは」という範疇の、誤差に含まれる個性だろう。

 だがそのことが彼女の価値を損なうわけではない。湯森さなかが、少なくとも周囲の人間にとって愛すべき人格であることは事実なのだから。


 ――という事情も、また措いて。


 問題は。というより本題は。

 彼女はあくまで存在なのであって。

 つまるところ、には非常に弱いということだ。


 要するに、湯森さなかは――咄嗟の事態に強くない。



     ※



 泳いでいる。

 どこで。――ファミレスの中で。

 どこが。――視線が。


 湯森さなかの視線は今、それこそ目の体操でもしているのかというくらいに忙しくなく、あちこちへと泳いでいる。

 その先にあるものなんてほとんど認識してすらいない。ただ、とにかく目の前にいるふたりの少女――ではなくひとりの少女とひとりの少年――に視線を合わせないようにしているだけ。

 いわゆるところの、無駄な努力というものだった。

 正直、自分でも何をやっているのだろう、とは考えているのだが。それ以前、そもそもなぜ自分がここに、こうして、このふたりと来ているのか。その段階からいまいち理解できていない。ましてやどうすべきかなど。


「で? ――なんでアンタまでついて来るの?」

「僕に言わせれば、ついて来たのはそちらという話なのですが」

「は? 何それ。喧嘩売ってんの?」

「いや、それこそそちらがという話なのでは」


 目の前で、どこからどう見ても険悪です、という雰囲気を少しも隠さず、視線さえ合わさず詰り合うふたりの人間。

 さなかにとっては、どちらも顔見知りではあるのだが、どちらも正直、顔見知りの域を出ない。友達か、と訊かれれば、さなかは迷いなく頷くだろう。しかしそれは彼女の性格からの話であって、よく知っている間柄とは言いづらい。


「わたしはさなかさんとお話をしに来たの。そこにアンタみたいのが紛れ込むなんて聞いてないんだけど」


 隣に座る相手へ、ついに憎々しげな視線を向けて宣言したのは、名を峯森みねもりながるという少女だ。

 近場にあるお嬢様学校へ通っている中学一年生で、ひょんなことから知り合いになって以来、さなかを慕っている年下の友人――と言ったところか。ときどきこうして、休日に顔を合わせることがあった。

 流は、さなかのクラスメイトであり、同時に想い人でもある青年――我喜屋わきや未那みなに憧れている。

 迷子になっていたところを助けてもらったことをきっかけに、以来、自由な時間ができるたびに、こうして会いにこようとしているわけだ。


 ……なぜか、未那本人ではなく、さなかに。


 流にとって未那は《憧れのお兄さん》であって、もちろん会えるものなら会いたいのだが、あまり頻繁には会いにいけないという複雑なオトメゴコロ問題があるらしい。曰く、「だ、だってそんなにいっつも会いにいって、重いとか思われたら嫌じゃないですか……!」とかなんとか。代わりに呼び出されるのが、まあ、さなかだというわけである。

 その気持ちはわからないでもなかったし、さなか自身、後輩として流を気に入ってはいるのだ。

 月に一、二度、時間を合わせてお茶をするくらいだったら苦労もないし、むしろ楽しいと思っている。

 なんとなくシンパシー、というか共感があるのだ。昔の自分を見るようとでもいうか。

 あるいは単に、《湯森》と《峯森》で苗字が似ているからかもしれない……いや、さすがにそれはない。


「僕は僕で、さなかさんとはお話したいこともあるので。問題はないと思いますが?」


 一方、敵意剥き出しの流に対し平然と、いやいっそ慇懃無礼とも言えるような丁寧語で答えるひとりの男の子。

 ……男の子、で、いいん、だよね。本当に……?

 と相対しているさなか自身が不安になってしまうほど線の細い少年が、さなかを透徹した視線でまっすぐに見ている。こちらは名を友利ともりのぞみと言い、さなかのクラスメイト――友利かなえの弟にあたる。


 ようにはまったく見えないのが、問題といえば問題……なのだろうか?


 初めて会ったときは正直、さなかは望を本当に女の子だと認識してしまった。それくらい中性的なのだ。男子だと言われれば一応は納得するが、ぱっと見、遠くから見たときどちらかと問われれば、答えが綺麗に二分されそうだと思う。

 ましてや今日はなぜか――そう、正直それがいちばん不思議なのだが――望は

 スカート姿、というか。どこをどう見たって見間違いようがない。

 なぜか、望は隣に座る流とのだ。

 そのせいで普段の中性的を通り越して、もう完全に女の子にしか見えない領域に至っている。しかもかなりの美少女。

 こちらもまだ中学一年生であると聞いている。だからまあ不思議ではないが、しかし少しばかり落ち込みも感じた。


 ――負けてる、気がするなあ……。


 こう、かわいらしさとか、そういう観点において。

 もちろん自分だって結構それなりにがんばってはいるんだぞ、まだまだ互角くらいはいけるはずだぞ、と思わないでもない(口には出せない)さなかだったが、おそらく美容に気など使っていない、それも男の子と互角の時点で実質、負けみたいなものだろう、とも思う。


 ――叶さんも、すっごくかわいいしなあ。小っちゃくて、でも意志が強そうでカッコいいっていうか……。


 望の姉である恋敵(?)を思い出して、さらに落ち込むさなかである。

 もっとも、もし小さくてかわいいなどと本人に言おうものなら、叶の側はさなかの体のを憎悪とともに睨みつけて、「は? 小さい? 何が? どこが? ちょっと自分が大きいからってチクショウこの」以下略、と心の中でキレ始めることは間違いないだろうが。

 もちろん、そんなことはさなかも知らない。叶はを気にしていない、ということになっている。


 少なくともについて論じるならば、さなかの完全勝利であることは疑いようもないのだから。


「だーかーらーっ! 別にあんたが今日に合わせなきゃいいんじゃないのって話なんだけどっ!」


 あるいは現実逃避の意味合いも込めてか。

 ひとしきり落ち込んでいるさなかの目の前で、ふたりの中学生のバトルは続いていた。


「……こうなっていることの責任はそちらにもあるんですよ?」

「いや。だから――」

「ではなくて、僕がに対する責任です」

「あ、アレはわたしじゃなくて……先輩たちがっ!」

「ええ確かに、経緯に関してはあなたが悪いとは言いません。僕も、まあ嫌ですが了承はしましたから。けれど、その間の責任を持つと言ったのも事実でしょう」

「く……っ!!」

「いいじゃないですか。僕も、さなかさんとは知り合いなんですから」

「そもそも、なんでアンタが知り合いなわけ……?」


 そうこうしているうちに、どうやら形勢は望のほうに傾き始めたようだった。

 友利望は、三つも年上であるさなかから見てさえ、油断のならない頭のいい少年である。言ってはなんだが、まあ流では勝ち目がないだろうなあ、とは思っていたのだが。

 そもそもこのふたり、いったいどういう関係なのだろう?

 いつまでも喧嘩を眺めているのもなんだろう。現実逃避から帰還し、さなかは思いきって訊ねてみることにした。


「えーと。ふたりは前から知り合いだったの?」


 問いに答えたのは流だ。一瞬だけ鋭く望を睨んでから、さなかに視線を戻して首を振る。


「違いますよ。会ったのは今日が初めてです。まあ以前からメールでの交流はあったんですけど……」

「それは……メル友的な?」

「……めるとも?」


 きょとん、と流は首を傾げた。

 否定したというより、そもそも《メル友》という言葉が伝わらなかったという体だ。

 ――マジですかー。

 ジェネレーションギャップに驚くさなかだったが、考えてみればさなかにとってさえほとんど死語みたいな言葉だ。まさか通じないとまでは思わなかったが、そもそも今どきメールで交流するほうが珍しいように思う。

 しかし、ではどういうことなのだろう。

 再び疑問したさなかに、今度は補足するように望が答える。こちらは、どうやら言葉の意味は知っているらしい。


「僕の学校と彼女の学校で交流がありまして。お互い、生徒会に所属しているんです」

「ああ……そういうことなんだ」


 納得して頷くさなか。携帯電話やスマホによる個人のやり取りではなく、パソコンの電子メールによる学校間のやり取りだったということのようだ。


「五月に選挙があって生徒会の役員になりまして。数年前から、いろいろ交流会とかやってたんですよ。その関係で今日、実は峯森さんたちの学校にお邪魔してまして」

「そうなんだ。ひとりで?」

「ええ。一年生で生徒会役員になったのは僕だけだったので、顔合わせも兼ねて行ってこいと。まあ休日を潰されました」

「……あははは、なるほどね。それにしても、一年生で生徒会かあ。すごいね」

「信任投票でしたからね。立候補すれば誰でもなれました。それに、それは彼女……峯森さんも同じですよ」


 ちら、と望が視線を向けると、逆に流が逸らした。


「別に持ち上げなくていいんだけど。こっちだって推薦だったから選挙とかしたわけじゃないし」

「そんなつもりはありませんでしたけどね」

「あっそ」

「あ、あはははは……」


 仲の悪さに苦笑いするしかないさなかだった。今日が初対面だというのに、どうしてこうも険悪になったのやら。

 どちらかと言えば、流のほうが一方的に噛みついて、それを望が少し鬱陶しそうにあしらっている風情ではあるけれど。その割には、どうやら自分からついて来たようではあるし。

 よくわからなかった。


 やはり咄嗟の事態には弱い。これがクラスメイトとかだったら、喧嘩の仲裁くらいできるのだけれど。こういう状況だと途端に何もできなくなってしまう。年上の威厳が何もないなあ、と少し反省だ。

 いけない、いけない。

 さなかは小さくかぶりを振って、気合いを入れ直すように正面を向く。

 苦手なことだろうとなんだろうと、立ち向かっていくことを決めたはずではなかったか。

 まして相手はふたりとも年下なのだから。そうでなくとも、こういう場合は間に立つ自分が執り成すべきだろう。年長者としての威厳、なんてものがないことはこの際だから仕方ないけれど、せめて会話のイニシアチブくらい取らなくては。


 ――なぜならわたしは、主役を目指しているのだから。

 この場の中心にくらいなれずして、何がヒロインだという話である。


「ええと……流ちゃんは、今日は何かお話があるんだっけ?」


 意を決して、さなかは口を開いた。取り繕うのは得意ではないが、それでもさなかとて高校生。これまでの経験値から、笑顔を偽装するくらいのことはもちろんできる。

 女子という生き物が、生まれながらにして女優であることを忘れてはならない。

 女優とは優れた女という意味なのである。

 というわけで、さなかは本題に切り入っていった。


「あー……いやまあ、そのつもりだったんですけどね。こいつがいるとなると……」


 流はちら、と視線で望に不平を示しつつも、さなかに向き直る。

 もともと素直で礼儀正しい少女だ。声をかけられては、流はちゃんと応対せざるを得なくなる。

 一方、望はといえば流の言外の不満なぞどこ吹く風。まったく堪えた様子がない。

 さすがは叶ちゃんの弟だなあ、とあまり外見の似ていない姉弟のことをさなかは評価した。


「僕のことは気にせず、話を始めてくださって構いませんよ」

「それ、無理やりついて来た側が言う……?」

「……だから。それを言うなら、そもそも僕の服を着てあなたの先輩が逃げ出したのが発端でしょう」

「それは、まあ……そうなんだけどさ。だから生徒会室で待ってればいいって……」

「え、待って。何? どういうこと?」


 淡々と呟く望と、苦々しそうに顔を顰める流。そのふたりにさなかは訊ねた。

 この平成の世でまさか追い剥ぎにでも遭ったのかと思わせるような呟きが気になってしまったのだ。


「ああ。いえ、今日は土曜日だから本来は学校も休みなんですが、生徒会はやっているとのことだったので、顔合わせのために向かったんです。さきほど少し話しましたが」


 望がそう答える。引き継ぐように流が、


「ほら、わたしの学校、もともと結構なお嬢様学校だったわけなので。昔は男子禁制、みたいな空気があったんですよね。まあ今は、こうやってこいつの学校とも交流がある通り、昔とはぜんぜん違うんですけど」

「だから一応、男の僕が出向くときは、とりあえず生徒の少ない休日にまず――みたいな、まあ名残があったわけです。そこで現役の生徒会役員にお目通りして、許可が出れば続けて交流が、といった感じなんですかね」

「形式上の話なんですけどねー。寮制があったのも昔の話ですし、今の時代には合ってないからとか。正直、そんな詳しく知らないんですけど」

「ああ、なるほど。それで土曜日なのに制服ってことなのね」


 さなかも納得して説明に頷く。細かいことだけれど、やはりふたりとも中学一年生とは思えないほどはきはきした喋りをするなあ、と、なんとなく考えていた。少なくとも当時の自分が、このふたりほど優れた能力を持っていたとは思えない。

 もっとも流は未那のことになれば壊れるし、望が姉の叶に向ける感情に至ってはもはや意味不明なのだが。


 ――さなかも割と結構な頻度で壊れるのだが、それは言わぬが華である。


 さておき。話は、ではなぜ今、望が他校の、それも女子の制服を着ているのかについて移行するのだが。

 望は、初めて感情らしきものを覗かせて、ちょっとだけ不満そうにこう言った。


「……彼女の学校の生徒会の先輩方に、『男子の制服を着てみたい』と頼まれてしまいまして」

「貸したんだね……」

「制度上とはいえ一応、ご機嫌伺いに来たような立場ですからね。断りにくかったこともあります」

「……わたしは、今までこれで『二度と来ないでください』なんて言われた人はいないって話はちゃんとしたからね」

 だから悪くないと流は言う。それはには望も頷いた。

「僕もそれは聞いてましたけど。まあ、着てみたいっていうなら貸すくらいはいいかと思ったんですよ。問題は、その間に着ている服の替えが僕にはなかったことでして」


 だいたい察した。苦笑するさなかに、流が顛末を語る。


「まあ、そういうことです。『じゃあ代わりに私の制服を着てるといいよ!』って先輩が悪ノリし始めちゃいまして。止められなかったですし、こいつも嫌そうな顔しながら受けるから……」

「……まさか、男子の制服を着たまま消息を晦ませるとまでは考えてなかったんですよ」

「あ、あはははは……」


 苦笑するさなか、ではあったが。正直、流の先輩たちとやらが考えていただろうことはおおむね察していた。

 男子の制服を着てみたかったというのも嘘ではないのだろう。だがそれ以上に、彼女たちはきっと《望に女子の制服を着せてみたかった》のほうが先にあったはずだ。

 実際、どうかと思うほど完璧に似合ってしまっている。そのセンスにだけは花丸を差し上げたい気分だ。


「……まあ、気を遣わせてしまったみたいなので、文句は言いづらいんですけどね。正直、今すぐにでも着替えたい気分なんですけど。いえ本当に」


 心底から嫌そうに望は言う。しかし、怒っている様子かと言われれば違う。むしろ申し訳なさそうだ。

 どういうことかと、さなかは視線で訊ねた。目を向けられた流が、言いにくそうに、けれど諦めて口を開く。


「……ちょっと、初手から喧嘩しちゃいまして」

「え? ていうのは、流ちゃんと望くんが?」

「まあ……そういうことです。今日はさなか先輩と約束があったから早く帰りたかったんですけど……」

「話の流れで、さなか先輩や未那先輩が共通の知り合いだとわかったものですから。まあ僕が下手に口を出したのが、失敗と言えば失敗でしたかね」

「だいたいわかった。なるほど、ふたりを打ち解けさせるために、わざとふたりきりにされちゃったわけだ」

「……そうだと思います。悪ノリしやすい先輩たちですけど、途中で投げ出して帰るような人じゃないのは事実なんで」


 言いつつも実に面白くなさそうな流に、さなかも思わず笑みを零す。

 まあ大半は面白そうだからという理由でからかわれているのだろうけれど。


「なんで結局、ふたりで来ることになったってわけです」

「なるほどねえ。うん、でも楽しそうな学校でいいじゃない」

「むぅ、他人事だと思って……」


 唇を尖らせる流であった。

 しかし悪くない。さなかはそう思う。

 これだ。こういう感じでいけばよかったのだ。チャレンジの成果はしっかりと出ている。

 言うなれば、今のは《頼れる先輩系キャラ》でのヒロインチャレンジというわけだ。あるいは未那の好みも、その辺りにある可能性だってある。たとえばほのか屋の真矢さんとか、未那もだいぶ慕っている様子だし。

 この調子で、これを続けていったらいいわけだ。

 これからは咄嗟の事態にも、きっと対応していけるようになるだろう。

 会話を楽しむこと以上に、ここ最近の努力の再確認ができたことにさなかは気をよくしつつあった。

 告白自体は、それはもう盛大に失敗してしまった気がするけれど。だからって無理を重ねていこうとするより、一歩ずつ地道に、普通に進んでいくことが大事なのだろう。足を止めさえしなければ、いつか目的地には辿り着ける。


「……ところで」


 望が、そこで唐突に口を開いた。

 成果を噛み締めているため、さなかはそれを止める思考を持たない。


「峯森が話す気がないみたいなんで、先にこっちのお話を進めたいんですがいいですか?」

「え? あ、うん、そっか。望くんもわたしに用があるんだっけ? 何かな」


 仏頂面の流に話し出す気配がないため、さなかは望の用件を先に聞くことにする。

 望は言った。


「最近、彼氏さんとの進展はどうですか」


 さなかはコーヒーを噴き出した。

 頼れる先輩は死んだ。


「ちょっ!? ののの、望くん!?」

「え!? さ、さなか先輩、彼氏ができたんですか!? 聞いてませんよ!? 誰ですか誰ですかっ!?」

「ひぃえ」


 慌てるさなか。半ば椅子から立ち上がる勢いで身を乗り出す、興味津々な流。

 そして、あくまでも淡々と淡白な様子の望。


 ――なんで今、ここで、それを言い出すんだよぅ!


 さなかは横目に流を窺いながら、視線で驚愕を望に示す。

 なにせ、流が未那に憧れていることは自明だ。それが恋ではないのだとしても――たとえるなら、さなかが中学時代に運動部の先輩に抱いていたのと似たような憧れでしかないのだとしても――その話に踏み込むのはまずい。実にまずい。

 さなかはそんなこと、流にはひと言だって告げていないのだから。裏切り者と誹られても文句は言えなかった。


 けれど、それは事実ではない。さなかは、そもそも未那と付き合ってなどいないのだから。

 しかし考えてみれば、それを事実として望には伝えてしまっていた。それが嘘であると明かした覚えもない。そもそも、考えてもみれば、その辺りのことでもなければ望がさなかに用などなかった気がする。

 話があると告げられた時点で気づいていない、さなかのほうが間抜けだったのかもしれない。


 咄嗟に望を止めようと言葉を探すさなか。

 だが、弱点は弱点だ。いきなり進展した事態に思考が追いついていかない。

 あっさりと――友利望はキラーワードを口にしてしまった。


「未那先輩とさなか先輩のその後、僕はかなり気になっていまして」

「あぅあ」

「その辺りのことを、ぜひとも教えていただけないかと。ほら、姉にも関わることですし」


 そして、静寂が訪れた。

 しんと静まり返るテーブル。店内の喧噪は遠く、感覚として鼓膜を揺さぶるものではなくなる。

 さなかはそっと、視線の向く先を望から、その隣に座る少女へと移し替える。

 少女は――笑顔だった。

 満面の笑顔だった。


 ――あ、ダメだこれヤバいコワい。


「あの……何か話したいことがあったんじゃ」

「さなか先輩?」

「――なんでもないです」


 にっこりと。笑みを作って流は言う。

 怒っていらっしゃるようだ。無理もないだろう。


「――聞いていませんよ?」


 さなかは、店内の天井を仰いだ。


 未那、たすけて(泣)。



     ※



「――んん? あれ、なんか変な感覚が……」

「あ、どした未那?」

「ああ、真矢さん……いえ、なんだってわけでもないんですけど。なんか呼ばれたような気がして」

「いや気のせいだろ、知るかよ。んなこといいから手を動かしなさいよ。ほら、三番テーブル、グラス空いてるよ」

「すみません。行ってきます」


 こういうときに限ってバイトが入っている主役を、果たして主役と呼ぶのかどうか。

 弱運たる男の、あるいは本領発揮と言ってもいい――の、かもしれない。



     ※



 もちろん、さなかは全てを白状した。

 させられたとも言う。

 今さら隠す理由もなかったし、あと怒っているっぽい流を宥める手立てもほかになかった。

 第一、隠し続けることは不義理だと思うから。選択肢がそもそもない。


「……じゃあ、未那先輩とさなか先輩は、別に付き合ってるわけじゃないんですね?」

「うん! 本当、ぜんぜんそんなことないから! そんなね、気配もないよ! あはははは……」


 まあ言ってて自分で悲しくなってくるのはもうどうしようもなかったが。

 実際その通りだし、仕方ない。ヒロインになりたいとまで言い切ったというのに、あっさり違う解釈で取られているのだから、本気で望みは薄いのかもしれなかった。まあ、あの場の会話の流れが悪かったと思いたいところだけれど。


 その上、全てを聞いた望の言った言葉が最高である。


「なるほど。まあだいたい、未那先輩から聞いていた通りですね」

「いや知ってたのぉ!?」

「本人から電話で嘘ついてごめんと謝られましたよ」

「じゃあなんで訊いたんだよぅ!?」

「いやもう信用ないので。ちゃんと確認しておいたほうがいいかと思いまして」

「…………」


 ぐうの音も出ない。まさしく完全敗北であった。


 いや、気持ちはわかるけれど。

 未那と叶の同居に関連することで、家族である望に嘘をついたのがそもそも悪い。さなかも、自分が提案してそう運んだのだから同罪だろう。返す言葉なんてなかった。


「……ごめんね、嘘ついてて」

「いえ」


 謝るさなかに望は言う。


「似たようなことは未那先輩にも言いましたけれど。しつこい僕が悪いんですから、仕方ないとは思いますよ」

「あー……えっと」

「まあ、何を言われようとやめるつもりもないんですけどね。僕は。シスコンなんです」


 しれっと言う望であった。

 横の流は「うっわあ……」とドン引きの様相であったが、さなかとしては、もう望は単純に便利な言い訳としてシスコンという表現を使っているようにしか見えない。より面倒というか、油断のならない人物であることは疑っていなかった。

 要は今の、《自分がしつこいので先輩たちが面倒がったり嘘をつくのはわかりますから謝らなくていいですよ。悪いとは思いますが僕はやめませんし、嘘つかれようが見抜くので問題ないです》という宣言だろう。そうとしか聞こえない。


 しかも、望くんの言及はさらに続く。


「それに今の話、必ずしも全て嘘ってわけではないですよね?」

「え――」

「少なくともさなか先輩は、未那先輩のこと好きですよね? 僕にはそう見えるんですけど」

「……そうなんですか?」


 切り込んでくる望。流もじとっとした視線を向けてきている。

 というかおそらくだが、流がいたほうが聞き出しやすいだろうと見抜いて、望はあえて同席した節がある。生徒会の交流とやらで何が起こったのか、詳しい話は聞いていないけれど、おそらくは流が未那に向ける複雑な感情に気がついたのだ。流は非常にわかりやすい少女であるため、望ならきっと一発で気づく。


 同時にそれは、さなかの性格まで見抜かれているということだった。

 あるいは相手が望ひとりなら、「そんなことないよ」のひと言で誤魔化される可能性があった。さなかはあまり嘘のつけない少女だが、必要とあらば絶対ではない。下手くそ極まりない演技であっても、未那の彼女を演じたことは事実だ。

 だが――そこに流がいたらどうだろう。

 流に対してまで、果たしてさなかは嘘をつき通せるだろうか。


 ――そんなことは、できないよね。


 自分でもバカだとは思うのだ。たとえ中学生だろうと、可能性として恋敵になり得る相手にわざわざ正直なことを告げる理由はないはずだから。

 けれど、だとしてもさなかは嘘をつかない。

 自分の信じた主役は、きっとここで嘘をつかない人間だと信じるから。そうでなくとも、主役みなの隣に立つと決めた自分ヒロインが、ここで好きだとさえ言えない人間であることを認められない。そんなもの、目指せない。

 ていうか、どうせ葵や勝司には一発で気づかれているわけだし。いや両方とも自分から言ったんだけど、でなくてもたぶんバレてたし。


 ……もしかしたら、そのふたりだけではなく。


「うん。わたし、未那のこと好きだよ」


 自覚した想いを嘘にしないため。

 あくまで自分のために、さなかはそうふたりに告げた。


「ていうか、実は告白したんだけどね。あはは……そのつもりだったんだけど、気づかれなかったっていうか」


 恥ずかしい気持ちを堪えながら、さなかは言う。

 ふたりは、答えた。


「まあ、でしょうね」

「いや……うん。それは、えっと……見てればわかったんで」


 ていうか知ってた。


「……あ、あっれー? わたしの決意はー?」

「さなか先輩、こう言ったらなんですけどめちゃくちゃわかりやすいんですよね」

「てか、隠してるつもりでいたんですか? そのほうが、こう……わたし割と意外なんですけど」

「そこまで言う!?」


 湯森さなか、十五歳。

 未那が弱運の星の下に生まれたのと同様、少女はきっと残念と不憫の星のお姫様なのだろう。

 三つも年の離れた中学生に、こうまで見抜かれていては世話なかった。


「でも……いいの? 流ちゃんは、それで……」

「……そりゃまあ複雑な心境ですよ? 正直、助けられたとき、割と少女漫画みたいな妄想とかしましたし」

「あー……」


 気持ちがわかる高校生だった。

 夢見がちなのである。


「でも、言ってもまだ二回しか会ったことないですし」

「……あ」


 そして中学生は、高校生よりも現実を見ていた。


「そりゃ、格好いいなあ、とか。恋が始まったりしないかなあ、とか思いましたけど。そのくらいはわたしだって乙女ですよ? 一応。これでも。恥ずかしいですけど」

「…………」


 中学生より恥ずかしい高校生が目の前にいるので大丈夫。


「でも、冷静に考えて歳の差ありますし、一回会っただけでひと目惚れするほど安くもないですし」

「――――――――」


 その様子を当事者でさえなく、ただ横から見ていただけで八割くらい惚れていた安い女が目の前にいるので以下略。

 略ったら略。大丈夫。


「それに……さなか先輩がいましたから」

「……え。わたし……?」

「見てれば、ああ、恋してるんだな、ってわかる顔してましたもん。すごい素敵でしたよ?」

「――ぅあえ? ちょっ、流ちゃん……!?」

「あれ見ちゃったら、そりゃ勝てないなって思いますよ。さなか先輩、明るいし、優しいし、正直言って理想的です。負け戦に特攻するほどバカにはなれなかったんですよ、わたし」


 ――いったい誰の話をしているのだろう?

 さなかは本気でそう思った。自己評価と他者から見た自分のすれ違いに、彼女はあまり自覚がないからだ。


「ていうか、変な顔で見てないでなんか言いなさいよ。わたしだけ恥ずかしいこと言ったら不公平じゃん」


 慌てるさなかの傍ら、さすがに照れが出てきたらしく、流がじっととした目を望に向ける。

 望は、なぜか少しぼうっとした視線を、さなかではなく流へ注いでいた。けれど水を向けられると気を取り直し、さなかに視線を戻して言う。


「……そうですね。まあ正直、お似合いだとは思います、僕も」

「え、ぁえ、えとえと……うあー」


 恥ずかしすぎて顔を覆うさなか。それを見て、流が小さく笑う。


「ほら。こんなかわいい先輩に張り合おうなんて考えられるわけない」

「未那先輩も、たぶんこういうところ気に入ってるんでしょうね」

「ねえふたりとも、わたしのこと絶対からかってるよね!?」


 顔を両手に埋めたまま、さなかは叫ぶ。こうまで年下に言われていては本当に立つ瀬がない。

 ただ、そういうところも含めて、きっと彼女の魅力なのだろう。たとえ本人にはまったく自覚がなくても、まっすぐで、誰に対しても誠実であろうと努める少女の在り方は、それだけできっと愛すべきひとつの個性だから。


「……あれで未那先輩もだいぶ変わってますからね」

「それ、あんたが言う? わたしの恩人に失礼なこと言わないでほしいんだけど」

「別に貶しているつもりはないですよ。ただ、ああいう人に付き合える人間ってあんまりいないと思うんですよね。実のところ相当面倒臭いと思うんで、あの先輩。さなか先輩くらいじゃないと」

「……褒められてる気がしないよ……?」


 要するに、ふたり揃って面倒臭い人間だという意味ではないのか、それは。

 そんなことは決してない、とさなかは思っているのだが。


「……本当。って貴重なんですよ」


 望は小さく、さきほどの言葉を繰り返すかの如く言った。

 ふと顔を上げるさなか。それに対して、望は小さく首を振ってから話を変える。


「まあ応援したいと思っているので、年下からこういうことを言うのもなんですが、がんばってください」

「……あ、ありがとう?」

「こいつと意見合うのもなんだけど、わたしも同じ意見ですよ。未那先輩は格好いいし、さなか先輩はかわいいし! まさに理想のカップルって感じです!」

「それは色眼鏡が入ってると思うけど……でも、ありがと。流ちゃんも」

「――しかし実際、どうなんですかね。未那先輩って、モテるんですかね?」


 と、思わず呟くように望。さなかは顔を上げて考え込んだ。


「どうだろう。……え、いや、どうだろう……どう、なのかなあ……どう思う?」

「いや訊き返されましても。急に不安がらないでくださいよ」

「さなか先輩は確実にモテそうなのに。なんか、あんまり自信ないですよね」

「言うほどモテないんだけどな、わたし……」

「……ああ」

「残念だから……」

「ふたりとも実は息ぴったりなの?」


 確かに葵にも勝司にも言われるけれども。

 でもそこまでじゃないはず。かぶりを振って、それから言う。


「中学のときは、すごく地味だったとかなんとか、確か言ってたなあ」

「え、そうなんですか?」


 未那の中学時代のエピソードが聞けるかもしれないと、流が身を乗り出す。


「あ、うん。正直それは疑わしいと思うんだけど、でも……そうだ。中学時代は友達がひとりしかいなかったんだって」

「それは……確かにすごく意外です。もっと、なんていうか派手系かと思ってました」


 叶が聞いたら大笑いだろう。


「その友達とは今も仲いいみたいで、たまに電話とかしてるって言ってた。ほら、未那ってかなり多趣味なんだけど、それって、その友達といろんなとこ出かけたり、遊んだりしてたからみたいだよ? 頭がいいから学校は別になった、とかいう風に言ってたなあ。未那も割と成績はよかったと思うんだけど」

「友達、ですか」

「へえ……どんな人なんだろう」


 、と謎に意味深な呟きをする望。

 単純に、憧れの男の過去を興味深そうに聞いている流。

 それを目の前に、さなかも少し考える。未那の友達とだけ聞くと、なにせ顔の広い男だ、あまり想像はつかないが。


 ――勝司みたいなタイプ、なのかな……?


 中でもいちばん仲のいい男となるとその辺りだろう、とさなかは想像した。

 未那の唯一の友達だったというくらいだから、まさか女子というわけもないだろうし。そりゃね? そりゃそうよ。



 近く、その未那の《旧友》が訪れて騒動になることなど、このときはまだ想像もしていないさなかなのであった。



     ※



 結局、未那やその周りの話をしてふたりとは別れた。このまま学校まで戻るそうだ。

 なんだか自分のことだけ話したなあ、と思うさなかだったが、ふたりとも楽しそうだったし、これはこれでいいのだろうと思う。実はさなかのほうからも、特に望には訊いてみたいことがあったのだが。


「……なんだか疲れたや」


 ほのか屋に寄っていくかを一瞬だけ悩んで、すぐにやめた。

 これはこれで、まあ、楽しい一日であったのだから。そこにほかのものを挟まなくてもいいはずだ。

 ちょっと理想主義的というか、ロマンチストじみた傾向が出始めているさなかだった。誰の影響かは言うまでもない。


 ――望から着信があったのはそのときだった。

 さきほど連絡先を交換しておいたのだ。


『もしもし。すみません、大丈夫ですか?』

「あ、うん……どうしたの? 何か忘れ物とか?」

『近いですが、物ではないですね。言っておきたいことがあって』


 忘れたわけではなく、単に流と別れるまで待っていたということなのだろう。

 そう直感し、さなかは望の言葉を待った。少年は言う。


『――姉のこと、よろしくお願いします』


 想像もしていなかった言葉に、さなかは思わず面食らってしまう。

 どういうことだろう。思わず口を噤んだ少女に、少女のような少年はやはり淡々と続けた。


『いえ、もちろん頼める義理もないのですが。もしかしたら、さなか先輩がキーになるような気もして』

「……それは、どういう……」

『別に頼みってわけではないんですよ。先輩がもし姉を友達だと思ってくれているのなら、これからも仲よくしてあげてほしい――ちょっとだけでいいので、気遣ってあげてほしい、と。それだけのことです』

「もちろん……それは、言われなくても、だけど。わたしだって、もっと叶さんとは仲よくしたいし……」

『……ええ。そうでしょうね。

「知ってた……?」

『すみません。僕のやっていることがどういう結果に繋がるのか、僕自身にもわからないんです。できれば僕のとは思っていますが。……ああいえ、これは欺瞞ですね』


 とてもではないが、中学一年生と話しているという気にはなれない。

 それ以前、そもそも何を言っているのかさえ判然としない。


『……すみません。言い出しておいて僕が迷っていては話にならないですね。ならせめて開き直っているくらいが、まだしも潔いっていうのに』

「あの……望くん?」

『姉は、きっと誰とも深く関わらないまま、高校生活を終えようとしています。そうならかったのは奇跡なんです。未那先輩がいなければ、姉の高校生活は、たぶんもう終わってしまっていた――始まらなかった』

「……………………」

『そのせいで欲が出てしまったんですかね……まあ何を言っても言い訳なんですが。まあ、とにかく細かい話はいいんです――僕がすべきでもない。ただ、姉のことを嫌いでないなら、先輩がそれでもいいなら……』

「……よく、わからないんだけどさ。ああいや、何かあったんだろうなってことはわかるんだけど」


 さなかはそこで、少し自嘲の混じりつつあった望の言葉を止めた。

 もちろん、望の言いたいことなど何もわかっていない。なぜやたらと申し訳なさそうな声音なのかも謎だ。

 ――だとしても言っておかなければならないことは、あるはずだった。


「うん。正直言うとね、叶さんとは少し気まずい」

『…………』

「まあそりゃ、えと……その、好きな、相手が、いっしょに暮してるからね。何も思わないっていったら嘘だよ。ていうかすごくビクビクしてる。もし叶さんが未那を好きになったらどうしよう。いや逆かな……もし未那が叶さんを好きになったらどうしようって、そりゃ思うよ当然。くそー、わたしもあそこに住みたい! とかね。あはは」


 ――だけど。

 そんなこと初めから知っていた。


「わたしは未那が好きだけど。でも、?」

『……先輩』

「いつも気を遣ってくれてるの知ってるし、言葉はキツいけど、そういうギャップも叶さんだと魅力的だなって思う。ずるいよね? 気を抜いてるときの叶さんって、本当にかわいらしいんだから。まあ弟さんに言うことじゃないか。……ていうか何を恥ずかしいこと言ってんだって話だよね。まあでも、だから、これからもっと仲よくなりたいって思ってる」

『余計なことを、言ってしまったみたいですね』

「お姉さんが大事なんでしょ? じゃあ、いいんじゃないかな」

『……こういっては何ですが。では、もし先輩が危惧していたことが現実になったら――』

「そんなことはなってから考えることにするよ。損得で友達選びなんてしたくない。しない。そう決めたんだ。……未那に教わったから」


 だから、湯森さなかは笑顔で綺麗ごとを抜かす。

 これまでずっと、訪れてもいない後悔を恐れて生きてきた。

 だけどそれは、もうしないと決めている。

 そう、だからそんなことは言われるまでもないのだ。ここで望を相手に宣言できて、覚悟は決まったと思うけれど。


「だから、えーと。なんだ、そう! これから夏が来るからねっ!」

『……え? はい……えっと、夏?』

「そうだよ、夏だよ。高校生の夏だよ、青春だよ! 部屋から引っ張り出して、未那と、叶さんと、わたしと――みんなで遊ぶんだよ! だって、そしたらきっと、――楽しいから」


 それだけでいい。

 今、この瞬間が全てではない。そんなことわかっている。

 だとしても、このとき、この場所にしかない楽しさを蔑ろにするなんてもったいない。

 楽しむためには全力を尽くすべきなのだ。


 それが、主役というものだから。


『……余計なこと言ってすみませんでした。ありがとうございます』

「どういたしまして! なんて、言うような話でもないけど」


 羞恥いたみを恐れて言葉を閉ざし、動きを鈍らせることはしない。

 それが、少なくとも湯森さなかが決めた覚悟であるならば。


 ほら――楽しい夏の日々は、もうすぐそこまで来ているのだから。


 明るく、笑顔で、いつもみんなを元気にできるのが、きっと少女の取り柄なのだし。

 そういう自分でいつもいよう、と。そう決めることの何が間違っている?


 では、と望が通話を切ったところでスマホを仕舞い込み、さなかは再び足を進め始めた。

 なんかまた恥ずかしいことを言った気がするけれど。それはそれ、気分は存外、悪くないから。


「……うん。楽しい夏に、なるといいな」


 少女はそう呟いて、静かに家路を急いで帰る。




 なお。

 この恥ずかしくも格好いい宣言を、少女は予想だにしない形で割とすぐさま後悔することになるのだが。


 ――それもまた、彼女の魅力なのだろうということで、ひとつ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る