S-05『湯森さんのヒロインチャレンジ ~黎明編~』

「うー……っ」


 夜半。丑の刻には少し早いが、日付はとうに回った頃。

 私立雲雀ひばり高校一年一組・湯森ゆもりさなかは、自室にてテレビドラマを流していた。

 深夜帯のテレビ番組をリアルタイムで見たかった――というわけではない。彼女が観ているのは、レンタルショップから借りてきた古いトレンディドラマだった。七泊八日で108円×6。

 何かの参考になるかもしれない、と手を出してみたのである。


「むぅー……っ」


 もともと、ドラマを観ることは嫌いじゃない。嫌いになる理由がそもそもない。

 まあ、取り立てて趣味と呼べるほどのものでないことも事実だが。クラスで話題になるような、流行りのドラマなら当然チェックはするし、実際に楽しんで観られるものの、だからといってDVD等を借りて過去の名作を発掘まではしない。

 その程度の、まあ言ってしまえば至極《普通》のドラマファンだった。


「……うなーっ!」


 だが今日は、今日から、今日こそは違う。

 今日の視聴は単に作品を楽しむことだけを目的とはしていない。きちんと研究目的の、いわば挑戦チャレンジだ。


 ――いやまあ作品はすごく面白かったんだけど。古いと思ってた割に、意外と楽しめたんだけど。てか泣けたけど。


 それはそれ、これはこれだ。

 正直さしたる興味もないトレンディドラマなぞ借りたのは、あくまでも自己の発展のため――湯森さなかという個人を、ヒロイン足り得る人間へと成長させるためなのだから。

 やはりヒロインを目指すのならば、古今東西のヒロインに倣うべきだ。

 クラスメイトである我喜屋わきや未那みなの掲げる《主役理論》に寄り添うことを決めたとはいえ、その正確に目指す先は、彼とは少し異なっている。彼女が目指すのは主役ではなく、あくまでもヒロイン。その意味は、自分を主人公とすること自体は否定しないものの、それ以上に――主役ヒーローの隣に寄り添うことに主眼を置く。


 でなきゃあんな恥ずかしい告白をするものか。


「…………っ!!」


 思い出すだけで顔から火が出る。

 さなかはそれなり以上に見た目の整った少女だったし、また持ち前の明るい性格から、中学これまでの人生で男子に告白された回数だってゼロじゃない。人並みに乙女らしい理想は抱いていたし、お約束の如く運動部で活躍するイケメンの先輩に憧れを抱いたことだって、なかったと言ったら嘘になる。――それが、恋だったかどうかはともかくとして。

 ともあれ重要なのは、彼女が見た目の割に、およそ恋愛慣れしていないという点に尽きるだろう。

 ある種、少しばかり強すぎた理想主義が祟ったと言えるだろうか。白馬の王子様も、もちろん息切れしながら駆けてくるクラスメイトの男子も信じてはいなかったけれど、そこはそれ、赤い糸で結ばれた運命の相手くらいならどこかにいたっておかしくない。口には出さず自覚はせずとも、そういった秘めたる願望自体はどこかにあったのだろう。


 まあ。だから少女にとって、気になるクラスメイトの男の子へ告げた《ヒロインを目指す》という宣言は、ほとんど告白みたいなものだったのだが。

 それがすげなくスルーされた――というかさっぱり伝わっていなかった点は反省するとして、ならばこれからは、目指すヒロインらしく理想を追い求めていく必要がある。ある種の覚悟というか、どこか開き直ったような気持ちで。

 しかし恋愛慣れしていないさなかでは、ヒロインというものがよくわからない。

 わからないのならば先達に倣う。さなかが創作の中に理想を探し始めたのは必然といってもいいだろう。

 いいだろう。

 わざわざ普段は寄りつかないレンタルショップから、古いドラマを借りてきたのはそれが理由だった。


「……でもこれ、どうやって参考にしたらいいんだろう……?」


 休日を丸々費やして、ドラマ1クール分をぶっ通しで鑑賞したさなかは今、そんな風に首を傾げていた。

 これを観て、それで自分がどう参考にするのか。その辺りはちっとも考えていなかった。


 さなかが観ていたのは、彼女が生まれるより前に放送されていた有名な番組で、コッテコテのトレンディドラマのテンプレートみたいな作品である。「恋愛といえばトレンディだよねっ!」と、観たこともないくせにイメージだけで適当に選んださなかの思考が合っていたかどうかは措くとしても、そもそも状況が違いすぎて参考の仕方がわからない。

 大卒で都内でカタカナっぽいクリエイティブ職に就いたヒロインが、その会社の先輩と大学時代の元彼氏の間で揺れ動きながら、他の登場人物も交えてグループ恋愛を繰り広げていく、みたいな。


「こんなのどうしろっていうんだよ……」


 自分で借りてきたくせにドラマに八つ当たりをするさなかだった。

 かなり楽しんでしまっていた時点で割と始末に負えていない。


「でも、まあ、あれだよね」


 ――ドラマのヒロインってすごくモテモテだよね……!


 当然、当時イケイケ(死語)だったナウい(死語)ギャランドゥ(意味すら知らない)な有名女優がキャスティングされた有名作だ。彼女に恋する役柄の俳優たちだって、今でも名前を聞くようなアイドルやイケメン俳優が名を連ねている。

 自分がそこまで届かない、と主観的に自覚する彼女だったが、その辺りはまあ相手も高校生だから格落ちする点で相殺にする(断言)として、どの辺りを参考にするべきか。

 さなかは考え――そして結論を下した。

 今の彼女はヒロイン志望者。まずは試してみることから始めなければ。


 このヒロインはモテる。

 それはもうモテる。つまり《いい女》ということだ。

 そして、ヒロインといえばやっぱりきっといい女なのだから、それに倣うのがいちばんいい。


 ――つまり。


「わたしも、トレンディになればいいんだ……!」


 湯森さなか、十五歳。

 自分を凡人であると自覚する少女は、それが是か否かはともかくとして。


 少なくとも――残念なタイプの美少女であることは間違いなかった。



     ※



 朝、俺が登校する頃には、さなかはすでに教室にいた。

 今日は日直だ。そのためもあって、そこそこ早めに登校したため、まだクラスにさなか意外の人影はない。

 まあ、都合がいいといえばいいかもしれない。

 これも貴重な青春のひと幕だ。主役理論者を自任する俺が、無為に消費していい時間ではない。


「おはよう、さなか。今日は早いんだなー」


 などという思考はさておくとしても、まあ登校して友達がいれば声くらいかける。

 週明けの月曜、ホームルーム前。ひと気のない教室を、さなかと過ごせることは幸運だろう。

 それなりに気になっている女の子とふたりいりで、テンションの上がらない男子高校生などそうはいないはずだった。


 さなかは俺を見ると、薄く微笑んでこう言った。


「――あら、我喜屋くん。おはよう、今日は早いのね」

「え?」

「いい心がけじゃない。感心したわ」

「あ、うん。えー……あ、どうも」


 うーん……なんだこれ? どうした?


 おかしいぞ。

 さなかが今日もおかしいぞ。


 俺は混乱した。

 最近、さなかはちょくちょくおかしくなる。

 なぜいきなり《デキる会社の女上司》みたいなテンションで来たのかわからない。


「いい朝ね。風がとっても気持ちいい」


 さなかは言った。

 やばかった。

 やばい。

 やばいっていうかやばい。

 まず何言ってんのかわかんない。

 いや言ってることはわかるけどなんで言ったのかがわかんない。

 内容的には普通のことしか言ってないのに明らかおかしい。

 どうした。


「あー……うん、そうだね」


 結局、俺は普通に答える以外になかった。

 ていうかほかにどうしろっていうんだ。

 その答えが合っていたのか、間違っていたのかもわからない。

 さなかの返答は、言葉ではなかったからだ。


「ふふ」


 と、普段なら絶対にしない感じで微笑むと、さなかは髪をふぁさっと片手でかき上げた。

 髪をふぁさっとやった。

 ふぁさっ。


 ……しかも二回やった。


 どうしよう。どうしたらいいんだろう俺は。

 意味がちっともわからない。

 今日の俺は登校してから「わからない」以外の気持ちを抱いていない。

 なぜだ。

 わからない――いやわかるよおかしいからだよ。さなかが。


「……風が気持ちいいわ」


 そしてさなかは言った。また言った。さっきも聞いた。

 そもそも窓は閉まってるよ。風入ってないよ、ねえ。

 なんかもういたたまれなくなってきて、とりあえず俺は窓際に寄って鍵を開けた。

 七月に入ろうとする教室の風は、まあ確かに心地いいものだ。


「えー……と。もう、梅雨も明ける感じ……なのかな? ね? うん。そうね。いい……感じの、あの、風……だよね?」


 俺は俺で何を言っているんだろう。

 間違ったことは何も言っていないはずなのに、この答えは間違っていたような気がしてくる。

 だが、そんな答えですら、さなかは満足したらしい(たぶん)。

 笑みをさらに深くして言う。


「それで? こんな早くにどうしたの、我喜屋くん? 仕事?」


 どうしたはさなかのほうでは?


「いや、えー……まあ仕事と言えば仕事だけど。ほら俺、今日は日直だから……」


 正味な話、日直だから早く登校しなければならない、ということは必ずしもない。

 単にそれが言い訳になるから、朝の面倒臭い叶から逃げてきただけ、というほうが実際には近かった。

 借りてきた猫、が慣れるごとにだんだんいい気になってきて怠惰を蝕み始めた感じのあいつに、朝から構っていると死ぬほど大変なのである。「にゃー」とか言いながらごろごろ部屋を転がったりするのだから。


「みなぁー……」

「……何?」

「げつよーだるーい……」

「……そうだね」

「起こせー」

「嫌だ」

「けちー」

「うるさいな」

「いつも世話してんだからたまには世話しろよぉー……」

「されてねえよ。何しろってんだよ」

「んー……服持ってきてー」

「仮にも男子に女子のタンスを空けろと言うのか」

「着替えさしてー」

「あとで恥ずかしくなるの絶対お前だからな。わかってんのか? なあ?」

「……んにゃ」

「それはなんなの? 猫の国の言語で肯定なの? 否定なの?」

「ねこじゃねー……」

「じゃあにゃーにゃー言うんじゃねー」

「言ってにゃー……」

「言ってるんだよなあ!」


 以上、今朝の顛末。この面倒臭さである。

 まあ無論、叶も本当に猫の真似をしているのではなく、単に呂律と頭が回っていないせいで言葉が潰れて聞こえるだけなのだろうが、確かに動物で言うなら猫っぽい奴だと思わないこともなかった。

 いやちょっとかわいいとかぜんぜん思ってないから。断固。断固だ。


 ともあれその程度のものだった。

 それを言うのも憚れるため、さなかには建前を話しておく。

 言われたさなかは、再びなんかデキる女風(?)の感じで髪をふぁさっ。


「そう。いい心構えだわ」

「どうしてしまったんですか、湯森さん……」

「他人行儀ね。さなかでいいわよ」

「こわい」


 面倒臭い奴から逃げてきた先で別の面倒臭い奴に絡まれてしまっている。

 おかしい。もっとこう、爽やかな青春的なイベントを最初は期待していたというのに。どうしてこうなるんだ。

 しかし、そこで俺はあることに気づく。

 それは疑問を感じているのが、どうやら俺だけではないらしい、ということだ。


「……あれえ? なんか……あれ? おかしいなあ……」


 突如、さなかがそんな風に小声で呟いた。

 聞こえるかどうかという程度の、囁きに近い音量。耳まで届いたのは偶然だろう。


「なんか……なんか、違う……?」


 なんかというか何もかも間違っている気がしてならないのだが。

 どうもそういうことを言っているわけでもないご様子。思わず声をかけた。


「さなか?」

「へ? あ、ぇあ、何――じゃない、えと……何かしらっ!?」


 髪ふぁさっ。


「いや、割とこっちの台詞なんだけど……どしたの?」

「ど、あぇあ、べ、別に、どう、何も、その――どうもしてないけどっ!?」

「……あ、そう……」

「それよりっ! 未那のほうこそ、こう、なんか――ないかなっ!?」


 ふぁさっ。


「なんかって……」

「こう、なんか、わたし、こう、普段と違わない?」

「えっ!? あ、えー……あ、えとぉ、あの……そ、そうだね。うん。確かに、普段とは違う、こう……感じだよね。うん」

「やっぱり!? だよねっ! わたし変わってるよねっ!?」

「うん。うんうん。まさしく。そうそれ。それ俺も言いたかった。変わってる。さなかすっごい変わってるよ。マジで。変わってるっていうか、何、なんだろ。あの……変化? というのとまたちょっと違った、えー……何。つまるところ、正直言って、あの、……変わってるよね」

「どうかなっ!?」


 ふぁさっ!



「どうかな? どうかな……どう、あの、うーん。いや、どう……と訊かれますと、こう……ね? その、なかなか……いや。いや、なんて言うんだろうなあ。答えづらいっていうか、言葉にしにくいっていうか? ねえ? 難しいとこありますよね。うん」

「え? いや、そういうことじゃなくって!」

「ですよね。はい。はいはいはい。そうじゃないですよね。そういうことじゃないですよね」


 ふぁっさあ……っ!!


「今日のわたし、ヒロインっぽくないかなっ!?」


 俺は答えた。


「ない」

「ええなんでえっ!?」


 なんでも何もないという話で。

 衝撃を受けるさなか。こんなことで衝撃を受けてほしくないというか、いったい何をもってヒロインと言っているのか。

 いや。察するに、またぞろなんらかの創作物から影響を受けてヒロインチャレンジをしているのだろうことはわかる。このところのさなかは、そういった挑戦に実に意欲的だった。それ自体は俺も、いいことだとは思っている。少なくとも悪いことではないだろうと。

 だがそのセンスが斜め上というか。

 常に間違った方向にしか向かっていないというか。

 こう、

 なんか、

 その、

 言いづらいけれど、


 残念というか。


 いつもそんな感じなのだ。いったい今度は何から影響を受けているというのやら。

 最近ではもう、コントを考えたので俺のところに持ってきている芸人みたいな風情すら出つつある。本人にそんなつもりが欠片もないことは承知しているが、この場合、そんなつもりがないはずなのになっているのは、むしろ救いがない。

 個人的には、面白いからそれでもいいような感じになりつつあるけれど。


「ま、ともあれがんばってよ」


 なんの慰めにもならないことを俺は告げた。

 さなかはそれを素直に受け取って、


「あ、うん。ありがとねー」


 と笑う。自然だった。


「んじゃ俺は黒板でも掃除しとくわ。あとで職員室も行かないとだし」

「あ、じゃあ手伝うよ。未那も偉いよねー。わざわざ日直のために早く来るなんて」

「……まあね」


 と俺は言ったが正直違う。罪悪感に苛まれたが、このまま見栄を張っておこう。

 ふたりで並んで、昨日の放課後に汚された黒板を綺麗に掃除していく。そこまで気を遣うこともないのだが、ほかにやることもないし、さなかが手伝ってくれるなら悪くない。

 これはこれで、ひとつの青春の一部なのかもしれない。そんな風に思った。


「ありがとな、さなか。わざわざ手伝ってくれて」


 手を貸してくれたさなかに例を言うと、彼女は小さく笑って手を振った。


「どういたしまして。別にこんくらいなんでもないけどねー」

「手伝ってくれたのは事実だろ。例くらい言わせてくれ」

「あはは。今日は早く来たからってだけだよ。暇といえば暇みたいなもんだし」

「ま、まだ俺らしかいないしな」

「うん。――うん!?」


 さなかがいきなり叫んだ。

 そして叫ぶなり、後ろを向いて屈みこんでしまう。


「……さなか?」


 突然の行動に驚きながら問うと、声をかけられたさなかがしゃがんだまま肩をびくんと震わせる。


「うぇい!?」


 そして謎の奇声を発し、すぐさま立ち上がると再びこちらへ振り返った。

 ……どうした?

 俺は怪訝に思って眉を顰める。さきほどから変ではあったが、それとは少し空気が違う。

 さなかは、なぜか手をぱたぱたと振りながら言う。


「えぁ、えと……あ、えと、そう、そうだ!」

「いや何言ってんの?」

「ぅえあのえっと、きょ――今日仕事終わったら飲みにでも行こっか!?」

「いや何言ってんの!?」

「どどどどどこ行くどこがいい? バー? 行きつけのバーに行くのがアレなアレ!?」

「さなか!? さっきから何言ってるのか本気でわかんねえぞ!?」

「銀座!? 銀座行く!?」

「なんで銀座!?」

「それとも、その――あれだ! ジュリ〇ナ東京行く!?」

「なんでそんなバブルっぽいこと言い始めたの!? 歳いくつだよ!!」

「ディスコか! ディスコならいいのか!! ミラーボールの下でDJの陽気なリズムに合わせて朝までダンシングかっ!!」

「さなかさーん!? お願いだから帰ってきて! バブリーすぎて意味わかんねえぞ!?」

「うううう、だってもう頭が泡立ってるんだよぅ!」

「頭が泡立ってる!?」

「脳みそバブリーなの!」

「脳みそバブリーなの!? ……いや何それぇ!?」

「わかんないよぉ!」

「わかんねえのかよぉ!!」

「ああああもう釣りはととっけ、うわ――っ!」


 そんなことを叫ぶなり、さなかは顔を真っ赤にして教室から飛び出して行ってしまった。

 やせいの さなかが にげだした ▼


 ……いやもう意味がわからない。


 逃走したさなかと、ちょうど入れ違うようにして吉永よしながあおいが教室へと入ってくる。

 彼女の目にも、半泣きで逃げ出すさなかの姿はしっかりと見えていたことだろう。

 場合によっては俺が泣かせて、さなかが逃げてしまった、みたいな絵面に見えるかもしれない。俺は少し焦った。

 幸い、葵は特に勘違いせず、けれど首を傾げながら目を細めて、俺にこう訊ねてきた。


「……どしたの?」

「いや……どうしたんだろうな。さなかがいきなり発作を起こしたとしか」


 ほかに答えようがない。そんなことで友人の葵が納得するとは思わなかったが。

 けれど葵は、俺の言葉に「ああ」と頷いて、それから軽く肩を竦めた。


「なら気にしないであげてよ。たまにあるんだ」

「……そっか。なら、うん。いいんだけど」


 と俺は答えたが、心の中では別のことを考えていた。

 それを表明するのは、さなかの名誉を考えてやらないけれど。




 ……たまにあるんだ……。

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