幕間2

S-04『主役理論メイキング』

 ――名目上、それは受験対策ということになっていた。


 一応、三学期の段階で問題ない程度の成績は取っていたわけだし、志望校での面談でも確約らしきものは頂いているのだが、なにぶん受験は初めての経験だ。万が一、という言葉は脳裏を離れない。

 とはいえ、そこまで恐れていたわけでもないのが事実だった。


 まあなんとかなるだろうと思っていた、というか。

 こんだけやってなんともならなかったらどうしようもない、という開き直りがあったというか。


 いずれにせよ、だから受験対策の勉強会、なんて言葉はほとんど建前で。

 両親にもそう告げて、勉強道具を持って出てきたけれど、たぶん気づかれていたんじゃないかと思う。

 待ち合わせの相手を教えただけで、「そういうことなら」と言ってくれたのは、たぶんそういうことだった。


「……しかし、なんだ……」


 待ち合わせ場所は、地元の駅近くにある一軒の喫茶店。

 なんだか……なんというのだろう。全般的にとても《オシャレ》な感じの店だ。

 喫茶店なんてそもそもほとんど入ったことがない俺にとって――せいぜいどこにでもあるチェーン店くらいだ――そこは異邦の空間と表現していい。待ち合わせ相手はもう中にいるはずだけれど、抵抗感は拭えなかった。

 だからといって、いつまでも店の前で立ち往生しているのはずいぶんと馬鹿らしいが。

 意を決して、俺は店の中へと飛び込んだ。

 迎えてくれた店員さんに、待ち合わせであることを告げて席まで案内してもらう。


 は、おそらく待ち合わせよりだいぶ前からいたのだろう。

 店の奥まったほうの席に座っていた。

 

「や、未那みな。五分前、律儀な集合だね」


 正面に立った俺に向けて、待ち合わせの相手は持っていた文庫本から目を離すと薄く笑った。

 なんだろうね。この様になり具合は。

 異邦に馴染んでいるというか、異邦の中でさえ異界を築き上げているというか。


 俺は何も答えず、ただ正面に腰を下ろした。水とおしぼりを貰ったので、流れのままにそのまま使う。

 そんな俺を見るなり、正面の相手は薄い笑みをさらに広げた。


「ずいぶん緊張しているようじゃないか」

「お前がこんな店を選ぶからだろ……」

「おいおい。そんな程度のことで躊躇っていては、先が思いやられてならないぜ」

「……あ、すみません。えーと、このブレンドコーヒーをひとつ」


 返事をせず、ちょうど通りがかった店員に注文する俺。

 そんなこちらを見て、ますます笑いやがる正面の愛すべき友人が――なんというかずいぶん腹立たしい。

 どうせ、こいつのことだから。俺が狼狽えるのを見るために、この店を選んだに違いない。そうそう掌で踊らされてやるつもりはなかった。


 もっともこいつは、俺が何をしたところで薄く微笑んでいるのだろうけれど。

 それくらいのことがわかるくらいには、長い付き合いの友人だ。

 その関係が、もうほんの少し先で、進学に伴って終わりを迎えてしまうのだとしても。


「受験勉強のほうはどうだい?」


 出会った頃とは少し違う、けれどいつの間にかすっかり慣れてしまった、独特の芝居がかった喋り方。

 これがなんの違和感もなく馴染み切っているのだから、顔のいい奴は実に得だ。落ち着いた雰囲気の喫茶店という背景も相まって、もはや一枚の絵のように見えてくるのだから畏れ入る。

 絵画というよりは、どちらかというと漫画だが。この友人は喫茶店の雰囲気には馴染んでいても、喫茶店の絵面には言うほど馴染んでいないように思う。

 そのどちらにも馴染めない俺の言うことじゃないが。


「ぼちぼちだな。まあ不合格ってことはないだろ。できれば特待も取りたいところだけど」

「その辺りは今後の努力次第だね。まあ、焦ることはないと思うぜ」


 ジーンズに白いシャツ、そしてその上に黒いジャケットっぽいもの(服の名前はよくわからない)を羽織った姿。

 ファッション関係の知識量では平均を大きく下回る俺だったが、一見して地味なこの姿で、それでも人目を惹く雰囲気を醸し出すのは、誰でもというわけじゃないだろう。それくらいのことはわかる。

 対する俺も似たような格好だというのに、受ける印象はきっと大違いのはずだった。なんでだ。


「簡単に言ってくれる。お前と俺じゃ成績の差が違いすぎるんだよ」

「勉強なんてやればできるだろう」

「成績のいい奴が決まって吐くような台詞を言うなよ。らしくもない」

「やらなくてもできる人間と、やらなくてもできるものがときどきあるだけで、君はそうじゃないし、勉強もそうじゃない。ならやるだけの話だよ。幸い、学校の勉強はやればできるもので、君もまたやれば人並みにできる人間だ」

「褒めてるのか貶してるのかわかんないなあ……」

「どっちでもないからね」


 ――ただ事実を述べたに過ぎない。

 こいつはそう宣う。俺は今後の一生で、自分が「ただ事実を述べたに過ぎない」という台詞を吐く日が来るかどうかを一瞬だけ考えたが、答えは出なかった。

 使わないような気はするけれど。


 カバーのかけられた文庫本を閉じて正面で笑みの気配。こいつはだいたいにおいて笑っているタイプの奴なので、別に珍しいことではない。

 ちょうどのタイミングで、店員さんが注文したコーヒーを運んできた。コーヒーなどもっぱら缶かインスタントかという俺なので、適当にメニュー表のいちばん上にあったものをスタンダードメニューと読んで頼んだだけなのだが、さて。

 この手のことも、今後は学んでいくべきだろう。元より興味はあった。

 店員が下がっていったところで、目の前のトリビア事典に訊いてみる。


「ブレンドってのは普通のコーヒーって意味だよな?」

「違うけど、君はもうそれでいいんじゃないか」

「……普通のこと答えてるようでいて、想定し得る限り最悪の返答だぞ、今の。匙を投げないでくれ」

「なんだ、想定内か。次は君の想定外を突けるよう心がけるよ」

「そういう話はしてないんですけど」


 などと言ってみたところで、こいつに敵うはずもなく。

 ふふっと愉快そうに微笑む様を見てしまえば、反論する気力のほうが先に折れてしまうのだった。


「――さて、それより本題といこうか」


 と、そこで目の前からそんな言葉。

 俺も居住まいを正して、改めて正面に向き直る。

 この件を頼んだのは俺のほうだ。来てもらっておいて、悪態ばかりついているのも失礼な態度だろう。

 俺の、ほとんどたったひとりみたいな友人は、言う。


「君の高校デビューに関してのお話だ」

「……間違ってないけど、その言い方はなんだかなあ」


 それで文句を漏らしてしまう俺と、言わざるを得ない状況を作り出すこいつ。

 そのどちらのほうが、よりかわいげがないのだろう。


「まあ、そうだね。それならそれらしい名前は後ほど考えるとして、まずはどうすべきかだ。目標は友達百人、でよかったのかな?」


 確認するような小さな笑み。

 俺は答えた。


「そんな表現したことないだろ……いや、確かに似たような話ではあるけどさ」

「じゃあ、何かな?」

「……要するに、なんだ。今まで俺は脇役っていうか、教室の中で背景みたいなものだったわけで」

「いわばモブというわけだね」

「まあ、そんなもんか。それを改善しよう、楽しいことをしよう。そういう目標なわけだ。これまでの反省としてな」

「反省として、か」


 意味深な笑み。続けて、


「なるほど。つまり未那、君は――」

「――脇役を脱して主役を目指す」


 自分でも、かなりいい表現が見つかったなと小さくほくそ笑んだ。言ってみただけだが――主役。その表現は的確だ。

 つまりはそれが、この先に迎える高校生活での俺の目標。

 中学までの手痛い経験を糧とし、同じ過ちを繰り返すことなく、高校生らしい最高の青春へと手をかける。


 たとえるなら、物語の中の主役に倣うように。

 なんでもない日々を、かけがえのない宝物とできるように。


 そんな決意。

 そんな再確認。


「そいつは大変なことだぜ?」


 そんなことは言われるまでもなく理解している。

 俺は頷いた。それでも、望む場所へ手を伸ばすと決めたのだから。


「なんとかするさ。なんせやればできるらしいからな、俺は」


 軽く肩を竦めて笑うと、笑いでもって返されて。


「それは勉強の話だったと思うけれど」

「ノリの悪い奴だな。こういうときは嘘でも乗っておいてほしいもんだ」

「まさか未那にノリがどうのと言われる日が来るとはね」

「悪いかよ」

「そんなことは言っていないさ。がんばって友達や彼女をたくさん作ってもらいたいものだね」

「……、いや、彼女をたくさん作っちゃダメだろ」

「ノリの悪い男だな。そのくらいの気概でいけという意味だろうに」

「意趣返しかよ」

「まあ、未那はスレているようでいて意外に浪漫主義だからね。似合っていると思うよ、主役というのも」

「やっぱり褒められてるんだか貶されてるんだかわからん」

「だからどっちでもないって。個人的には、確かに好感が持てるとは思うが」

「お前に好かれたって何も嬉しくねえよ」

「寂しいことを言う。長い付き合いだっていうのに」


 その言葉に一瞬だけ押し黙ってしまう。

 だが言った当人はやはり笑った。少なくとも寂しそうには見えない表情で、むしろ愉快げに。

 もちろん、だからといってこいつが「寂しい」と言ったことまでは否定しないが。そこまで捻くれてはいない。


 ――俺のほうだって、寂しくないと言えば嘘になるのだから。


 こいつは友達だ。俺にとっては初めてできた友達で、たぶんいちばん長く時を共有した相手でもある。

 いつもいっしょにいたというわけじゃない。クラスで浮いていた俺とは違って、こいつには多くの友人がいたのだから。こいつにしてみれば、俺など数いる友達のひとりでしかないのかもしれない。

 なんとなく、ふと気づいてみれば近くにいただけ。

 何か積極的に思い出を共有したわけじゃない。そんな思考を、これまでの俺は持っていなかった。

 だからそのことを、少し寂しく思う気持ちは嘘じゃない。


 離れた高校を進学先に選んだ俺は、そのせいでこいつと別れることになる。

 別に、それで付き合いそのものが絶たれると決まったわけじゃない。こいつのことだから、なんのかんのと理由を作って連絡くらいはくれるだろう。俺からも、きっと報告することはたくさん作れるはずだ。

 ただ。これから先に、俺が決意を固めた青春に――こいつが登場人物として存在しない可能性は高い。

 そのことを、ほんの少しだけ、もったいなく思う自分も確かにいるのだ。


「……なあ」


 だから、だろうか。

 気づけば俺は、考えるよりも先に口にしていた。


「どっか、なんか……遊び行かね?」

「……今日は一応、勉強会という話だったと思うけれど?」

「建前だろ。どうせバレてる。成績に関しちゃ実際そう心配ねえよ」

「適当なことを……未那のご両親のご期待を裏切るのは心苦しいんだけどな」

「っていう返事が来る時点で、お前も期待してんだろ。それは行く気がある奴の反応だ」


 そうツッコむと、やはり愉快そうに笑みが見えた。


「思えば、未那からこうして誘ってもらうことはほとんどなかった気がするね」

「……それはお前の側からもだろ」


 だが、言われてみれば確かにそうだ。

 遊びに行こうとか、会って話をしようとか、そういったことを約束として口に出したことはほとんどない。

 もちろんゼロってわけでもない。意図して徹底して避けていたわけでもないのだから。

 単にそれが自然なことだったというだけ。

 言葉にせずとも、了解を取らずとも、いっしょにいることそれ自体を当たり前に感じていたから。


 まあ、それを美しいと思うか。

 それとも反省点と見做すかは両論あるだろうが。


 少なくとも、これからの俺がやっていいことではないはずだ。

 ならば、まあ訓練とは言わないにせよ、ここで誘うことを試してみるのも悪くない。

 こうしていっしょにいられる時間も、もう残り少ないわけだったし。

 今さら改まるのも気恥ずかしいし、そんな間柄でもないことはわかっている。


 ――ただ、それでも言うべきだと思ったから、言った。


 そんなものだった。


「……本当に、未那はときどき考えないで答えまで行ってしまうよね。正否はともかくとして」


 どこか呆れた風な、半笑いのそんな評価。

 失礼な話だとは思ったが、あえて反論することはしなかった。


 どうせ、何答えたって言い負かされるに決まっている。

 だから答えを急くように続けた。半分くらいは照れ隠しだったかもしれない。


「それで? 行くの、行かないの」

「急な話だよ。行くのは別に構わないけれど、行き先に宛てはあるのかな?」

「あるわけないだろ。思いついたの今なのに」

「そこで開き直るのもどうかという話だよ」

「別にどこだっていいだろ。最後の思い出作りってヤツだよ。なんならお前の行きたいとこでもいい」


 そう言うと、ここで初めて目の前から笑顔が消えた。

 いや、別に怒らせたとか、そうではなくて。なんだか虚を突かれたみたいに、目を丸くしていたのだ。

 けれどそれも一瞬。すぐに笑みを取り戻して、こんなことを言う。


「……まあ、ちょっと嬉しい、かな」

「あ? ……何が」

「いや? 君もちゃんと、ぼくとの別れを惜しんでくれていたみたいだから。寂しいのがぼくだけだったら寂しいだろう? 二重にさ」

「うっさいな……気持ち悪い表現すんなよ」


 新しい場所を目指すからといって。

 これまで辿ってきた道のりを、ことさら否定する必要はない。

 これは単に、それだけの話でしかなかった。


「君は、あれだね。理屈で考えようとしながらも、ときおり感情が暴発する。けれどそこにさえ、やはり理屈で意味を押しつけようとするわけだ。たとえそれが後づけであったとしても」

「何それ、急に」

「いや。ただぼくは、君のそういうところが好きだから友達になったのかもしれない、と。そう思っただけだよ」

「……だから、気持ち悪い表現をするなっつーの」

「照れたのかい?」

「俺はお前のそういうところ嫌いだよ」


 こいつにそんなことを言われては鳥肌が立ってしまう。

 基本的に厳しくて、口さがなくて、言わんでもいいことと言われてもわからんことしか言わない奴なのだから。


「……ひとつ、思いついたことがある」


 と、友達が笑う。

 なんだよ、と訊ねた俺に、


「――主役理論」


 そんな言葉。


「は?」

「君がこれから青春を主役として生きるためのメソッド。それに、こう名前をつけてみた。未那には似合いだと思うけど」

「……今のは確実に馬鹿にしてたな。それは俺でもわかったぞ」


 ははは、と奴は笑った。

 食えない奴だ、本当に。


「……でも気に入った。それで行こう」

「そうか。ならよかった――では行こうか」


 言うなり友達が立ち上がる。決めるとなると行動が早い。


「いきなりかよ」


 と俺も笑った。まだコーヒーを飲み終わっていない。


 この友人は、これから友人ではなく旧友になる。

 だとしても――それでも今は友達だ。


「未那が大切な最後の時間で、ぼくに付き合ってくれるというんだからね。長くあってほしいというわがままくらい、聞いてくれてもいいじゃないか」

「……わかってるよ」


 悪かったと思っているわけではない。

 それでも、こいつと別れて自分ひとりで走ると決めたのは俺の勝手だ。

 なら、その埋め合わせくらいは礼儀だろう。


「今日一日、ぼくに付き合ってもらうからね?」


 そう言う友達に頷いて、まだ少し熱いコーヒーを喉へ流す。


 ――願わくば。

 この最後の思い出作りが、こいつとの最後の思い出にはならなければいいと。


 そんなことを、身勝手に祈った。

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