2-16『主役になるために5』
自販機で飲み物を買ってから、ふたりでなんとなく夜道を歩いた。
本当は立ち止まって休みたいくらいの気分だったけれど、さすがにそれをデートと言い張るのはダメだろう。手の届く範囲であるのなら、届かせるのは義務だと思う。
この場合は、足の届く範囲と言うべきかもしれないが。
「にしても驚いたよ。まさか、家まで来るとは思ってなかったから」
さなかの言葉に、俺は少しだけ眉根を寄せて返す。
「まだその話します……?」
「まあまあ。未那のことだから、そのうち話はしに来るだろうなあ、とは思ってたしね。お見苦しいところをお見せしましたから。あはは」
「そんなことないと思うけどね」
「わたしも、さすがに今日だとは思ってなかったけど。それも未那らしいかな」
「そんなことないと思いたいんだけどね……」
「でも未那の場合は、どんだけ悩んでも同じ答えを出すと思うよ? きっと」
「……ていうか来るとは思ってたんだ?」
「だって未那はそうでしょ? 基本的に動くほうを選ぶ。積極的だよね」
さなかは空を見上げて言った。その先に、あるいは何かを探しているかのように。
釣られて上げた視線の先に、けれど目ぼしい星は見当たらない。真っ暗というには闇が薄く、けれど明るいと表現するには黒に沈みすぎている。
「……まあ、だよね。話さないと、ダメだよね?」
「何を?」
と訊き返したが、さすがに方便にもならない。
「わたしと此香とのこと、気にしてるんでしょ?」
さなかはこちらを見ずに言った。
来ると思っていた、と言うくらいだから、その目的も当然わかっているのだろう。
俺は頷きながら答える。
「まあ。それもある」
「それだけじゃない?」
「それだけだったら別に来ないよ。そりゃ友達同士が喧嘩してるなら仲直りしてほしいとは思うけど、だからって首を突っ込むほどのことじゃ、たぶんない」
俺にとってはふたりとも友達でも、さなかと此香はそれ以前に親戚同士なのだ。その間の問題に、下手に介入しようとするほうが間違いだろう。だから悩んだ。
「そうなんだ。てっきり、仲直りしに行こうぜ! くらいのことは言い出すかと思った」
「俺、そんなにお節介な人間だと思われてる?」
「そうじゃない。それは、結果的にはわたしたちのためかもしれないけど、そうじゃなくて。たぶん未那は、自分のためにそう言うかなあ、とか思った」
「自分のために……」
「自分が楽しむために、かな。そういうのって青春じゃん?」
「……驚いたな。そこまで俺のこと見抜かれてるとは、正直言って思ってなかった」
そんな人間がこの世にいるとして。
それは、初対面でそこまで見抜いてみせた、あの脇役哲学者くらいだと思っていた。
「わかるよ。だって、わたしだって、未那のこと今日まで見てたんだよ? 叶ちゃんほどじゃないかもしれないけど……わたしも、未那の友達なんだから」
「…………」
「なんちゃってね。本当は嘘。別に見抜いたわけじゃないよ、ただ知ってただけで」
「……知ってた?」
問い返すと、さなかは薄く笑って頷いた。
「うん。知ってた。見たからね。――まだ冬だったけど。未那が、迷子の女の子を連れてあの店まで行ったときのこと。あのときわたし、その近くにいたんだよ」
「え……?」
「駅で声をかけるところも見たし、そのあとほのか屋の前で真矢さんと話してるところも見た。まあ、そりゃ偶然だったんだけどさ。でも印象に残ってたなあ」
「そう……だったんだ。ああ、前に言ってた《会ったことはない》って……」
「そ、見かけただけ。それを会ったとは言わないっしょ? いきなりすごいこと言い出すから、それが印象に残ってたんだよねー」
「……なんか恥ずかしいな」
ことさら淡々と言ってみせたが、実際かなりの恥じらいがある。さなかがこちらを見ていなくて助かったくらいだ。たぶん今、少し顔が赤くなっていることだろう。
俺は主役理論に則って今日まで暮らしてきた。
それを、けれど思い切り把握されていたというのは、どうだろう、だいぶ道化っぷりが強くないだろうか。
「知ってたんだな、さなかは。俺の主役理論を」
「え、何? 主役理論?」
「そう。自分の人生をきちんと主役として生きるためのメソッド。別名、高校デビュー」
「……それで主役理論? てか、別に昔からそうだったわけじゃないんだ?」
「中学までの俺なんか、学校の片隅に滞留してた空気だよ」
「学校の片隅に滞留してた空気って……」
「それじゃ人生楽しくないから。だから高校からは、いろいろやってやろうって」
「……そうなんだ。変わろうとして、変わったんだね。未那は。それで主役理論、かあ」
「恥ずかしい誰にも言わないでくれよ? 知ってるのは叶くらいだし」
「叶ちゃんは知ってるんだ」
「いろいろあってね。あいつは俺の真逆だから」
「……すごいね、未那は」
さなかは小さくそう呟いた。俺には、その意味はわからない。
住宅街を抜けていく。この先まで向かうと、駅前のほうに出る道だ。駅を越えて行けば、その先では今日も此香が屋台を開いているのだろう。
「わたしもさ。しようと思ったんだよ」
「しようと思った? 何を?」
「うん。なんだろ、高校デビュー? いや、なんか違うかな。とにかく変わろうと思ったっていうか。ほらわたし、できることが何もないから。特徴ないっていうのかな」
「……そんなことないと思うけど。これ別にお世辞とかじゃなくて」
「そっかな? ありがと。でも違うんだよ」
小さくさなかは首を振った。否定された以上、たとえ本心でも、そこに慰めは重ねられない。
誰もに抱えているものがあって、その重みは当人にしかわからないのだから。
俺の知る《湯森さなか》とは、明るくて人当たりのいい、誰に対しても態度を変えない優しくて人気のある、クラスの中心人物と言っていい女の子だ。
俺の考える主役としての在り方を、当然のように体現した存在と言ってもいい。
ある種の理想――憧れだ。
そんな彼女でも、こうして変わりたいと思うことはあるのだろう。きっと誰にだって。
「どこにいても、わたしってただいるだけなんだよね。そこに当たり前みたいにいるだけで、それはきっと悪いことじゃないんだけど、だけどそれしかない」
「……いる、だけ」
「そ。それが悩みだったんだー。なんだろ、なんて言ったらいいのかな……なんか、この世にわたしじゃないといけないことがないって感じ。個性が代替可能っていうか。ほかの誰でもない、湯森さなかだけのものが何もないっていうか。――脇役みたいで」
「…………」
「なんて言われても困るよね。なんか思春期の悩み丸出しっていうかさ。いや別に、この壮大な宇宙と比べてなんて自分はちっぽけなんだー、とか、そういうことが言いたいわけじゃないんだけどね? ちゅーかもっと言うなら、きっとわたしはそんなことすら悩んでなかったって感じなんだろうね。平凡でどうしようもないけど、まあいいじゃん、って。それで何か困るわけじゃないし、今の生活はきっと幸せだし。普通に納得してたんだ」
それは……そうだろう。
傍から見て、さなかはどちらかといえば恵まれた側の存在だと思う。
だけどどんな人間にだって悩みはあるし、たとえそれがどれほど下らない、取るに足らない些末なものでも、悩んでいること自体が嘘になるわけじゃない。
抱えた感情の重さを決めるのは、いつだって周囲ではなくその本人だ。今日の献立や明日の天気に、テストの範囲やお小遣いの使い道に、人間関係や自分の将来に――悩む権利を誰もが持っている。
明日食べることにすら困る人間と比べれば、いっそ贅沢と言っていい。
そんな大きな話でなくとも、たとえば出世にまつわる悩みとか、恋人との関係とか、有名税を払わされる芸能人の悩みとか。そんなもの、持っていない人間から見れば嫉妬の対象ですらある。
けれど、苦悩なんて初めから個人の所有物だ。自分の世界で起きたこと以外の、全てが自分に関係ないのだから。
現実に付随して動く感情を、他者が理解、共感できると考えることのほうが間違っているのだろう。それは、どこまで行っても個人の世界観だ。
そういった諸々に、誰もが悩み、惑い、折り合いをつけて生きている。妥協のラインを線引きする。悩みなど、たとえ解決されなかったところで、世界は勝手に続いていく。
「だけど未那は、それで納得しなかったんだね」
さなかは、寂しそうな口調でそう言った。
「……俺は」
「すごいと思うんだよ。だってさ、自分が楽しむためだけなんて、そんな理由でここまで徹底できる人、まずいないよ。少なくとも、わたしには絶対無理だもん」
「……」
「此香もそう。此香さ、中学のときバンド組んでたんだよ」
「……バンド?」
「あー、うん。ちょっと違うかな? 別に活動してたってわけじゃないんだけど。高校に入ったらちゃんと練習して音楽やろうって、そういうこと友達と話してたのを知ってる。だけど此香は結局やらなかった。高校には行かないで、料理の修業をするって。こんなに大事なこと、すごくあっさり決めちゃった。……それが、わたしは嫌だったんだよ」
自嘲するようにさなかは吐き出す。
きっと、他人には聞かせたくないはずの想いを。決して奇麗とは言えない心の裡を。
「だからいろいろ言ったんだよね。高校には行ったほうがいいとかさ、料理の修業なら、別にあとからでもできるとか。だけど此香はもう決めてて……それで結局。しかも別に、わたしはそのことを此香のために言ったわけじゃない。自分のために言ったんだ」
「…………」
「置いていかれると思ったから。わたしはどこにも行けなくて、なんにもできなくて、そのことを悩むことすらできなかったのに。此香は悩んで、それでも答えを出して、そんですごく簡単なことみたいに自分の道をあっさり決めちゃったんだ。……羨ましかった」
その気持ちが――わからないとは言わない。
言えるはずがない。その憧れをもとに主役理論を作った俺だからこそ。
「でもさ、ほら。そんなの結局は僻みっていうか。いや、妬んですらわたしはいなかったってことなんだよね。羨ましいとは思ってたけど、羨ましかっただけというか。部活とか仕事とか、そういう打ち込めるもの、別にわたしには何もなかったし。ある意味でそれが言い訳になってたんだよね」
「言い訳……ね」
「そう。――打ち込めることがないんだから、がんばってなくても仕方がない、って」
ダサいよねえ、と自嘲するさなか。力のない笑みだった。
「だけどさ。未那がいた」
「俺が?」
「そう。自分が楽しみたいとか、いい青春にしたいとかさ。そりゃわかるよ? 誰だって悪いよりはいいほうがいいに決まってる。そんなのそれは当たり前だよ。だけど、だからってじゃあ青春をよりよくするためにがんばろう、なんてモチベーション普通出ないよ。出たとしたって実行できない。そんなことのために――本気になんてなれないんだよ」
俺は、何も答えないまま無言でいた。
さなかの言っていることが理解できなかったわけじゃない。謙遜や韜晦とも違う。その言葉が正しいことを、俺は知っていたのだから。
「わたしもさ。高校に入って、なんかいろいろがんばってみたいな、とか考えてなかったわけじゃないんだよ。うん、考えてた。考えててこれだったんだよ――何も変わらない。何も変わってない。だよね。なんかいろいろ、なんて曖昧な目標、保てるわけないよね」
「…………」
「決定的だったのはこないだのときかな。望くんと会ったとき。あはは……こういうこと言うの恥ずかしいんだけどさ。ほら未那、駅に着いて此香の声が聞こえてきたとき、すぐ走っていったじゃん?」
「……そうだね。あんときは置いていってごめん」
「本当だよ」
さなかは笑う。
「……なんてね。まあわたしも固まっちゃったから。あの声が此香だってことにはすぐ気づいたし、此香が未那と知り合いってことにも驚いた。でも、どっちにしろ、わたしが動かなかったことには変わりないんだよね」
――それがわたしと、未那との違い。
さなかは言う。恥じ入るように響くその言葉は、きっと告解だ。
「思ったよ。思っちゃったんだ。――ああ、わたしはまた置いていかれちゃうんだ、って。酷い話だよね。こんなの、もう逆恨みでしかないもん。動かなかったのはわたしなのに」
「置いていかれる……」
「縋りたかったくらいなんですよ? いや、嘘じゃなくって本当に。置いていかないでって泣きたいくらいだった。あはは……こないだはごめんね? それを思い出しちゃってさ。未那はすぐに走っていくのに、付き合いの長いわたしは口だけで何もしなかった。だからわたしはダメなんだって突きつけられた気分でさ。もう、わけわかんなくなっちゃって」
「……そっか」
「うん。そうなの、です。幻滅したでしょ?」
「まさか」
と俺は即答したが、さなかはそれを信じなかったらしい。
あるいは、初めから幻滅してもらうために、わざわざそれを語ったのかもしれない。
わざわざ家にまで押しかけて。さなかが隠そうとした想いを、俺は暴き出したのだ。
「未那にはわからないよ」
さなかは小さく首を振った。
「だって未那には、それが当たり前にできるんだから。わたしとは違う」
「違わない」
「……こうまで言っても、わたしのことは嫌いにすらなってもらえないんだね」
それで確信した。
なるほど。ただ連れ出しただけで、いろいろ話してくれたわけだ。俺は笑い返す。
「正直、図書室のとき、ああもうこれダメだなあ、くらいには思ったんだけど。わたし」
「わざと嫌われようとしてる奴を嫌うかよ」
「性格悪いなあ」
「知らなかったのか? 叶なんかひと目で見抜いたぞ」
「なーんか敗北感。なんで突きつけてくるかなあ、ここで」
「いや。人としては勝ってるから大丈夫」
「何ひとつ嬉しくないよ」
唇を尖らせたさなかに、肩を竦め返す。それから言った。
「着いたぞ」
「え。何ここ……公園?」
「そう。青春公園」
「いや絶対そんな名前じゃないよね……?」
「いいんだよ。いつだったかどっかの主役理論者と脇役哲学者も使った由緒ある場所だ」
「うわあ。誰だかわかるなあ……何やったのさ」
「そりゃ恥ずかしいことだよ」
「え――えっちなこと?」
「ごめん違うそうじゃない違う。違う!」
「否定が全力すぎるよ……」
「まあいいから。ともあれ入ろうぜ? 青春の舞台にはぴったりだろ」
「いや、わかんないけど。そう?」
「考えたら負けだから」
俺だってもう少し気の利いたシチュエーションを用意したかった。
だが人生はどこまでも劇的じゃなくて、物語性などないものねだりで。
結局、身の丈に合ったところにしか、手も足も届きはしないのだ。
夜の公園で、俺はさなかと向かい合う。
言うべきことなら用意してきた。ただもう、そんなものはすっかり忘れた。
――だからこそ、見つめ直すなら俺の想いだ。
俺がどうしたいのか。それが主役理論の本懐で、真矢さんにだって指摘された。
同じ間違いは、もう繰り返したりしない。
さなかは決別を選んだ。自虐的に――あるいは自罰的に。
わざわざ俺がやって来たから。もし俺がそうしたら、彼女は自分の恥ずかしい部分を、隠していた見られたくない汚い気持ちを、余すことなく見せると決めていたのだろう。
誰だって知られたくない感情はある。誰かを妬んだり、嫌ったり、恨んだり。そういう気持ちを抱かないまま生きていけるほど世界が綺麗でないことくらい、今どき中学生でも知っている。だからって、そういった醜い感情を、誰かに見せるのは恥ずかしいことだ。
それが当たり前の、本当は醜くも汚くもないものだとわかっていたとしても。
だけどさなかはそれをやった。なら、まずはそれに応えなければ。
「……なあ。初めて会ったときのこと覚えてるか?」
俺は言った。さなかは答えた。
「え? 何、どしたの急に格好いい感じの声出して?」
「…………」外した。
恥ずかしい……いやこういうことじゃないんだけどな……。
ちょっと気取りすぎた。咳払いを挟む。
「んん……ごめん。いいシチュエーションかと思って。ラブコメっぽいこと言ってみようとしたんだけど。ちょっと間違った」
「ちょっとじゃなかったよ。だいぶ滑ってたよ」
「ごめんなさい……」
「だいたい、どっちかっていうと月9とかだったよ。別れを切り出すシーンだったよ」
「かもしれない……」
「第八話。大学時代から付き合ってきた彼女との、付き合って三周年の記念日に。約束の場所で、彼は別れを切り出した。彼の気持ちはすでに、別の女性に向いていたのだ」
「やめて!?」
「月曜ドラマ『主役の生き方』。次週、第九話『破れた約束』」
「俺が滑った流れのままに、俺より面白いこと言わないでほしい……」
絶対それ視聴率取れないじゃないですか。
あとたぶん月曜ドラマじゃない。水曜深夜とか。
「ぷ――あははははっ」
肩を落としてツッコむと、堪え切れないとばかりにさなかが噴き出す。俺も笑った。
「ったく……さなかがそんなボケ挟んでくるとは思わなかった」
「未那がいきなりボケてくるからだよ、もう」
別にボケたつもりはなかったのだがもういいや傷つくし。そういうことにした。
「ていうか、忘れてるわけじゃないじゃん。ついこの前だよ?」
「まあ、だよね」さなかの言葉に、頷いて答える。「いや、あのときのお礼を言っておこうと思ってさ。まだ言ってなかったよね――いやまあ、言う気なかったんだけど」
「お礼? 言われるようなこと何もしてないと思うけど……」
「だってほら、声かけてくれたじゃん?」
さなかは、その言葉にきょとんと目を見開く。意味がわからないようだった。
だがあのときの俺にとって、それは何よりありがたいことだったのだ。
「あの日さ。まあ入学式の前にいろいろあったことはともかくとして」
「入学式の前にいろいろあったんだ……」
「あったけど今はいい。まあ、割と不安ではあったんだよ。一応、ほら、俺は準備をしてきたんだよ。中学までの失敗は繰り返さないぞ、って。だからって俺はそれまで友達とかほとんどいなかったわけで、その分、失敗したらどうしようって考えはずっとあった」
「未那でも?」
「そりゃそうだよ、当たり前だろ? ただでさえ知り合いゼロだし、スタートで躓いたらリカバリーできないって不安もあった。とにかく声をかけなきゃって思ってたけど、声をかけたせいで失敗しました、みたいなことが寸前にあったからね。かなり不安だった」
「……そうなんだ。そうは見えなかったけどなあ」
「そこに、さなかが声をかけてくれたんだろ?」
「……まあ、未那の顔は覚えてたから」
だとしても。そのことに俺がどれほど助けられたかは変わらない。
「最初に挨拶してくれてさ。それで話してるうちに、周りの連中も入ってきて。勝司や葵とも打ち解けられた。今、こうしてクラスで上手くやれてんのも、そう考えればさなかのお陰だろ? だからお礼を。こう、その節はお世話になりましたと」
「……それを続けられたのは、未那ががんばったからでしょ?」
さなかは言う。本心からのように。
透徹したそれを、きっと諦めと呼んだ。
「きっかけなんて関係ないよ。それを続けることを努力って呼ぶんだから。そんなことでお礼なんて言われても、困るだけだし――悲しいだけ」
「そうかもね」否定はしなかった。「だとしてもそれだけじゃない」
「それだけじゃ……ない?」
「さっきさなかが言ってたろ? 青春を楽しくしたいなんて動機で、ずっとがんばってはいられないって。それ、その通りだと思うよ。ひとりじゃきっと無理だった」
そりゃそうだろう。俺が今も主役理論を実践していられるのは、それが偶然――とまでは言わないにせよ、結果論として上手くいっているからだ。
いや、それだけじゃない。
「本当に言う通りなんだ。俺が今の自分を続けていられるのは、周りの奴らが、俺が諦めないよう見ててくれたからだと思ってる。なら、さなかにも礼くらい言うさ」
今の生活を続けたいという当然の努力を、けれど当然として継続することの難しさを、俺は誰より知っている。
なぜなら俺は、これまでやってこなかったのだから。
いっしょに主役理論を考えてくれた奴がいて。
正反対でも、同じように努力を重ねている奴がいて。
俺といっしょに、そんな楽しい生活を楽しんでくれる奴らがいて。
そうして初めて主役理論は成立する。
「……それで? そんな話をわたしにして、どうするの?」
さなかは問う。その問いに、答える用意が俺にはある。
誰にだって望んでいることがあって、けれど手の届かないそれを、ひとりで求め続けることは酷く難しい。そんな苦労を人はひとりで続けられない。
俺は、主役理論を自分が楽しむためのものだと定義した。それは間違いじゃない。
けれど旧友に告げられた通り、俺はひとりで楽しく生きることなんてできない。
あの叶でさえ、全てを共有できる友人を欲していたのだ。それを不可能だと断じただけで。
だが俺は叶ほど諦めがよくない。友達と遊んでいれば楽しいという、ただそれだけの、当たり前で下らない、益体もない事実を、ずっと享受していたいと願っている。
もちろん願うだけじゃ届かない。それも事実だ。
だから手を伸ばし続ける必要がある。
堂々巡りだ。願い、求め、けれど手に入らず諦める。諦めないのなら求め続ける以外になくて、けれどひとりでは叶わない。
なら、どうすればいい?
そんなことは決まっている。
「なあ。――此香さ、今、困ってるんだろ?」
「え……?」
突然変わった俺の言葉に、さなかが困惑した様子を見せる。
けれど構わない。そのまま続けた。
これが押しつけだろうとなんだろうと気にしない。それでいいと開き直る。
「そりゃさ、店の経営が上手くいってないとか、料理の腕で悩んでるとか言われたら、俺には何もできないよ。現実はそんな、誰かの手を借りるだけで解決するようなことばかりじゃない。つーかそのほうが少ないよな? 手を取り合って助け合えば、とか言うけど。いやいやいや。そんなもんでどうにかなるなら、そもそも誰も困らないって話で」
「何、言ってるの……?」
「――だけどさ。話を聞いてやることはできるだろ? だって友達なんだから」
問題を解決することも解消することも、結局のところ他人にはできない。
仮にできるのだとしても、誰かの抱える何かに干渉すること、それ自体が正しいかさえ怪しいものだ。
「いっしょにほら、遊びにでも誘って、そんで悩みを一時でも忘れさせてやることくらいなら、たぶんできると思うんだよ。それには意味がある。なんの解決にもならないからって、じゃあやらないなんて極論に走るほうがおかしいと思うんだよな。どうせ何が正しくて何が間違ってるかなんて誰にもわかんねーんだから、とりあえず楽しいことやってりゃいいと思うんだ。――ひとりじゃなきゃ、がんばる気力も割と湧く」
「そんな、適当な……」
「適当でいいだろ。人生の主役は自分なんだぜ? だったら他人の人生には、脇役として登場するくらいがちょうどいいってもんだ。ただ脇役にもほら、いろいろあるし。どうせならメインキャラクターを狙おうぜ。そのほうが、きっと楽しい
身勝手な話かもしれない。
だとしても知ったことではない。
俺が楽しいんだから、お前も楽しいだろう――と。
そんな決めつけが意味を持つことだってある。
それをやってもいいと、そう信じられる間柄のことを、きっと友人と呼ぶのだから。
「――要するに、俺は誘いに来たんだよ。言っちゃ悪いけど此香はついで」
「つ、ついでって……」
「まずさなかの話。要するにさ、――さなかも、俺といっしょに主役を目指そうぜ」
さなかは茫然としていた。まあ当然ではあるだろう。
けれど、さなかは確かに言ったのだ。変わりたいとは願っていたと。
それを俺は、主役を目指すと表現しただけ。単に言葉を変えただけに過ぎない。
「ひとりじゃできないっつってたろ? 俺もそうだった。俺が仮にできてるんだとしたら、そりゃひとりじゃなかったから。だからこれから、いっしょに目指そう。さなかに俺が、主役理論を伝えるから。――もしもふたりで目指せるなら、たぶんそこそこがんばれる」
前に向かって手を伸ばした。
いつか、誰かがそうしてくれたように。
「ほら、まあ、何。たとえばテスト勉強とかひとりだとサボるところを、友達とやったらお互いに見張って続けられるじゃん?」
さなかは、小さく笑って言った。
「……逆にそのせいで、集中力が切れることもあるけどね?」
「だったらより最高じゃない? 俺らは勉強じゃなくて、遊ぼうっつってんだから」
「……別にわたし、主役になりたいなんて考えたことないんだけどなあ」
「まあ、言い方はなんでもいいんだけどね」
軽く肩を竦めて答える。
そうだな。たとえばさなかなら、こんな表現が相応しいだろうか。
「――それじゃ、さなかはヒロインを目指すってことで」
「何それ。少女漫画?」
小さく笑ってさなかは言った。
「いや少女漫画でも月9でもなんでもいいけど。俺も主役を目指してるから、いっしょにどうですかっていう、お誘い」
「ん――そうだね。悪くは、ないかもしれないね?」
「少なくともさっきよりはね」
さなかはこちらへ近づくと、そっと俺の手を取って、握る。
ならこれでいい。恥ずかしい台詞を、夜の公園で吐いた甲斐もあるというものだ。
「……たぶん、ひとりじゃすぐ折れちゃうよ、わたし」
「だから俺がいるんだろ? 逆に俺が折れそうなら、さなかが支えてくれってことで」
「格好悪いなあ、もう……ぜんぜんロマンチックじゃないもん。そこは俺がお前を支えてやるって、主役なら言うとこじゃないの?」
「あー、しまった。格好つけるならここだったのか」
「それ言ったらおしまいだよ」
「ま、お互いまだまだってことで。精進していこうぜ?」
「……いっしょに、やってくれるんだよね?」
「おう。こんだけお互い恥ずかしい暴露話したんだぜ? なら進まなきゃ嘘だろ」
「……わかった」
さなか、小さく頷き。
そしてきっと、これまでとは違う表情で――笑った。
「それじゃあ仕方ない。わたしは、ヒロインってのを目指してみるよ」
「おう」
「ちゃんと見ててよ? 約束だからね。わたしの隣で、未那は
「任せろ」
と、俺は答える。そして笑う。
友達同士でいるのだから、笑っていなけりゃそいつは嘘だ。
――こうまで青春をしておいて、それを逃す奴は主役じゃないだろ?
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