2-15『主役になるために4』
電話の向こうから聞こえてきたのは、荒れて乱れる吐息だった。
突然かかってきた電話だった。驚きながらも通話のボタンをフリックしたさなかだが、電波に乗ってその向こうから響いてきた声のせいで、二重に驚かされてしまう。
というかいっそ、ちょっとした恐怖を感じるほどだった。
『はあ……はあ、はっ、はあ……さ、なか……はあ』
受話器から響きさなかの鼓膜を揺さぶる変態の声。
おかしい。
なんだろうこれは。
表示は確かに《我喜屋未那》の名を映していたはず。
だが通話に出てみれば、聞こえてきたのは短い感覚で繰り返される、興奮した変態の息遣いだけ。なんだこれ気持ち悪い。
いったい誰なのだろう。さなかはそう考えた。
まさか未那が、こんな荒れた呼吸で、こんな時間に電話をかけてくるわけがない。
未那の電話を奪ってわたしに通話をしてきたのだろうか。何か卑猥なことを言われたらどうしよう。
こういうのは警察に通報するべきなのか。それともまず親に相談か。
『ちょ、ちょっと……部屋の……窓、ハァ、開けて……くれない? はあ……はあ……』
よし通報しよう。
ダメだ。
これはダメ。
完全に変態さん。
ていうか何これ今まさに窓の外にいるとかなの?
やだ気持ち悪い。
ていうかキモい。
反射的に通話を切ろうとしたところで、ちょうどその瞬間に再び声が届く。
『ご、ごめ……すげ、走って……来たから。息、乱れて……あぁ、死ぬぅ……っ』
「え――あれ? 未那? 未那なの?」
『そうだよ……てか、ほかにないでしょ……え? 登録してくれてないの、番号……?』
「や、それはしてるけど……」
そういう問題ではない。だいぶない。かなりない。驚異的にない。
「び、びっくりしたなあ、もう。いきなりかけてくるし、普段とぜんぜん声違うし、あとなんか息荒いし……誰かと思ったよ」
『え? ああ、ごめん……そこまで気が回らなかった……』
「危うく通報するところだったよ」
『は、はは……さなかでもそんな冗談言うんだな……』
「――――…………」
『え。あの……あのちょっと、本気……? 嘘、そこまで……?』
電話口で未那が、割と真面目に落ち込んだ声が響く。
しかし、これくらいの意趣返しは許してほしい。
さなかは実際、それくらいには本気で怯えさせられたのだから。
「ど、どうしたの、未那……? 走ったとかなんとか言ってたけど……」
『ああ、そうだ……ちょっと窓開けてくれない?』
「窓? まあいいけど」
言われるがままにがらりと窓を開ける。その先に広がっているのは庭の光景だ。
特に目立つようなものは何もない。普段通りの、それは自宅の眺めだった。
「開けたよ」
『……あ、あれ? あ、これ違ったヤツだ……』
「ねえ。未那はさっきからいったい何を言ってるの?」
『さなかの部屋ってもしかして通りに面してる側じゃない?』
「うん? ……うん、そうだけど」
『……あー。あー、そっか。ダメか……じゃあごめん、正直に言うけどさ。あの俺、今、たぶんさなかの家の前にいるんだよね』
「なんで!?」
『いや、ちょっと話があって。でもさなかの家の位置がわかんなくて。で、だいたいこの辺りだろうってところを駆けずり回って……湯森って表札探してた……』
「なんで!?」
同じ質問を二回するさなかだった。
電話口の未那のほうも、さすがにばつが悪そうに小声になっている。
『だよね。電話しろって話だよね。ごめん、表札を見つけて初めてその発想に至ったっていうかなんていうか……くそ、あいつが走れとか言うから……完全に無駄じゃん……』
「わ、わたしに話があるからって……そのためだけに家を探したの?」
『……えー。まあそうです。はい。ごめんなさい。こんな時間に……あの、俺も正直どうかなって思うというか、ちょっと冷静じゃなかったっていうか。その、できればあんまり引かないでいただけたら助かるんですけど……、ええと、ダメですかね……?』
「……普通ならドン引きだと思うよ」
『ですよね、本当ごめんなさい! あの、でもできれば通報は勘弁してください……』
相当に落ち込んでいる様子の未那。考えるより先に、足のほうが動いてしまったということなのだろう。
さなかにしてみれば、そんな未那の様子は容易に想像できていた。
だから彼女は未那の言葉にはあえて答えず、代わりに言う。
「ん。今から外出るから、ちょっとだけ待ってて」
『……ありがとうございます……』
そこまで聞いて通話を切った。未那のほうは今頃、かなり焦っているだろう。
まったく。話を聞いていなかったのだろうか。
さなかは《普通なら》と言ったはずだ。自分がその普通に相当したかどうかは、まだ告げていなかったというのに。
さなかは別に、未那のやったことに引いてはいなかった。未那ならそれくらいやってもおかしくないと普通に思う。
それが嫌なら、初めから友達にもなっていなかった。
嬉しくて、そして……少し悲しい。
思うところなんてそんなもの。
それを表情には出さないよう意を決してから、さなかは上着を持って部屋を出た。
※
――家の脇で待っていると、一分そこそこでさなかが姿を現した。
そう多い苗字ではないはずだから、間違いないだろうとは思っていたけれど。それでも確証があったわけではないから、《湯森》の表札のある家からさなかが出てきたことにまず安堵する。
それはそれとして、こんな時間に押しかけたことは申し訳なかったが。
……さなか、だいぶ引いてるだろうなあ……。
ただでさえぎくしゃくしているところ、これがトドメにならないといいのだが。
せめて先に電話なりなんなりで一報入れておけば済んだのに、なぜか走って探さないといけないような気分にさせられていた。
完全に叶のせいなので、あとで八つ当たりするとしよう。
「……あはは。なんていうか……えっと、なんて言ったらいい?」
こちらへとことこと近づいてきたさなかが、ほんの小さく手を振ってそう笑った。
少なくとも怒っているとか気持ち悪がっているとか、そういう様子はないらしい。とりあえずはセーフと見てよさそうだ。
表に出していないだけ、という可能性は考えない。
「まあ……なんだ。とりあえずこんばんは。悪いね、こんな時間に」
片手を挙げて俺も言った。さなかは小さく苦笑して頷く。
「ん、こんばんは、未那。まだ七時だし、別にわたしはそんなに気にしてないよ」
「……ならよかった。ごめん、次からは必ず先に連絡するよ」
「まあ、わたしもそのほうがありがたいかなー。ていうか次があるんだ?」
「ないといいね……」
「ええ、いいじゃん別に。友達なんだし、家に遊びに来るくらい普通だって」
「……だね。じゃあ、次は普通に遊びに来させてもらうよ」
「ん。お待ちしておりまーす。なんてね」
実に普通の会話。
だけどこんなやり取りでさえ、違和感がどうしても拭えない。
こんなんじゃダメだ。
こんな空気は俺の理想じゃぜんぜんない。
やっぱり今日来て正解だった。
これは、きっと後回しにしてはいけないことだから。
少なくとも――俺が主役を志し続けるなら。
「それで?」
と、さなかが言う。まっすぐ俺を向いているのに、透徹していて気持ちが見えない。
いや、そもそも目線だけで相手を図ろうなんて、そのほうがきっと間違いだ。
「なんの用かな、未那? 何しに来たのか、教えてほしいな」
「……えーと。すごい今さらなんだけど、時間とかは平気なのかな?」
「大丈夫。別に何やってたってわけでもないし」
「ならよかった」
俺は笑った。暗い顔をしながら言うことでは、少なくともないはずだから。
一度は失敗したけれど、何、取り返しが利くなら構わない。気の利いた言い回しなんて浮かばないし、唐突すぎるかもしれないけど。
いつか言えなかった言葉を告げる。
「――デートしようぜ、さなか。今から」
「で、デート?」
まさかそんなことを言われるとは考えていなかったらしい。
さなかは目を瞬かせる。
「そう、デート。本当はバルコニー、っつーかまあベランダからさなかが出てきたところでロマンチックに誘うつもりだったんだけどね?」
「それで窓開けてとか言ってたんだ……」
「そういうこと。こっから見える二階の部屋が、さなかの部屋だと思い込んじゃって」
「あの部屋はお母さんの部屋だよ……」
「気づかれなくてよかったわマジで」
「しかも、どっちにしろ別にロマンチックではないよね」
「ですよね」
軽く肩を竦めると、さなかが、噴き出すように薄く微笑む。
「まったくもう……せっかく誘われるなら、もっと違う形がよかったよ。いきなりだし、電話の声アレだったし、ぜんぜん決まってないし。夜だし。服とかぜんぜん普通だし」
「ダメ出し厳しいなあ……」
「当然だよ。わたしだって女の子なんだから。それなりに理想だってあるんだよ?」
「や、男の子にもあったんですけどね。なんかもう、あらゆる全てに失敗して」
「出直してこいだよ」
「出直してきたほうがいい?」
「冗談。――いいよ。こういうのも楽しそうだし」
少しだけ、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、それでもさなかは頷いてくれた。
なら、まあ、及第点とは言わずとも、赤点はギリギリ免れたと思っていいのだろうか。加点要素が今の流れの、いったいどこにあったのかはさっぱりわからないが。
「初めてなんだから。ちゃんとエスコートしてよ、未那?」
「心配するな。俺も初めてだ。問題ない」
「言ってることがおかしいと思うんだよなあー」
「そうでもないって。これが俺の全力なんだから、それはもう仕方ない」
「ええ。開き直り?」
「白馬に乗って迎えに来られる能力がないからね。歩いて来るしかないでしょ。それでも乗ったさなかが悪いよ。クーリングオフは認めない」
「悪質な詐欺みたいなことを言い出したよ、この人?」
「本当に白馬で来てもらいたい?」
「普通に嫌だね……」
「だったら歩くしかない。ふたりで歩くデートをしよう。地に足のついたデートだ」
「なんか、いい話風の空気で誤魔化されてる気がしてきたよ……」
「それは気のせいにしておいて」
「つまり気のせいじゃないんだね。……いいけど」
ならこれでいい。この程度が限界だったし、この程度できっと充分なのだ。
俺は、俺の努力で手の届く範囲にしか触れられない。それがこの場所だとわかったのだから、それを恥じる必要はない。
ダメ出しは、まあその上で改善していこう。今後。
「それで? どこに行くの、未那?」
きょとんと首を傾げたさなかに、ニヤリと笑って俺は答える。
「もちろんデートプランは完璧だぜ? 最初に行く場所は決まってる」
「へえ。どこ?」
「自販機」
「自販機」
「いや。喉乾いたから。水買っていい?」
「これってデートなのかなあ……」
言う割に。
さなかが楽しそうに見えるのは、俺の勘違いではないと思う。
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