2-14『主役になるために3』

 帰還した。


 大して時間も使っていないのに、その頃にはそこそこ暗さが増していた。

 すでに雑炊を胃に収め切った叶が、帰ってきた俺に気づいて立ち上がる。


「……で? 何買ってきたの」

「これだ!」


 告げて取り出したるは、独り暮らしの最高の味方。インスタント食品の帝王。

 そう、


「――袋ラーメンだ」

「なん……だと……!?」


 腕を引き、戦慄の表情を見せる叶。料理好きの(なぜか頑なに認めないが)叶は、この手の手抜き品を、普段は意外と避けているのだ。

 しかし今回ばかりは話が違う。


「野外。河原。夜。鍋。こうまで揃えば話は違う。何より俺は、お前が雑炊を作ったときの卵がまだ残っている事実、見逃しちゃあいないぜ……?」

「く――卑劣な!(?)」

「甘かったな、叶!(?)だがもう遅い!(?)」

「抜け目ない奴よ……!」

「だがわかるだろう? クッカーで袋ラーメンはキャンプの華。試さずにはいられない!」

「ふっ……いいだろう。わかっているじゃあないか、と言わせてもらうぜ……!」


 ふたり揃って、テンションが完全におかしくなっていた。

 バカな高校生が川岸でふたりはしゃいでいた。……ちょっと恥ずかしくなってきたな。

 あ、ちなみに火はオーケーな場所です。ちゃんと。その辺は叶も抜かりない。


「……作ろうぜ。帰りが遅くなって補導されでもしたら、さすがにアホだ」

「どうでもいいけど、お椀ひとつしかないんだから買ってくりゃよかったのに」

「バッカお前、こういうのはクッカーから直で食べんのがロマンだろ」

「はあ? ……わかる」

「俺、お前のそういうとこだけは本当に好き」

「わたしは、未那のそういうとこ本当に嫌いだけどね」

「そういうとこってどこだ」

「そういうことを言うとこ」

「あっそ」


 何があろうと今後、叶は絶対にデレないような安心感があるね。

 それでいい、と話を流して調理に取りかかる。

 インスタントラーメンを作る程度のことを、調理と表現するのもなかなかおこがましい気はするが。まあいいだろう。

 クッカー自体は、容量が小さすぎて乾麺をそのまま投入することができないが、それは初めから見越してある。抜かりはない。インスタント麺を半分に割ることで対処した。

 茹でれば一分。すぐ美味しい。卵をぶち込みながら叶に問う。


「かきたま派? 落としたま派?」

「ラーメンなら落とし」

「ああ、これ訊く必要なかった気がしてきたわ」

「チッ」

「その舌打ちはおかしいでしょう絶対」


 そうこう言っているうちに、待つというほどのこともなくラーメンが完成する。

 移せる器もないことだし、このまま頂くとしよう。割り箸もコンビニで貰ってある。完璧だ。

 とはいえ、ここは譲るところだろう。俺は叶に告げた。


「お先にどうぞ」

「……んじゃ遠慮なく」


 ハンカチを取り出し、クッカーの取っ手を覆いながら握って、叶はラーメンを啜った。

 味の感想を訊こうか一瞬だけ迷ったが、何も言わないでおいた。こんなもん誰が作ろうと同じだし、訊いたところで普段食べているそれと何が変わるってわけでもない。

 だが、その件に関しては訊くまでもなく、叶のほうが自分から言った。


「……麵が短いんだけど」

「うるさいな」


 まさかのダメ出し。


「仕方ないだろ、割らなきゃ入んないんだから。まあ、そりゃ確かに家で食べるほうが美味いかもしれないけど――」


 言い訳がましくそう告げた俺に、叶はじとっとした視線を向けてくる。


「別に、そこまでは言ってないでしょーに」

「あ?」

「美味しいよ。少なくとも、家で食べるときよりは、ずっと」

「……そりゃどうも」

「やっぱり環境がいいんだろうなあ。夏祭りの出店で食べる焼きそばの理屈」

「同感だけど、遠回しに『お前が作ったから美味いわけじゃない』って主張するなや」

「そんなこと言ってないじゃんか」

「言ってないだけだろ」

「そうだけど」

「そうなのかよ。そこは最後まで否定してくれよ逆に」

「なんか面倒になった」

「そうだったな。お前って基本、自分の興味ないことにはどこまでもルーズだった」

「いや、性格を批判される流れじゃなかったと思……まあいいや」

「そういうとこだよ」

「あー美味し」

「伸びる前に渡せよな……」


 下らない、中身なんてまるでない会話だった。ほとんど脊髄で話している。

 そんなやり取りが心地いい。取り繕わなくていい、気取らなくていい、何も考えなくていい――そんなぬるま湯じみた温かさに、溺れてしまいたくなる。


「ほい、パス。たまにはいいね」

「あいよ。……ねえ半分以上これ減ってない?」

「気のせい気のせい。細かいこと気にすんなよモテないぞ」

「うぜえ……」


 そんなことを言いながら、叶からラーメンを受け取って自分でも食べる。

 うん。美味い。まあ不味いわけもないが、それにしたって、やっぱりわざわざ外に出て食べているというシチュエーションが、さらに味を増しているように思える。

 どんなに美味しい食事だろうと、それを誰と、どこで、どんなことを考えながら食べるかによって、受ける印象も変わってくるというものだろう。


 俺は――主役理論者は、その感情を誰かと共有していたいと願う。

 では、脇役哲学者は――友利叶はどうなのか。


 河原は凪いでいる。小説なんかだと、よく天気や周囲の光景が登場人物の心象になっていたりするけれど。まあ確かに、割と近い光景かもしれないなあ、なんて。

 そんな、中身のないことをつらつらと考えていた。


「ご馳走様でした」

「んー。ご馳走様でしたー」


 空になったクッカーをコンロの上に戻して、ふたりで揃って両手を合わせた。

 辺りはどんどんと暗くなりつつある。それでもまあ夏前だ、前も見えないというほどのものではない。すぐ傍に立つ叶の顔なら、見ようと思えばはっきり見えるだろう。

 彼女は動こうとしない。撤収の準備を始めず、おそらくは俺と同じく川を眺めている。

 その方向から、あえて俺は視線を動かさないで、ただ静かに口だけを開いた。


「……で?」

「いや。で、って何よ」


 叶は静かに答える。


「どっちかって言うなら、それ訊くのはわたしのほうだと思うんだけど。このシチュエーションならさ」

「でもお前、別に俺に何かを訊こうとかしないだろ」

「わたしはしないね。する理由がない」

「だからだよ」

「繋がってねーでしょに。だから自分から言う、ならわかるけど、だから逆に訊く、じゃ意味がわからない。別にわたしから未那に言いたいことなんてないんだけど」

「……じゃあ俺から訊くわ」

「答えるかどうかは知らないけどね」

「なんでお前、ひとりで河原で雑炊作ってたの?」


 一瞬だけ間があったのは、おそらく叶が俺のほうをちらと見たからだろう。

 気配だけで、その視線が再び正面に戻るのを感じていた。叶はかったるそうに言う。


「それ、訊かないとわかんないかな」

「わからねえな。ああ、俺にはわかんねえよ」

「……あっそ。なら逆に訊くけど」

「訊くことないんじゃなかったのかよ」

「今できたんだよバカ」

「知ってるよバカ」

「なら突っ込むなよバカ」

「うるせえバカ」

「――で? ひとりじゃなかったら、じゃあ誰と来ればいいわけ?」


 こういうとき、叶は言葉を荒げたりしない。感情を表に露わにしない。あるいは本当に一切、何ひとつとして感情を動かされてなどいないかのように、彼女は淡々と喋る。


「友達でも誘えよ。お前だって友達がいないわけじゃないだろ? 別にひとりじゃなきゃ絶対に嫌だったわけでもない」

「なんでそんなことが言えるわけ?」

「だってもう俺がいるし」

「あんたは勝手に居座ったんでしょうが……」

「嫌とは言われなかったからな。そんなとこで気を遣う性格じゃねえだろ、お前」

「……そうだけど。理解の仕方がなんかムカつく……」

「キレられ方が理不尽なんだけど……」

「わかってることを訊くことのほうが、よっぽど理不尽だとわたしは思うけど」

「……訊かないとわからねえ、って言ったはずだけどな」

「女子の友達に、《今日ちょっと河原で雑炊作るんだけどいっしょにどう?》なんて訊いて、本当にどうなるか想像つかないって言うなら、もうわたしから話すことなくなるね」

「…………」


 んなことわかってる。

 断られる程度ならいい。だが、それだけで引かれてハブられる、なんて可能性もあるだろう。

 正直、同年代の女子にそう共感してもらえる趣味じゃないことは間違いない。


 俺はそんなことが訊きたかったわけじゃない。

 だけど。だからって、ここで本心を言えるわけでもないんだ。俺と叶は、たとえ友人になったとしても――それでも本質的に正反対であることは前提なのだから。

 言えない。言えないことを訊くことで代えようとした俺は卑劣なのかもしれない。


「どうせまた、下らないことで悩んでんじゃないの?」


 叶は言う。俺は答えた。


「なんでそうなんだよ。今はお前の話をしてただろうが」

「……何を勘違いしてるか知らないけどさあ」


 叶は言った。どこか呆れるように。


「別に、これはひとりでいいわけ、わたしは。趣味でやってるし、むしろ興味もない人を巻き込むほうが申し訳ないってか、絡まれるだけ面倒ってか。こういうのは自分ひとりで好き勝手できること自体がひとつの楽しみなわけじゃん。これはこれでベストなの」

「まあ、それもわかるけどな。確かにこういうのはひとりで楽しむものだ」

「その辺の趣味は合うはずだからねー。だからわからないはずないって言ったのに」

「……そりゃな」

「だいたい隠してるつもりもないし。誰に何言われたって知ったことじゃないよ。わたしはわたしがやりたいことをやりたいようにやるし。つーか、未那は違うわけ?」

「やりたいことをやりたいように……ね。単純に言ってくれるよ、まったく」


 もう笑うほかないだろう。そんなに簡単なことのように言われてはこっちが困る。

 現実、やりたいことをやりたいようにやることが、いったいどれだけ難しいか。

 まして叶は、そのことを誰より理解した上で、なおそれを叶えるための努力を重ねている。


 それが彼女の脇役哲学だ。

 彼女は脇役で。だからこそ誰より自分の人生の主役が自分だと知っている。そのために必要なものを積み重ねる努力を、彼女が惜しむことはない。

 ……尊敬に値する生き方だ。


「何を迷ってんだか知らないけどさあ。その点、あんたはわたし以上でしょーに。いったい何にビビってるわけ?」

「ビビってるように見えるか、俺は」

「見えるね。壁を突き破って女子の部屋に侵入してきた変態とは思えない」

「言い方に悪意があるんですけど」

「湯森さんと気まずくなってしまったけれど、自分のためにしか動けない主役理論者が、果たして彼女の事情に首を突っ込んでしまっていいのだろうかー」

「…………」

「って考えてるわけだ、このバカは。本当バカ」


 本当に、気を遣うなんてことは一切なく。

 バッサリと斬って捨ててくる。


「今さらすぎ。主役だなんだ言ってる人間が何に遠慮してんだーっつ話。うざいくらい絡みに行くのが未那なんだから、わたしにできてほかの人間にできないってことないでしょ」

「……もうちょっと気を遣った言い方してくれてもいいんだよ?」

「だってわたしはもうやられたし。なんでわたしだけ被害受けにゃいかんのさ」

「うわあコイツ腹立つなあ。……まあでも確かに、お前にできてほかはないわけないか」

「そうでしょ」

「どう考えてもお前がラスボスだもんな」

「そうじゃなかった。おい。どういう意味だ」

「加えていえば、お前からこんなこと言われるとも思ってなかった」

「未那のために言ってるわけじゃないからね、そりゃ。そんな理由じゃ動かない」

「さいですか」


 まあでも、それでこそ俺たちだろう。

 ならば叶が誰のために言ったのか――俺にだってそれくらいわかる。


「ほら。もう行ったら? 雑炊半分取られたのに、片づけの楽しみまで取られて堪るか」

「気持ちがわかるだけに反論しづらいな……でもまあ確かに、行くところはできた」

「はよ去れ」


 荷物を入れてきたらしい鞄を叶が持ち上げる。

 と、彼女は何かを思い出したように、ふとそのカバンから何やら紺色の布を取り出す。


「……なんだそれ?」


 叶は言った。


「暖簾」

「は?」

「貰った」

「なんでだよ」

「おい未那、ちょっと背中見せろよ」

「そしてなんでだよ」

「いいから早くしろ。蹴るぞ」

「まさか蹴るために背中を見せろって言ってんじゃねえだろな……?」


 さすがにないと信じて、恐る恐る背中を見せる。

 叶はそのまま無言で近づいてくるなり、背後からすっと俺の首元に腕を伸ばした。


「何!? 怖いんだけど!?」

「やかまし」


 背後から伸びてきた叶の手。その細い指が、俺の喉元で何かを絞めている。

 割とマジでここで消されるんじゃないの説が脳裏に浮上する傍ら、しばらくしたところで叶が「よし」と呟いた。


「……何これ?」

「マント。走るならマントしないとね、やっぱ」

「俺はメロスかよ……だったらマントは緋色だろうが」

「仕方ないでしょ。そう都合よく持ってるわけないじゃんか」


 数歩を後ろに下がった叶が、それを見て噴き出しながら言った。


「ぷっ……くくっ、うん……似合ってる似合ってる」

「絶対バカにしているとわかる言い方をありがとうこの野郎」


 まさかこんな一発ネタのためだけにわざわざ取り出したのか、こいつ。

 ……まったく。本当に、笑わせてくれるものだ。


「いやいや。ばっちりばっちり。ほら、走れよメロス。どこに行くのか知らないけどさ」

「メロスが行く場所なんて決まってんだろ。友達のところだよ」

「……だから、なんで決め台詞っぽく言うんだっての」

「え? 今のは決まったと思ったんだけど……」


 ダメだったかな……。まあ詳しく聞くのはやめておこう。たぶん傷つく。


「どっちにしろ、少なくともお前はセリヌンティウスって柄じゃねえしな」

「いや、マントあげてるんだから、役どころとしてはかわいい娘さんでしょ」

「それもう走り終わったあとなんだよなあ……」

「細かいことをグチグチうるさい男だ」

「言ってくれるぜ、暴君ディオニス」

「おい。おかしいだろ。おい」

「細かいことをグチグチうるさい女だ」


 実にバカな会話。だけど実際、揃ってバカなのだから仕方がない。

 だがまあ、やるべきことは定まった。叶なら絶対に選ばない道なのに、よりにもよってその叶に背中を押されることになるとは思っていなかったが。

 けれど叶の言う通りだ。ほかの人間のことなんて、いちいち考えても仕方がない。

 やりたいことを、やりたいように。そう生きると決めたのは誰だったか。


「……仕方ねえ。食後だが少し走ってくるか。叶もどうだ?」

「いや、普通に嫌だよ。胃もたれしたらどうする」

「炭水化物ばっか食っといて。太るぞ」

「ぶっ飛ばすぞ」

「俺には走らせようとマントまでさせといて――うん? いや待て、おかしくない?」

「何が」

「これ暖簾って言ったっけ」

「言ったね」

「貰ったとも言ったね」

「言った」

「俺の知る限り、お前に暖簾を渡すような知り合いはおでん屋くらいだ」

「そうだね。部屋を仕切る布がないって話をしたら、使わないからって言ってくれた」

「その伏線をここで回収するとは思わなかったが、まあいい。問題は、つまりこの暖簾がおでん屋の暖簾だということだ」

「そうなるね」

「つまり今、俺の背中には《おでん》と書かれているわけだな?」

「――――…………」

「おい答えろや」


 叶は、さっと視線を逸らして、


「……ちっ、惜しい。気づかないで本当に走っていったら超面白かったのに」

「とんでもねえこと考えてやがったなあオイ!?」


 あっぶね! マジあっぶねえ! 危うくこのまま走り出すところだった!

 場の空気に思いっきり流されるところだったわ! なんて罠を仕込んでんだコイツ!

 恨みを込めて睨みつけると、叶のほうは軽く肩を竦めて嘯く。


「まあ、マントの時点で普通に恥ずかしいけどね」

「考えてみればその通りだけどね!」

「ていうか、そもそも存在が恥ずかしいんだし、気にするなよ!」

「するわ! バカじゃねえの!?」

「今この場に限っては、未那のほうが確実にバカだったけど」

「それは否定できませんけれどねえ!!」


 だからって、こんな青春ぽい空気の中に、そんな極大のトラップを仕込んでくるとは、さすがに思わないじゃないですか。油断も隙も血も涙もねえよ、こいつ。


「締まらねなあ……」

「マントは締まったけどね」

「お前の首を絞めるぞ」


 俺はマント――っていうか暖簾を取り外し、それを叶に返す。

 そして、それから駆け出した。なんか最近も似たようなダッシュをしたような気がするけれど、そのことは考えないことにして。

 背後から届く声。それには、俺は言葉を返さない。


「……ばーか」


 そうかい。だが叶、勘違いしているのは、お前だって同じなんだ。

 別に、お前がひとりで何をしてたって自由だ。

 脇役哲学者に対して、誰か、なんていう不特定の友人を誘えなんて、そんな間抜けな話を俺がするわけなかったのに。

 言えなかったし、言えるわけもなくて、そしてそれはお互い同じで。

 だからことさら、訂正しようとも思わなかったけれど。別に誰かを誘えなんて俺は言っていない。


 そうだろう?

 どこかの知らない誰かじゃなく、

 ほかの誰でもない、


 ――なんて。


 ――そんな女々しいこと、死んでも言葉にしてやるものか。

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