2-13『主役になるために2』

 一週間が経ち、週末はあっという間にやって来た。

 月曜は早退したものの、さなかは火曜からも普通に登校した。

 それまでの諸々など何もなかったかのように、いつも通りの明るく元気な《湯森さなか》として振る舞って。


 違和感なんてどこにもなかった。本当に、日曜と月曜のことは夢か幻であったかのように普段と変わらないさなか。

 そのことが、俺には何より違和感だった。


 だって、さなかは泣いていた。

 それは普通じゃなかった――普段通りじゃいられなかったということだ。

 それが解決を見ていないのに、いつも通りに戻るということ自体があり得ない。それでは欺瞞だ。


 けれど俺には何もできない。常と同じく快活に笑うさなかを、当然として受け入れることしかできなかった。

 ほかの誰でもない、さなか自身がそれを望んでいるからこそ、彼女はそう振る舞っている。そのくらいのことだけしか、俺にはわからなかったけれど。


 だから俺の日常は、今週もごく平穏で何もない。

 世界は弱運たる者に、劇的であることを許さない。


 授業を受け、クラスメイトと雑談をし、中間テストの勉強を進める傍らバイトにも精を出す。自宅ではいつも通り、叶と下らないことをやり合いながらいつも通り生活する。

 ――けれど、たったそれだけの日常が、俺にとっては何より望んでいたもののはずで。

 ならば俺には、この現状になんの不満もないはずだ。

 あってはおかしい。望むべくして手に入れた、努力しなければ手に入らなかった青春。主役理論が勝ち取った薔薇色の日々。


 なのに、どうして俺は、こんなにものだろう。


 答えなんてわかりきっていた。

 さなかと、此香とのあの一件が、俺の中にしこりとして残されているからだ。


 奇しくも以前、それは俺自身が叶に対して言ったことに繋がる。

 一度起こったことは二度となかったことにできない。

 たとえ負債が清算されても、マイナスを負ったという過去の事実は消えないのだ。それで採算の合おうはずがない。

 まして今回は、その清算さえなされていないのだから。

 その事実は俺に対して、あるひとつの事実を、問題を、突きつけることになっている。


 すなわち、

 ――主役理論が、まだ完全ではないのではないかということだ。



     ※



 土曜は夕方までバイトだった。

 マスターである宇川うかわ省吾しょうごさんの奥さん、宇川うかわ望海のぞみさんの出産予定日が近づいているため、来週はほのか屋を開けないのだとか。ちょうど中間の時期に重なったから、タイミングはよかったかもしれない。

 ……出産祝いとか、叶や真矢さんと相談しておくべきかな?

 この手のことは正直、よくわからない。人生経験が足りていないのだろう。

 まあ俺なんて所詮はただの高校生に過ぎず、中学の段階ではおそらく《ただの中学生》にすら足りていなかったのだから。

 わからないことなんて、たくさんあって当たり前だ。


 そう考えれば気も楽になる。自分のバカさが正当化できるようで。

 もちろん、だからといって掲げる目標に対する努力を放棄していいわけではない。

 主役理論の第一条件は、とにかく自分から動くことだ。それを考えれば、今のこのもやもやだけを抱えて足踏みしている状態が理論に反することは明白なのだけれど。

 だからといって、じゃあ何をするべきかとなると答えが見えてこない。


 コトは俺だけの問題じゃない。

 さなかの、此香の事情に俺が関係することが、必ずしもいいことだなんて言えない。となれば慎重にならざるを得ない。

 あらゆる場所へ、ただ自分が楽しむために首を突っ込む主役理論者であるからこそ、弁えておかなければならない一線はあるだろう。

 叶のときとは話が違うのだ。


「……こういうとき、どうするのが正解なんだろうなあ……」


 夕焼けに沈んでいく空を眺めながら、あえて遠回りを選びながら家に向かっていた。

 ちょいと物思いにでも耽りながら散歩したい気分だったのだ。

 駅前と、ほのか屋やかんな荘、学校を結ぶラインを外れると、ちょうどそれと並行するように大きめの川が流れている。この脇の堤防は絶好の散策ルートだ。

 茜色、という色は実は一般にイメージされるより暗いという話を何かで聞いたことがあったが、考えてみると《夕方》という時間帯が、そもそも季節限定のように思えてくる。いい感じの夕焼けを見られるのは、一年中どこでもというわけにはいかない。

 今は、割と向いた時節だ。


「……まずもって、俺は何に悩んでるのかって話なんだよな、そもそも」


 現状、俺の生活に、大きな問題があるわけではない。たとえほんの少し、さなかとぎくしゃくするのだとしても、この程度ならきっと時間が解決する問題だ。

 そうあるように、少なくともさなかは努めている。

 だから俺もその意を汲んで、普段通りに暮らしている。


 なら問題はないはずだった。

 俺さえ納得すれば、この話はここで終わるはずなのだ。


「じゃあ俺は、何に納得してないのかって話ですよ。次は」


 負い目か。警戒か。後悔か。それとも怯懦か、単なる自縛か。あるいはほかの何かなのか。自分の抱えている感情に、名前をつけることすらできないでいる。

 誰も聞いていないのをいいことに、独り言をオレンジの空気へ流していく。


 仕事明けの近い太陽も、こんなしょうもない悩みを聞かされては辟易するだろう。

 まあこれから地球の反対側を照らしに行くのだと考えれば、そもそも休みなしなわけで、矮小な人間の悩みなど初めから気にも留めていないのかもしれないが。

 宇宙は広いぜ。


「……しまった」


 思わず哲学的っぽいことを考えてしまった。こういうのはよくない傾向だ。

 答えの出ないことにうじうじ思考を奪われるのは、頭が回転していない証拠だ。

 そうでなくとも、普段から哲学を弄ぶなんてことはやるべきじゃない。叶じゃないのだから。


 そろそろ帰ろう。

 さなかとこれまで通り、ちゃんと友達でいられるのなら問題はない。

 なら、この話はもう忘れるべきだった。

 劇的なトラウマなんてなくとも、物語的な傷を持たずとも、なんでもない何かを誰もが抱えている。いちいち関わってはいられない。


 少し先の階段を目指して歩く。そこから川の逆側に降りて、かんな荘へ帰ろうと。


 したところだった。


 堤防の川側、つまり川岸の土地に、何か気になる人影を見つけて、思わず目線を奪われてしまう。

 釣り人ではない。俺はふらりとそちらに近づいていった。


 そいつは、携帯用のガスコンロにクッカー――つまりキャンプ用の小鍋を乗せ、川岸で料理に勤しんでいる。

 いわゆるソロキャンパーのような風情だったが、寝泊りに使うような器具は辺りに見当たらない。

 つまり、泊まりにきたわけではない。


 ――ただ《川べりで料理をする》ためだけに、ここへやって来たということだ。


「ふふーん。ふん、ふふー。……うふふふへへへへへへ」


 ものすごく上機嫌だ。ここまで鼻歌が響いてくる、っていうか途中から妙に気持ち悪い笑い声へと変質していた。

 ここまで露骨に楽しそうな人間も、そうそう見ないレベル。


 気取られないよう足音を殺しながら、俺はそいつの背後からこっそりと接近を試みる。

 てきぱきと手際よく、そいつは調理の準備を進めている。その楽しさもあってか、俺の接近にはまったく気がついていないようだった。

 地面にはビニール袋が置かれており、火にかけられたクッカーの中では、パック式の白ご飯が熱されていた。


 ……レトルトご飯をわざわざ川岸で作っていらっしゃられるよ?


「できたっ……と。あつつ……ん、いい感じー」


 上機嫌にご飯の出来を確認すると、クッカーの水を入れ替え、再び火にかける。

 袋から何か出汁の素や調味料らしきものを取り出して味つけしつつ、ご飯と卵がゲットイン。


 雑炊だ。

 雑炊を作っている。


 川岸で、夕方に、たったひとりで、キャンプ用品をわざわざ揃えて、週末の住宅街から少し外れた茜色の中、ものすごく楽しそうに雑炊を作っている――しかも女子高生。


 そう。

 華の女子高生である。

 JKクッキングなのである。

 嘘だろ。


 こんな奴、誰かなんてことは言うまでもなく。


「……何してんだ、叶?」

「へ? うわ、ちょ、熱ぅっ!? なんっ、こっ、――未那ぁ!?」


 声をかけた俺に、まさかそんなことは想定していなかったのだろう、少し珍しいくらい驚いた様子の同居人――友利叶が慌てた様子で振り返った。


 ……こんなん笑うに決まってるだろ。


「は、はは……っ。お、驚きすぎだろお前……くくっ」

「……くそ。気配殺して近づくとか反則だよ。最悪なんですけど!」

「さっきのはさしずめ、『なんでここに未那が』って意味か?」

「わかってんなら訊き返すなし。ああもう、まさか見られるとは思ってなかった。それが嫌だから未那がバイトの日を選んだってのに……シチュエーションに囚われすぎたかー。なんで今日に限って、このタイミングでここを通ってしかも気づくかなあ……もう」

「ここんとこ空けてること多いと思ってたが、まさかキャンプ用品を買い漁ってたとはな」


 そう告げた俺に、これもまた珍しく恥じらいながら叶は言う。


「言っときますけど、レトルトに頼ったのは慣れのためなんだからね! 本当は飯盒炊飯とか試したかったけど、まずとりあえずやってみたいってのが先に来たから……っ!」

「言い訳するとこ、そこ? JKが河原でソロクッキングしてることはいいのか?」

「……そこはいいでしょーに。わたしはやりたかったの。なんか文句あんのか、てめー」

「ねえよ。気持ちはわかりすぎる。ロマンだよな」


 それだけ言ってから、よっせと隣に腰を下ろした。

 叶は露骨に胡乱げな表情で、何をしているんだ貴様は、と視線でこちらを貫いてくる。


「……何。女子高生がどうとか言ってなかった?」

「あ? お前そんなこと気にするような女じゃねえだろうが。つーか、こんな楽しそうなことひとりでやります? なぜ俺を呼ばない」

「……まったく」


 呆れた様子で、叶は軽く肩を竦めた。


「そういうとこ本当に嫌い」

「あ? なんだよ急に。呆れるかバカにするかどっちかにしろ」

「じゃあバカにするよ、このバカ。てか、なぜわたしの隣に座る」

「え。だって俺も食べたいし、雑炊」

「未那の分などない」

「知ってるよ。でもお前の分はあるだろ」

「なぜ当たり前のように分けてもらえる気でいるのかがわからない!」

「冷めるぞ」


 叶はあからさまに見下した目で俺を見据えてから、ふっと視線を雑炊に戻した。


「食器もひとり分しかないから」


 そう言ってクッカーから椀に雑炊をよそう。ほかほかと湯気が立ち、それが美味そうな香りを伴って鼻腔をくすぐった。

 なんだかこれだけでお腹が空いてきてしまいそうだ。

 叶は箸を取り出し、それからニヤリとこちらを見据えて笑う。


「じゃ、いただきまーっす」

「…………」


 こいつ。

 じとっと不平の視線を向けてやるも、叶はそれさえ味つけの一環とばかりに宣う。


「ん~……っ! 最っ高! ああもうめっちゃ美味しー、さすがわたしー」

「この女マジか! 見せつけてきやがった!」

「んふ~☆ しあわせー」


 とろけた笑顔の叶さんであった。

 なんて奴だ。こうも残酷な所業をなにゆえ思いつく!


「ぐぬぬぬぬぬ」


 羨ましい! なんだこれ! どうして俺はこれを思いつかなかった!

 河原でひとりで雑炊とか最高に決まってるじゃねえか!

 ああ! うああああ……っ。


「あらあらまあまあ、どうしたの、我喜屋くん? こんなところで奇遇だけどぉー」

「うっざ! うっざあ!!」

「はー、物欲しそうな顔頂きましたー。でもダメー、これはわたしの分だからぁー。てか何もしてないのにたまたま来て集ろうとか、人としてどうかと思いますぅー」

「ぬあー! 正論ー!」

「んー、でもぉー。確かに我喜屋くんの顔を見てるだけで、美味しさもひとしおかもぉ? そういう意味では役に立ったかもねー? だからってあげないけどー」

「くぬ、この……こないだは俺の顔を見ただけで腹が立つとか言ってたくせに……!」

「え? 何その態度?」


 絶好調の友利先生である。


「え? 恵んでほしいだよね? じゃあ相応の態度ってものがあると思うんだけど、え? わたしなんか文句があるの?」

「三回も『え?』って言いやがった……」

「ふーん、あっそ。何かお話があるなら聞いてあげようかと思ったのになー」


 ここまで言われて。

 それでもなお恵んでもらうなど、もはや沽券に関わる事態だ。

 舐めてもらっては困る。

 男、我喜屋未那、たとえ腹が減ろうと、こうまで馬鹿にされてなお下手に出るような、そんなプライドのない人間では――、


「素直に頼めば分けてあげたのに」

「すみませんでした。俺が悪かったです。ひと口でいいので食べさせてください」


 プライドでお腹は膨れないって、これ常識ですからね。仕方ないよね。

 頭を下げる俺だった。雑炊食べたいです。


「ほんともう」


 クスッという軽い笑い。

 それに顔を上げると、叶がこちらにお椀を突き出していて。


「ほら。そんな顔されてひとりで食べられるかっちゅーの」

「……いいのか?」

「いいから渡してるんでしょーに。未那って土壇場で不安がるよね」

「…………」

「何、それともいらないの? 言っとくけど、わたしだって別にそこまで意地悪とかじゃないからね? これくらい普通に分けてあげるっての」


 善意を疑われて、心外だとばかりにむすっと叶が唇を尖らせる。

 そんな表情が少しおかしくて、思わず噴き出してしまいそうになった。

 もちろんそんなことをして、叶の機嫌を損ねてはコトだ。笑いを堪えて、箸とお椀を叶から受け取る。


「……んじゃ、ありがたく。いただきます」

「あんま期待しないでよ? ぶっちゃけ思いつきで来ちゃったし」

「お前も割と土壇場で不安がるよな」

「うっさい」

「別にいいよ。お前が作ったもんがまずかったことはない。――いただきます」


 ひと口。叶の作った卵雑炊を口に含んだ。


「……美味い」

「へへー。ん、ならよしだ」


 悪戯に成功した子どものように、歯を見せて笑う叶の横で。お互い地べたに体育座りをしたまま、穏やかな川の流れを長めながら雑炊を啜る。

 のんびりとした時間だった。

 確かに叶にしては凝っていない料理だ。この程度ならたぶん俺でも作れる。だとしても環境が、この状況が、確かに味つけには含まれていて。ああ、確かにこいつは。


「……最高だ」

「本当、趣味だけは合うんだから」


 河原で、ひとつだけのお椀で分け合って雑炊を食べる高校生ふたり。

 傍から見たら、こんなにも意味不明な光景はないだろう。

 男女ふたりだからといって、これを見てデートだと勘違いする人間すらいそうにない。俺だってよくわからない。


分葱わけぎとか入れたいな」

「あー、わかる。さすがに用意できなかったなー」

「雑炊って基本それでは食べないもんな。鍋の〆とかだろ、普通」

「だねー。ああいうのは出汁が違うからさー。美味しいんだ本当に。しかも楽」

「主婦っぽい観点だ。やっぱ楽なほうがいいのか?」

「あーいや、自分で作るって食べる分には凝った料理も楽しいんだけどね。家族の分とか作るとなると、毎日のことだったからさ」

「やっぱお前、料理好きだろ」

「うっさいちゅーに。そろそろ返してよ。わたしのなんだから」

「わーってるよ。ほら」

「あれっ、空なんだけど!?」

「まっこと美味しゅうございました」

「感想は訊いていない!」

「まだクッカーの中に残ってんだからいいだろ」

「開き直ったなあ!?」

「さすが友利さん、と言ったところですか。とても美味しかった。俺、お前の料理がいちばん好きだぜ……?」

「そんなんで誤魔化せると思うなよ!?」

「俺のために毎日、雑炊を作ってくれないか?」

「次は絶対にバレないようにしてやる……!」

「いや。俺は必ず気づく」

「くそぅ、このやろー……半分近く取られたあ……」


 雑炊の恨みは恐ろしんだぞう……!


 と睨んでくる叶をよそに、俺は「よし!」と立ち上がって言った。

 叶が驚いて怪訝な視線を寄こす。


「な、何さ急に。言っとくけどこれ以上はあげないからね……!」

「いや。実は俺もひとつやってみたことがあったのを思い出してね。すぐ戻ってくるからちょっと待ってろ。……待っててよ? 帰ってきていなかったらさすがに泣くぞ」

「どっか行くってこと?」


 きょとんと首を傾げた叶に、俺はにやりと笑って告げた。


「ふっ、決まってんだろ――買い出しだ」

「なんで決め台詞みたいに言ったのかわかんない……」

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