2-12『主役になるために1』

 ――だから、何があったというわけじゃない。


 何もなかったのだと。そう表現するほうが近いくらい、俺の一日は平穏なものだった。

 叶の弟に会い、さなかと遊んで、帰りにおでんを食べて帰った。それだけのこと。

 その途中で、たとえば望くんに言われたことだとか、さなかの告げた言葉だとか、此香の抱く問題だとか、いとこ同士の確執だとか、あるいは叶の主義だとか――。

 そういったものと関わることがあったとして、それ自体は単なる日常のひと幕でしかないのだろう。


 関わりがあったとしても関係はない。俺は傍観者でさえない部外者なのだ。

 そういった諸々が俺という一個人に影響することなどほとんどない。なべては、俺が彼ら彼女らに、何かの影響を与えるということもなかった。

 それで当然――それが普通のことだから。


 ――だとするのなら、俺が抱えるこの言葉にできない違和感はなんなのだろう。


 たとえば、叶ならば言うだろう。

 そんなことは考えるだけ無駄だと。自分ならぬ誰かが抱える事情など、その当人の持ち物でしかないと。そんなものに関係性を主張するほうが救いようのない傲慢で、増長で、強欲だ。

 脇役は自分の人生以外を生きようとはしない。そうであるからこそ、脇役とは自らの人生における主役たり得るのだ――と。

 要するにこういうこと。さなかが此香と喧嘩していようと、此香が問題を抱えていようと、そんなことは俺とは関係がない。少なくとも自ら関係することではない。


 主役理論とは何か。

 決まっている――それは俺自身が俺の青春を楽しむためのもので、決して

 いや、主役だの脇役だのが云々以前の問題として、他人の事情に他人がかかわるべきではないのだ。

 友人も、兄弟も姉妹も両親も親戚も恋人も、自分ではないという時点で他人だ。


 けれど――いや、だからこそそこに矛盾が生じる。

 もし俺が、ただ俺だけが楽しめればいいと考えるのなら、そもそも主役理論など構築していなかったのだから。

 叶のように、脇役哲学に殉じていればよかった。ただ自分の楽しさだけを追求すれば話は済んだ。


 奇しくも、いつだったかあの旧友に言われた通り。

 奴には見えていたのかもしれない。


 俺は――俺の主役理論は、ただ俺だけが楽しめるようにはできていない。

 誰かとともにいることが、複数であることが前提となる以上、関係というものを無視できないのだ。

 その何が問題なのかといえば――。



     ※



「どしたの、未那? なんか、ずいぶん浮かない顔してるけど」


 月曜。登校してのひと幕。昼休みのこと。

 休日に何があろうと、平日は無関係に進行する。たとえ俺が死のうと世界がなんら変化なく運営されるのと同じ話だ、なんて嘯くつもりはないけれど。

 俺が死んだ後のことなどどうだっていい。宇宙における人間の存在の矮小さ云々といった哲学には興味がない。

 俺が干渉できるのは、俺に干渉するのは、いつだって俺の周りの世界だけなのだから。


 ――いや、それさえどうかという話なのだけれど。


「あー、そう見える? 別段、そんなつもりはないんだけど」

「そうかな……いつもよりなんか暗いよ?」


 誤魔化すようにかぶりを振った俺に、けれど納得いかない風情で首を傾げたのは葵だ。気がつくというか回るというか。

 というより今日に限れば、俺があまりに周りへ意識を払っていなかったのか。

 ふと気がつけば昼食の時間。

 午前中の四つの授業を、ほとんど俺は覚えていない。


「……あれ。ていうか、勝司とさなかは?」


 誤魔化すでもなく、単純な疑問として俺は席の横に立つ葵に訊ねた。

 小さなお弁当箱を抱える葵は当然、昼食の誘いとしてここに来たはずだ。四人で食べることは多い。

 葵は軽く肩を竦めると、それからわずかだけ声音を落として言う。


「勝司は購買だと思うけど……さなかは、どうなんだろ。気づいたらいなくって」

「……そっか」


 あれから、さなかとは一度も会話をしていない。学校で会ってもだ。

 いくら授業が上の空でも、これで避けられていることに気づかないほど間抜けじゃない。


「……何かあったの? さなかと」


 葵に問われる。俺の違和感に気づく彼女が、親友であるさなかの不調に気づかないはずなかった。

 というより、さなかの異変に気づいたからこそ、それを俺と繋げたのだろう。


「別に……何かあったってわけじゃないんだけどな」


 軽くそう答えた俺に、じとっとした視線を葵は向けてくる。


「てことは、やっぱさなかが今日変なの、未那と関係あるんだね」

「誘導尋問かよ……」

「こんなの引っかかるほうが悪い」

「確かに」


 雑な対応で肩を竦めた。葵はやはり怪訝そうな様子で、俺に続けて問うてくる。


「うーん。週末は、確か親戚のとこ行くからって話だった思うんだけど」


 そこまで知っているのなら、隠すほうがおかしいだろう。


「……駅で会ったんだよ、偶然。それで、そのあといっしょに遊んでたんだけど」

「何? ケンカ?」

「それなら話は単純なんだけどな……なあ、葵。赤垣此香って名前、知ってるか?」


 さなかの親戚付き合いを知っているらしい彼女なら、その名前にも聞き覚えがあるかもしれない。

 そう思っての問いだったのだが、期待した答えは返ってこなかった。


「や、知らないけど。この学校の誰か?」

「違う。ま、知らないならいいんだ」

「この流れでそんな風に言われると気になっちゃうんですけど」

「……屋台のおでん屋の店主だよ。贔屓の店なんだ」

「いや、知らないよ、おでんの屋台なんて行かないし……なんで訊いたし」

「葵は結構グルメだって聞いてたから。もしかしてと思って」


 なんでもないことのように、そう告げた。

 誤魔化しが上達していく自分を、俯瞰するように自嘲するもうひとりの自分。そんな奴が、この教室の天井辺りに浮かんでいるみたいな気分だった。

 俺が話を変えたと判断したのだろう。納得はしていないが飲み込んだ、という感じで、葵のほうも話題をずらす。


「そいや、そろそろ中間だねー。勉強ははかどってる?」

「ぼちぼちかな。受験のときの貯金がまだ残ってるから、悪くはなさそう。葵は?」

「わたしもまあそこそこかな。勝司辺りは、きっと大変だろうけどね」

「勝司って勉強ダメだっけ?」

「どだろ。やればできるけどやらない、みたいなタイプを地で行ってる感じっぽいね」

「あー……なんかそれイメージ通りだわ」

「――おいおい。戻ってくるなり陰口とは酷えじゃねえかよ、おふたりさん」


 ビニール袋を提げた勝司が教室に姿を現し、軽く肩を揺らしながら会話に参入した。


「おっす」

「あ、勝司。さなか、どっかで見なかった?」


 ゆっくりと近づいてくる勝司に、葵が訊ねる。


「さなか? いや、俺は見てねえけど」

「そっか……うーん、どこ行っちゃったんだろ」


 少しだけ考えて、それから俺は口を開いた。


「――ごめん。ちょっと出てくる」


 言うなり立ち上がって、俺は足早に教室の外へ出る。

 葵と勝司の怪訝そうな視線に交じって、もうひとつ、どこかの脇役主義者の視線に俺は気づいていた。

 けれど、何かを言おうとは思わなかった。




 向かった先は図書室だ。

 そこにさなかがいると直感していたわけではない。単純に、さなかが俺を避けているのなら、あまり人の多い場所には行かないだろうと踏んだだけの話。

 この学校の図書室は、規模も小さいしひと気もほとんどない。どこか肌に痛いほどの静寂がいつも包んでいる。


 図書室に入ったところで、当てが外れたことはすぐにわかった。さなかはいない。

 冷静に考え直してみれば、さなかもどこかで昼食は取るはずだ。

 昼休みに、飲食禁止の図書室を選ぶという推理は少しばかり浅はかに過ぎたか。だからこそ、と思ったのだが。


「……我喜屋、くん?」


 と、図書室に入ったところで声をかけられる。

 カウンターの奥にクラスメイトがいた。

 軽く手を振りつつ、声のほうへ向かう。


「おっす、野中。図書委員の仕事?」

「ええ」


 薄く微笑んで頷く、大人しげなクラスメイトの少女。野中のなか小春こはる

 物静かな文学少女という外見のイメージを、どこまでも裏切らない性格。同じ一年一組で、なんだか透き通るように儚げなところのある友人だ。

 これでも俺はそこそこ図書室の常連であるため、その縁で仲よくなっている。これで意外と話しやすい奴でもあった。


「……珍しいですね、我喜屋くん」


 その野中が言う。何がだろう、と首を傾げる俺に、彼女は続けて。


「昼休みに図書室に来るのが、です。放課後はよく見るんだけど」

「ああ、そういう。まあでも確かにそうだね。昼休みも開いてるとは知らなかった」


 なんだか勝手に開いているイメージで来てしまったけれど。図書室を開けるということは当然、委員がカウンターに詰めていなければならないということ。

 そう考えると、図書委員もなかなか激務、とは言わずとも面倒な役職だ。


 見れば野中は、カウンターの上に小さな弁当箱を広げている。女の子らしい、なかなかかわいらしい弁当だったが、やはり男が見ると《足りなそう》という印象が強い。


「……ところで、図書室って飲食オーケーなの?」

「ダメ、という校則はないですから」


 悪戯っぽく野中は笑った。


「まあ、普通に考えるなら褒められたことじゃないですけど、そうなると図書委員はお昼が食べられないので」


 なるほど。暗黙の了解、というか図書委員のローカルルール的なものか。

 表面上の落ち着いた性格――いや実際に静かな奴ではあるのだが――に反して、これで野中は意外としたたかな奴だ。

 あの叶が、クラスメイトの中で数少ない本性を見せている相手が野中だと言えば、彼女の評価も一変すると思う。


 第一、今の言い回しからすれば、野中は間違いなく校則や決まりを調べた上で行動している。

 要するに、仮に教師に見咎められても言い訳が利くようにしているということ。

 こういう野中の油断ならないところが、俺は個人的に好きだった。


「それで、我喜屋くん。図書室に何かご用事です?」


 本を借りにきたわけではないのでしょう、という含みが言外に感じられる言い回し。

 あの叶と友人をやっているだけあって、察しのよさは人一倍だ。あるいはさなかや勝司、葵たちに勝るとも劣らない。キャラはまったく正反対だというのに。


「さなか見なかった? ちょっと探してるんだけど」


 そう訊ねた。図書室にいないことは一目瞭然だったが。

 問いに、野中は答える。


「湯森さん? えーと、四時間目のあとは見てない、かな」

「そっか。いや、いないならいいんだ。ありがと」

「何かありました? そういえば湯森さんと我喜屋くん、今日ちょっと様子おかしいし」

「本当によく見てるね……そんなにわかりやすく変だった?」

「そうでもないですけど。ただ、ほら。いつもいっしょにいるのに、今日はなんだかぜんぜん話してなかったじゃないですか。まあ、今思えば、ですけど」

「よく見すぎだよ」

「あと日曜日にふたりでいるところ、駅前で見たので」

「よく見すぎだよ!?」

「赤垣さんもいましたよね。知ってます? 湯森さんと赤垣さん、親戚なんですよ」

「いや、もはやよく見てるってレベルじゃなくない!? どこまで知ってんの!?」


 慄然とする俺であった。

 いやいやいや。確かに野中は読書家かもしれないが、それにしたってこんな、安楽椅子探偵もかくやというほど洞察力に優れていただろうか。もうちょっと怖いレベル。

 だが目を見開いた俺に、野中のほうが不思議そうに首を傾げていた。


「何をそんなに驚いているんですか?」

「何をって……」

「駅前で、すごく目立ってたじゃないですか。わたし、あのときちょうどいたんです」

「……あー。なるほど……」


 此香とその知り合いの少女が、あれほど目立っていたのだ。

 学校の近くだったし、誰かクラスメイトに見られていたとしても、それ自体はあり得ることでしかない。


「赤垣さんは、単純に同じ中学だったので。湯森さんがいとこというのも聞きました。仲よかったんですよね、赤垣さんと。今でも連絡してるんですよ」


 聞いてみれば、別に大した話ではなかった。

 別に今この場で推測したわけではなく、単に昨日の顛末を見られていただけの話。なら納得がいく。もともと此香と知り合いだというのなら、目にも留まるだろう。


「なんだ、そういうことか。驚いたよ」

「察するに何かあったようですが。まあ、詳しくは聞かないでおきます。代わりと言ってはなんですが、質問があればお答えしますけど」

「……本当に察しがいいな、野中は」

「早く仲直りしてくださいね?」

「別に、ケンカしてるってわけじゃないんだけどな……」


 笑うでもなくそう呟く彼女に、俺のほうが苦笑させられてしまう。

 おそらく、こういうところが叶に合うのだろう。突き放すでもなければ下手に干渉するでもない、そんな適切な距離の取り方。

 俺には真似ができそうにない。


 とはいえ別段、訊きたいことがあるかと問われれば、特に思いつくことがない。

 そもそも俺はさなかを探している最中で――いったい会って何を話すかさえ考えていなかった。


「ま、とりあえず俺はまたさなかを探しに行くよ」

「ですか」


 野中は小さく頷き、それから少しだけ小首を傾げて。


「まあ湯森さんなら、すぐ真後ろにいますけれど」

「え?」


 俺が驚きの声を上げると同時、がたっという音が背後から響いた。

 弾かれるように図書室の入口側へ振り向くと、そこには壁に手を当てて、ばつの悪そうな表情でこちらを窺うクラスメイトがひとり――さなかだった。

 図書室に来るかもしれない、という予想は、どうやら的中していたようだ。

 俺のほうが先に来てしまい、あとから来たさなかはこちらの様子を覗いていた。そんなところか。


「あー……おっす、さなか」


 少しだけ逡巡しつつも、俺はそんな風に声をかける。なんだか言葉の選び方を失敗してしまったような気もしたが、残念ながら舌に乗せた言葉は二度と取り戻せない。

 さなかは俺の声を聞くと、その両肩をびくっと震わせた。

 さきほどの物音は、今のような感じで体のどこかを壁にぶつけたのだろう。まるで外敵に怯える小動物だ。


 しかし、さなかのほうも、こうまで俺を避けるのもおかしいとは考えたらしい。

 怯んだそぶりを押し隠すように身を固めつつも、ぎこちなく笑って挨拶に答えた。


「あ、あはは。おっす、未那。い、いやー、まさか図書室にいるとはねー……」

「……そういうさなかのほうこそどうしたんだ?」

「いや、えっと、今日はその、お弁当持ってくるの忘れちゃってさ。うん」


 嘘であることがあまりにも明白なその言葉。説明どころか、詭弁や方便にすらなっていない。

 けれど俺は、それに言及しようとはまったく考えなかった。

 この期に及んでなお、俺たちは決定的な亀裂を避けようとしている――なぜ?

 決まっている。

 この先に踏み込むが最後、亀裂が決定的になると直感しているからだ。


 どうせ、訊かないわけにはいかないと理解しているはずなのに。

 なぜあのとき、さなかは、と。


 そう。あの日の彼女は、決していとこである此香から逃げたわけではない。それまでは普通に話していたのだ。

 あんな風にしてまで去ったのは、間違いなく

 そこまでは俺も気づいていた。さなかがあの場を去った理由が、もし此香と喧嘩をしていたことにあるなら、きっと彼女は俺を置いては帰らなかったと思うのだ。

 そういうことを、湯森さなかはたぶんしない。それでも帰ったということは、その上でなお今日も俺を避けているということは、ということになる。


 その本当の理由なんて、俺にはまるで想像がついていない。

 ただなんとなく、俺には知られたくないことがあったのだろう――そんな、推測とすら言えない想像ができるのみだ。

 ならこの場合、俺が取るべき対応とは、果たして。


「……ちょっと話そうぜ」


 少し考えてから、俺はそう切り出した。それが主役理論者の、取るべき行動だと考えたからだ。

 うじうじ迷っていても仕方がない。事情がわからなければ訊けばいい。

 もしもさなかが話したくない、話せないというのなら、そのときは察して流してやれば済む。

 ともあれ、今の微妙な状況に決着をつけない限りはもやもやしたままだ。


 果たして。


「うん。……わかった。そこ、座ろっか」


 さなかは言った。

 野中のほうは、すでに役目は終わったとばかりに再び弁当箱と向き合っている。

 その優しい無関心に心の中で感謝を告げつつ、さなかを図書室内のテーブル席へと誘った。


 正面に座るさなか。心なし、なんだか困ったような笑みだった。

 思い切って話してしまえば言葉は出たものの、やっぱり微妙な感覚だ。

 お互い、何かがあったわけでもないのに、別れ際の顛末のせいでなんとなくの気まずさが拭えない。

 その間も、頭の中では何を話すべきかと高速で計算が動いていた。けれど経験値が足りないせいか、有効な打開策が浮かぶでもない。


 結局、まずは別の話から入った。


「とりあえず、昨日はありがとな。付き合ってくれて助かった」

「ああ……うん。それは別に。わたしも楽しかったし」


 さなかも普通に答える。

 この分なら、きっとすぐいつも通りに話せるようになるだろう――そう思った。


「悪いな、お礼をするって話で連れてったのに。此香とさなかが親戚だとは知らなくて」

「あはは……うん、わたしも驚いた。や、いやー、まさか未那と此香が知り合いだなんてね! や、ほら、あの子が屋台やってるってのも初耳だったし?」

「……仲悪いのか?」


 此香は言った。――さなかは、此香が高校に進学しなかったことをよく思っていないと。

 だが本当にそうだろうか。

 一般論として《高校くらい出ておいたほうがいい》という程度のことなら、確かに言うかもわからない。

 けれど本人が決意したことを、終わってまでねちねち言い続けるようなイメージは、どうにもさなからしくない。彼女ならむしろ応援しそうなくらいだと思う。

 実際、さなかの返答はおおよそ想像通りだった。


「あはは……やー、別にケンカしてるってわけじゃないんだよ? ほら、親戚だし、歳も近いしね。ずっと仲はよかったんだよ?」

「らしいね。ちょっとだけ、此香からも聞いた」

「そっか。うん……そんな感じ。いや、昨日は親戚の集まりがあったって言ったじゃん? そこに、本当なら此香も来るはずだったんだけど、あの子ってば顔見せなくてさ。だから少し怒っちゃった。それだけ」


 俺は。


「ははー。そっか、なるほどね。此香が集まりをサボったと」

「そうそう! それで、ちょっと熱くなっちゃってさ。いやー、会うのは久々だったし、つい、こう、今までの不満がね? 出ちゃったわけですよ。いやまったくお恥ずかしい。むしろわたしのほうこそごめんね? いきなり先に帰ったりしてさ。本当、この通り!」


 ぱん、と両手を合わせて謝罪を口にするさなか。これで手打ち、と文字通りに示して。

 図書室は静かだ。来ている人間なんて俺とさなかだけ。カウンターの奥の野中は、聞き耳を立てるようなことすらせず、こちらと距離を取って弁当をつついている。


 ――俺は。


「いいよ、別に気にしなくて。そういうこともあろうよ」


 それ以上の追及をしない。しなかった。


「ん。埋め合わせはするからさ。だから忘れてくれると助かるなー、なんて」

「埋め合わせてくれるなら覚えてるけど」

「あははっ。それもそうだ」

「冗談。もともと俺のほうがお礼するって流れだったしね。ま、また今度ってことで」


 これでいい。踏み込んではならない部分なら、踏み込まないでいればいい。

 俺も、さなかも、これで元通りの友人に戻れるのなら。


「じゃあ期待させてもらおうかなっ。あ、でもあの屋台はやめてよ? さすがに気まずいからさー」

「かもね。まあ屋台といえば、此香も割と苦労してるっぽいし。一回サボったくらいなら許してやれよ。てか、さっさと仲直りしたほうがいいんじゃないの?」

「……そう、だね。いや、てか未那こそどうして此香と知り合ったのさー?」

「いや、普通に店に行ったからだけど」

「ええー? 屋台とか高校生で入るかなあ……ああ、まあ未那なら入るか」

「ちなみに叶も行ってる」

「そゆとこ本当に気が合うよね、ふたりは」

「いや、別に気は合わない。趣味が合ってるだけ」

「そこは頑なに認めないんだ……」


 冗談めかして笑い合う。

 儀式だった。俺たちはもう笑って会話ができると、それだけの了解が取れていた。


 ――そのはずだったのに。


「しかし、どうなんだろうなあ……しばらく大変そうだし、ちょっと相談に乗ってやったほうがいいのかね。どう思う?」

「……え……?」

「いや、なんか揉めてたろ。事情は知らんけど、なんか困ってるなら――……さなか?」


 さなかが、どこか呆然としたような表情で俺を見つめている。

 それに気づいたのは、もう言葉を発してしまったあとのことだった。

 さなかの瞳が涙で滲んでいることに、気づいたときには全てが遅かった。


「あっ、え……ご、ごめっ。な、なんか気に障るようなこと言っちゃったか!?」


 俺は焦った。この状況で涙を流すなど、俺のせいとしか思えない。

 だがいったいなぜ。

 どうして自分がさなかを泣かせたのか、傷つけたのか。その理由がわからない。

 今の会話のどこに、さなかを涙させる要因があったのか想像さえつかない。

 何よりさなか自身が、俺に指摘されて初めて自分が泣いていることに気づいたようで。


「――っ!? ご、ごめ……あれっ、おかしいなっ……別に泣く気なんて、……ひっ」


 しゃくり上げるような声。彼女は涙を堪えられていない。

 くしゃっと歪んだ表情を隠すように、さなかが袖口で目元を拭う。けれど両腕が遮った向こうで、涙は一向に止まる気配を見せず、抑えられずに零れていた。

 何も言えなかった。

 がたんと乱暴に立ち上がると、さなかは目元を隠したまま言う。


「……ごめっ、ごめんね……すぐ戻るから。いつも通りに戻るから」

「さな、か……」

「だから、ごめん。今は。別に、未那のせいとかじゃ、ないから。わたしが――ダメな、だけだから」

「ダメって、おい――何言って」

「あはは……本当、こんなんじゃダメだよね。てか意味わかんないよね。がんばろうって思ったんだけどね……ダメだね、わたし。――行くね」


 それだけを言うと、彼女はそのまま図書室から駆け出していってしまう。


 止める言葉なんてなかった。止めるべきだったのかどうか、それさえわからない。

 何を間違ったのか。いや、そもそも俺は何かを間違ったのだろうか。

 目の前の展開に一切ついていけていない。それこそ、さなかがいきなり強烈な体調不良に襲われたのではないかとさえ疑ってしまうほど、はっきり言って意味がわからない。


 けれど。それでも俺は何かを間違ったのだろう、と。

 そんな直感だけはあった。

 だってそうだろう。


 きっとどこの誰に訊ねたところで――今の俺を主役とは、決して呼ばないはずだから。




 ――午後の授業に、さなかは姿を見せなかった。

 彼女の席からは鞄がなくなっている。おそらく早退したのだろう。

 授業の終わると、葵が俺に近づいてきて、心配そうにこっそりと耳打ちした。


「……さなか、体調が悪いって言って帰っちゃった」

「そう、か……」

「なんか、そんな感じでもなかった気がするんだけど……未那、何か知ってる?」


 知っていると答えても、知らない答えても、どちらも嘘になる気がして。

 どちらも答えられずに俯いた俺に、何かを察したのか、小さく溜息をついて葵は言う。


「……てか、未那もだいぶ顔色悪いけど。体調悪いなら無理しないでね」

「ん。ありがとう」


 そんな風に答える俺を、この教室にいる誰が、果たして見ていたのだろうか。

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