2-08『オアじゃないよねアンドだよね1』
おでん屋での邂逅から一夜が明けての土曜日は、ほぼ丸一日をバイトに費やした。
ほのか屋での仕事もそれなりに慣れてきたという自負がある。それは翻って人と話すということに慣れた、という意味にも繋がるのかもしれない。
そう、なんとなく思った。
そこからさらに翻してみると、これは裏の裏が表ではないということの証左というか、考えてみればそもそも俺は誰かと会話をするということに慣れていなかったわけだ。
まあ話す相手など、家族を除けばせいぜいあの変わり者の旧友くらいだったのだから、無理もない――というか無理をしてこなかったというか、周りの人間的には『すみません我喜屋くんはちょっと(無理です)』だったというか、よしこれ以上は落ち込むからやめよう。
小学生の時分には、それでも放課後いっしょに遊ぶ人間くらいはいたはずなのに。
名前どころか顔さえあやふやな相手も多いけれど、いやまったく何を転び間違えたのだろう。旧友との付き合いもその頃に遡るが、それを思うと……おや?
――あいつ、実は俺の《幼馴染み》なのでは?
そんな気づきがあった。それはこう、いささかもったいないというか、やはり弱運者の弱運者たる所以が見えるというか。
幼馴染み、といえばもはや主人公にはいて然るべき、とまでは言わずとも結構な高確率で宛がわれる環境であり、しかも概して美少女だ。
毎朝、部屋にまで起こしに来てくれるパターン《世話焼き》は昨今あまり見られなくなった気がするが、それ以外にもパターン《ツンデレ》やパターン《上級生》など枚挙に暇がない。
が、大抵実在しない。
それはいい。都合よく美少女の幼馴染みなどいてくれないのがこの世の中であり、その不都合さを乗り越えんとする意志こそが主役理論の本懐だ。
要するに試行回数の問題で、買わなければ宝くじなど当たらないということ。
都合のいい展開を呼び込むために必要な唯一の要素は、都合のいい幸運が起こるまで挑戦を繰り返すこと以外にないのだから。
まあ、だからこそ幼馴染みなんて青春要素を、こうもあっさり無為に無駄に無闇に消費してしまっている辺りが、なんとも俺らしいといったところだ。
終わってしまった過去はもう取り戻せない。たとえマイナスが補填されても、マイナスされたという事実は決してなくならないのと同じく。
主役理論でも、どうしようもないことはどうしようもない。
というわけで、やはり過去ではなく未来に目を向けていこう。
土曜からもうひとつ日を跨いでの翌日。日曜日。
主役理論者たるもの、やはり休日には友人と遊ぶなり出かけるなりする予定のひとつやふたつは確保しておくべきだったが、そう毎週あっては身が持たないし、
そもそも予定をふたつ入れては、単なるダブルブッキングだった。
とはいえ、ただでは転ばないのもまた主役理論者の在り方であって。
昼を前にして、俺は寝間着から私服に着替えると家を発つ。予定ならあるのだ。
そう。
今までのくだりは、決してさなかを誘えなかったことに対する言い訳ではない。
ちなみに叶はすでに家を空けている。
確か叶もこの週末はシフトを入れていなかったと思うのだが、今日も予定があるとのことで、昨夜は俺の帰宅より早く就寝していた。何か買い物に行きたいだとかで、その辺りの主役理論者に勝るとも劣らぬアグレッシブさは、さすが一流の脇役哲学者といったところか。
開け放たれた壁(扉ではない。穴がだ)の向こうで、幸せそうに熟睡する叶を帰宅後に見る気分はなかなか言葉にはできなかったが、ともあれ俺がいようとなんだようと普通に眠れるようになったことには、こう、正直言って少しほっとしていた。
趣味人だけあって――いや関係あるのか知らないが――眠っているときの叶は、いつもだいたい幸せそうだ。それを少し通り越して間抜けそうと言っていいくらいに、なんだか締まりのない、ふにゃけた笑みを浮かべている。
夢の中でも脇役生活に夢中らしい。
しかしこういう表情は、異性でなくとも他人には見られたくないものだと思うのだが、そっちは気にならないのだろうか。
猫を被っているときはともかく、叶は俺にすっぴんを晒すことには少なくとも一切の抵抗がないらしい。自分の顔の造形に自信がある、なんて理由ではまったくなく、俺を相手に気取るほうが嫌ということなのだろうが。
「そっちのほうを気にしたらどうなんだよ?」
一度だけ、そう言ってみようと考えたことならあったが。
「わかってないなあ。いろいろ学んだすっぴんが、最終的には最強なんだからね?」
とかなんとか、そういう下らない返答が目に見えていたのでやめておいた。
ていうか、お前のジョブは脇役哲学者じゃないのかよ、と。そんな会話してないんだけど。
まあ叶の話はいい。お互い、その主義通りに余暇を楽しんでいるのなら充分だ。
先週末だって、思い返せば叶は家族と食事に行っていたわけだし。堪能しているのだろう。
「――今日の一件だけは、叶と無関係とはさすがに言えないからな」
最寄りから電車を乗り継ぎ恒例の市街地へ。
待ち合わせには、いつかと同じ駅中央の謎オブジェを指定してあった。そこに向かう。
……来るたびに考えてしまうのだが、この銀色の謎オブジェ、いったい何を象ったものなのだろう。
もし俺がこれに名前をつけるなら、もう『印象A』とか、そういう抽象的なタイトルしか考えられない気がする。俺には前衛美術のセンスがないらしかった。
待ち合わせにはまだ少し早い。
時間潰しを兼ねて、そのオブジェをなんとなく見上げていたところに、ふとかけられる声があった。
「――あれ、未那?」
「え?」
少し驚きながら振り返る。
その声が、俺の待ち合わせ相手のものとはまったく違っていたからだ。
「あ、やっぱり未那だった。こんなところで奇遇だねー。やっほー」
「……やっほー」
片手を挙げて、引き攣った笑みで答える俺オブジェ。題をつけるなら『やまびこ』とかどっすか?
――いやそんなアホなことを考えている場合ではない。
ひらひらと手を振りながら近づいてくる少女。
よりにもよって今日この日、この場所で彼女に出会うことは、果たして幸運なのか不運なのか。あるいはこのどうしようもなさこそが弱運というものなのだろうか。
考えても答えの出ないことに頭を支配されたまま、考えもせずに言葉は出てくる。
「まさか、ここで会うとは思ってなかったよ――さなか」
湯森さなかは、確かに、と気安い笑みを見せて答えてくれた。
貴重な私服姿とお目見えした喜びは、なぜだろう。今のところ感じられないが。
誘うのに失敗して、別の予定を入れたと思ったら当日に会っちゃうとか。
どうしてこうなんだ、俺の人生ってヤツは。
「どしたの、買い物か何か?」
「ん、まあ今はそうかな。朝から親戚のとこ行ってたんだけどね。思ったより早く用事が終わっちゃったから、ちょっと寄り道して帰ろうかなって」
正直、俺は考えて喋っていなかった。
きゃんとしんく、ふぃーる。そんな感じ。
「へえ、親戚。この辺なんだ?」
「もう三つ向こうの駅なんだけどねー。この辺に割と多いんだよ、親戚」
「そっか。なるほどねー」
「ところで未那のほうは? お買い物?」
軽く小首を傾げるさなか。
この話の流れでそれを訊かれないわけがない。
そうとわかっているくせに、違う方向へ話題をシフトできないのだから、まだまだ俺も修行が足りない。なまじ喋る訓練を重ねた結果、旧友にも指摘されていた《考えるより先に言葉が出る》という悪癖が絶妙な方向へ進化してしまったらしい。なんなら退化したと言ってもいいだろう。よくはねえよ。
「あー……まあそんなとこ、かな?」
そして、こんなことを言ってしまう俺である。
「ひとりで? それは珍し……くもないか。友利さんは来そうにないし」
「あいつは、まあ、そうね。出不精ってのとも違うんだけど。今日もどっか出かけたし」
「ふうん。あ、えっと。ところで未那。その、……あの、さ」
さなかは少し体勢を低くすると、こちらを窺うような上目遣いになった。まるで下から覗き込まれるかのようで、俺は何かを見透かされるのではないかと思わず息を呑む。
いっそ何かの間違いで友利さんがここに現れてくれないかとすら願った。
そんな俺の考えなど無論さなかは気づかない。彼女は、少しはにかみながら言った。
「よければ、いっしょにお昼とかどう、かな? ほら、その、時間もいい感じだし、ここで会ったのも何かの偶然、みたいな?」
――なぜこうなるのだろう。
本来なら願ってもないはずの事態、望外の幸運リカバリーのはずだ。積んできた功徳が一定ポイントに至っての青春還元セール。ありがとう主役理論。諸手で万歳、からの五体投地。流れるような感謝の礼拝。言うなればそんな感じだ。
つまりもうダメという意。
ああまで無様を晒した俺に対し、さなかのほうは至極あっさり俺を誘っているという点に、これ実は異性としては意識されてないんじゃないの説も少し浮上してくるが、それを加味したところで断るには惜しすぎる。
たまたま出先で出会ったという物語性と、挫折が先にあった件を考慮すれば、空間青春含有量50パーセントは揺らぐまい。ああ浸りたい。
だが今は、状況がそれを許さなかった。
胸に涙を秘めながら、泣く泣く断りの文句を口にしようとする俺。
だが、俺が謝ろうとした寸前。
それより早く、そしてまたしても――背後から、声。
「――あれ、我喜屋先輩?」
そちらの方向へと振り返る。きょとんと首を傾げるさなかには気づいていた。
が、だから俺にどうしろというのかって話であって。
「あの、我喜屋先輩。突然ですが、そちらの方とはいったいどういう関係でしょうか」
「……前に会ったときも似たようなことを訊かれた気がするな」
「え? っていうか……その子、誰? 知り合い?」
「訊ねたのはこちらなのですが……というか、我喜屋先輩。待ち合わせの場所に、ほかの女性を連れてくるというのは、さすがに如何なものかと思うのですが」
待ち合わせの相手――友利望は、あまり動きのない表情で俺を弾劾した。
さなかは目を白黒させて混乱し、俺のほうはもう、一周回ってなんだか冷静になってきた。
焦燥が表に出なくなったという意味であり、別に頭が回転し始めたわけではない。
そんな俺をよそに、望くんとさなかは珍妙な会話を繰り広げる。
俺を挟んで。
「むぅ。せっかくお誘いいただいたから、喜び勇んだところでこの仕打ち。我喜屋先輩は意外とやり手ですね。僕はもう振り回されっ放しです」
「現在進行形で俺を振り回すようなことを言っている君が言う?」
「ぼ、僕? いや、ていうか……こ、この子は?」
「えーと。あー……あんまり言いたくなったんだけどなあ」
「――まさか」
戦慄するさなか。
頷く望くん。
「ええ。そのまさかです」
「おい肯定すんな! それこそまさかだよ! そのまさかでは絶対ねえよ!!」
「み、未那、いつの間に、そんな、年下の彼女を……!?」
「違う! まず、そう、こいつ男! 男だから!」
「男の子!? え、いや、そんな風には――」
「僕は男ですよ」
「えええっ!?」
「ほら!」
「我喜屋先輩が男であるように」
「ほら――うん。いや待って違えよ! 違わねえけど!」
「我喜屋先輩も、そして僕も、男です。そういうこともあります。世の中」
「なんでいらない補足つけ足したの!?」
「事実しか言ってませんよ」
「そうだけどそうじゃねえ! てか望くん、わかっててやってるよね!?」
「お、男? 男が彼女……? まさか、未那が友利さんに手を出さないのは……っ!?」
「だからそのまさかは違うっつーの!? さなかも俺の話、聞いてないよね!?」
「そもそも僕は友利ですよ」
「え? え――え!? 友利さんが、え? 男……ええっ!? あれ、……いつの間に!?」
「さなかさんちょっと混乱しすぎじゃないですかね!? 冷静になって!!」
あわあわ言いながら目を回すさなか。
何ごとかを思案するような表情で佇む望くん。
そして、間に挟まれているのに誰にも話を聞いてもらえていない俺。
やっぱり他者に言葉を伝えるのって、すごく技術がいることなんですね。
そんなことを俺は学んでいた。
要するに、その技術がない時点でもうどうしようもないということ。
混沌だった。
いったい何をどうすれば、こんな目に遭うというのだろう。
場は駅の真ん中、人混みの只中。近場にいたチャラそうな兄ちゃんが、一瞬だけちらとこっちを見て、それから小さく、けれど聞こえる声で呟いた。
「……修羅場?」
違う!
「青春だなあ……」
だから違ぁう!!
「も、もういい。ふたりとも、とりあえずここを離れよう。な!」
俺は問答無用で、強引にふたりの手を引いてその場から逃亡を図る。
「ふぇ……え、みみみ未那ぁ!?」
手を握られたさなかが狼狽えたように声を上げたが、驚きの割には素直について来た。望くんのほうも、特に抵抗せず引かれるがままだ。何を考えているのやら。
結構な量の視線が突き刺さっていることには、一切気づかない振りをして離脱した。
――さすがに、こんな事態までは、俺も求めていないのだから。
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