2-01『おでん屋台と弟君1』
願わくは、この記念すべき惨敗に祝杯を――。
あるいは完敗に乾杯を、と言ったほうが間抜けさが浮き彫りになってベターだろうか。
いずれにせよ今の俺は敗残兵。この気分を紛らわすために、一杯引っかけていきたい、そんな気分である。
もっとも、お酒を嗜める年齢ではないのだけれど。
「……一日を無駄にしてしまった気分だ」
日曜。休日。フリーデイ。
暗い茜色に沈む駅前は、普段よりもひと気に欠けている。
この日、俺は昼前から電車を乗り継いで繁華街まで出て、ひとりショッピングを楽しむ予定でいた。
その予定は基本的には想定通り運んでいったけれど、ではいったい俺が何に敗北したのかといえば、答えは単純。
目当ての品が、見つからなかったというお話だ。
コトの発端は、この春からの同居人――
曰く、互いの部屋の間に、何か視界を遮るものくらいは用意しておこう、と。そういう提案を俺からした。
いろいろフクザツな事情があって(詳細は省く)俺と叶は現在、学校近くのアパート《かんな荘》の一○二号室と三号室で同棲生活をしている。
というのも、これまた複雑怪奇にして不運不幸な事故により、互いの部屋を仕切る壁が壊れたからだ。
事故によりっていうか、どちらかというと自己によりって感じではあったけれど。
ともあれ、そんな過程からこんな家庭に。付き合っているどころか好き合ってもいない俺たちが、ひとつ屋根の下、顔を突き合わせて暮らしているわけだ。家庭ではねえな。
で、まあ。
いくらお互いに気にしないとはいえ、仮にも年頃の男女なのだ。一応。最低限度の配慮はお互い持つべきだろうと、なくなった壁の部分に、カーテンなりなんなりを設置しようという合意を得たのだ。
要は出入りを妨げない程度の布を掛けようという話。
問題としては元が壁だったという辺りか。カーテンレールなぞついていようはずもないし、その辺りの日曜大工的要素は俺に一任されることとなった。だから日曜にわざわざお出かけをしたということ。
料理では負けるが、工作の手際なら俺が勝る。
「――結局、見つからなかったわけなんだけど」
いや、もちろんカーテン、っていうか布くらい割とどこででも買える。
以前はさなかや勝司とも行ったあの駅の周辺は、県内でも最も栄えている。見つけることはできた。
――ただ。
こうなるとこだわりというものが前面に出てきてしまうのが俺であり、叶であって。
「センスは任せる。未那ならまあ、下手なものは買ってこないでしょ」
叶はそう、なんの気なく言ってくれやがったが、逆を言えばこうも自然に信頼されてしまっては俺としても慎重にならざるを得ない。あとで叶を失望させるのだけはご免だ。
主役理論と脇役哲学。
お互いの信奉する金科玉条。
そのどちらか優れているかという決着についてはまだまだ答えが出ていないし、それがこの程度のことで決まったりもしないけれど。
だからこそ、手を抜くわけにはいかない。
無難に無地の布でも購入して帰れば、叶も文句は言わないと思う。ていうか気にも留めないだろう。
だとしても――いやだからこそ、俺はその程度の決着を認められない。
生粋の趣味人・友利叶ならば。
逆の立場なら必ず面白いものを入手してくるはずだ。
そういうある種の信頼が、今日の買い物に際して、「ああでもないこうでもない」と俺を悩ませることになったわけだ。
だってそんな面白い布なんてそうそう売ってねえって。
ていうかこれまでの人生で布なんて一度も買ったことがないし。せいぜい服だ。
結局、時間と労力を対価に虚無だけを入手して、俺はすごすご地元の駅まで引き下がる羽目となっていた。
これを敗北と言わずしてなんと呼ぼうや。そんな気分である。
これはもう、美味しい夕食でも食べて帰ろうと、そういう結論に至らざるを得まい。
普段はあまり外食をしない。せいぜいバイト先――喫茶ほのか屋のまかないくらいか。
懐事情もそうだが、それ以上にかつて外食が原因で痛い目を見たことが尾を引いていた。
友利と我喜屋が付き合っている云々という例の噂が、まだ完全に消えたわけではない。
しかしそのせいで、まだまだ自宅付近の発掘が進行していないのも事実だった。
幸い、今日は叶がいない。
あいつは朝から珍しくも忙しそうにスマートフォンで誰かと電話をしており、その流れで家を空けている。今日は外で食べてくるとの連絡もメールで貰っていた。
そんなこともないわけではないのだろう、とあまり気にしていないが。
「――さて!」
てわけで捜索である。気合いを入れるように短く呟く。
電車を降りた俺はかんな荘のある東口側ではなく、あえて西口へと降りた。こちら側はほとんど手が回っていないのが実情だ。何かいい店があればいいのだが。
ロータリーを出てしばらく道沿いに歩いていく。すぐ傍にコンビニを過ぎ、スーパーの横手を歩いて右へ。閑静な飲み屋通りを先に見る。小規模な個人経営の居酒屋がいくつか軒を連ねている辺りだ。雰囲気はかなり好みなのだが、さすがに入りにくい。
この先に進んでしまうと、確かその先は住宅街になっていたと思う。
ほのか屋のような喫茶店でもあれば飛び込むところだが、可能性は低そうだ。諦めて道を引き返す。
駅前の広場まで戻ると、今度は駅から見て左手側の通りへと俺は入った。
――そして。
その店が目に飛び込んでくるまでに、おそらく二秒は懸からなかったと思う。
駅のすぐ近く。けれど駅からは微妙に死角になっている位置。
そこに、俺は一件の店を見つけたのだ。
正確には屋台を。
おでん、という三文字が暖簾に踊る移動式屋台。明かりは灯っており営業中と見える。現在時刻は午後七時過ぎ。客は、暖簾で隠れて見づらいが、たぶんまだいない。
赤い提灯。まさに《昔ながら》オーラ前回の佇まい。きっと頭に鉢巻をした、おそらくは禿げ頭のおっさんが経営しているに違いないと、そんな印象を抱かせる温かみに溢れた雰囲気。さながら誘蛾灯のように。足がふらふらとそちらへ吸い寄せられていく。
入る。
もう入る。
入ろうか入らざるかなど迷わなかった。
美味しいかどうかの不安さえ抱かない。
つーかどうでもいい。
ただ入る。
屋台を見つけたその瞬間、すでに行動は完了しているのだぜ。
だってそうだろう。こんな雰囲気のいい屋台、仮にも主役理論を標榜する俺が入らない選択肢があろうか。いや、ない。あっていいはずがない。
もう今日はここで食べる。
暖簾を片手で上げながら、屈み込むようにして屋台の中へ。
「すみませーん。やってますかー?」
笑顔を見せて俺は言って、そして――そこで、再び意識を奪われた。
思わず無言になるほどに。
衝撃で言えば、さきほど屋台を見つけた瞬間を上回るだろう。なにせさっきは足がふらふら動いていたけれど、今回は違う。もう微動だにできないほど硬直してしまった。
そんな俺を見て、テーブルの向こう側にいる店主が胡乱げに目を細めていた。
おでんの温かで優しい香りが、湯気に乗って鼻腔をくすぐる。硬直していても確認できた。
そして、店主が。
店主の少女が。
「――なんだ、アンタ。冷やかしか? 客じゃねえなら帰ってくれ」
鉢巻も禿げ頭もおっさんも、想像していた店主像はひとつたりとも当たっていない。
目立つ長めの金髪に、いかにも怪訝そうな細く鋭い視線。年の頃は間違いなく俺と同年代だろう。
藍色をした腰かけのエプロンや、袖をまくった白い長Tに現実感がない。
「なあ、何してんだって訊いてんだけど」
その少女が言う。その様子には、なんだか小さくない隔意を感じた。
「いつまでそこに立ってるつもりだ? 営業妨害かよ」
「え、あ――ああ、ごめん。客のつもりなんだけど……」
俺は咄嗟にそう答えた。確かにこうまでぼうっとしていては怪訝に思われるか。
しかし、店主と思しき少女のほうは少しだけ眦を上げて言う。
「客ぅ? アンタが? ――この店に?」
「えっと……ダメ、かな? 雰囲気に誘われて思わず入っちゃんだけど……」
「だったら、なんでそんなぼうっとして……」
「いや、ごめん。まさか同い年くらいの子がそこに立ってるとは思わなくて」
「なんだ」
と。そこで少女は、警戒を解いたように破顔した。
「それなら客じゃんか! 悪かったな、アンタみたいな年代の奴は来ないから、てっきり冷やかしかと思ったぜ。さ、早く座ってくれよ! ほらほら。いらっしゃい!」
「……それじゃ失礼して」
さきほどまでの尖った気配はどこへやら、客商売らしいスマイルに変わった少女。妙な警戒を与えてしまったことを申しわけなく思いつつ、言われた通り真ん中の席に座った。
彼女は笑顔で水を出してくれる。こうして見ると人好きのする笑顔だ。
見た目は派手だし、割と尖った雰囲気はある。けれど、たぶん話しやすい子だ。そんな風に俺は思った。もちろん、この若さには今も驚きがあるけれど。
「さあ、なんにする? あたしが言うのもなんだけど、ウチのおでんは美味いぜ!」
少女が笑顔で手を広げて言う。
つゆの中に沈んだり浮かんだりしている具を眺めながら俺は言った。
「んじゃ、とりあえずダイコンとちくわ……あ、これ牛すじかな。じゃあこれも。あとは白滝と、……いや、ひとまずこれで」
「へへ、毎度!」
手際よく、少女が器におでんの具を盛っていく。
それを眺めながら、さて、と考えた。
――どうしようめっちゃ話しかけたい。
主役理論第四条、《行動してこそチャンスが舞い込む。それを掴み取る握力こそ、青春に最も必要な武器》を思い出す。それを思えばこの機会は逃せない。
同世代でおでん屋台やってる女の子、なんて希少なステータスの奴と友人になれなくて何が主役理論だという話だ。
もう考えていることがナンパ野郎みたいな気がするけど。
などと、そんなことを考えているうちに盛りつけが終わってしまう。
「お待たせ! からしとかはそこに並んでるのを使ってくれ」
「あ、どうも。――いただきます」
考えを打ち切って、俺は両手を合わせた。まあ、雑談は食べてからでもいいか。
割り箸を手に取って、さて――とおでんに向き直る。何から行くか。
よし。
まずはダイコンから行こう。俺はおでんの具ではダイコンがいちばん好きだ。
おでんのダイコンで重要なのは、何をおいても染み加減だろう。寝かせて、ひたひたになるまで汁を吸ったダイコンの味は格別だと俺は思う。
割り箸で大根を四等分し、そのひとかけらをまず口へと運――、……、……。
「――――」
「ど、どうした……?」
食べるなり無言になった俺を見て、少女が不安そうに言った。
おっと、その誤解はよくないことだ。俺は顔を上げ、少女の顔を真正面から見て、告げる。
「めっちゃ美味い……」
余計な装飾を挟まず、ストレートに今の感動を告げる俺。少女はほっとしたように肩の力を抜くと、それから嬉しそうに微笑んだ。
「そ、そうか。そうだろ! 美味いだろっ!」
「ああ! これは家庭じゃ作れない味だよなあ。いやマジで美味い。少なくともこれまで食べたおでんの中でいちばん美味い。いやマジで。この染み具合い……やるなあ。こんな店に今日まで気づかなったなんて不覚と言わざるを得ないぜ」
「そこまでか!? 意外と喋るな!!」
「そこまでだぜ店主」
言いながらふた口目を口に運ぶ。
じゅわ、と口の中に広がっていくつゆの美味さと言ったらない。
何これすっご。
「あー……美味えぇ。最高だ。染みてるわ……いや沁みるわ……何かが、こう、心に」
「お前、リアクションすげえな……いや、嬉しいけどよ」
「気に入った。名を聞かせてくれ店主」
「だから、なんだよそれ。面白い奴だな本当」
おかしそうに肩を揺らす少女。ひと纏めに縛られた金の髪が少しだけ揺れた。
それから彼女は、俺に向き直ってこう名乗った。
「此香だ。
「俺は
「へえ、じゃああたしとタメなんだ。同い年のひとがお客で来るなんて珍しい。そっか、雲雀の……」
ちょっと柔らかくなった口調で彼女――此香は言った。
それか、なぜかはっとしたように目を見開くと、彼女は続けてこう言った。
「と、とにかくよろしくな、我喜屋! 気に入ってくれたなら嬉しいぜ」
「おう。よろしく、此香」
「いきなり名前呼び!?」
と、此香が狼狽える。そういうの気にしない感じかと思ったけど違ったか。
引かれてたら嫌だなあ、と思いつつ謝る。
「ごめん、嫌だった? 赤垣さんって呼んだほうがいいかな」
「べっ、別に嫌じゃねえよ嫌じゃ! そしたらあたしも未那って呼ぶよ! いいな!?」
「もちろん」
そんな話をしながら、俺たちはどちらからともなく握手を交わした。
俺にとって、新しい友達ができた瞬間である。
美味しいおでんに新しい友人。空間青春率六十パーセントは固いと見える。
これこそが人生。
これこそが青春。
これこそが、俺の求める最高の日々というものだ。
敗走に終わった一日かと思いきや、見事な逆転ホームランと言えよう。
――嗚呼。主役理論、万歳。
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