S-02『湯森さなかと小生意気な少女3』

 ――本当、どうしてこうなった。


 さなかは曖昧な笑みを浮かべながら、状況の不自然さに口角を引き攣らせる。

 なんだろう。まるで、修羅場にでも巻き込まれてしまったかのような状況ではないか。

 一応は惚れた相手である男が今、目の前でふたりの女性に囲まれ、しかも責められている。さなかはその、完全に蚊帳の外に置かれてしまっていた。


「――いったいどういうことなんですか、お兄さんっ!」

「いや、どういうことって訊かれてもさあ……」

「まったく。なんなの、この男。いやマジで。こんな小さな子まで誑かして」

「あの、人聞きの悪いこと言わないでもらっていいかな……?」


 でも、なんだろう。まったく悔しいとは思わない。

 ていうか、できれば帰らせてほしかった。

 さなかは恨みを込めた視線を、この状況を作り出した真矢にプレゼントする。

 当の真矢はどこ吹く風。いっそ憎たらしいぐらい面白そうな視線でこちらを見ている。

 ほんとにもう。


 いや、確かにこの状況で、別々の席になるほうが不自然だとは思うけれど。

 正面には未那と流。そして隣には叶。

 この状況で、じゃあわたしにいったいどうしろというのか。さなかにはわからなかった。


「――ど、どどど同棲なんて! この歳で同棲なんてっ! 信じられませんっ!!」


 顔を耳まで真っ赤にして流は叫ぶ。初心な流であった。

 彼女にとって、未那は言ってみれば《憧れのお兄さん》であるわけだ。

 それを、恋とは言わないのだとしても。

 相応に劇的な状況での出会いは流を昂らせていた。こういうたとえは悪いかもしれないが、さなかには、まるでお気に入りの玩具を取られたと喚く子どものように見えていた。

 単純に、流が箱入りだったということもあるのだろう。

 これで世間ずれしておらず、割に潔癖な部分のある少女なのだ。


「そ、そっ、そんなの破廉恥ですっ! 見損ないましたっ!!」

「いや、破廉恥って。別に叶と俺はそういう仲ってわけじゃないんだけど……」

「だったらより悪いじゃないですか――!」

「どうしよう正論!」


 実際、割と言い訳の効かない状況であることは間違いない。

 これは、未那が迂闊だった。なんの気なく、叶と同じ部屋で暮らしていることを、流にまで告げてしまったことが失態だったと言えるだろう。

 責められるようなことではないと思う。未那は当時、流と会ったときに、自分がこの街には引っ越しの下見に来たことを告げてあった。ならば話の流れとして、近況を報告すること自体は当たり前だったのだろう。この場には、未那と叶の同棲を知る者しかいなかったことだし。


 ただ流は、それがどうにも気に喰わなかったらしい。

 かわいらしい嫉妬だ、とさなかは思う。

 困っていたところを優しく助けてくれた《お兄さん》を、自分だけのもののように思いたくなる気持ちが、わからないとは言わなかった。ちょっとした微笑ましい癇癪だ。

 単純に箱入りのお嬢様には、男女の同棲という状況の刺激が強すぎたせいでもある。


「いや、引くわ。いやマジで引くわホント……」


 一方で、叶もこの状況には何やら一家言あるらしい。なんだか不機嫌だ。

 こちらに関しては、さなかも少し意外だった。叶はあまり、そういうことを気にしない人間だと思っていたからだ。

 しかし考えてみればこのふたり、最近ちょっと怪しいと思うのだ。主に先週辺りから。

 いや、さなかだって何も未那と叶が付き合い出したとまでは思わない。ていうかそんなこと思いたくなかった。だってそれ負けだし。

 けれどこのふたりの関係が、ある日を境に唐突に進展したらしいことにも気づいている。


 ――まず下の名前で呼び合うようになったし……。


 高校生にもなって、いくらさなかでもその程度じゃ云々言わないが。それを言うなら、未那とさなかはほとんど初対面から下の名前で呼び合っている。

 だが妙にふたりの在り方が変わったというか、なんだかやけに距離感が近づいたというか。そういう印象を、抱いていないと言えば嘘になる。

 そして叶、今はネチネチと未那をいたぶっている。

 猫を脱ぎ捨てて、割と口さがなくなった叶の本性はとうに見慣れたけれど。

 しかし今は妙に不機嫌だ。こういうことを、彼女は気にしないとさなかは思っていたのだけれど……。


「あのさ。これ、未那のためを思って言うんだけど。こういうの、自覚なしにするのさすがにやめたほうがいいと思うよ。いや本当に」

「なんで俺が説教されてるんだ……?」

「それがわかってないからダメなんだって、わたしは言ってるんだけどなあ」


 そんなこんなで。叶と流が未那を責め続けるという状況が完成していた。

 さなかはもはや何もできない。

 混じろうに混ざりようがなかった。というか、別にさなかは未那を責めたいわけじゃない。

 結果、こうして蚊帳の外に投げ出され、ただ状況を見つめるだけとなっている。


 叶が諦めたように溜息を零したのはそのときだった。


「……はあ。ごめんね――えっと、流ちゃん――で、あってるよね?」

「え。あ、はい。そうです。峯森流です。初めまして……です」

 その言葉に押されて、素直に流は頷きを返した。

 やはり、根本的に《いい子》なのだろう。育ちのよさが滲み出ている。

 自分の怒りが不当なものであることに流は気づいている。だからちょっと落ち着いてしまえば、それ以上は何も言えないのだ。

 さきほどまでのように強気なテンションに身を任せている間はともかく、ちょっとでも冷静になってしまえば、初対面の叶を相手に失礼な態度を取れるような少女ではない。


 まあ、でなければ未那と叶の同棲に、噛みつくこともなかったのだろうが。


「確かに変だよね。そんな、付き合ってるわけでもないのにいっしょに暮らしてるなんて」

 叶は言う。それはさなかのイメージする《友利叶》の姿だった。

 そして流の側は、こういう風に出られてしまえばもう何も返せない。

「あ――いえ。すみませんでした……そんな、事情があるに決まってるのに」

「ん、まあそれはね。わたしたち、元は隣同士の部屋だったんだけど、壁が壊れちゃってね」

「壁が……ですか」


 正確には壊れたのではなく壊したのだが。

 そんな突っ込みをする馬鹿はいない。


「でもほら、ひとり暮らしって割とお金がいるのよ。だから壁が直せなくってさ」

「そう、なんですか……」

「そーなんです。だから仕方なくって感じかな。何も変な意味があるってわけじゃないの」


 そういって軽く片目を瞑ってみせる叶。

 気にしていないし、気にするようなこともないんだよ、と。彼女は態度で示している。


「――あの、すみませんでしたっ!」


 必然、流は頭を下げて叶に謝罪した。

 そう――だ。そうなるように叶が全てを運んでいた。

 場を執り成してみせたのだ。それは責めるようなことではないし、むしろ叶の手腕を褒め称えるべきところだろう、本来ならば。

 だがさなかには、そのがどこか空恐ろしく感じられてならない。

 まるで、全てを読み切っているかのように。叶は場の空気を、流の性格や感情を、全て把握して会話の行く末を操ってみせたからだ。

 それは決して、さなかに真似のできることではない。

 叶は小さく微笑んで言う。


「流って呼んでいい?」

「え? あ、はい。もちろんですっ」

「じゃあ、流。わたしのほうがごめんね? 未那にお礼を言いに来たんだってね? ごめん、邪魔しちゃったよね」

「そんな――」

「それじゃわたしたち、ちょっと外してるからさ」叶は、そこで一瞬だけさなかを見た。「話してて大丈夫だよ。ほら未那、せっかく来てくれたんだから。ちゃんともてなしなよ?」

 言うなり叶は立ち上がり、店の奥のほうに向かっていく。

 さなかは少しだけ考えてから、その背を追うように立ちあがった。

「えーと。それじゃ、わたしたち少し向こうで話してるから。えーと……がんばってね!」

「えっ。あっ――はいっ!!」


 何を応援しているのかは自分でもわからないが。

 それでも、それだけをなんとか言って、さなかもその場から離脱した。

 実際、ふたりきりにさせてやるのが空気の読める行いだろう。さなかにも否はない。


「…………」


 未那が、叶の去っていった方向を、非常に妙な表情で見据えていることには気づきながら。

 それに気づかない振りをして、さなかもまた、叶の背を追って去るのだった。



     ※



「マスター。奥、借りちゃっていいですか?」


 さなかが追いついてきたところで、カウンターの向こうにいる店主に叶は訊ねた。

 ほのか屋の店主は、持ち前の大らかな笑みを浮かべて叶に頷く。


「ん、どうぞどうぞご自由に。気を遣わせちゃって悪いね」

「いえいえ。というかマスターが言うことじゃないと思いますけど」

「ここは僕の店だから。その中で僕が願うことなら、僕が言うことなのさ」

「さすが。マスターは大人ですね」

「そりゃあ、子どもよりは少しだけね」


 子どもよりは、少しだけ大人。

 当たり前のことを言っているようで、なぜか人柄のわかる台詞だ。


「――てわけだから」と、そこで叶はさなかに向き直り。「こっち入っていいってさ、湯森さん」

「え、……と」

「巻き込んじゃったからね――ってわけでもないけど。ちょっと、お話したいなと思って」

「それは、……うん。わたしも、友利さんとはお話してみたいけど」

「今さらだけどね」叶は軽く笑った。「これから、いろいろありそうな気はするし。これ勘だけど」

「……あはは。その理屈は、ちょっとわかんないけど」

「じゃあ、湯森さん」

「うん」

「――女子同士。お話、しよっか?」


 まるでゲームのラスボスと戦う前みたいだ、と。

 なんとなく、さなかはそんなことを思ってしまうのだった。

 無論、負けるつもりはないけれど。



     ※



 従業員用の奥の間。控え室などがある場所だ。

 さなかと叶はその場所までやって来た。


「その先の階段上ると、マスターご夫婦のお家だから。言わなくていいと思うけど、その先には行かないでね」

「ん、りょーかい」


 なんの気なく答えるさなかであったが、内心はどっきどきである。

 いや、別に侵入を予定したとかではなくて。

 単純に、叶と話すことに妙に緊張してしまっていた。さなかにとって、未だに叶は《未那の友人》であって、《さなかの友人》の範疇に入るかと問われれば微妙だった。

 いや、というか入れていない。

 これはおそらく、向こう側からも同じく。

 そのふたりが互いに歩み寄ろうと、少なくともその意志を見せ合っているのだから。

 これで何もないわけがない、という話だった。


「――なんか、ごめんね?」

 と。そんな風に口火を切ったのは叶だった。

 その言葉をごくりと呑み込んで、それからさなかは答える。

「えっと……何が、だろう?」

「んー。いや、騒がしくしちゃったしね」

「今日のことなら別に、友利さんが謝ることじゃないと思う」

「じゃあ、今日以外のことも含めてってことで」叶は薄い笑みを浮かべていた。「わたしと未那のことで、いろいろ迷惑かけてるからね。勝司や葵もそうだけど、特に湯森さんには」

「……そんなことないけど」


 これは、本心だ。嘘や誤魔化しじゃない。

 実際、ふたりの境遇を黙っている、ということに過剰な恩を感じられている嫌いがあった。さなかの主観においては、少なくとも。

 けれどその程度は、負担とさえ呼べないものだと思う。何をしているのでもない。

 さなかが未那と――ひいては叶と付き合っている理由に《友達だから》という以上のものはない。未那は当然、叶だってクラスメイトであることに変わりはない。その中に格差だとか、友達という枠組みに基準だとか、そういったものを設ける気などさなかにはなかった。


 別に、自分が善人だとはさなかも思っていない。だったらあのとき、きっと自分は流に声をかけていたから。

 だとしても、あえて悪人であろうともまたさなかは思っていないのだ。

 友達であるのなら、それが大した負担にならない限り協力するのは当たり前だ。善意悪意の問題ではなく、たとえ打算的に考えたとしても、だってだろう。誰かにいちいち厳しく当たろうとするほうが、むしろエネルギーを消費するとさなかは思う。

 善人かどうかはともかくとして。

 少なくとも、そう振る舞っているほうが楽なことに間違いはなかった。

 厳しさを優しさと称することがあるのも、きっとその辺りが理由なのだろう。


 世界は偽善で回っている。

 それを、ことさら言い立てるほうが間違いだとさなかは思っていた。


「そんなこと、あると思うけど」

 果たして、さなかの返答をいったいどう受け止めたのか。

 叶はそんな風に呟いて微笑した。

「ま、でも湯森さんがそう言うならいいけどさ」

「どういう……」

「なんでも。一応、でも、感謝はしているってことは伝えておこうと思って。申し訳ないと、思ってるってことも。一応ね」


 を強調して叶は言う。さなかにはもう答える言葉がない。

 だから答えられずにいたところで、叶はふっと笑うと力を抜くようにこう言った。


「ま、いいか、この話は。――それより、湯森さん」

「……何、かな?」

「わたしのことは叶でいいよ。そのほうが気楽だと思うし」

「それは……まあ、そっか。じゃあわたしのことも、できれば下の名前で呼んでほしいんだけど」

「そうしよっか。うん、これからいろいろ、話すこともあるだろうしね」

「…………」

「一応、それと――これだけは言っておくけどさ。いや、言いたくないんだけど」


 そう言うなり、叶は少しだけ言い淀むように顔を伏せた。

 さなかが続く言葉を待っていると、少しあってから叶は気楽そうに言う。


「わたしと未那は、本当になんでもないから」

「……それは」

「いや、単に強調としてね。ヘンな勘違いされてるとはわたしも思ってないけど、改めて口にしておくことには、意味があるかな、と思って」

「そう……かな」

「ま、さっきの子はわからないけどね?」叶は店の側の壁に視線を向けた。「ずいぶん未那に懐いてるみたいだし」

「……だね」と、さなかも笑う。「ずいぶん未那のこと気に入ってるみたいだったし。まあ、別に好きになったとかってわけじゃないみたいだけど」

「ま、だったら怒らないでしょうしね、あそこで。あそこまで」

「あはは……まあ、未那だからね」

「未那だからなあ……騙されてコロッと行っちゃう可能性、そんなに低くはなさそうだよね」

「騙されて、って」

「そんなようなもんでしょ、実際。まあ恋愛なんて、基本的にはそんなもんだと思うけどね、わたしは。騙し合い――っていうか騙され合い? お互い、酔ってるほうが気分いいし」

「……冷めてるんだね、叶は」

「醒めてるだけだよ」


 という言葉のニュアンスが、果たして音の上でさなかに届いたかはともかくとして。

 さなかは思う。どうも、叶はこの手の話はあまり好きではないらしい、と。


「……わたしの哲学は、そういうのだからさ」


 いろいろと、思うところがないわけではない。

 ただ、さなかはきっと、これから叶とは仲よくなれるはずだと。根拠もなくそう思った。

 単にさなかの側が叶を気に入っただけかもしれない。彼女の言うことは曖昧で、大事な部分を隠しているようで、どうにも理解しづらいものだったけれど。

 それでも、きっと本心で語ってくれていることは間違いなかったから。

 だからさなかは、叶を嫌いにはなれないのだ。

 友達になりたいと――そう思ってしまうのだろう。


「そろそろ戻るね。バイトでもないのに、あんまりここにいれないし」

「ん。あっちも話はさすがについてるだろうしね。先行ってて」

「そうする」


 さなかは頷いて休憩室を出た。

 なんだろう。あまり言葉にはしづらいが、それでも有意義な一日になったと思っていた。

 何かがあったわけではない。ただ、何もなかったわけでもなく。

 言うなればあの日、未那が言っていたようなことだとさなかは思った。こうして今日、この店に来たという気紛れが、その《何か》とさなかを引き会わせてくれたのだとするのなら。

 それは確かに素晴らしいことだと思う。

 この一日は、だって少なくとも、ただ休日を家で過ごすだけでは手に入らなかったから。


 ――もう少しだけ、積極的になってみよう。


 そんな決意を、改めてさなかに抱かせるくらいには、確かに有意義な一日だった。

 だからさなかは店内に戻って、ふたりに向かって笑顔で声をかける。

 青春は短いのだ。一瞬たりとも無駄にしていい時間はない。自分から積極的に追い求めなければ、手に入らないものがきっとある。


 それを見てみたいと、さなかは思った。



     ※



 さなかが去った部屋にひとり残って、叶は思う。

 あの日。叶と、未那と、さなかと勝司との四人で出かけた日。

 ――あのとき叶は気づいたのだ。

 それが間違っているとは思っていない。決して正しいとは自惚れないが、まず外していないだろうという自身がある。こういうことは当事者より、傍観者のほうが察しがいいものだ。


 それを思うのなら、叶はきっとさなかに対して不義理なのだろう。

 だけど、もう決めてしまったから。未那と友達になることを受け入れてしまったから。

 もう今さら、なかったことにはできない。始まってしまったものをゼロにはできないのだと突きつけられてしまった以上は。


「――気づかないでいられたほうが、楽だったのかもしれないけどね……」


 友利叶は脇役だ。脇役哲学を掲げている。

 だから叶はその事情に、積極的には介入しない。気づかない振りをするのがいちばんいい。

 ゆえに、この場で叶が脇役として願うことはひとつだけ。

 できればその事実に、責任を持ちたくない。関わり合いになりたくない。

 責任が取れないことならば、初めから関わらないこと以上の方策などないのだから。


「……ばーか」


 小さく零されたその言葉を聞く人間はなく。

 しばらくあってから、叶もまたさなかを追って店舗へと戻るのだった――。

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