S-02『湯森さなかと小生意気な少女1』

 ――湯森ゆもりさなかは凡人だ。

 少なくとも、自らをそう定義して認識している。


 ただし。ここで言う《凡人》とは、その能力が平均的で目立つところがない、という意味合いではなかった。何が得意とか何が苦手とか、そういった価値観のことではないのだ。

 彼女の思う《凡人》とは、つまりが生き方の問題である。

 ごく普通に生まれ、ごく普通に育つ。それは主役でも脇役でもなく、しいて言うなればモブが近い。彼女は常に《大多数》という枠組みの中で生きている。

 そのことを、悪いと思ったことは一度もなかった。

 人間、普通に生きているだけで、楽しいことや素晴らしいことにはそれなりに巡り合うものだ。当然、山があれば谷もあって、つらいことや苦しいことに苛まれることもあるだろう。


 それが当たり前だ。

 それで普通なのだ。

 だから、少女はそれでいいと考えていた。


《普通》という枠組みから抜け出すのは、これで思いのほか難しい。

 そりゃあ、生きていれば突飛な事態に遭遇することもある。ほかの人間はそうそう得られない経験を得ることもあるだろうし、普通なら就かないだろう仕事をするかもしれない。

 ただ、その程度のは、むしろあって普通のものなのだ。

 ほんの少し普通ではない経験をしたからといって、その人にとって特別と思えるようなことが人生に起こったからといって、その程度では結果的に《普通》の枠組みからは出ない。

 それを、彼女は凡人と呼んでいる。


 どうしようもないことなのだと思っていた。

 その偏差は生まれたときから定められてしまっているもので、意志や努力などではどうにもならないのだと。というか、そもそもわざわざ普通からはみ出る理由がないのだと。

 だから少女は、自らの平凡さを嘆いてみせながらも、同時にどこかに満足があった。


 ――ある冬の日に。

 凡人でありながら主役を目指す、おかしな少年とさえ出会わなければ。



     ※



「……しっかし、常連になったものだね、さなかも」


 そう気楽に口火を切ったのは、喫茶《ほのか屋》のアルバイト店員である大学生の女性――瀬上せがみ真矢まやである。

 すでに常連客として認められたさなかは、必然的に真矢と顔を合わせる機会も多くなる。元より真矢は気のいい性格だから、同僚である未那みなかなえの共通の知り合いともなれば、こうして積極的に話しかけてくれるのだ。

 たとえ、今日のようにふたりともシフトに入っていないときであっても。


 四月の下旬。さなかがほのか屋に通い詰めるようになって、まだひと月も経っていない。

 だから真矢との交流もひと月未満――実時間で言うなら一日もないだろう。それでも、こうして親しくしてもらっていることは、さなかにとってもひとつの収穫だった。


 ――カッコいいもんなあ、真矢さん……。


 さなかはそんな風に思っている。

 少女にとって、真矢はいわば憧れの女性の体現だったのだ。気立てがよくて、竹を割ったように話しやすく明るい性格で、制服姿も様になっていて……とても格好いい。

 だから、これで明るい割に意外と人見知りをするさなかでも、気兼ねなく答えられるのだろう。


「ここのコーヒー、とても美味しいですからね! ハマっちゃいました」


 笑顔で応じるさなか。実際、それは嘘ではないのだ。

 嘘では。

 けれど本当にそれだけが理由かと訊かれれば、答えを是とはできないだろう。

 第一、そんな少女の秘めたる思いは、年上の真矢から見ればあからさまに丸裸であって。


「だからって、通うにはちょっと懐が痛いんじゃないの、この店。高校生には」

「あはは……まあ正直、否定はできないです」


 お安いチェーン店というわけではないのだ、ほのか屋は。どちらかといえば畏まった、しっかりとしたお店である。

 コーヒー一杯とはいっても、高校生の懐事情を考えればダメージは決して小さくなかった。

 にもかかわらず、こうしてさなかが週に二、三度ほどのペースで通い詰める理由があるのだとすれば、それは。


「……で? 実際どうなの、進歩のほうは」

「進歩……ですか?」

 真矢の問いに、さなかは首を傾げる。

 一方の真矢は悪戯っぽい笑みを浮かべて、さなかの急所を射抜くのだ。

「そりゃもちろん――未那とはどこまで進んだのか、って話さ」

「――――~~~~っ!?」

 慌てるあまり、思わず噎せ返ってしまうさなかだった。会話の最中だったから、コーヒーを口に含んでいなかったことだけが救いだろうか。

 けれど、そんな語るに落ちるも限度があろうというリアクションで、まさか真矢を誤魔化せるはずもなく。明々白々の恋心に、人生の先達は口元を歪めるのだった。


「おいおい。いくらなんでも慌てすぎだろう?」

「な、だ――だって、真矢さんが急にヘンなこと言うから……っ!」

「ここまで通い詰めておいて、まさか理由がないとは言わないでしょう。そのくらい、見てれば普通にわかるっての」

「……そ、そんなにわかりやすいですかね、わたし?」


 ――湯森さなかは、我喜屋未那に恋をしている。


 口にするには恥じらいが強く、秘めておくには想いが強く。

 自分でだって、どう扱えばいいのかわからない気持ちなのだから。見る人が見れば、筒抜けになっていてもおかしくはないのだろう、とは思う。

 といっても、そこまであからさまにしているつもりは、少なくともさなかにはないのだ。

 一目惚れと称するのは、なんだか少し違うけれど。それでも近いものではあって。降って湧いたようなその感情に、さなかはまだ名前をつけることができていない。


「いいや? もっとわかりやすくないと、本当はダメなくらいだろうね」


 そんな乙女の思惑を、理解しているのか真矢は言う。

 そのひと言だけで《もしかして真矢さんは経験豊富なのかな……っ》と思うさなかの初心さはひとまず措くとしても、さなかの恋愛的な経験値の低さが課題であるのは事実だった。

 告白をされる側としての経験は、自分では言いづらいけれど、決して少ないほうではないと思うのだ。

 だが翻って、する側としての経験は完全にゼロ。そもそもさなかは、恋というものを経験したことがないのだから。


「えっと……一応、アプローチとは言わないまでも……積極的に話すようにはしてる、つもりなんですけど……」


 少し考えてから、さなかは真矢にそう言った。バレてしまっている以上、なら逆にアドバイスを乞うほうがお得と考えたのだ。なんだかな雰囲気だし。

 実際、彼女の恋の進歩が著しく停滞していることも事実だった。

 友達にはなったけれど、それ以上に進める気がしない。何より高いハードルというか、強大すぎる壁というか、……むしろ壁がなくなったせいでというか。

 想像だにしないライバルが存在しているのだから。


 そんなさなかの言葉を、真矢は真正面から容赦なく切って捨てた。


「ぜんぜん足りてないっつーの」

「うっ」呻くさなか。「そ、そんなにダメですか……」

「そりゃそうでしょうよ」真矢は容赦がない。「まずなんで今日来るわけ? 未那どころか叶すらシフトに入ってないのに。本当にただのお客さんじゃないの。私は嬉しいけどさ」

「……それは、だって……シフトとか聞いてないので」

「聞け。それは聞け。おバカさんか」


 手加減ゼロの真矢であった。

 うっ、と胸を言葉の刃物で抉られるさなか。

 考えがあってのことではあるのだが。


「だ、だって、未那がいるときばっかり来てたら、あからさますぎるじゃないですか……叶さんだっているのに!」

「……まさかとは思うけど。だから、わざと確認してないとは言わないよね?」

「そ、そうですけど……会えたらラッキー、みたいな。会えなくてもカモフラージュになるかな、みたいな……」

「おバカ」

「二回言われた……」


 さすがのさなかも少し落ち込む。

 いや、真矢がさなかを思ってアドバイスしてくれているのはわかるから、嫌な気分になるわけじゃないのだけれど。


「だ、だって、そんな未那がいる日ばっかり来たら露骨だし……」

「露骨にアプローチかけなくてどうするのよ。未那のことだから本当にただこの店を気に入ってるだけだと思うよ?」

「ダメですか……」

「アピールになってないじゃない。あいつ、叶の影響もあるだろうけど、あれでかなり趣味人だからね。同好の士ができたとは思っても、自分に会いに来てるとは欠片も思わないよ。バカだから」

「あぅあー……」


 しかし、目に浮かぶようでもあった。

 聞いた話、バイトの募集もしていなかったこの店に、惚れこむ形で『働かせてほしい』と言い放った未那である。彼から見れば、さなかも同じくこの店が気に入っただけと考えるほうがむしろ自然なのだろう。

 さなか自身が、わざわざひとりで来てしまっているのだから。

 ほのか屋を気に入っていること自体は事実だが、少なくとも気になる男子へのアピールとしてはまるで成立していない。本末転倒、というか自縄自縛だった。むしろ自爆か。


「ていうか、別にそんなことで引くような男いないって」

 真矢は少し雰囲気を変え、優しく言った。思っていた以上に、さなかが奥手であることを察したのだろう。

 さなかは不安げに、小動物のような視線で真矢を見上げる。

「そ、そうですか……?」

 こんだけモノがよくてどうしてこう育ったのだろう。真矢には疑問しか浮かばなかった。

 容貌、という要素が人生に与える影響はよくも悪くも大きい。それは特に若いほど顕著だ。

 真矢の見る限り、さなかは充分すぎるほど素材はいいのだ。それを台無しにするような特性も持っていない。この手の少女は、だからこの年齢にもなれば、普通は相応に恋愛慣れしているものなのである。

 こんなに残念には、まず育たないはずだ。

「そうそう」とはいえ育ってしまったものは仕方ない、と真矢は続ける。「男なんて単純なんだから。積極的すぎるくらいにアピールしとけば、向こうからコロッと落ちるもんだよ? 本当は違っても、何回か通ってれば、『もしかして俺に会いに来てる?』くらいの勘違いはするのがこの年齢の男子ってもんだ」

「はあ……なるほど」


 考えてもみなかった、という表情のさなか。

 嘘でしょ、と心だけで真矢は涙する。年頃の少女とは思えない。


「それが恋の駆け引きってヤツなんですね……!」

「……いや。そこまでのことはまったく言ってないけれど……」

「ど、どうすればいいですかね、わたしっ!?」


 どうやらさなかは、真矢を恋愛の師匠とでも見定めてしまったらしい。爛々と輝かせた目で見上げていた。

 正直、真矢だって人並み程度にしか経験はないのだが。

 あと惚れた相手も相手だ。真矢の見る限り、未那は単純なようでいておそらく相当にタイプの男である。叶という存在もあることだし。


「……難しいのはわかるけどねえ。未那と叶の関係となると、正直あたしにもよくわからないレベルだから」

「ですよね……ていうか、どう考えてもおかしいですよね、あのふたりっ!!」


 ヒートアップしてくるさなかだった。

 対照的に、真矢がクールダウンしつつあることにはあまり気づいていない。


「なんかヤケに仲いいですし、そのくせ好き合ってはいないっていうし。実際かなりケンカしてるし! なのにいっしょに暮らしてるし! ていうか同居って。同棲って! 何がどうすればそうなるんですかっ!!」

「確かにわかんないけどね……」


 真矢の見る限り、あれはもう男女がどうこうという関係を超越してしまっている。

 この歳でそこに行き着くのはそう滅多にないことだ。

 ただ真矢は、未那と叶の関係を、少なくともあまりいいものだとは見なしていなかった。

 いや、悪いと言っているわけではない。問題があるとすれば、そこに行き着いてしまうだけの過程を一切踏んでいないこと――全てを吹き飛ばしてそこに至ってしまったことだ。

 その関係は――おそらく、だ。


 とはいえ、そんなことをさなかに語ってもしょうがない。

 というかそれも真矢の勝手な想像だ。案外あのふたりは本当になんの問題もなく、上手いこと関係を続けていく可能性もある。

 だから真矢は、いろいろと迷った末に、ありがちなアドバイスをするに留めておいた。


「仲いいんでしょ、普通に。デートにでも誘って、いいところで告白すればいいじゃない。恋愛なんてそんなもんでしょう」

「いや、ハードル高すぎますよ!」

「これでハードル高いならもう何やってもダメだよ……」

「そんなにですか!?」


 面白いし、微笑ましい関係だとは思う。ただ真矢は、あまり介入するべきではないとも考えていた。

 さなかに肩入れするのも最低限だ。そこに、影響力を持つべきではない、と思っている。

 というかこれ以上一体何を言えばいいんだという話でもあって。


 ――来客があったのは、ちょうどそんなときだった。


 りん、と涼やかな音が鳴った。扉に備えられたベルが響いたのだ。

 さなかも真矢も、自然とそちらに視線を向ける。そして、少しだけ驚いた。

 それが、珍しい客層だったからだ。

 背が低い。というか、どう見ても幼い。おそらく中学生くらいと思われる少女だった。この店の客層を思えば、年齢としてはさなかがほとんど下限なのだから。この年代の女の子が、それもひとりで足を運ぶとなれば珍しさは否定できない。

 最近は未那や叶なんかもいたが、あれは人種としては基本的に例外だろう。


 珍しいな、と思いつつも知らない相手だ。さなかはすぐ視線を切った。

 一方、真矢はそちらに近づいていく。来客なのだから当たり前ではあったが、どうもそれだけではないようだった。


「いらっしゃい。――久し振りだね」

「あ……覚えててくださったんですね、真矢お姉さん!」

「まあ、衝撃的と言えば衝撃的な事件だったからね」

「あはは……その節はお世話になりましたっ」


 ――おや、と再びさなかはそちらへ視線を向けた。

 流れてくる話し振りを聞くに、どうやら真矢と来客の少女は知り合いらしかったからだ。

 改めてさなかは、遠目にその少女を見る。

 してみるとずいぶんかわいらしい少女だった。地味な色味の、大人しくも愛らしいワンピースの装い。それは年齢を鑑みれば少し大人びているけれど、すらりと細い体にずいぶん似合っている。あえて悪い言い方をすれば、その少女は自分をことに長けていると言っていい。

 しかし、それはよく言えばセンスがあるということだ。これでもう少し派手な見た目なら、キッズモデルなんかをやっていてもおかしくないと思う。

 ただ受ける印象としては実に楚々としている。

 深窓の令嬢、の幼い時分――とでもいうような雰囲気か。ツーサイドアップの髪型と、明るい表情が装いの印象を裏切っているが、全体としてはバランスが取れていた。


 なんて、そこまで観察してしまったことには理由があって。

 なぜだろう、とさなかは首を傾げてみる。

 よくよく見ていると、どうしてかその少女に見覚えがあるような気がしたのだ。

 だがどこで見たのかは思い出せない。有名人とか、そういうことではないような気がするのだが、かといって知り合いにヒットするわけでもなく。

 遠巻きからなんとなく窺っていたところに、真矢とその少女の会話が届く。


「今日は、お礼を言いにきたんですっ」


 少女は言った。

 なんだか育ちはよさそうな少女だ。


「……あのときは本当にお世話になりました。ありがとうございましたっ」

「いや、たまたまだよ。ウチの常連だったからってだけさ」

「いえっ、それでも助けていただいたことに変わりはないですから。本当はお礼の品を持ってこようと思ったんですけれど……」

「そこまでするこたないよ」

「そう言われちゃうかなって思ったので、少しですが、売り上げに貢献しに来ました! まあお祖父ちゃんに貰ったお小遣いくらいなんですけど」


 ――ん、んん?

 と、さなかは首を捻る。

 なんだろう、やはりこの少女には確かに覚えがある気がしてきた。

 そんなさなかの目の前で、少女と真矢の会話は続く。


「そうか。もうこっちに来てるんだね」

「はいっ! 新しい学校にも慣れてきたところです。もう迷子にはならないですよー」


 ――迷子……?

 次第に、埋もれていた記憶が浮かび上がってくる。


「それで……なんですけど。あの、お訊ねしたいことがありまして」

 少女は言った。

 わかっていたように真矢は応じる。

「……だと思った。本命はそっちだね?」

「あ、いえ。そんな……ただ、お兄さんのいる場所、わからなくって。もしかしたら真矢さんならご存知なんじゃないかな、と」

「なら喜んでいいよ」


 真矢は言った。たださなかには、その前に少女が言った《お兄さん》という表現が引っかかっている。

 あるいは、もう思い出していたのか。それとも恋する乙女の直感だったのか。

 の存在を、このときさなかは、自然と察知していたのかもしれない。


 果たして。

 真矢は告げる。


「未那なら、今じゃこの店の店員だよ」


 その言葉に、色めき立ったように目を輝かせる少女。


「お兄さんが! そうなんですかっ!!」


 その言葉に、がたりと席をたつ少女。


「あ、あのときの……っ!」


 かつて、さなかが初めてこの街で未那を見かけたとき。

 彼が助けた迷子の女の子。

 思い出した。この少女はあのときの迷子なのだと。


 ただ、そんな大きなリアクションは、さすがに筒抜けになってしまい。

 ――あっ、と焦るも束の間。

 なんだか妙な表情で天井を仰ぐ真矢と、睨むようにさなかを見据える少女の姿が目に飛び込んできた。


「……真矢さん」


 と、少女が言う。

 さきほどまでとは明白に違う、どこか尖ったような声音で。

 まるで終生の仇を見つけたかの如き雰囲気を纏って。




「――誰ですか、あの女?」




 さなかは震えた。底冷えのする声だった。

 そして、同時に悟ったのだ。これで恋愛面を抜きにすれば、さなかは知り合いの多いタイプではある。経験豊富なのだ。

 その直感が伝えていた。

 こういう女は、集団にひとりはいるものだから。


 ――つまるところ。

 この少女は、たぶんとんでもない猫被りに違いない――。

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