1-19『そして何も言えなくなった9』
楽しい一日だった、と思う。ああいった、勝司との会話まで含めてだ。
友人同士、腹を割って話すことができれば、それだけ関係は深いものとなる。
ある種、そういう儀式なのだと言ってもいい。会話という行為を、情報の提示、交換であると定義するのなら、その内容が話者の
わたしはあなたにこれだけのことを話しています。つまり、それだけわたしはあなたを信頼しているということです。
なるほど、わかりました。あなたがそれほどわたしを信頼してくださっているのなら、わたしからもその分、あなたに応えることにしましょう。
そういう意志を、お互いに提示し合っているのだと言うことができた。
もちろんそれは無意識下での話だ。会話をしている人間が、実際にそこまで考えているかと問われれば、答えはまず否であろう。
信用が理性に起因するものだとしても、信頼は違う。それは感情から発露されるものであるべきだ。
少なくとも、俺はそう思っていた。
――かといってだ、未那。それを、相手のことを考えないということが、必ずしも真摯で紳士的な行為かと問われれば、それは違うんだ。その点を誤解してはいけないぜ?
かつて旧友はそう言った。主役理論を、ふたりで構築していたときのことだ。
――ぼくらが誰かと対峙しているときに、仮面を被って計算を働かせることは決して不義理じゃない。そんなことは多かれ少なかれ、たとえ無意識下であっても誰だってやっている。当たり前の話なんだ。負い目を感じるなんて間違いだし、むしろ思考を停止させることのほうが、相手に対して真剣じゃないと詰られるべき態度さ。ぼくはそう心得るね。
奴の言っていることはいつだって難しかったが、その論は珍しく俺を納得させた。
考えて生きるということは、たぶん、そういうことだと思う。
だから。
だからといって。
そのとき俺が考えていたことの答え合わせは、必ずしもその場では行われない。
たとえ正答していたところで、それに対して適切な行動を取れるとも限らないし、気づいたときにはすでに遅かったということもあり得る。
俺はこのとき、とっくに気がついてはいたのだった。
そして、その意味がわからなかったわけでもない。完全な正当とまでは言えなくとも、大筋を外してはいなかっただろう。その答え合わせは、確かに行われたのだから。
つまるところ――今日の友利はずっとおかしかったということ。
普段とは違う。いや、俺から見て普段通りであったことが、たぶん最もおかしかった。
それは、俺がほかの人間より友利のことを理解しているから、なんて話じゃない。
俺はむしろ何もわかっていなかった。友利のことも、彼女が信奉する脇役哲学についても。
友利は普段通りだった。
俺から見て普段通りだということは、つまりさなかや勝司から見ればいつもと違っているということだ。
学校での友利は、少なくとも自分の素を見せるようなことをほとんどしない。いつだって猫を――仮面を被って暮らしている。
だが今日は違った。ほのか屋ですらほとんど見せていない、あのかんな荘にいるときと変わらない《友利叶》で通している。外向けに見せている《友利叶》ではなく。
そのほうが、俺としては確かに気楽だ。
俺にとっての《友利叶》は、口が悪く、趣味は合っても考えは合わず、怠惰でものぐさな性格で、夜が遅く、朝に弱く、興味のあることに対し全力で、自分ひとりが楽しむための努力を惜しまず、その分だけ、周囲との人間に没交渉であろうとしている。
自分の時間を、自分の裁量で使うことに重きを置いている。
そんな素を周囲にも見せ始めたというのなら、それは本来、仲よくなったとか、周りに心を開き始めたとか、そんな感じに称される変化だろう。
信頼を、形にして提示したと。
今日、こうして参加していること自体が、思えばおかしいことだったのかもしれない。
普段の友利なら、誰かに呼ばれて休日を潰されるなんてことは最も厭う事態だ。買いたいものがあって、そのついでだから来たのだと俺は納得していたが、おそらく友利はそんな風には考えないはずだ。
誘ったのが俺である以上、断っても角が立たない。
ならば、友利には断る選択肢があったということ。
午後になって、四人で服屋を巡っているときのことだった。
友利に声をかけられた。
「ごめん。わたしほかに寄りたいとこあるから、ちょっと外す」
「……友利?」
俺は、その実に友利叶らしい言葉に、首を傾げざるを得ない。
今日の友利はずっとそうだ。自分の主張を強く前面に持ち出してくる。
脇役どころか、ひとつ間違えば悪役、敵役になってしまいかねない行動だった。そんな選択肢を、友利は意図的に採らないようにしていると思っていた。
脇役哲学を捨ててしまったとも、俺の当初の目的通り主役理論に目覚めたとも思えないけれど。
だとするなら、やはり友利の行動に、俺は違和感しか覚えない。
――これでは、まるであのときのようだ。
初めて会ったとき、俺を切り捨てて教室から出て行こうとしたときの友利に似ている。
「あとでちゃんと合流はするから」友利は言う。「ふたりにもそう言っといて。もしなんかあったら、そのときは連絡してくれればいいからさ」
「……わかった」
と、俺はそう答えた。答えざるを得なかったから、とも言える。
それを押し留める言葉も、事情を訊ねる言葉も、まして非難する言葉など。俺は、何も持ってはいないのだから。友利は何ひとつ悪いことなどしていない。
「――未那?」
と、そのとき背後から声をかけられたこともあった。
振り返ると、棚にあった服のひとつを持ったさなかが、きょとんと首を傾げている。
「どうかしたの?」
「ん? いや、別にどうも――それ買うの?」
どこか誤魔化すみたいに俺は言う。さなかは小さく微笑んでから、持っていたシャツを自分に当てた。それから、ちょっと恥じらうようにしつつ問う。
「んー、迷い中だけど。どうかな、未那? その、似合う……かな?」
「似合うと思うよ。かわいい」
実際そう思ったから、思った通りに俺は答える。
その様子を見届けるようにしてから、友利はすっと店を出て行った。さなかがその背を遠くに眺めつつ、少し困ったように首を傾げた。
「……どうかしたの、友利さん?」
「いや。なんか、お手洗いとかじゃないかな」
そうではないことを知っていて、俺はそう答えていた。
今し方、さなかを褒めたときと同じように。嘘も本心も、その両方が自然に零れる。
「そっかー。あ、わたしちょっと試着してくるね?」
特に違和感もなかったのだろう。さなかはあっさりと納得して言った。
俺は笑って答える。俺の目指す主役が、きっとそうあるだろうと信じるように。
「ん。行ってらっしゃい」
「覗いちゃダメだぞー、未那」
「……それは振り?」
「違うよ!? うあー、もう、言わなきゃよかったよ……恥ずかしい」
恥じらいながら試着室へと向かっていくさなかを、俺は小さく笑いながら見送った。
――結局、さなかはその服を購入したようだ。
勝司も含めて三人で、その後、いくつかの店舗を物色して回る。小一時間くらいだっただろうか。
その間、友利がどこかへ消えていたことは、俺がなんとか誤魔化した。
再び友利と合流した段階で、時間で言えば午後三時を回っていた。
解散にはまだ少し早いだろうということで、今度は喫茶店に入って時間を潰すことに。
楽しくお喋りをした。
それは学校の授業の話だったり、あるいは友人関係のことだったり。部活に入っているさなかや勝司の話を聞いて、代わりにバイトや独り暮らしのことを語った。好きな芸能人は誰かとか、このところ評判になっている映画は観に行ったかとか。趣味の話もしたし、趣味ではないことの話もした。
なんでもない会話。益体もない雑談。その全てが、俺には新鮮に輝いて見えていた。
そんな雑談のひとつひとつを、俺は自分で掴み取ったものであるのだと誇りに思った。
これまで想像すらつかなかった世界に今、我喜屋未那が立っているということの意味を考えた。
主役理論は、俺が奴と考えた在り方は、こうして確かに実を結んだのだ。
――その間。
けれど友利は、ほとんど口を開こうとすらしなかった。
そんなことがあって俺たちは解散した。
駅まで戻ったところで続いて、電車の方向が違う勝司とも別れた。
「ちゃんと叶ちゃんを送ってってやれよ?」などと言わなくてもいい冗談を言った勝司の肩を、俺は小突く。
旧友の言葉を、俺は思い出していた。
たとえ俺が全てを上手くこなしたとしても、それだけでは俺の目的は叶わない。
なるほど、確かに奴の言う通りだ。
だとするなら、俺は友人に恵まれた。
その幸運だけは、確かに努力では掴めないものなのかもしれない。《自分の周りの世界》というものが、自分次第でいくらでも、その範囲を変えるものだったとしても。
電車に乗って自宅へと戻る。
当然、その間もずっと友利とはいっしょだ。
もちろんさなかも。
電車に乗っている間、俺はずっとさなかと話していた。
今日は楽しかったとか、途中で寄った喫茶店はなかなか美味しかったとか、だけどほのか屋だって負けてはいないとか、また家にも遊びに来てほしいとか、さなかの家もちょっと見てみたいとか、さすがに男の子はおいそれと呼べないよとか、コーヒーを作るのが美味くなったらご馳走しようとか、葵のオススメの店も今度は巡ってみようとか――また、いっしょに遊びに行こうとか。
そんなことを話していた。
そして、やはり友利が入ってくることはなかった。
駅に着いたところで、「わたし自転車だから、今日はこの辺で」とさなかが言った。
俺は頷いて答え、今日の礼を再び告げる。
「ん、付き合ってくれてありがと。今日は楽しかったよ」
「わたしも」と、さなかは笑う。「実はあんまり、男子と遊びに行ったことなかったりして。うん、だからちょっと新鮮でした」
「そうなの? それは……ちょっと意外、なような、そうでもないような」
「わたし、別に遊んでるタイプじゃないと思うんだけどなー」
「そうは言わないけど。でもほら、普通にモテそうだし。明るいしね。友達多そう」
「んんー? まあ、結構モテるのは否定しませんよ?」
「わー、ヤな奴だ」
「あっはは、冗談冗談。……ていうか、未那だって結構モテるんじゃないの?」
「残念ながら、これまで彼女なんていたことないんだよね」
「へえ……ちょっと意外、かも」
そう言ってもらえるのなら、変わった甲斐はあったのかもしれない。
「じゃあ、やっぱり彼女とか欲しい?」
「そりゃね」問いに、俺は軽く肩を竦めた。「まあ今のまんまじゃ難しいかもだけど。別の女と同棲してる男って。もうその時点でハードル高いじゃん」
「そういう言い方をすれば、そうかもね。でも、みんな知らないし」
「まあ、かもだけど。できるとなったら黙ってはられないじゃん、さすがに。なんなら、それだけで振られかねないと思うよね。俺も逆の立場だったら微妙に思うし、たぶん」
「……わたしは」と、さなかはどこか遠くを見て言った。「あんまり、気にしないけど」
俺は笑った。
「さなかはいい奴だなあ……」
「……いい奴でも、そんなに、ないんだけどね」
「そう?」
「……うん。あ、それじゃわたし、あっちに自転車停めてるから、またね! 友利さんも今日はありがとう!」
そう言って、さなかは笑顔で、手を振って去っていった。
その背が完全に見えなくなるまで見送ってから、俺は小さく言葉を作る。
「……んじゃ、帰るか」
俺は友利のほうを見なかったが、友利以外に言ったわけではないことは明白だろう。
友利は、やはり――何を答えることもしなかった。
自宅に戻って、夕食を別々に食べて、それから眠った。
それなりに疲れてはいたけれど、日曜日は朝からバイトだ。目覚ましのアラームに叩き起こされて、俺は一日を開始する。
まだ眠っているらしい友利の分の朝食も用意して、それからバイトに向かった。
今日は十時から十六時まで六時間のシフト。夕方から入る真矢さんと交替して、家に戻った。
かんな荘の前まで来ると、ちょうどどこかへ出かける様子の瑠璃さんに、ばったり遭遇した。
なんだか久し振りに会ったような気がしたが、それは気のせいでしかなかった。
「――あ、未那くん」
「こんばんは、瑠璃さん。お出かけですか?」
そう訊ねた俺に、瑠璃さんは「あ、うん。ちょっとスーパーにね」と頷き、けれどそのまま、俺の顔をまっすぐに見つめ続けた。
俺は、さらに重ねて訊ねる。
「どうかしましたか?」
「……いや。ごめん、なんでもない。たぶん、わたしが口出すことじゃないからね」
「そうですか……まあ、なんのことなのかわかりませんけれど」
「ふたりで決めたことにわたしは従うよ」
わからないと告げた俺に、それでも瑠璃さんは言葉を続ける。
それはまるで、俺がわかっていることをわかっているかのようだった。
「いくらでも相談してね。そのときは、わたしがいいようにしてあげるから」
「……そうですか。ありがとうございます、瑠璃さん」
「それじゃ」
瑠璃さんはそう言って、かんな荘の敷地を出て行った。
俺もそのまま部屋に向かうとしたが、その直前で背中から声がかかる。
「――ちゃんと、お話してね」
俺は何も答えずに、聞こえなかった振りをして、かんな荘一〇二号室の鍵を開く。
扉を引いて、真っ暗な部屋の中へと入った。
想像していた通りの光景を、目にするために。
一〇二号室と一〇三号室を仕切っていた境界。
その場所にかつてあった壁。
――それが、再び元に戻っていた。
壁が作り直されていたのだ。
ベニヤ板を立て、適当に工具で留めただけの粗末な構造。破ろうと思えば、最初のときより遥かに簡単に破壊できるだろう。ほとんど応急処置のレベルだ。たぶん音も通るし、むしろ向こう側に気づかれずに行動するほうが難しいかもしれなかった。
それでも、仕切りがあるとないとでは大きく違う。
俺は電気をつけ、靴を脱いで、部屋に入った。
元の状態に戻っただけなのに、以前よりずっと狭く感じられてしまう。きっと、広い状態に慣れ過ぎただけの話だろうけれど。
掘っ建てられたベニヤ壁。
あって当たり前の、部屋の仕切り。
その真ん中に、安全ピンで一枚のメモが留められていることに俺は気づいた。
俺はそれを手に取って、わずかに記されていた文字を読む。
おおむね予想していた通りのことが書かれていた。そう言って、たぶん間違いではないはずだ。
そのメモ用紙を、卓袱台の上に投げ捨てた。
何かをしようという気にならず、俺は卓袱台を脇に避け、部屋の真ん中に布団を敷く。卓袱台の上に置かれたままの、まだ未使用のコーヒーメーカーと豆が目に留まった。
それを無視して、俺は仰向けに、布団の上へと体を投げ出す。
眺める天井は、部屋そのものが狭くなった影響か、なぜか以前より低く感じられてならない。
隣の部屋から、物音らしきものは聞こえなかった。
寝ているのか、あるいはいないのか――それとも音を立てないようにしているだけか。たぶん、そこにいるだろうと思った。
こんな、壁とも言えない雑な仕切りだ。
壁の向こうに声をかけようと思えば、それが俺にはできるるはずだ。
だけど――俺は何も言わない。
何も言えなくなっていた。
主役理論に基づくならば、何かを言うべきだったはずなのに。
それでも。
俺は仰向けのまま、片腕で目を覆って視界を遮る。
けれど眠気はなかったから、頭の中はぐるぐると忙しなく活動していた。
何をするべきで、何をしないでいるべきなのか。
主役理論に訊いてみても、答えなんてわからない。
これで普通だ。
ただ元の状態に戻っただけ。
そんなことは俺だってわかっている。
誰に訊いてみたって、部屋の壁がなかったときのほうがおかしかったと答えるだろう。ならば俺は、この状態を受けれいて、いや、むしろ喜んで歓迎するべきだ。
それが正しいはずだった。
同じことを、そして――きっと友利も考えていたはずで。
俺はメモ用紙に記されていた文字を思い出す。
そこにはこんなことが書かれていた。
――ごめん。でも、これがいちばん、お互いのためにいいと思うから。
俺は、いくつかのことを天井を眺めながら考えて。
それからスマホと財布を取って、再び部屋の外へと出て行った。
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