1-15『そして何も言えなくなった5』
友利が帰ってくる頃には、すでに夜の十一時を回っていた。
「ただいま」と姿を見せる友利は、わざわざ一〇三号室側の扉を使っている。
誰に見咎められるとも思わないけれど、この辺りは気を張っておくべきだと俺たちは学んでいた。
俺はといえば、寝間着に着替えて読書中だ。
夕食も、明日の予習も入浴も、今日やっておくべきことは全て済ませている。だから寝る前に、買ってきた例の小説の続きを読んでおこうと思ったのだ。
本は、できる限り一度に読みたいタイプ。
「喰ってきたの?」
俺は文庫から目を離さず口だけで訊ねた。
返る友利の声は、
「……まだだけど。作ってあんでしょ?」
「なんだ。遅くなんなら喰ってきてよかったのに。別に余ったら余ったで弁当にするだけだしなー」
「そういうことは先に言っときなさいよ……」
「確かに。ま、いいや。喰ってないなら温めて適当にどうぞー」
「……ありがとうございますぅー」
なんだか嫌そうに言う友利であった。作り甲斐のない奴だ。
といっても正直、単純な料理の技量では、俺は友利に水を開けられている。
俺の場合、独り暮らしを決めてから急いで練習したくらいで、本当に簡単なものしか作れない。
こと料理に関しては、これで友利は意外と達者だ。
どれくらい差があるのかというと、俺がまず作るメニューを決めてから食材を探すのに対し、友利は適当に食材を眺めただけでその日のメニューを考えられる、というくらい。
この点は明確に負けていて、なんだかやけに悔しかった。
読んでいる文庫は、そろそろ結末に差しかかっていた。
よくある探偵物、ミステリ小説なのだが、殺人の犯人はすでに明らかにされていた。まだ少しページが残っていることを見るに、おそらくこのあとなんらかのどんでん返しがあるのだろう。楽しみである。
だから正直。
「……どうだった?」
と友利に声をかけられて、最初に思ったのは面倒な、ということ。
俺はおざなりに「何が?」と問い返す。
普段の友利なら、この段階で口調が荒れること間違いなしなのだが、なぜか今日は違っていて。
「わたしの、脇役哲学講座が、だけど。ちょっと計算外はあったけど、今日はずっと喫茶店で読書してたっしょ?」
ふむ。その話になるのなら、読書より優先すべきだろう。
俺は文庫を閉じて、電子レンジの前でのっぺりだらける友利に向き直る。
「しかし、どうだったと訊かれてもな……」
「楽しくなかった?」
友利もこちらを振り返って、きょとんと首を傾げて問う。何かを期待しているように。
ちょうど、鏡合わせになっているかのような、ふたつ並びの狭い部屋。
同じ部屋にいるというのか、違う部屋にいるというのか。遮るもののない空間なのに、なぜか違う場所にいるかのような気分になる。
だから同居が成立したのかもしれない。
「まあ、そりゃ、楽しかったけど。ネタバレはしないぞ?」
「訊き方変えよっか」友利は軽く肩を竦めた。「家に閉じ籠もって読むのと、お気に入りの喫茶店で、放課後の時間を優雅に使いながら読むの。同じ読書でも、どっちのほうが気に入る、我喜屋は? 別に、大して変わらないって言うならそれでもいいんだけど」
「……なるほど。そういうことか」
ようやく、俺は友利の言いたいことに合点した。
それが友利の脇役哲学か。
「確かにな。お前の言う通り、そっちのほうが俺は好きだ。雰囲気っつーか、そういうのにこだわること自体が、なんつーの。ひとつの楽しさになるよな、確かに」
趣味人というか、数寄者というか好事家というか。まあ表現はなんでもいいけれど。
そもそも趣味というものがイコールで時間の無駄遣いである以上、せっかく時間を無駄遣いするのなら、それは奢侈かつ華美にこだわり抜いたほうが楽しいという考え方。
まったくの同感であった。
「我喜屋ならそう言うと思ったわ」友利は笑う。「基本、趣味嗜好は似通ってるしね。こういう楽しみ方、絶対好きな奴だと思ったんだ」
「友利、お前アレだろ」俺も笑った。「暖炉とか囲炉裏とかある家、好きだろ? こたつは掘りごたつ派だろ? わびさびある日本家屋だったり、殺人事件とか起こりそうな洋館でテンション上がるタイプだろ。とりあえず形から好きになっちゃうタイプ」
「そう言う我喜屋もアレでしょ? 寺社仏閣とか美術館、博物館とか好きでしょ。しかもできれば修学旅行とか校外学習じゃなくて、ひとりで好きなだけいたいタイプでしょ」
友利が生き別れの妹だと言われたら信じてしまいかねない気がしてきた。
「欧風喫茶とか好きで、ついバイト先に選んじゃうしな?」
「入口に錫製とかのベルがあって、店の名前が入ったマッチとかあると楽しい」
「それな。別に喫煙なんかしないし、むしろ臭いは好きじゃないけど」
「なんとなく喫煙可の喫茶店のほうが趣味に合う」
「キセル持ってる和装さんとか、パイプ吸ってる老紳士とかに憧れちゃったりしてね」
「自分じゃやれないから、そういうお客さんがいるとつい遠くから眺めちゃうよね」
「そういう人が来るような店がもう好きだよな。黄ばんだ少年漫画とか置かれててさ」
「ていうか漫画雑誌が置いてあるよね。よれよれの奴が十週分くらい遡って」
「わかりすぎる」
「だと思ったよ」
……ええ、何これ、うわ、気持ち悪っ。
こいつ俺と趣味が合いすぎなんですけどマジで……。
「まあ、昔からなんとなく、そういうの好きだったんだけどさ」友利は言う。「だからって中学生だったし、そんなこだわれないじゃん。そもそもお金ないし。憧れてはいるけど、憧れてるだけっていうか。店の前でトランペットめっちゃ眺めてるみたいな感じ」
言いたいことは実によくわかった。
そして、トランペットを買ってくれるおじさんは、現実に通りすがったりしない。
「だから高校入ったら、絶対そういうの、ちゃんと自分で楽しんでやりたいと思ってさ。これがわたしの思う、最高の人生の楽しみ方ってワケ」
俺は、こう答えるしかなかった。
「……癪だけど共感しかねえや」
「我喜屋がいつも使ってるブックカバーと栞、わざわざ自分で買ったでしょ?」
友利の視線が、俺が今し方、テーブルに置いた文庫に注がれる。
革製のブックカバーにつけられたそれ。確かにこれは、俺が中学時代に自分で買った。
「毎回、本を読むときは絶対に使ってるよね。でも貰い物にしては扱いが雑っていうか、まあ普通だったから。我喜屋なら、たぶんこれ自分で買ったものの使い方だな、って」
「それで気づいたわけか。よく見てるな……」
「あーこいつ絶対同じ趣味だー、って、それで思ったよね」
「いや、俺はお前が持ってるマグカップの趣味はかなり謎だったんだけど。あのピンクのヤツ」
「あれはわたしが買ったんじゃないっちゅーの。知ってるでしょーによ」
わざわざ貰い物だという来歴を、俺に話したのはそれが理由か。
趣味が似ている奴に、自分の趣味とは違う持ち物を見られるのは確かに恥ずかしい。
ああ、めっちゃわかるな、その感じ。
「なんでこれで、今まったく逆の考え方してるんだろうな、俺たち」
「本当。わたしも、それだけはまったくわかんねーや」
ただそのことだけを除いてしまえば。
それ以外のことに関してだけだったなら。
俺と友利は実に気が合う。
趣味に関して最高の理解者を得たも同然だ。
――チン、と高い音がそのとき響いた。
レンジの温めが終わったようだ。
友利がそちらへ向き直って、中から夕食を取り出す。
「あ、そうだ、友利」
それで思い出した。こちらからも、伝えておくべきことがあったと。
友利は向こうを向いたまま、なんの気ない感じに答える。
「何?」
「いや、お前、今週末空いてるか?」
「ん――え、いやなんで?」
「さなかから遊びに誘われてさ」なんの気なく、俺も伝える。「ちょっと街のほうに出かけてみないかって。勝司辺りも来るんじゃねえかと思うけど、よかったらお前も――」
「――なんでそうなるの」
その声が。
ことのほか透徹した、けれど重く暗いものを孕んだ静かな声が。
部屋の中に、はっきりと響き渡ったことを俺は感じた。
「は? え、いや、なんでって……」
場の空気が決定的に変質したことは、俺にもよくわかっていた。
だが、どうしてそうなったのかまるでわからない。
見れば友利でさえ、なぜこうなっているのかわからない、という表情で俺のことを見据えている。
それはどこか、見捨てられた仔猫を思わせる表情で。
だがすぐにきゅっと唇を噛み、友利は俯くように俺から視線を逸らしてしまう。
――たぶん、何かを間違ったらしいということだけがわかった。
「いや……うん、そっか。わかった。湯森さんがね」
しばらくあってから、何ごともなかったかのように友利が言葉を再開する。
だが、それはその時点で何かがあったことを伝えるに等しい態度で。
隣の部屋にいる友利のことが、俺には、その距離以上に遠く感じられてしまっていた。壊れてなくなったはずの壁が、再び戻ってきたような感覚さえある。
「いいよ。詳しいことは……まだ決まってないなら、ま、あとで連絡してよ。土曜?」
「いや――えっと、どうだろ。たぶん」
「わかった」自分の
「あ……ああ」
「だよね。――おやすみ」
それは実質的な会話の断絶、拒絶を示す態度だった。
俺には何も言えない。なぜこうなったかもわからないのに、何かを言えようはずがない。
だから俺は、言われるがままに自分の部屋の電気を消して、小さく友利に答えた。
「……おやすみ」
かちゃりと響く、食器のぶつかるわずかな音以外に返答はなく。
大オチを残した文庫を開かないまま。
俺は、息を吐いてから布団に戻り、静かに両の瞼を閉じた。
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