1-13『そして何も言えなくなった3』

 夜の時間バータイムになると、喫茶《ほのか屋》ではアルコールの類いも提供するようになる。

 閉店は夜の十時だが、お酒やマスターの作る肴を目当てに来る客も一定数いるようだ。

 とはいえ、高校生がそんな時間までいることはまずあり得ない。七時を過ぎる頃には、さなかが「そろそろ」と帰り支度。

 それまでは、ずっとふたりで話していた。


 たとえば学校のこと。勉強についてだったり、友人関係についてだったり、部活についてだったり、中学時代についてだったり。あるいは最近の流行についてだったり――入学前に買った新しい服のこととか、小遣いの額が上がったから葵といっしょにちょっといい店に小物を買いに行ってみただとか。読書は好きかとか、普段はどんなテレビ番組を観ているのかとか、好きな芸能人は誰だとか、最近のお笑いについてどう感じるかとか。ときおり真矢さんも入ってきて、大学生活について訊ねてみることもあったりして。

 それらは全て益体もない、取るに足らない四方山話。雑談と、しいて言うほどのものですらない言葉の欠片。交わしたことは覚えていても、その内容までは覚えていないような。明日になる前に忘れてしまうだろうほど、どこまでも、どうしようもなく、どうでもいい会話。その断片。

 だからそのひとつひとつには、意味だって価値だってまったくない。


 だとしても、そうして過ごした時間そのものには意味がある。

 少なくとも、この時間を楽しいと感じていた俺には嘘がないのだから。掛け替えのないものだと言っていい。

 だから俺は、交わされた言葉を、その全てを、余すところなく覚えていたい。

 たとえさなかが忘れてしまうとしても。

 こんな行為は所詮、友情というものの確認作業であり、そのための儀式でしかないと知っていても。

 それは悪いことではないだろう。

 否定されていいことであるはずがない。


 何もない日常こそが最も尊く素晴らしいものである――なんて理論がある。いや、あるいはこいつは哲学だろうか。言葉の上では誰もが知る、口に馴染んだ容易い哲学。

 別段、俺はそんなことは信じていない。何もない日常が素晴らしいとはまったく思っていなかった。

 何もないのなら、それは何もないということだ。いいも悪いもないだろう。

 だからこれは主役理論。

 決して哲学ではありえない価値観。

 何もなくなどない。俺は日常にが欲しい。

 そのの価値を、たとえ周りから理解されなくても構わなかった。俺にとってのがあるから素晴らしいのだと、俺は日常を楽しめるのだと、そうして胸を張ることができる。主役理論はそのためにある。


 だってそうだろう?

 本当に何もない平凡な日常なんて、絶対に物語たり得ない。それはエンターテイメントじゃない。

 取るに足らない、些細でつまらない、けれど劇的なことがあるべきなのだ。

 それが主役というものだろう。誰にとっての人生も、その主役が自分であるならばなおさらだ。

 だって、自分は同時に読者なのだから。

 誰より主役に寄り添う最大の読者。感情移入も自己投影も、する必要さえなく初めから為されている。だから誰より楽しめる。

 楽しく生きるとはそういうことだ。

 酷く簡単な理屈。論理立てて証明可能な事実。

 何もなければつまらない。だから楽しいことを求める。それに従って生きれば楽しい――ほら、これほど単純な理論もない。

 主役理論の成立は証明されている。


 

 


「――途中まで送ってくよ。道、確か同じほうだよね?」

 帰ろうとするさなかに俺はそう提案した。

 友利のバイトが終わる十時まで待っていても仕方ない、先に帰って、夕食の準備でもしておいてやるほうがいいだろう。

「えっと……いいの、かな? 友利さん、待ってなくても」

「むしろ先に帰るほうが、お互い都合いいからね」

 そもそも混む店でもないため、お互いのシフトが被ることはまずない。だから暇なほうが夕食の準備をしておく(何もないときは一応、友利が担当している)約束だった。

 実際これがとても楽で、ふたり暮らしをする大きなメリットのひとつと言える。

「それじゃ、お言葉に甘えよっかな」


 さなかは儚く微笑んだ。まあ、ここは格好つけるところだろう。

 せっかく来てもらったんだからと俺は奢りを申し出た。

 さなかは、だろうとは思ったが強硬に固辞する。

 結局、やいのやいの言っている間に、真矢さんがやって来て「今日の分はあたしが持っておくよ。せっかく常連になってくれそうな子が来たんだ、初回サービスってヤツさ。ご贔屓にね」とか颯爽と言われてしまって、もうぐうの音も出ない。

 格好よすぎたし主役力が高すぎた。

 そして俺は決まらなすぎた。

 流れで俺まで奢ってもらってしまいながら店を出る。

 正直、自由に使えるお金がそこまで多いわけでもないため、ありがたかったと言えばありがたかったのだが……ううむ、釈然としない。素直に感謝はさせていただくが。


 この時間でも充分に明るい季節だ。通りのひと気もまだ多い。

 俺とさなかは、特に話すこともなく、縦に並んで道の脇を歩いていた。

 俺が前で、後ろにさなか。

 まあ、だからというわけでもなかったのだけれど。


「にしても……すごいね、未那は」

 背後のさなかがそんなことを口にしたとき、俺は彼女の表情を見ていなかったし、振り返って確認しようともなぜか思わなかった。

 俺は前を向いたままで答える。

「いきなりなんだよ、さなか」茶化して笑うように。「急に褒められてもなんも出んよ?」

「いや、ほら……だって独り暮らしだよ? しかも高校生で」

「確かに珍しいけど、別にあり得ないってほどじゃないだろ? 寮生活って奴ならもっとたくさんいるだろうし、友利の例もある。それに、なんなら今は独り暮らしじゃない」

「そうじゃなくてさ。そういうことじゃなくて」


 今さらのように、俺は自分がなぜ振り返らなかったのかを察した。

 別に主役理論が云々という話じゃない。単に、見ないほうがいいだろうと悟っただけだ。

 背後から聞こえてくる、さなかの震える声音を聞いていればそうも考えよう。


「……さなかは、独り暮らしがしたいの?」

 振り向く代わりに俺は訊く。

 部屋に呼んだときも、独り暮らしという環境にいちばん喰いついたのはさなかだった。

「したいかしたくないかで言えば、そりゃ、してみたいとは思うよ?」

 でもね、とさなかは小さく続ける。

 俺は黙って言葉を待った。

「でも、じゃあいざ実際にやっていいよって言われたとして。結局、わたしはやらないんじゃないかなあ、と思うんだ。それか、やってみてもすぐ諦めちゃうか」

「……ま、それなりの苦労はあるかもしれないけど」


 だがそんなことはなんだって同じだ。実家暮らしなら実家暮らしなりの悩みがあるだけで、悩みの大小とに因果関係はない。

 けれどさなかは言う。


「でも、未那は自分から独り暮らしがしたいって頼んだんでしょ?」

「やってみたかったからね」

「やらなくてもよかったことなのに」

 俺は黙った。答えなかった。

 別に言外の意図を感じ取ったとか、答えるまでもないと思ったとか、そういうわけじゃない。

 単に俺は、なんて返せばいいのかわからなかっただけだ。

 だからたださなかの言葉を聞く。

「そういうのが、なんか、すごいなーって思う。や、急にこんなこと言ってもワケわかんないと思うけどさ。あはは。なんか、ごめんね?」


 言っていることの意味ならばわかる。

 わからないのは、なぜそれを言ったのかということのほう。


「……褒められてる?」

 俺は軽く訊ねた。背後を振り返らずに。

 さなかは小さく笑った。

「うん、まあ。……だって未那さ、まだ学校始まる前に何度かこっち来てたでしょ?」

「……というと、ごめん。もしかして会ったことあった?」


 俺が自分から両親に頼み込んで独り暮らしを始めたとか、そのための下見に来た過程でほのか屋のバイトを申し込んだとか。その辺りのことは今日、雑談のネタにしていた。

 場所が場所だし、ときどき真矢さんが入ってきたこともあって、触れざるを得なかったのだ。

 さなかに事情を隠してもらう以上、ある程度は明かしておくべきだとも思った。

 だから、さなかがこのことを知っていることは不自然じゃない。

 俺が訊き返したのは、まるでさなかが初めから知っていたかのような口調だったことが気になったせいだ。もし会っていて忘れていたのなら、その失礼は謝罪しなければならない。

 ただ予想に反して、さなかはその問いに否定を返した。


「いや。会ったことはないよ」

「あ、なんだ。忘れてたのかと思ってどきどきした」


 まあ、さなかに会っていて忘れるなんてことはないと思うが。

 下見に来た際に印象的な、ちょっとした事件があったことは事実だけれど。その件と、さなかが関係しているということはさすがになかろう。


「いろいろ巡って、進学先も、住むところも自分で探してさ。バイトも見つけて、それでがんばって独り暮らしして……まあ今は友利さんといっしょだけど。なんだろな……なんてーか、それってすごいことじゃん? すごい、がんばってるっていうか。ごめん、あんまし上手い言い方が出てこないんだけど。やる気? モチベーション? みたいなこと」

「もしかして、がんばりすぎててちょっと引いた、みたいな話?」

「そういうことじゃないけど」さなかの苦笑の声が聞こえる。「や、でもそういうことなのかも。別に引いてはないけどさ」

「うわ、ひでえ」

「でも友利さんとふたり暮らしってのは、やっぱりちょっと引くかも」

「……まあ否定はできないよね」


 俺は笑ったが、言わんとせんことはわかる。

 何かに本気になるということ、それ自体が冷笑の対象にされるなどよくある話だ。

 勉強や部活に真剣に取り組んでいる奴さえ馬鹿にされることがあるのだ。まして、ただ青春を楽しみたいだけの動機でここまでするなど。


 もちろん、そんなことを口に出して言う奴は馬鹿だ。これはさなかのことではなく。

 本気で取り組んでいる人間を馬鹿にする行為。それは本気になれない自分への誤魔化しだったり、防衛反応だったり、いずれにせよ嫉妬ややっかみから出るものだ。

 そんなものを、本気でやっている人間が気にする必要はない。


 けれど一方で俺は思う。

 決して口に出して告げていいとは思わないが、だからといって、は否定されることじゃないのだろう、と。

 なぜなら普通の人間は、本気で生きてなどいないから。

 生きるという行為はその始まりから受動であって、決して能動的な行いじゃない。

 ただ流れに流されるだけ。それは悪いことではないし、どころか流れに逆らうほうが間違っているとさえ言えるだろう。

 だから、もしそんな人間を見たとき、そこに隔意を感じてしまうことはおかしくない。

 ごく普通の反応だ。善悪が問われることですらない。

 自己と違うモノに対する拒否感は本能から生ずるものであって、その感情自体は否定されるものではないはずだった。


 わかっている。

 主役理論に則って生きている――なんて馬鹿な話、普通なら誰が聞いてもドン引きだ。

 それを当たり前みたいに受け入れている、友利のほうが例外なのだ。


「やー、だから、ほら、まあ、なんと言いますか」


 それを口にしたさなかも、そのせいかどこか恥じらうように言う。

 ――がんばっちゃってる奴は恥ずかしい。

 それが、たとえ普遍的な価値観なのだとしても。

 同時に、がんばっている人間へ憧れを持つこともまた、きっと当たり前の話なのだと思う。


「わたしも、少しくらい、こう、高校生活がんばってみようかなー、みたいな! そんな気にさせていただきました、っていうね? うん、ことが言いたかった、……的な感じ」


 まあ、もっとも。

 俺と友利が言うほどがんばっている人間かどうかについては、諸説あるだろうけれど。

 受けた言葉には返事がいる。俺は言った。


「俺は俺で、いろいろさなかに感謝してるっつーか、憧れてたりするんですよ?」

「お、おおぉ……なんか意外なお言葉」

「いやほら、さなか明るいし、友達も多いだろ? そういうとこ、きっとみんな尊敬してると思うんだよ。俺は少なくともそうだし。最初にできた友達がさなかでよかったよ」

 そこまで言ってから、俺は初めて振り返った。

 たぶん、これは顔を見て言うべきことだろうと思ったから。

「……うひゃーあ」さなかは恥じらうように、両手で俺の視線を遮る。「きゅ、急に恥ずかしいこと普通に言うなあ、未那は! いやそれ前から思ってたんだけど実はっ!」

「あー……確かに今ちょっと恥ずかしいこと言ったかもしれない」


 なんだろう。そういえば中学の旧友にも、よく同じことを言われた気がする。

 俺は割と、思ったことをそのまま口にしてしまいがちというか。考えて喋っているようでいて、喋るかどうかについてはまったく考えていない――とかなんとか。そんな風に評されていたことを覚えている。

 うーん。主役理論に徹底することを考えれば、よくない癖なのかもしれない。入学式の朝に奴から言われた、《自分の中で答えを出しすぎている》とはこういうことだろうか。

 まあ、これも青春ということでひとつ。言いたいことは我慢しない。


「あーもー、やめやめ! 顔赤くなってきたじゃんか!」

 手を振って恥じらうさなかを見られただけでも、恥ずかしいことを言った甲斐はある。

「意外と照れ屋っていうか、褒められ慣れてないよな、さなか」

「うるさいなあ!? もう、わたしこっちだから、そろそろ帰るからね!」


 ちょうど差しかかった分かれ道で、拗ねたようにさなかは言った。

 たぶん、ここで別れなくても帰ることはできるはずだったが、その辺りには突っ込むまい。


 この辺りは住宅街だ、建物の背はそこまで高くない。

 けれど道そのものが狭いため、見上げられる空の範囲には限りがあった。もう太陽も隠されてしまっている。

 店を出たときより周囲が暗く感じられるのは、だからそのせいだと思う。

 時間が進んだからであって、ほかに、きっと意味などない。

 そんなことを俺は考えていた。


「また明日。週末の約束、忘れないでよね?」


 手を振るさなかに、俺も手を振ることで応えた。


「おう、また明日」

「ん。――楽しみにしてるね。ばいばい」


 踵を返して去っていくさなかの足取りは、どこか軽やかなものに見えていた。

 少なくとも、俺から見る分には。

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