1-12『そして何も言えなくなった2』

 それからの時間経過は、あまり意識していなかった。それだけ読書に夢中になっていたということでもあるのだろう。

 ページをめくる傍ら、ときおり啜っていたコーヒーが冷める頃にはもう、周りの雑音が一切耳に入っていなかったと思う。もちろん、ときおり傍らを真矢さんや友利が歩く気配には意識の片隅で気づいていたけれど、ことさら集中の妨げにはならなかった。


 むしろ、適度な雑音が集中力を高めてくれた気がする。

 静かな足音。かちかちと一定の間隔で刻まれる壁掛け時計の振り子のリズム。ときおり届く客たちの談笑の声。BGMとして店内に流れるクラシックは、絶妙な音量で落ち着いた静けさを演出していた。

 店内に差し込む光。わずかに揺らぐ陰。白と黒モノクロによって彩られた店内の雰囲気が、俺は心から気に入っていた。眠ってしまいそうな静けさがあるのに、集中力が途切れない。


 次に俺が顔を上げたのは、だから、軽やかな鈴の音がからからと響いたときのことだ。


 入口の戸に備えられたベルが来客を報せる。

 宇川マスターの落ち着いた「いらっしゃいませ」の声に意識をすくい上げられて、釣られるがままに顔を上げた。ページの進み加減から言って、あれから小一時間ほどが経過したタイミングだったろうか。

 なんの気なしに入口の方向へ向けた視線が、見知った人影を捉えて固定される。


「……さなか?」


 俺はそのまま、自然と来店者の名前を舌に乗せていた。

 その声が聞こえたのか、学校の制服姿のさなかが、こちらに視線を向けて「たはは」と笑う。

 応対に出向いた真矢さんが、「おや。未那の知り合いかな?」と口にした。

 半ば誘導されたみたいに、さなかは俺のいるテーブルへと近づいてくる。


「や……やあ?」

 ちょっとばかり不自然な様子で、さなかが片手を挙げる。

「いらっしゃいませ」と俺は答えた。「と言っても、今日は俺も客として来てるんだけど。来てくれたんだ?」

「ん……ま、ね。いちおー、ほら、約束してあったじゃん?」

 知り合いのバイト先に来るということで、緊張していたのかもしれない。ようやく普段通りの笑みを見せて、さなかは言った。

 俺は「よければ」と正面を示して、相席を促した。

 さなかは頷いて俺の正面に腰を下ろす。トレイにお冷やのグラスを載せた友利が、席に近づいてきて声をかけた。気を利かせた真矢さんと代わったのだろう。


「いらっしゃいませ」

 外面のいい友利の営業スマイルが炸裂した。

 さなかも笑みを見せて答える。

「友利さん。そっか、今日、お仕事なんだ?」

「うん、まあね。来てくれてありがと、湯森さん。まあ、呼んだのはわたしじゃなくて、我喜屋ってことになるんだろうけど」

「いやいや。たまたま暇だったからってだけだから。その制服、カッコいいね?」

「ふふ、でしょ?」友利は本当に、内と外でキャラが違う。「それもあってこの店をバイト先に選んだんだ。あ、もちろんコーヒーとか料理も美味しいから。ゆっくりしてって?」


 すでに熟練店員じみた風格すらあった。まだ三日しか働いていないはずなのだが。

 ていうか友利、なんなら俺よりコミュニケーション能力が高い気がする。なんか釈然としない。

「どうせなら我喜屋がバイトの日に来ればよかったのに」

 と、首を傾げながら友利が言った。さなかはわたわたと両手を振って、

「いや、本当にたまたま来ただけだから。うん、お構いなく!」

「……?」その妙な態度に、友利は一瞬だけ首を傾げたが、すぐ流して答えた。「では、ご注文が決まりましたらお声がけください。ごゆっくりどうぞ」

「はいどうもっ!」


 去っていく友利の背中を、さなかは妙なテンションで見送っていた。


「……なんか、妙に緊張してない?」俺は問う。「ていうか、ひとりなんだ?」

「たまたまだからねっ!」

 三回目の『たまたま』を告げるさなかであった。なぜ強調するのだろう。

 お前が呼んだから来たわけじゃねえぞ、と暗に告げているわけじゃないといいのだが。

 まあ、突っ込むことでもない。受けて俺は言った。

「いい店だからね。気に入ったらぜひ通ってくれると嬉しい」

「そうだねー」さなかは微笑んだ。「本当、いい雰囲気。こういうの結構、好きかも」


 どうやら趣味が合いそうだ。もっともこういう空気が嫌いという人間のほうが、たぶん珍しいとは思うが。

 俺も笑みを作って言う。


「ひとりだと、ちょっと入りにくいかもしれないけどね」

「あ、わかる」もう普段通りのさなかだった。「家そんな遠くないし、わたしも店は知ってたけどさ。さすがに中学生ひとりで入るのはなかなかねー。いい機会だったかも」

「さなかはコーヒーとかお好きなタイプ?」

「そこそこ好きかな。や、そんな喫茶店の店員さんに言えるほど詳しいとかは、ぜんぜんないんだけどね? フツーだと思う」

「俺もぜんぜん詳しくないから大丈夫。そんなもんだよね、実際」

「それはバイトとしてどーなのさ」ツッコミを入れつつさなかは笑った。「やー、でもそんなもんなのかなー。あ、ちなみにオススメとかあります、店員さん?」

「どれもオススメだよって言って、嘘にならないお店ですとも」


 これは本当。だから俺も自信を持って人を呼べるわけで。

 こう言ってはなんだが、働いてる店が不味かったら友達なぞ呼べまい。


「お、セールストーク。上手いこと言うねー?」

「でも実際、好きなもの頼んで大丈夫だと思うよ。豆の種類で迷うならブレンド頼んどけば外れないと思うし。甘いの好きならカプチーノとかもセットなら選べる」

「ふむふむ……じゃあ、すみませーん!」

 元気よく手を挙げて店員を呼ぶさなか。この快活さは見ていて気分がいい。

 見ているだけで気分が凪いでくる、どこかの誰かとは正反対だ。


「はい、ただいまお伺いします」


 と、その正反対の誰かさんが注文を取りに来た。今だけ明るい辺り、もう詐欺の域だ。

 どうしてこいつは、家の中だとこれができないのだろう。不思議でならなかった。


 さなかはガトーショコラに、カプチーノのセットを注文する。

 湯森さなかは甘いものがお好き。その情報を、脳内のメモ帳に書き入れておく。情報は増える分には損がない。

 注文を取って下がっていく友利を再び見送ったところで、ぽつりとさなかはこう零す。


「……あー。にしても、大変だったね?」

「あ、例の噂の件?」俺は苦笑して答える。「そうね。まさか昨日の今日で、もう広まるとまでは考えてなかったから。……隙がありすぎなんだよなあ、俺ら」

 ふたりで外食に行ったところを見られる辺り、頭パーとしか言えなかった。

 いやファミレスで飯食ってるだけで付き合ってるとか考える短絡思考もどうかという話なのだが。

 入学からまだ一週間という時期の早さ、そして自宅が隣同士の上に揃って独り暮らしという事実が、妙な憶測と話題性を生んでしまったらしい。高校生って恋バナ好きね?


「もう独り暮らしって情報は、あんま出さないことにしようと思う」

「あはは……」

 反省から口にした言葉に、さなかは微妙な笑みを見せた。まあそりゃそうだ。

「でも、そうだよね」と、繕うようにさなかは続ける。「あんまり、こう、あれだよね。外からいろいろ言われるのとか、気分よくないよねっ?」


 なんだか、フォローしていただいている模様だった。

 そんなに落ち込んでいるように見えただろうか。どちらかというと俺も友利も、自分の不用意さを反省する方向へ向かっている感じなのだが。ああもあっさりバレる辺りもう、なんていうか時間の問題だった気がする。

 そもそも現状が想定外の極みだし。的を狙って投げたボールが、大きく外れた結果、なぜか地球を半周したところでバットに打ち返され、的の裏側に当たったみたいな。

 ともあれ俺は、気を遣わせまいと笑みで言う。


「まあ、そんなに悪い気分じゃないから。平気平気」

「あ、そ、そうなんだ!?」なぜか驚くさなか。「あっでもそうだよね! 友利さん、かわいいしね! なんか明るくて、すごい、いい子だしねっ!?」

「ははははは」

 と俺は笑った。笑うしかなかった。

 明るくて、いい子。友利が。

 うん。まあ、かもしれないね。並行世界のどこかには、そういう友利もきっと存在するとは思うんだ俺も。その可能性まではね、ほら、否定しないでおくべきだと思う。


 ……あざとくて悪い子の間違いじゃない?

 などと考えていたことを、読まれてしまったのだろうか。


「お待たせしました」


 と、さなかの注文を運んできた友利が、来るなり俺の右足を蹴りやがった。こいつ。

 大したダメージでもなかったため、そして目の前にさなかがいるため、呻きと反撃を堪えて俺は押し黙る。

 友利は友利で話を聞いていたらしく、さなかに向けて言った。


「ありがとう、湯森さん。気遣ってもらっちゃったね」

「え!?」さきほどから驚きの大きいさなかである。「あ、いや……えっとぉ」

「でもまあ、大丈夫だから。確かにと噂になるなんて割と屈辱の極みだけど――」

「おい。って誰のことだ?」

 俺のツッコミは綺麗さっぱりスルーされた。

「ま、すぐ誤解だってわかると思うから。心配しなくて大丈夫――ね?」

「……そっか」と、さなかは頷いた。「気にしてないなら、うん。よかったよ」

「ん。……ごゆっくりどうぞー」

 そう言って、友利は颯爽と去っていった。なんか妙に格好いい。


 しかし、これは友利の言う通りだ。確かに妙な展開にはなっているが、それを理由に、さなかやほかの友人たちに変な気を遣わせることは本意じゃなかった。それは違う。

 ここはひとつ、積極的に噂を打破していく方向で進むのはどうだろう?


「あ。ところでさなか、週末とか暇?」


 なんの気ない感じを装って俺は問う。

 もちろん遊びに誘うためで、なんの気なさを装ってはいるものの、俺はこの手の経験に乏しい。だから、実は緊張で心臓が張り裂けそうだった。

 リア充ってすごいなあ……。


「え。あ、うん……空いてるけど」さなかは言った。「うおっとぉ!? あ、空いてるよ!?」

 しかもなぜかまた二回。

 もしかして、これはさなかの持ちネタなのだろうか。拾うべきなのだろうか。

 ちょっと迷い始めてしまったところに、さなかが続けて言う。

「それは……えっと。もしかして、遊びのお誘い、です?」

「え? ああ、うん――そういうこと」ちょっと遅れて俺は頷いた。「みんなで遊んでれば噂もすぐ解消されるだろうってのもあるし、あと単純に俺が遊びたいしね」


 青春的イベントの数は多ければ多いほど望ましい。

 窮地こそチャンスだ。友人たちとは積極的に交流を深めていきたかった。


「あはは。先に言われちゃった」

 さなかはそう言って頬を掻く。

「先に?」

「うん。実はほら、遊びに行こうって誘いに来たんだ、今日は。まあ来る前に、そもそも未那が仕事あるかどうか確認してから来いって話だけどさ。いろいろ独り暮らしで大変だとは思うけどさ。だからこそ、気晴らしになったらいいかなって思って」


 何この子、超いい子。

 色で言うなら純白の感動が、俺の胸裏を埋めていく。


「ってもほら、あんま考えないでさ。みんなで買い物でも行こうぜー、みたいな感じで」

 ということは、おそらく勝司たちも一枚噛んでいるのだろう。

 なにせ昨日の今日でバレたのだ。

 さなかにも、もちろん勝司や葵にも責任はない。だが三人は三人で、それぞれ思うことがなかったわけではないらしい。申し訳ない気分だ。

「や、それは助かるわ。いろいろ買うものもあるし。この辺の店とか、まだあんま詳しくないから、案内してくれると嬉しい」

「もちろん。あはは、独り暮らしだとそうなるよねー。……厳密には独りじゃないけど」

「うっ。それは言わないでくれ」

 冗談めかして大袈裟に呻いてみせた俺に、くすりとさなかも微笑んだ。


 ――笑いとはつまり浄化さ。あるいは漂白、脱色と言ってもいいね。


 なんて、例の旧友がそんな風に宣っていたことを俺は覚えている。

 あいつの言うことは常に遠回しで小難しく、けれどどうしてか耳に残る。思い出すのに苦労しない。

 それはきっと、あいつの言うことには嘘がなかったから。正しいとか、間違っているとか、そんなことは関係がない。

 ただあいつは、いつもまっすぐ本心を口にしていた。

 そんな奴が言ったのだ。


 ――笑顔が綺麗に見えるのはね、未那。いいかい、それは笑っている人間が綺麗だからではなく、見ている人間が綺麗だからなのさ。より正確には、見ている人間を綺麗に漂泊するものが笑顔ということだよ。白とも違う無垢な透明に、あらゆる汚れを落とすのさ。


 もちろん俺には、奴の言っていることの意味などほとんどわからない。

 だから、そのときも俺はわからないと、たぶん正直にそう答えた。


 ――そりゃあ未那にはわからないさ。なぜならね。笑わないから、笑顔を向けられることもない。だけど未那、ぼくは君に言おう。もしも君が本気で主役を志すというのなら、まずは笑顔を作るところからだ。なに、難しいことじゃない。ひとが笑うのはどういうときだい? それはもちろん、だ。繕わずとも自然に笑える。それで充分だろう? 笑うためには面白く生きる、面白く生きれば自然に笑える。君はただ、それを繰り返していればいい。ほら、簡単な話だろう?


 思い出してみれば確かに、俺がよく笑うようになったのは、このあとだったような気がする。

 受動的な笑顔と能動的な笑顔――そこに、違いがないのだとすれば。


「えっと。それじゃ、詳しいことはまた連絡するね」

「ああ、うん。ありがと。悪いね、こっちが誘ったのに」

 さなかの言葉に頷いて答えた。さなかはそれに笑みを見せて、それから首を傾げて問う。

「たぶん勝司は来ると思うんだけど……えっと、友利さんは来られそう、かな?」

「あー……どうだろう」

 基本、俺と同じで、バイトさえなければ暇な奴だとは思うのだが。

 果たして誘ったところで来るものかどうか。

 正直、よくわからなかった。


 当たり前の話ではあるのだろうが。

 たとえどれほど思考が似ていても、考えていること全てが読み取れるわけではない。

 小説のように、文章で記されてなどいないのだから。


「誘ってはみるよ」

 と、俺は言った。さなかはそれに頷いて、

「うん。楽しみにしてる」

 笑顔で答えた。

 果たしてその笑顔が自然なものだったのかなんて、俺にはわからなかったけれど。

 それでも今の俺は思う。

 わからないことを、おそろしいと感じることのほうが、きっと間違っているのだと。



 ――誰だってみんな、わからないものの中で暮らしているのだから。

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