1-11『そして何も言えなくなった1』
「……どーすんだ、これ」
と。どうやら俺は呟いたらしい。
なんか、鼓膜がそんな感じに揺れた。
気がする。
わかんないけど。
正面にテーブル。目の前に置かれたカップの中を、俺はなんとなく覗き込んだ。
茶黒い液体の奥に、反射して映る間抜けな自分の面が――いや見えねえや。反射してねえ。
コーヒーにすら俺はバカにされているということだ。 ……いうことか?
もうそれすらわからない自分がそこにいた。見えないけど。
でも気分もちょうどコーヒー色だ。俺は手元のスマホを操作して《コーヒー色》で検索する。
色の名前でネット検索をかけると、だいたい色見本を見せてくれるのだ。
これ豆な、コーヒーだけに。
……それはともかく。
ともかくだ。
ともかくだと言っている。
コーヒー色って絶対これコーヒーの色ではないよね。いや世の中にはこの色のコーヒーだってそりゃ存在はするんだろうけど、だとしても一般的にイメージするコーヒーの色はもう少し濃いと思う。
これは《コーラ味》と《コーラの味》は違う法則――略してコーラ味の法則の亜種だと思われる。
つまり俺はコーヒーどころか今、コーラにもバカにされているということ。
もう自分でも何を考えているのかまるでわからなくなってきた。
「はあ……」
零れるがまま喉から漏れ出た吐息のことを、日本ではどうやら溜息と呼称するらしい。決して炭酸ではないということだ。まあほぼ二酸化炭素だが。もうコーラの話やめていいですか。
しかし俺は思う。これが溜息だとすれば、そこにはいったい何が溜まっているのだろう、と。
そんなことすらわからない。俺は何もわからない。果たしてなぜこんなことになってしまったのだろうか。誰か教えてほしい。ゆるぼ。ゆるやかに呆然の略。
と、
「なーに店の中で辛気臭い顔してるの、さっ!」
なかなかに景気のいい勢いで、いきなり背中を叩かれてしまう。迷走していた思考が、衝撃によって強制的に中断させられる。
俺は顔を上げて、今し方、自分の背中を思いっ切り引っ叩いた女性の顔を見た。
「おやこれは美人看板店員さん」
「そんだけつまらない冗談言える余裕があんなら、不景気な雰囲気出すのはやめときな」
ジトっとした視線を俺に向けて、先輩店員――真矢さんからお説教を受けてしまう。俺としても、勤務先への営業妨害は本意でなかったため、忠告は素直に受け入れた。
代わりに言う。
「いや、聞いてくださいよ、真矢さん」
「もう聞いたよ、叶から」俺の泣き言に、けんもほろろな真矢さんだった。「で、聞いた上で答えさせてもらうんなら、別に悩むようなこと何もないと思うけど、未那?」
「いやいや。これは充分に厄介な事態ですよ。少なくとも高校生には」
俺は首を振ってそう答えた。
なんとなれば。
昨夜、いっしょに外食へ行くシーンを、どうやら見咎められたらしい。
クラスメイトの間で、我喜屋と友利が付き合っていると噂になってしまっていたのだ。
それは俺たちが――外から見ればだが――隣の部屋同士という事実と相まって、大きな信憑性と説得力を伴ってしまった模様である。登校するなり、クラス中から好奇の視線が突き刺さってきて、正直もう大変だった。さなかたちにバレてまだ一日だというのに。
「けどね、未那。そんなことが話題になる時点で、そりゃ友達が多いってことだろう?」
割と雑ではあったが、慰めてくれているらしい真矢さんに「まあ」と頷く。
ある種、これは確かに《主役理論》の弊害であると言えるだろう。
第二条――《人間関係こそ青春の鍵。知人は数を、友人には質を妥協するな》を思い出していただきたい。顔を売るということは必然、話題の中心に位置しやすいということ。
自分から率先して目立とうとしているがゆえに、この手の噂がどうしても流布しやすい立ち位置になってしまう。これまでの俺からは考えられない事態であった。
「そんな気にすることかねえ」真矢さんは言う。「噂なんて、言いたい奴には言わせときゃいいじゃないか。だいたい、まんざらでもないんじゃないの、実際?」
だが俺は首を横に振るしかない。
これは友利も同じだろう。よりにもよって、このふたりの間にだけはそのような誤解があってはならなかった。お互いにとって、何ひとつプラスになりはしない。
第一、友利とは本当に同居しているのだから。噂で済めばともかく、学校に連絡が行くようなら問題だ。
……ものすごく今さらだが、親には何も言っていないわけだし。
そういえばこの件、友利のご両親が知ったら本気でヤバいんじゃないだろうか? 俺にそんなつもりがないとはいえ、世間一般の基準で言うなら十二分にギルティだ。
本当にぜんぜんまったくさっぱり欠片も微塵も寸毫も露ほども恋愛感情などないのだが。
「……あたしにゃ何が不満かわからないなあ。叶でダメって……未那、さすがにそいつは高望みしすぎってもんじゃないの? 叶ほどの子、そうそういないことはわかるだろ?」
ちょっと責めるような視線で真矢さんは言う。
この人は、ぶっきらぼうなようでいて基本的に面倒見がいい。その辺り、あるいは勝司辺りとも少し似ているだろうか。タイプは違うが、どちらも人が好いのは事実だ。
だが今回ばかりは、その指摘も的を外していると言わざるを得ない。
「別に友利が好きとか嫌いとかじゃないんです。あいつのことは女と思ってませんし、それは向こうも同じですよ。お互い、しいて言うなら自分だと思ってるレベルですね」
「いや、意味がわからないんだけど……」
「じゃあなんか、こう、生き別れのきょうだいと再会した気分ですかね? ほら、そんな相手と恋仲を噂されたって、いい気分にはならないでしょう?」
「たとえはわかるけど、そのたとえが出てくる意味はやっぱりわからない……」
なぜなのか。まあ、もういいけど。
実際、ただ噂になってしまったというだけで、それ以上の何かがあるわけでもない。
人の噂も七十五日という。いやそれ充分すぎるくらい長いだろ、と普通に思うが、高校生活三年間の中のごく一部だと考えれば我慢はできる。さなかや勝司、葵たちも妙な噂が流れていたら、それとなく誤解を解いてくれると協力を約束してくれていた。
大袈裟に嘆くことでメンタルの回復には成功したと言っていいだろう。
俺は話題を変えるように、真矢さんへと問うた。
「ところで友利は?」
「叶なら今は奥だけど」真矢さんは軽く首を傾げた。「何、呼んでこようか?」
「というか、むしろ逆で、俺が呼ばれて来たんですけどね……」
「ふうん? よくわからないね、アンタらふたりは」肩を竦める真矢さんだった。「でも確かに、未那が客として店に来るのは久し振りだったっけ?」
「というか、最初に何回か来て以来ですよね」
「ああ。冬の間、何度か下見に来てたもんね、未那。こっちに越してくる前に」
もちろん当然のお話。
今後、自分の青春の舞台となる街だ。その下調べをしておかない理由がない。しといてこのザマなんだから、もう言い訳の余地もない気がした――が諦めない。
「あんときは割と大変でしたねー」そういえば、と俺はこの店に初めて来たときのことを思い出しながら言った。「その節はお世話になりました、真矢さん」
「いきなり迷子がふたりも飛び込んでくるから、いったい何かと思ったけどね」
「――なんのお話ですか、真矢さん?」
友利は、そこでようやく店の奥から姿を現した。
俺はそちらにジト目を向ける。いや、仕事なのだからしょうがないのだが。
制服姿の友利。白と黒が基調になった、落ち着きあるデザイン。ボトムスは黒のパンツで、見ようによっては男装じみていた――も何も完全に男装である。
なぜならこの店にはきちんとスカート型の制服もあるのだから。今、目の前の真矢さんが穿いているように。
「遅えぞ、友利」仕方ないことを理解した上で俺は言った。「ていうか結局、なんのために俺をここに呼び出したんだ」
まあ、少し強引だが話題を変えたわけである。
今の話は、あまりされたくない。端的に表現するのなら、格好つけようとしたのに格好つかなかったというストーリーでしかなかったため、正直知られたくないのだ。
こちらに来た友利と代わるように真矢さんが去っていったから、窮地は逃れたはずだ。
「おっと、そうだったね」
友利も幸い、誤魔化されてくれた。左手を右の肘に、立てた右手の人差し指を伸ばし、何ごとかを教授する先生のような風情で友利は言う。どうにも上機嫌に見えた。
学校で噂の標的にされているのに、だ。もっと不機嫌なものだと思っていたが、はて。
「我喜屋には、わたしの哲学を実践してもらおうと思って」友利は言う。「言われた通りのものは持ってきたよね?」
「ん、ああ。せっかくだし、来る前に寄って買ってきた」
言いながら俺は、あらかじめ友利に用意するよう言われてあったものを取り出す。
まあ、とはいっても。
それは一冊の文庫本でしかないのだが。
昨日、友利に言われたのだ。『本を一冊、中身はなんでもいいけど、できればまだ読んでない本を用意しておいて。読書は別に嫌いじゃないでしょう?』とかなんとか。
というわけで、俺はさきほど購入してきた一冊の文庫を取り出す。
贔屓にしているミステリ作家の新刊が、先週ちょうど発売されたばかりだった。都合のいいタイミングだ。
「よろしい」
友利は上機嫌のままで言った。普段のダル感より明らかにひと回りテンションが高い。
俺は悟った。なるほど、友利は友利で、実は俺に対して脇役哲学を披露し、その実践を指導できること自体が楽しくて仕方ないようだ。……ああ、気持ちがわかるなあ。
俺は友利に視線を向ける。男装の麗人、と言ったところだろうか。スタイルがいい――というか、言い換えるとあまり胸部に装甲がないため、逆に実に男装が似合う。
俺の席の真横に立つ友利は、そんなことを考える俺にこう訊いた。
「おい我喜屋? 今、何を考えている?」
「言ったら友利がキレることかな」
「言わなくてもキレるぞ☆」
満面の笑顔を見せてくれる友利ちゃんであった。はいはい、かわいいかわいい。
せっかく上機嫌の友利を、こんなことで刺激するのも馬鹿らしい。俺は誤魔化した。
「しかし、この本を何に使うんだ?」
「決まってるでしょーに」友利も自分から誤魔化されてくれる。「読むんだよ」
「……それだけ?」
「それだけ。ここで、ひとりで、読書をする。我喜屋が今日することはそれだけだよ」
なんだか意外、というか予想だにしていない話になってきた。
それがいったい友利の主義と、どう結びついてくるのかいまいちわからない。
「まあまあ」と、だが友利は上機嫌のままニヤついている。「いいからいいから。騙されたと思って、まずは挑戦してみよーぜ? わたしは仕事に戻るからさー」
「……まあ約束だしな。オーケー、そんじゃ読書してるとするわ」
「オーケー。んじゃ、またあとでねー」
外面のいい友利だから、接客業は意外にも天職なのかもしれない。そんな感想だけ噛み締めながら、俺は言われた通りに読書を開始した。
そこに再び友利の声。
「あ。あとまったく関係ないけど、その本、読み終わったら次、貸してくれない?」
「……ああ。はいはい、読書の趣味までいっしょなのね。わかった、貸すよ」
「アンタたち本当に、仲いいんだか悪いんだかわかんないよねえ……」
そんな、ぼやくような真矢さんの言葉が聞こえた気がしたが、たぶん気のせいだろう。
よくも悪くもない。
こんなものは普通なのだから。
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