第14話 二度と会えないことを祈る

 蔵の扉を開けると、湿った匂いがした。

 「なあー、話がしたいんだ、出てきてくれないか」

 高い天井に向かって、光輝は大きな声でゆっくりと話しかけた。だが残響が消えると、再び室内の空気はピンと張り詰める。

 「酷いこと言って、悪かった。俺、思い出したんだ。アンタは確かに、俺の遊び相手だった。だから、また出てきてくれよ」

 大黒から二人が出会った日のことを聞かされて、光輝の記憶の扉が開いた。

 裏の小川でザリガニを釣っているとは思いもよらない志乃と知香子が、光輝の姿が見えなくなって大騒ぎしたというのを、光輝は聞かされたことがある。

 兄のハルキの行方不明から数年しか経っておらず、大事な一人息子を再び失う恐怖が襲ってきたのだろう。仕事に出かける支度が途中だった知香子は、腰紐姿のまま家中を探し回った。それでも見つからずに表に飛び出すと、大声で光輝の名前を呼んだ。

 狂ったように叫び続ける声に、隣近所の人たちが窓から顔を覗かせる。志乃の生徒たちも踊りどころではなく、みんなで家の周囲を探し回ったところ、小川で泥だらけになった光輝を見つけたのだった。

 勝手口で志乃に足を洗ってもらっている光輝を見つけると、知香子は着物の裾をはだけて飛んできた。そして光輝の頬を、思いっきり平手打ちしたのだった。

 土間に倒れた光輝は、何が起こったか分ないという様子でポカンとしていた。それほど知香子の形相は凄まじく、見たこともない女の顔をしていた。

 志乃は光輝を抱き起こそうとしたが、知香子はその手を払うと、光輝の二の腕をつかんで蔵の中に押し込めた。

 光輝が蔵に入れられるようになったのは、それからだった。

 初めて閉じ込められた時は、薄暗くて物寂しい蔵に恐怖を感じたが、それにもすぐに慣れた。むしろ教室がある日は、女性たちから逃れるように自分から入っていった気もする。今まで閉じ込められたと思っていたのは、最初の日の記憶が強烈だったせいだろう。

 「ここで一緒にボール遊びしたよな。あと、宝探しもした。そうだよな」

 光輝は再び天井に向かって叫んだ。

 蔵に入れられて何度目かの時、硬い床に寝転がっていると、足元にボールが転がってきた。どこから転がってきたのかは分からないが、何気なく蹴って隅の方にやると、直ぐにまた転がってくる。今度は頭の方に投げてみる。バウンドして遠去かっていったボールは、バウンドして戻ってきた。

 次に蔵に入った時、床に一つだけ積み木が落ちていた。古いおもちゃが仕舞ってある箱に戻して、光輝は床に寝そべった。するとコツンと音がして、仕舞ったはずの積み木が床に落ちている。今度はその積み木を、着物を入れた茶箱の中に隠してみる。そして再び目を離すと、また積み木が床に落ちる音がした。

 小学校に上がると、光輝は蔵で宿題をするようになった。教科書を開いてノートに問題を書き写していると、風もないのに教科書のページが捲れる。書き間違えて消しゴムに手を伸ばそうとすると、角ばった消しゴムが机の上からゴロンと転げ落ちた。「邪魔するなよぉ」と、文句を言いながら、それでも光輝は楽しかった。

 姿は見えなかったが、あの時、アイツはずっと傍にいたのだ。

 どうして忘れてたのかな‥‥。

 思い出に浸っていた光輝の足元に、空気の抜けたボールが転がってきた。

 「いるんだね?」

 光輝は、アイツの存在を確信した。

 転がってきたボールを、蔵の隅に放り投げる。すると再びボールが転がってきて、足元まで1メートル程の所でピタリと止まった。

 「いるなら出てきてよ。また一緒に遊ぼうよ」

 足先を風が撫でる。へこんだボールがわずかに揺れている。

 「お前が消えろと言ったのだ」

 暫くして、光輝の問いかけに躊躇うように、懐かしい声がした。

 「ごめん、言い過ぎた」

 多分、目の前にいるであろう声の主に向かって、光輝は謝った。

 「私はずっとここにいる。見えないのは、お前が私を欲していないからだ。やむを得まい。お前には連れができたのだからな」

 心の中を見透かされて、光輝はどう答えればいいか悩んだ。

 「私は嘘をついた。婚姻の誓いなど、お前と交わしてはいない。お前の話に合わせただけだ。楽しくて‥‥人間と相見えるのが楽しくて、つい人の世に身を置きたいと思ってしまったのだ」

 「分かってる。だからアンタが成仏できるまで、一緒にいたら良いよ」

 「言ったであろう。私は、自分が何者か知らぬ。人だったのか、物に憑いたものなのか。どこから来て、どこに帰れば良いのか。実のところ、婚姻したところで本当に成仏できるかも分からぬのだ」

 「だから、良い方法が見つかるまで、また時計に憑いてれば良いだろ。そしたらまた、俺の代わりに自転車漕いでよ」

 「それは断る。お前はもっと体を鍛えろ」

 フフッと笑う彼の声が、鼻先をくすぐる。

 「もう良いのだ。お前とは、もう充分に遊んだ」

 声の主が消えそうな気配に、光輝は焦る。

 「俺はまだ‥‥」

 「お前に子供ができたら連れてこい。その子供と遊ぶとしよう」

 「俺の、子と?」

 「ああ、そうだ。お前の父親が亡くなった時、チカコが遺品を持ってここに来た。私はチカコの望むまま亭主の姿になって、『子どもが手にあまる時は、ここに連れてこい。いつでも面倒見てやる』と言った。その子どもが、お前だ。チカコもいつの間にか私が不要になったのだろう。もう私の事など覚えてはいまい。だがそれは、人間にとって幸せなことなのではないか?」

 「そう、かもしれないね」

 今自分に姿が見えないのは、誰にも言えなかった悩みや、どうでもいいつまらない話を聞いてくれる存在ができたからだとすれば、アイツの言う通りかもしれないと、光輝は思った。

 「私の命は永遠だ。お前の子も、そのまた子どもも、遊び相手はいくらでもいる。その時まで、暫く休んでいるとしよう」

 「もう、会えないのかな」

 「そうなるように、祈ってるさ」

 「あのっ‥‥」

 次の言葉が続かない。

 時が来たのを悟ったように、足元に風が巻き起こると、渦を巻いて天井へと昇って行った。

 すべての気配が消え、蔵の中の空気が止まる。

 いつ終わるともしれない孤独な闇の中に、アイツが戻って行ったのかと思うと、胸が詰まる。

 だがきっとまた、誰かの目の前に現れるのだ。自分の気持ちを言葉にできない幼な子や、言葉にできない思いを抱えた者の前に、その者が望む姿になって。

 その時にまた一緒に遊べるように、人の世の移ろいを見せてやれるように、時計は修理しておこう。

 光輝は、壊れた時計を桐の箱に入れて、蔵の重い扉をゆっくりと閉めた。

                                                                     (了)

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そこに棲むモノ 成実 希 @shinn-shinn

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