第13話 赤い着物の少女はアイツ

 久しぶりに黒い革ベルトの時計をつけて、光輝は学校に行った。誰にも挨拶せずに自分の席に座り、授業の準備をする。板書を写し、指されれば答え、休み時間はその日出された宿題を片付ける。特に気を配らなくてもクラスで目立つことはなく、学校生活を日々淡々と過ごしていた。

 返却しなければならない自転車のことは頭にあったが、もう大黒を意識することもやめていた。時計を壊したことで、光輝の中の何かが吹っ切れたようだった。

 玲子からメールが来たのは、そんな生活が一ヶ月も続いた頃だった。

 メールには、『これ、だーれだ?』という本文が記されていて、画像ファイルが添付されていた。

 その画像ファイルを開いて、光輝は目を見開いた。それは紛れもなく、ずっと探し続けていた金魚の柄の赤い着物を着た幼女だった。

 直ぐに玲子に電話すると、「答え、知りたい?」と、玲子はもったいぶるように言った。

 「知りたい。誰?」

 光輝が焦って聞くのを、面白がっているのが受話器から伝わってくる。

 「じゃあ、碧の家に来て」

 そう言われて、光輝は迷った。

 「電話じゃダメかな?」

 「ダメー」

 「意地の悪いこと言わないでよ」

 「意地が悪い? そんなこと言うんだ。その子に会わせてあげようとしてるのに」

 「えっ?」

 「今、碧の家にいるから、その子。直ぐに来ないと、もう会えなくなっちゃうかもね」

 そう言うと、光輝の返事を待たずに、玲子は電話を切った。

 大黒の家に行くのは気が引けたが、高ぶる気持ちは抑えられなかった。てっきり蔵の中のアイツが化けたのだと思っていた女の子が、現実の世界の住人だったということに、今更ながら期待が高まる。光輝は大黒の自転車を押して彼の家に向かって走った。


 家の近くまで行くと、玲子は通りに出て光輝を待っていた。

 「もう、遅いよ」

 嬉しそうに光輝の背中をバシンと叩く。そしてシールドされた自転車を見て、「わざわざリペアしたんだ。傷だらけだったのに。っていうか、どうせなら乗っておいでよ。ほんと、真面目っていうか小心者っていうか」と、玲子も高揚しているのか、いつも以上に遠慮がない。

 「彼女、まだいる?」

 「ああ、いるいる」

 「じゃあさあ、呼び出して来てくれないかな。で、ついでに自転車、大黒君に返してくれない?」

 それまでニヤニヤしていた玲子の顔が真顔になる。

 「出たよ、ヘタレ!」

 多分、みんな思っていても口にしないことを、面と向かって玲子は言った。

 「何でアタシがそこまでしなきゃいけないの。写真探すのだって、すごい大変だったんだから。そんなもん、自分で返しな!」

 玲子はそう言うと、スタスタと門の中に入っていく。光輝は仕方なく、「お邪魔します」と、後についていった。

 玲子は相変わらず無遠慮に二階に上がると、「あおいー! 藤澤君が自転車修理して持ってきてくれたよー!」と、大声で言った。そして大黒の部屋の襖を開けると、「藤澤君、遊びに来たよ」と、怒ったことなど忘れたように光輝の背中を押した。

 大黒は、背を向けて勉強していた。部屋には、彼以外の姿はない。光輝は玲子を見て、小声で聞いた。

 「女の子は?」

 玲子はそれには答えず、大黒に近づくと両耳のイヤホンを抜いた。

 「何だよ。また、勝手に入ってきて」

 振り向くと、入り口で所在無げに立っている光輝が見える。

 「また一人で籠っちゃって。そんなに勉強ばっかりしてると、バカになるよ」

 「その発想がおかしいだろ。明らかに勉強しない奴の言い分だな」

 大黒は玲子の悪態をかわした。光輝は二人のやりとりが懐かしかった。

 「藤澤君、あのボロいチャリンコ、わざわざ修理してくれたんだよ」

 「チャリンコじゃなくて、シティサイクル。ボロくたって、イタリアの一流ブランドなんだよ」

 「ああ、もう、昔から臍曲げると、本当に面倒なんだから。こんなのと付き合いたいっ

て言うんだから、うちの学校の女子も男見る目ないよねえ」

 「玲子に言われたくないよ」

 「はいはい、そうですか。で、藤澤君に言うことは?」

 大黒は漸く光輝の目を見て、「ありがとう」と一言言った。光輝も慌てて、「俺、自転車、結構倒して傷つけちゃったから」と手短かに説明した。

 「碧ってさあ、そういうとこ、小さい時から変わってないよね。一見大らかなようだけど、実は意固地で自分の意見は絶対曲げない」

 玲子に冷やかされ、大黒は「そんなこと、今言わなくてもいいだろう」と気恥ずかしそうに目を逸らした。

 「人見知りで、体が弱くてさ。アタシの方が体格良くて走り回ってたから、二人でいるとよく男女逆に思われてたよね」

 そう言って、玲子は光輝に送信したものと同じ写真を大黒に見せた。

 「お前、それ、何で持ってるんだよ」

 「大変だったよ、押入れの奥から何十冊もアルバム引っ張り出してきて」

 慌てて取り返そうとする大黒に、玲子は言った。

 「光輝君に聞いた時、どこかで見た気がしたんだよね、金魚柄の着物。なのに、碧は何で黙ってたの?」

 玲子の話が理解できずにポカンとしている光輝に、大黒は「ごめん」と謝った。

 「えっ? どういうこと?」

 「あの写真の女の子、碧なんだよ」

 「ウソ、えっ、いや、だって、女の子、だったよ。だって、将来の‥‥」

 動転して頭が働かない。甘い思い出だったはずの記憶が粉々に崩れていく。

 「将来の‥‥?」

 玲子が続きを促すように、光輝の顔を覗き込んだ。

 「い、いや、何でもない」

 玲子は誤魔化されたことに納得いかなかったが、矛先を大黒に変えた。

 「碧はどうして藤澤君に意地悪したの。この話、碧の方が先に聞いたんだから、その時話してあげればよかったじゃない」

 「それは‥‥」

 言い淀みながらも、大黒は照れ臭そうに話した。

 「ガッカリさせたくなかったんだよ。藤澤君、すごく嬉しそうに話してたから。期待してたのが女の子の格好した男の子だったなんて、気の毒すぎるだろ」

 「まあ、確かにねえ」

 「それに、僕以外の人の記憶と混ざってるのかもしれないとも思ったし‥‥。でもね、僕は同じクラスになった時、藤澤君を見て、あの時の男の子だってすぐ分かったよ」

 光輝は驚いて大黒を見た。

 「どうして?」

 「小さい頃から、顔、変わってないでしょ」

 「うーん、そうかなあ」

 「それにあの時、君の家の勝手口から裸足で飛び出してきたの、見てたからね」

 「俺が?」

 「やっぱりな。君が覚えてたのは、赤い着物を着た女の子と将来の約束をしたってことだけなんだな」

 光輝は申し訳なさそうに、「うん」と頷いた。

 「じゃあ、裏の小川で一緒に小魚とったりザリガニ釣ったりしたことも覚えてないんだ?」

 「ごめん‥‥」

 「僕は、それまでで一番楽しかったから、ずっと覚えてた。あの頃、僕はいつも女の子の格好をさせられてて、男の子と遊ぶことがなかったし、恥ずかしくて表に出ることもほとんどなかったから。あの日は、たまたま父親の用事について行ったんだと思うけど、退屈でさ。小川で魚を眺めてたら、君が家から飛び出してきて、釣り方を教えてくれたんだよ」

 「俺、そんな遊びしたかな‥‥」

 思い出そうとするが、小さい頃の記憶は蔵の中のことしかない。

 「確かに君だよ。君は、『俺は、フジサワコウキ。大きくなったら、お前は俺のお嫁さんだからな』って、指切りしてくれたんだ」

 「わあーお!」と、玲子が冷やかした。

 光輝の頬が赤くなる。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。

 「いやー、だから、それは‥‥」

 「分かってる。僕を女の子だと思ったからだよね。だから、僕は名前を言えなかったんだ。でもね‥‥」

 大黒は顔を近づけると、光輝の目を真っ直ぐ見た。

 「あの約束、本当に嬉しかったんだ」

 そう言われて、光輝の腰が引ける。

 「お嫁さんになりたいってことじゃなくて、ずーっと一緒にいられる友達ができたってことがね。幼稚園も小中学校もずっと別だったけど、藤澤君のことを忘れたことはなかったよ」

 大黒は爽やかな笑顔を光輝に向けた。一度は崩れた淡い恋心のようなものが、別の形で蘇り、光輝の心を温める。

 「良かったよ。いつか、藤澤君にちゃんと話したいって思ってたから。でも、言い出すきっかけがなかなかなくてね。すまなかった、今まで隠してて」

 「ううん。倉田さんがその子だって、俺が一方的に決めつけてたからだよね。こっちこそ、ごめん。だけど‥‥一つ聞いていいかな」

 「何?」

 「どうして女の子の格好してたの? いや、あの、大黒君の小さい頃の写真、めちゃくちゃ可愛いし、似合ってるし‥‥言いたくないならいいんだけど」

 不用意な一言で怒らせないように、光輝は言葉を選んだ。だが、どう話そうかと躊躇う大黒に先んじて、玲子が言った。

 「この土地の古くからの風習、知らない? 名家の男の子は女の子の格好させられるの。藤澤君とこはやらなかった? 男の子に悪いものが憑くのを避けるんだって。でも、実際は‥‥」

 そこまで言って、玲子は口をつぐんだ。

 「うちは、僕が生まれた頃、曾祖父さんと曾祖母さんが生きてたからね。そういう伝統みたいなことに、やたら煩かったんだよ」

 玲子がつくった間を、大黒はそう言って埋めた。二人が光輝の様子をうかがっているのが分かる。光輝はいつもの調子を心がけた。

 「聞いたことあるよ。ここら辺、神隠しが多かったって。でもそれって、男の子を狙った誘拐とか人身売買じゃないかって話だよね」

 二人の緊張が解けていく。

 「だけど、うちは‥‥」と、古い記憶を辿り、光輝は思い出した。

 三、四歳の頃だろうか。祖母の志乃に桃色の着物を持って追いかけられたことがあった。志乃が着物を着る時は日舞の教室がある時で、その日も着物姿の女性たちが次々と集まってきていた。女たちは自分を見ると、頬を撫でたり体を揺すったりして、口々に「可愛いわねえ」と言った。そして膝の上に座らされ後ろからきつく抱きしめられた。強烈な香水の匂いで息が苦しくなり、手足をバタつかせるが逃げられない。それが怖くて、着物を着ると稽古場に連れて行かれるんじゃないかと、逃げ回っていたのだ。それでつい勝手口から‥‥。

 「ああーっ!!」

 光輝は大黒を指差した。

 「どうした?」

 「思い出した。やったよ、ザリガニ釣り。だけど、大黒君も話、端折ってるでしょ」

 大黒が気まずそうに、自分の唇に人指し指を当てる。

 「えーっ、何、ずるい。アタシにも教えてよ!」

 玲子が叫んだが、光輝は口を固く結んだ。

 あの日ザリガニ釣りをしていて、大黒はハサミで指を挟まれた。細い指に血が滲み、ついに『お母さーん』と泣き出してしまう。光輝が力いっぱいハサミを開いて助けると、大黒は痛む指を押さえて、『僕が泣いたこと誰にも言わないでね。一生の約束だよ』と言った。光輝は、『それなら、俺のお嫁さんになれよ。そうしたら、約束守れるよ』と、小指を差し出した。女の子の姿をした大黒は、初めはキョトンとしていたが、おずおず小指を差し出すと、指を絡ませてきた光輝に飛び切りの笑顔を見せたのだった。

 今の大黒からは想像できない姿に、光輝はフフッと笑った。

 「藤澤君、内緒だからね」

 大黒が、小指を差し出した。光輝はその指に小指を絡めた。

 「ずるーい!」

 子供に返った二人に嫉妬して、玲子は大声をあげた。

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