千ぱい甲はい

砺波

第1話 先輩、後輩と邂逅す

「千歳、新人研修のプログラムリスト送ったから目ぇ通しといてくれ」


 窓を背に独立したデスクを専有する男性――いわゆる課長と呼ばれる存在――の声に、千歳華依ちとせはなえは昼下がりの気怠さが漂うオフィスの空気同様、脱力気味の声色で了解の意思を伝えた。


 華依は社内メールで送信されてきたPDFファイルを開き、ざっくりと研修プログラムを確認する。名刺の受け取り方、渡し方から、電話応対、コピー機の使用手順など、今更感あふれるプログラムが羅列されていて、華依は小さいため息をついた。


「こんなの入社前にネットでも調べればわかることでしょ」


 ここ数年は所属する課に新人が入ってこなかったため、研修の必要もなく、寂しくはあるものの平穏な会社生活だったが、どうやらそれも失われてしまうことになるのだろう。


 書類の末尾には、研修対象者の簡単なプロフィールが顔写真付きで記載されている。


「こうの…甲野チカ、か」


 小学校からの一貫校である、県内の私立女子大を卒業。

 さぞかし大事に育てられたのだろう、そのプロフィール画像は、まるで良家のお嬢様といった落ち着きのある、柔らかい微笑を湛えていた。


「これは…オトコどもが大喜びだわ」


 ふんわりした明るい髪、少々垂れ気味だがくっきりとした二重の大きな瞳、細い肩。学生時代「ジミ顔」と言われ続けた華依とは程遠い造形をしている。

 ともあれ、仕事が出来るようになってくれれば何も問題はない。

 何よりも、研修対象が甲野チカという女性一人という事実に華依は安堵していた。


 元来、ものぐさで面倒なことからは距離を置きたいと願うたちだ。

 研修対象者が複数の場合、研修の進捗にばらつきが出るし、その分期間も長くなる。

 甲野チカが飲み込みの早いタイプであるならば研修など2日もあれば終わるだろう。

 ラクな仕事だ。


 華依は右肩をとんとんと叩くと、途中になっていた資料の作成を再開した――。





「甲野チカと申します。よろしくお願いいたしますっ!」


 バネ仕掛けのおもちゃのような礼をする新人社員に、華依は自分にできる精一杯の落ち着いた声色で「よろしくね」と返す。

 明るいグレーのスーツに「着られている」という表現がまさに当てはまる風情のチカは、落ち着かなげに華依を、己の足元を、そして所属部署の机の並ぶ島をチラチラと見やる。


「研修担当の千歳です。研修といっても難しいものではないから、あまり硬くならないで気楽に行きましょう」


 華依はチカに付いてくるように声をかけ、複数の課が島を形成しているこの大部屋を出て、通常は取引先との面会や打ち合わせに使う個室へと歩く。


「あ、でも、よかったです。先輩のような女性の方に指導して頂けて」


 背後からの屈託のない声に、華依は苦笑いを浮かべた。


「あなたなら、課の男性は必要以上に優しく教えてくれると思うけど。 第一、私が優しいかどうかは、わからないよ?」


「そ、そうなんですか? すみません!」


「冗談冗談。甲野さんが出来るようになってもらわないと困るのは私だからね、しっかり、みっちり、がっちり教えるよ…ふふ、ふ」


 失言にしどろもどろなチカに、華依はわざとらしい含み笑いを交え少しおどけた風に切り返す。さして人付き合いが得意でもない華依にとって、これが精一杯のくだけたコミュニケーションの取り方だった。




 華依の微笑は、研修開始時から時間が経つにつれ引き攣れた苦笑に変わっていった。

 甲野チカという人間のあまりの不器用さに――。


 3回に2回は名刺を裏返しで差し出し、高確率で受話器を取り落とし、コピーの枚数は何故かいつも桁が一つ増え、あまつさえ何もないところで転けること多数。

 わざとやってるんじゃないだろうか、という考えが華依の頭によぎったが、謝罪の言葉とともに半べそに変わっていくチカの表情を見てそれを打ち消した。





「ま、まあ初日だからね。なんでもいきなり上手くは行かないでしょ」


「初日だから」というエクスキューズが通用する問題かどうか甚だ疑問だが、華依は目の前で日替わりランチの皿を前に深く沈んでいるチカをなんとか励まそうとしていた。


 社員食堂は混み合っているが、テーブルの配置がゆったりしていて、ビルの上階にあるため見晴らしも良い。だが、こんな穏やかな晴れの日だというのに、目の前の新人からは深い溜め息しか聞こえてこない。


「先輩、わたし、ダメなんです。子供の頃から、いつも失敗ばっかりで……」


 付け合せのパスタをぐるぐるとフォークに絡めながら、チカは何回目かもうわからないため息をつく。


「ダメってことはないでしょ」

「わたしクビになりますか?」

「ならないわよ……」


 研修前、顔写真から抱いたイメージとは若干のズレを感じつつ、華依は自分の注文したざる蕎麦をすすった。もっとお嬢様っぽいのんびり感を想像していたが、案外生真面目なタイプのようだ。


「もっと気楽にやろうか。正直なハナシ、名刺のやり取りがヘタで死ぬ人はいないんだし」

「でも……」


 更に深くうつむくチカ。もうすでに表情は覗えない。


「甲野さんみたいな新人を、ちゃんと仕事が出来るようにするのが私の仕事だから、今のうちにたくさん失敗して慣れてしまえばいいよ。大丈夫」


「本当にダメなんです、わたし……子供の頃からずっとこんなで、みんなに迷惑ばっかりかけて。社会に出れば、きっと大丈夫って両親は言ってくれたんですけど、今日も全然ダメダメで……」


 うつむいたままチカはそこまで一息に喋り、また黙ってしまった。少し肩が震えている。

 なんだかマズイことになった、華依はかける言葉を脳内で探した。


 子供の頃からずっと不器用で要領が良くなかったとしても、華依本人としては大した問題ではないような気がしていた。だが、それは華依が人並みに器用で要領が良いせいかもしれない。迂闊な慰めや助言はさらにチカを落ち込ませることになりかねない。


「ゲーム…しようか」


 唐突すぎだろうと思いつつ、華依は食べ終わったざるの上に箸を置きながらいった。

 失敗するたびに落ち込まれてはたまらない。これは自分のためにやることであって、あくまで課せられた業務を遂行するための手段なのだ、と自分に言い聞かせながら。


「というと…?」


「いや…これから甲野さんの研修期間が終わるまでに、10回失敗したら、最終日に私に夕飯を奢るってゲーム。その夕飯でチャラにしてあげるから、とりあえず期間中はミスを恐れず頑張ろう、っていうことで。ちなみに、10回以内だった場合は私があなたに美味しいものでも奢りましょうか」


 チカはキョトンとした表情で顔をあげると、すぐさま再び俯いた。ただし、二回目のうつむきは華依への礼のようだった。


「先輩、やさしいんですね」

「そうでもないけど」


 華依としては、研修を速やかに、穏やかに終わらせてしまい、一刻も早い通常業務への復帰を望んだ上での提案だった。結果的に、チカの沈んだ気持ちを少し和らげる結果にはなったようだが。


「じゃあ、しっかり食べて、午後からも頑張りましょうか」


 紙コップのお茶を飲み干すと、華依はひとつ伸びをした。

 それから、慌てて昼食を口に運び始めたチカを、「食べているだけで可愛く見えるんだな」と、ぼんやり考えつつ眺めた。





 昼食後の研修内容はグループウェアの操作方法が中心となった。ログインから、ブラウザに表示された各種ツールの設定方法、操作など、今後業務に際し最も使用頻度の高いツールになる。しかし、実のところ華依は、この部分を教えるのが一番苦手だった。


 華依はパソコンや電子機器の扱いが全般的に不得手である。嫌いと言っても過言ではなかった。マニュアルを読みはするが、すぐに意味の分からない単語に遭遇し、それらを分からないまま読み進めるため、結局は知識に穴の空いた状態で機器を使用するという、今時の親切な機械の設計に甘える形で日々の業務を遂行していた。

 おかげで、プライベートで使用するスマートホンも電話にメール、連絡用のコミュニケーションアプリ、あとはゲームくらいしか使っていない。


 故に、簡単な取扱説明書を片手にレクチャーを開始するという、不安な船出となったのだが……。


「ええ、と、そう、そのメニューから、オプション……だったかな、を選んで」


 たどたどしい説明を背に、チカはマウスを指示通りに動かし、クリックし、必要な文字列をタイプする。その動きは、午前中に見せていた不器用さを欠片も感じさせないほど、無駄なく正確な様に思われた。


「うん、それでオッケー、これから甲野さんのメールアドレスを設定していくんだけど……」


 華依がトリセツの設定画面を見ながら、その設定画面がメニューのどこを選べば出てくるのかを伝えようとした時、チカの左手がキーをタイプし、設定画面が表示された。


「あら……甲野さん、このソフト使ったこと」

「ありません。でも、似たものを以前使ったことがあって」


 そんなやりとりをしながらも、チカの手は動きを止めず、華依に渡された設定項目の指示書通り設定画面の記入項目を埋めていく。


 あっという間に設定が終わり、送受信成功のメールを確認すると、チカはくるりと振り向き、満面の笑みを浮かべた。華依には、その笑顔のせいでチカの周囲の輝度が数段回上がったような錯覚を覚えた。とはいえ、キチンと命令を遂行し、ご褒美のおやつを貰いたそうな犬にも似ている、と思えたが。


「次は何をすればいいですか、先輩」

「じゃあ次は課内に一斉メールで送る挨拶文を作りましょうか。ついでに署名の設定もしてしまいましょう」

「わかりました!」


 チカは再びパソコン画面に向き直り、おそらくは華依の3倍近いスピードでタイピングを始める。自身の名前とアドレスが末尾に表示されるような署名設定も説明する前に済ませてしまったが、肝心のメール本文は目を覆うレベルの酷さだった。どうやらデジタル機器系の操作「だけ」は合格点以上のものを持っているらしい。ビジネス文の書き方については明日またレクチャーしよう……。


「すごいわね、甲野さん……まだ説明もしてないのに」


 華依が感心した声を発する間にも、ヒマな男性社員から可愛い新人社員への返信メールが間髪入れず受信一覧を埋めていく。


「両親がこういうの苦手なもので、昔から設定や操作をさせられてたんですよ。でも、使い方を知ってるだけで、お仕事に活かせるかどうかは……」


「ううん、これは私が教えるまでもなく、十分戦力になりうる技能だよ。感心した」

「ありがとうございます! わたし、がんばりますから!」


 少し問題もあるけれど、それを補って余りある能力と、人懐こい笑顔。

 この子は案外掘り出し物かもしれない――。

 チカの笑顔に、華依もにっこりと微笑んだ。





「今日はありがとうございました!お疲れ様でした」


 タイムカードを、教えてもらった元の位置に戻しながら、チカは帰り支度を始める。「歓迎会しようよ」と鼻息の荒い同僚たちを制して、今日は疲れているだろうから、と華依は宴会の申し出を却下する。そして、どうせやるのなら研修最終日でもいいだろう、と提案する。それまでにはきっと皆名前くらいは覚えてもらえているだろう、と付け足すと、全員あっさり納得して引き下がった。単純である。


「気をつけて帰りなさいね」


 チカの机に寄り掛かりながら、華依は今日の研修内容を帰って思い出しておくよう言った。チカは大きく頷き、元気な声で了承の意を伝える。


「せんぱい」

「なに?」


 今日何度目かの明るい笑顔とともに、チカは華依の目を見て告げた。



「やっぱり、千歳先輩に指導してもらえて、良かったです!」



 そう言いながら軽く一礼をすると、チカは軽やかな足取りで大部屋をあとにした。

 数秒後、廊下の方から転んだチカの悲鳴が聞こえてきた。


 華依は今日何度目かわからない苦笑を浮かべる。

 ――やれやれ、明日も楽しい一日になりそうだ。


「お疲れ様、甲野さん」


 小さくそう言うと、華依は研修中に届いた業務メールの確認を始めた。

 思えば自分も少し疲れている。早く上がってゆっくりお風呂にでも入ろう――。




 苦笑は、微笑に変わっていた。

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