第2話 妻の願い
「ウウン……」
「大丈夫か。しっかりしろ」
妻は夫の声にようやく反応して、ゆっくり目を開いた。
「ああ、あなたなの?一体どうしたのかしら。何もおぼえていないわ」
女は頭を振りながら起き上がり、周囲を見た。そこは静まり返った山奥の小さな沼のほとりだった。
「そうだ、思い出したわ……私たち、ハイキングにきて道に迷い、山の中をさんざん歩き廻った末にようやくここにたどり着いたのね。信じられないくらいに澄んだ沼の水、私はその美しさに引き寄せられ、それまでの疲れも忘れて水際に近寄り、水面をのぞき込んで……」
妻は不意に悪寒に襲われたようにブルッと震えた。
「きみは足を滑らせて沼に落ちたんだよ」
男は妻の背に自分の上着をかけてやりながら気遣うように言った。
「沼に落ちた?でもどうやって助かったの?まさか、あなたが……」
彼女は言葉を詰まらせた。そこで夫は黙って肩をすくめてみせた。
妻が驚くのには理由がある。男は全くのかなづちで、水の溜まっているところといえば浴槽ですらビクビクするほど極度の水面恐怖症だったのだ。しかも二人はいわゆる倦怠期を迎え、かつての愛情は失われていることを彼女は承知していた。それなのに沼で溺れた彼女を、夫が自分の命を危険に晒してまで助けてくれたなんて……。彼女が絶句するのも無理はないというもの。
妻は少し目を潤ませるようにして夫を見つめた。
「ありがとう……?……で、そのひとたちは?」
彼女の感謝の言葉は、その場に夫以外の人間がいるのに気付いたところで途切れてしまった。夫の後ろにいる若い女の人たちは誰?
それによく見ると夫の服はほとんど濡れていない。私を助けてくれたのだとしたら、夫の服が濡れていないのは何故?
「本当に信じられないことが起こったんだよ」
夫は困惑の表情を浮べながらも、その声は弾む気持ちを隠し切れていなかった。
「勘違いするといけないから正直に言うが、きみを助けたのは僕ではない」
「えっ?」
「きみを助けてくれたのは、この沼の神様なんだ」
「えっ?」
あっけにとられた妻に夫は信じられないような話を始めた。
「きみは沼に吸い込まれるように沈んでしまった。泳ぐのは得意だったはずなのに。水がとても冷たかったのかもしれない。僕にはどうすることも出来ず、一人取り残されて、呆然と立ち尽くした。
ところがしばらくすると水面があわ立ち、じいさんが現れたんだ。そのじいさんは腕に一人の女を抱きかかえていた。そして僕に訊いたんだ。
『この女はお前が落としたものか?』
何とか気を取り直してその腕の中の女を見たが、それはきみではなかった。僕が反射的に首を振ると沼の神様は(後光に包まれて水面に浮かんでいるじいさんは、そうとしか呼びようがなかった)水に消え、しばらくするとまた別の女を抱えて現れた。その女もきみではなかった。
その時、僕は昔読んだおとぎ噺を思い出したんだ。自分の鉄の斧を沼に落としたきこりが神様の問い掛けに正直に答えて、自分の斧を返してもらうと共に金の斧、銀の斧を手に入れた話だ。
僕は二人目の女にも力強く首を振った。すると神様は三度目に今度こそきみを抱えてきたのさ。僕は大きく頷き、沼の神は僕の正直さを誉めて若い女性を与えてくれたというわけだ」
「まさか」
彼女には沼に落ちて以後の記憶は全くなかった。しかしここに確かに二人の女がいる。二人とも自分よりずっと若く、そしてきれいであった。
「それで、どうするの」
そうきく妻の声が詰問調を帯びるのは無理もなかった。
「それは、ねえ、仕方ないだろう。神様が授けてくれた女たちだ。断るわけにもいかないじゃないか」
夫は女たちを神様公認の愛人にでけいれば、と夢みていたのだ。
『夫がのぼせ上がるのも無理はない。少々飽きがきている古女房より若い女のほうがいいに決まっている。文句は言いたいけど、でも私も神様に逆らうのは怖い。それに自分も神様に命を救われたわけだし。
でも、こんな若い子たちを愛人にしたら私は捨てられる。それに、夫もすぐにやせ衰えて死んでしまいそう。どうすればいいの?何か解決策があるはず、そう、夫の目を覚ます何かうまい方法が……』
妻はしばらく静かに考え込んでいたが、やがて大きく頷きながら言った。
「いいわ、認める。そのステキな女の人たちをあなたの愛人にしてもいいわ。でもそれには一つ条件があるの」
「条件?」
思いがけない妻の反応に戸惑って聞き返した夫に、彼女は満面の笑みで答えた。
「私にもステキな男性が欲しい」
つまり、妻は夫と同じことを考えたというわけだ。夫が沼に入って溺れ、現れる神様の問いに彼女が三度正直に答えて、若い男を手に入れるというのだった。
夫はこの交換条件を飲むしかなかった。
「必ず正直に答えてくれよ」
夫はそう念を押して沼に飛び込んだ。水のあまりの冷たさに、夫はもがく間もなく、あっという間に沈んでいった。
気がつくと男は妻に抱きかかえられていた。
助かった!
直ぐにさっきのやり取りを思い出して尋ねた。
「どうだった?望み通り、若い男は現れたのか?」
妻は黙って頷いた。
「そうか、それじゃあこれであいこだね。……男たちは一体どこにいるんだ?そして僕の女たちは?」
男はそういいながら周囲を見回した。
しかし、そこには妻以外誰もいなかった。
「行ってしまったわ。若い娘たちは若い男たちと行ってしまったの。若い人は若い人同士でいいじゃありませんか」
妻はポツリとそう言った。
長い沈黙のあとで夫は静かに天を仰いだ。
「そういうことか、ははは。年寄りは年寄り同士、という訳だね」
夫は悪い夢から覚めたかのように頭をふった。
それから少し白髪の混じる妻の髪を優しく撫でながら、軽く身体を抱きしめた。
沼のほとりで @gourikihayatomo
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