変装は基本(きほん)
「お師匠様帰って来ないなー」
「遅いねー」
それぞれ兄と妹の発言である。
くり抜かれた瓜がふよふよと浮かび、照らし出している広間でのこと。
ふたりは岩盤の床に茣蓙を敷き、その上で与えられていた宿題をこなしていた。傍らに置かれた藁から作られているのは
まあ、寂しくはなかった。ふたりでやるべきことに没頭していれば。壁にぶら下げられた板には炭で今日の課題が書き込まれており、こなしたものから横線で消していくことになっている。子供たちが(簡単な)文字を読めるようになったおかげで活用できるのだった。教育者としての女武者は、「覚えたものは早速実用させる」という主義である。
やがて作業が一段落したころ。
扉を叩く音が、聞こえた。
顔を見合わせる兄妹。
「お師匠様だ」「かえってきたー」
ふたりは、玄関へと駆けて行った。
◇
首がある。
門ののぞき窓から外を覗き見た兄は困惑した。首がある以上女武者ではない。首があってここに来そうな女性も二人ほど心当たりがあるが、そのどちらでもなかった。誰だろう?分からない。分からない以上対応はひとつである。
「ああ、もし」
「……どなたですか?(じー)」
門の前に立っている女はつり目で、傘をさし、着物をはだけている。だらしない、というのが兄の抱いた印象である。彼が後十も齢を重ねていれば、色気を感じていたかもしれないが。
「お前さん、最近引っ越してきたっちゅう魔法使いのお弟子さんかいな」
「……そうです」
「そうかそうか。実はなぁ。うち、挨拶に来たんやけど。お師匠さんおられるん?」
「…出かけてます」
「ふぅん。じゃあ、中で待たせてもらって構わへん?」
「……駄目です」
「あかん?」
「……知らない人は入れちゃダメってお師匠様が」
「そっか。誰やったら知ってるん?」
「……隣の山に住んでる、狼のおばちゃんとか……」
「ふぅん。分かった。ほな、今日の所は帰るわ」
「……さようなら……」
兄の警戒のまなざしを気にも留めず、つり目の女は去って行った。留守を守る兄妹としては一安心である。
よっこいしょ、と踏み台から降りる兄。門ののぞき穴は彼の身長からだと高すぎた。故に足場を用いていたのである。ちなみに踏台となっていたのは熊の骸骨兵。
用事を終えた熊はのそのそ、と脇に掘られた穴―――もともと魔法の
「兄ちゃん、おなかすいた」
「そうだなあ。そろそろご飯食べよう」
妹の言に頷く兄。食堂には師が作り置きしてくれた麦飯のおにぎりがあるはずである。土瓶にはたっぷりの薬草茶も入っていた。健康増進によいらしい。
てくてく、とふたりは奥へ戻っていった。
◇
「……ぁ?」
「うむ。3月ほど前じゃったかのう。ふたつ向こうの山にある洞府に泥棒が入ってな」
茶飲み話をしているのは女武者と洞主の老人である。女武者のために、部屋には香が焚かれていた。死者を慰める霊力の宿った香木なのだ。
心地よい室内で、女武者は相手の話に聞き入っていた。何とも厄介な話である。魔法使い。それも霊地に住まう高位の術者の住居に入り込むとは。
「なんでもすさまじい力を持った魔法使いでの。金の槍を雨あられと降らせて追手を撃退したとかなんとか」
「………ぅ……」
泥棒の力量に女武者は驚嘆した。さぞや名のある方術士に違いあるまい。
「…ぉ……?」
「盗まれた品か。変化に関わるものを幾つか。後幻術の呪符などもじゃのう」
渋面を作る老人。彼にとっても他人事ではない。他人の災難は自分の災難と思っておかねば。
ふたりはその後も雑談を続けた。
◇
洞府より離れたつり目の女。彼女は岩陰に腰掛けると、懐から二つの品物を取り出した。
ひとつは鏡。何の変哲もない銅鏡である。彼女のような派手な女であれば持ち歩いていても何ら不思議はない。
そして、もう一つは毛筆。何やら霊気を宿した化粧筆である。魔法の品物であろう。
彼女は鏡で自分の顔を映すと、化粧直しを始めた。凄まじい勢いで手が動き、顔に毛賞を施していく。そう。顔形そのものを変えてしまう、魔法という名の化粧を施していったのだ。
やがて出来上がった顔は、隣の洞府。狼の相を備えた魔法使いのそれに等しくなっていた。
筆と鏡をしまった彼女は、続いて懐から何やら木の符を取り出すと、呪句を唱え印を切った。巨大な呪力が広がり、彼女を呑み込み、そしてはじけ飛んで消えていく。
後に残ったのは、先ほどまでつり目の女だった、狼相の魔法使い。その服装は赤い道服へと変わっていた。
再び懐から鏡を取り出し自らを検分する彼女。やがて、変化の出来栄えに満足した女は歩き出した。先程追い返されて来た洞府へと。
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